1-1 みのり1
「あなたは怒るかしら、それとも泣くのかしら」
歌いながら階段を上がる。曲名は知らない。最近なんとなく耳について、何気なく歌ってしまうのだ。
それにしても本当に二度手間だ。部屋は隣なのだから起きてすぐに起こしに行く方が楽なのだけれど、起こした後に朝食の準備などしていると間違いなく二度寝するから仕方がない。ノックもせずに部屋のドアを開ける。
男の子らしい、乱雑に散らかった部屋。他の男の部屋などは知らないが、恐らく一般的な男性の部屋だと言えると思う。違いがあるとすれば、この年頃にしてはヒーロー物のポスターやグッズが少し多いくらいか。
ベッドを覗き込むと、案の定勇人は呑気に寝こけていた。
その呑気な顔を見ている内にイライラしてきた。こちらの気も知らずに、平和そうに寝ているこの無神経。布団をめくる。当たり前のようにこの程度では起きない。どうせ普通の方法では起きる訳がない。
私は右足を大きく上げて、
「いい加減に、起きなさい」
躊躇わずに踵を鳩尾に落とした。
「っ!」
声にならない悲鳴、続けて鳩尾を押さえてのた打ち回る。
その様子を気にも留めずに私は布団をまとめ始めた。
「毎朝毎朝、起こす方の身にもなってみなさい。いちいち面倒をかけないでほしいんだけど」
「あ……の、ですね、みのりさん。毎朝、そのまま目覚めなくなるような起こし方は止めてくださいとあれほど……」
いまだに鳩尾を押さえて咳き込み続けているこいつの名前は神成勇人。私ことみのりのひとつ年下の幼馴染……と言うには少し事情が入り組んでいる。
「そんなに嫌なんだったら、一度くらい起こされる前に起きてみなさい。そうすればそんなことにはならないでしょう?」
「それが出来れば苦労しないんだけど」
ようやく収まったのか、勇人はお腹をさすりながら立ち上がった。
「……なんか、変な夢見ててさ」
「何、その命より大事な夢っていうのは」
聞きながら、布団を抱えてベランダへ出る。今日もいい天気だ。雨が降る気配もないし、帰ってくる頃には布団はふかふかになっているはず。
「それが、覚えてないんだよ。毎朝おんなじ夢だってことだけは確かなんだけど」
「覚えてないのに、どうしてそれが同じ夢だってわかるのよ?」
後ろの方で勇人がごそごそと着替えている気配がする。お互いにそんなことくらいは気にしない。
「いや、夢の中でさ、またこの夢だ、とか、今度こそ、とか思ってるんだ。……覚えてないのは、多分夢より強烈なことが毎回あるからじゃないかなと思うんだけど」
「ふーん。強烈なことって、なによ?」
笑いながら振り返る。にっこりと。途端に勇人はビッと気を付けの姿勢になった。この素直さは私の教育の賜物。
「いえ、あのなんと言うか……今日は水色のストライプかぁ、とか」
微笑む。我ながら見事な満面の笑み。
「……あえて、言うわ。貴方バカでしょう?」
言葉とともに、勇人の顔面に正拳を叩き込む。鼻血が見事に放物線を描き、勇人は再びベッドに倒れこんでいた。
「……しまった。また起こさなくちゃだわ」
そのままぴくぴく痙攣を始めた勇人を見下ろしながら、私は小さく溜め息をついた。
いつも通り勇人と二人、すでに朝食の準備済みの食卓に付く。
「……何? 食べないの?」
何故か勇人はお腹を押さえて食卓にうずくまったまま。
「……鳩尾に踵・正拳・もう一度踵とくらってメシが食えるほど頑丈に出来てないでス……」
「二度寝なんてするからでしょう」
「……二度目は寝てた訳じゃないんだけど」
勇人を無視して味噌汁を啜る。今朝はいつもと違う、頂き物の出汁使ってみたのだけれど、それ程悪くない。たまに使ってみてもいいだろう。
歪んだ表情のまま、勇人も味噌汁の椀を手に取った。食欲が出たからと言うよりは、多分意地で。
その勇人が、味噌汁を一口啜って、少しだけ表情を変えた。
「みのり、味変えた?」
「ええ、出汁を変えてみたの。気に入らなかった?」
少し驚いた。大雑把……というか適当……というか「馬鹿」な勇人が、出汁を変えたくらいのことに気付くとは思っていなかったから。
「いや、これはこれでおいしいけど。でも、いつもの方が安心出来ていいかな」
「そう」
まぁ、勇人がそう言うのなら出汁はいつものを使うことにしよう。珍しく他人に気をつかえたご褒美代わりに。
「そう言えば、昨日電話があったわ。叔父様から」
なるべく淡々と言う。勇人がこの話に微妙な思いを持っているのが分かっているから。
「親父から? あの野郎、実の息子と話す気もないのか」
「何言っているのよ。起こしに言ったのに、貴方ぐうすか寝てたじゃない」
「……ソウデスカ」
実際、勇人は良く眠る。八時前にはもう寝ているし、聞いた話では学校でも授業中起きている事はほとんどないらしい。学校ではともかく、家で良く寝ているのは手間がかからなくていいのだけれど。
「とりあえず、向こうでは何も変わったことはないって。元気でいるからって伝えてくれっていう事と……それと、こっちからかけても起きてたためしがないから、たまにはそっちからかけて来い、って」
「……そか」
叔父様……勇人の父親が出張に出てから、勇人は私のたったひとりの家族になった。
家族と言うと正確ではない。私は、叔父様の養子にはなっていないのだから。
物心が付く前だから他人事だけれど、まだ幼い頃に私の両親は事故で死んだ……らしい。その親友だった叔父様に、身寄りのない私が引き取られたのはそれほど不自然な流れではなかったと思う。叔父様は一本気で、困っている人を見過ごせない性質だから。
その性質は勇人にも受け継がれている。両親がいないことでよくいじめられていた私を助けてくれるのは、いつも勇人の役目だった。誕生日が三ヶ月早い私が先に小学校に上がってからは、それも少なくなっていったけれど。
やはり親子は似るのだろう。そう言うと、勇人は複雑そうな表情をする。
「……そろそろ、行かなくちゃね」
時計を見て立ち上がった。そろそろ家をでなければ間に合わない時間だ。今年から私は近くの職場で働いていた。一応公務員……という事になっている。
「じゃ、私は仕事に行って来るけど。貴方もたまには外に出なさい。散歩程度でいいんだから。ヒッキーにだって太陽は必要なのよ?」
「ヒッキーじゃないってば」
まだ学生の勇人は現在夏休み。だからといって家にこもり切りというのは当然良くはない。
「最近、トレーニングもしていないでしょう? 少しくらい身体を動かしておきなさい」
勇人はバカだ。どのくらいかとかいうと、進路調査の第一志望から第三志望まで全てに『正義の味方』とか書いてしまうくらいバカだ。何時頃からそんなことを考え始めたのかはよくわからない。でも、恐らくは子供の頃に私を守らなくてはと思っていた気持ちを今も忘れていないとか、そんなことだろうと思う。ひとつのことを考え始めると他のことに目がいかなくなるくらいバカだから。
だからというべきか、当然のように勇人は格闘技をしていた。かなりの腕前なのも知っているし、喧嘩の類で負け無しなのも知っている。なんと言ってもバカなので、どんなにボロボロになっても勝つまで止めないから。
でも。最近、トレーニングも休みがちだった。悩んでいるのだ。バカなりに。
今年は卒業、どうするのかを決めなくてはならない。周りからは警察官を勧められている。でも、勇人のなりたいのは警察官ではなくて『正義の味方』なのだ。勇人の性格なら、きっと警察官になればそれなりにやりがいを感じるだろう。もしかしたら、生きがいすら感じるかもしれない。でも、一本気な勇人は、それで良いのかと自問を続けているのだ。
勇人はバカだ。でもそれは適当で無責任なバカではなく、損得よりも一度決めた事をやり抜くことを優先させるバカなのだ。
「そうだなぁ……じゃ、俺も一緒に出るよ」
勇人も立ち上がる。自分で食器を台所まで運ぶのは、ささやかだけれど大事なところだと思う。
「確かに鈍ってるっぽいし。公園でちょっと運動でもしてくるかな」
総合公園は、ここから歩いて10分くらいのところにある。テニスコートなどの野外運動施設があるそれなりに大きい公園で、川に面していることから遊歩道なども備えている。運動しなくても、ぶらぶら時間を潰すにはいい場所だろう。
洗い物は帰ってからするので、二人並んで玄関をくぐる。途中まで方向は同じ。少しの間だけ一緒に歩く。
「何も無ければいつも通りに帰るわ。先に言っておくけど、久しぶりの運動だからって、無茶したり怪我とかしないようにね?」
「大丈夫だって。道場に行くならともかく、軽く運動するだけだから怪我しようもないし」
そう言って笑う勇人の表情を見詰める。こう言ってはいても、無茶をするのだ、コイツは。
何を言おうかと考えているうちに公園への分かれ道についていた。私の職場はここから真っ直ぐ。
「それじゃ、みのりも気をつけて」
特別何かを感じた風も無く、手を振って勇人は歩き始めた。
いや、それが当たり前なのだ。毎日繰り返されて来た光景。特別な事など何も無い。
それでも、私は去って行く勇人の後姿をしばらく見送ってから、歩き始めた。
さあ、仕事だ。気合を、入れなくては。
いつもの職場、自分の席に座ると気が引き締まる。
国立二足歩行ロボット開発・運用研究機関『コーカサス』。作戦部司令室オペレーターというのが私の職務。簡単に言えば、ロボットの状態監視と操作する担当者への指示をする役というところだろうか。
「うぅーおはよー」
軽い挨拶とともにだらしなく着崩した制服姿の女性が入ってきた。
コーカサスの総括責任者、高松司令。まだ若いのにこの地位についているのは凄いことだと思う。だらしない格好をしているが、それはだらけているからではない。
「司令、昨日も泊まりだったんですか?」
司令はここに泊り込むことが少なくない。基本的に『機体』の稼動時以外は時間の取れるオペレーターと違い、司令の職務内容は多岐に渡る。本人は「要するに雑用なのよー」と笑うが、他の者に勤まるような内容のものはひとつも無いことは知っている。
「そー。『機体』が完成したばかりでしょ? 上への報告とかー、報告とかー、報告とかー、色々あるのよねー」
「はあ」
司令と呼ばれていても、所詮は中間管理職なのだ。規模が大きい分だけ責任が大きくなっているだけで。そもそも、司令は報告とかの『しなくても現場で困らない仕事』が苦手だ。細かい仕事が嫌いとか苦手とかではない。もっと細かい予算計算書などにもきちんと目を通している。恐らく、部下のためではない仕事が嫌いなのだ
もっとも、報告だけしか仕事が無い訳ではない。明日は完成した『機体』の試運転が予定されている。それに伴う雑務等も勿論重要案件なのだ。
「そういえば、植村中尉は今日は自宅待機でしたよね?」
司令に確認する。
「そうだっけ?」
「はい。明日は初の起動実験だから今日はゆっくり休むようにと、司令が」
「あー、そういえばそんな事言った気もするわ。……で、中尉がどうしたの? 何か嫌なことでもあった?」
私の口調で察したのだろう、流石に司令は鋭い。とは言っても特別何かあったという訳ではないのだけれど。
「いえ。ただ、中尉は私達一般学校出身者に対して偏見があるようですので。いない日は気が楽だと」
「あー、確かに。ちょっとエリート意識が強いというか、ね。そう言う話もよく聞くんだけど、みのりちゃんまでそう言うんじゃ何か対処しといた方がいいかもね」
「いえ、そこまでのことではありませんので」
「でも、みのりちゃんってそういう誰が嫌いとかいう話、ほとんどしないじゃない? みのりちゃんがそういう話をする時っていうのは、他の所員にとっては限界に近い時なのよね」
確かに、私はそういう人間関係とかは気にしない方だ。子供の頃に孤立することが多かったせいだろうか。
「それに、操縦席に座る中尉と直接話をするのはオペレーターのみのりちゃんな訳だし、その本人にそういう意識があるんだったら、そのままにはしておけないしー」
司令は机に突っ伏したまま、立てた右腕の指を一本立てて、揺するような文字を書くような不思議な動きを始めた。これは司令が考えごとをしているときの癖。早速植村中尉の事について考えているのだろう。
「でも司令、お疲れなのでしょう。たまにはきちんと休養を取らないと、お体が持ちませんよ」
「分かってるんだけどねー。もう若くないんだしー。……ってみのりちゃん、もしかしてそれが言いたかったのかな?」
からまれた。顔を上げてこちらを睨んでいる。酔っ払っているのだろうか、この人は。あるいは睡眠不足でハイになっているのかも知れない。その気持ちもわからないではないけれど。
「司令は十分若いじゃないですか。でも、いくら若くても無茶はよくありませんから。今は良くても、後になって後悔することになりますよ?」
「うう、もっともなお言葉。私に少しだけ時間をください」
なんだか良くわからない台詞を吐いて、司令は再び机に突っ伏した。やはり疲れているらしい。気の毒だとは思うが、代われる様なものではない。
「おはよう」
扉が開き、冥加橋博士が入って来た。白衣姿に髭と白髪といういかにもな科学者姿。テレビから出てきたようなお約束な格好は、間違いなくわざとやっているのだ。
こんなナリをしているけれど、冥加橋博士は研究・開発部門の責任者という事になっている。総括責任者の高松司令とは分野が違うけれど、コーカサスでは同位の偉い人だ。
二人ともそんなことは微塵も感じさせないくらいフレンドリーなのだけれど。
「おはようございます、博士。博士の方は、随分と余裕があるようですね」
ぱっと見では、博士の様子に疲れたようなところは見受けられない。試運転を明日に控えていれば、普通は開発部門に余裕がある訳はないのだけれど。でも、余裕がなければ司令室に来る時間などはないはず。そうでなくても博士は研究室に篭り切りが基本なのに。
「当然じゃろ。試運転ということはこっちは完成している訳だからな。データ収集の準備などは部下達ですむし、今更慌てても仕方ない。むしろこちらの具合の方が心配でな」
そうは言いつつ、昨日は博士も泊りがけだった事は知っている。不安を与えないように余裕を装っているのだろう。
「ううう、ごめんね、今から慌ててて……」
「いえ、博士の言うとおり、スケジュール的に現時点では司令の方が忙しいのは当然です」
司令の方にフォローを入れておく。といっても、それは事実でもあるのだけれど。
「ああ、人の情けが身に沁みるわぁ……」
どうやらかなり疲れているらしい。そのまま少し休ませてあげようと思ったその矢先、司令は不意に顔を上げると、
「あー、そういえばみのりちゃん。例の彼、今年卒業でしょ? うちに来たりしないの?」
いきなり何を言い出すのかと思えば。
「彼ではありません。それに、受かりませんよ。バカですから」
「でも、データを見る限り結構いい感じだと思うけど? ほら、うちって体動かす仕事の方が多いから、格闘技経験者優遇よ?」
机に突っ伏したまま、顔だけ向けて手元の端末を操作する。勇人のデータとやらを開いているのだろうか。
「……どうして勇人のデータを持っているんですか」
「うちって慢性的に人手不足でしょ? だから見所ありそうな人材はチェックしてるのよ。ほら、彼って有段者だし、今年卒業だし。特に進路調査のコレ、うちはおあつらえ向きだと思うけど?」
「……そんなものまで持ってるんですか」
あれは、先生に付き返された時に処分したはずなのに。
でも、頭の方はともかくとして、腕前に関しては問題ない。場数をこなしている分、即戦力としても役に立つかもしれない。
「確かにあの年になってもまだ正義の味方になりたいとか言って、理想だけは高いですけど。……でもバカです。そこまで調べているなら30km事件もご存知だと思いますが」
「あはは、知ってる知ってる。見知らぬおばあさんの財布を持ってバイクで逃げる引ったくりを、自転車で30km追いかけて捕まえたって言う奴ね。私、そういう無茶な子って大好きだわ」
「でしたらオチもご存知ですよね? 結局盗まれた財布には千円しか入ってなくて、しかもお礼をするっていうのを断って一割ということでジュースだけご馳走になって終わり、っていう」
「そうそう、聞いた時面白すぎて死ぬかと思ったもの。素晴しいわ。ある意味、彼こそ私たちが求めていた人材かも」
また始まった。司令は能力も責任感もあるし、部下の使い方も知っている申し分のない上官だと思う。ただひとつ、変なものが好きだという悪癖以外は。人でも物でもノリでも何でも変なものが大好きなのだ。そして、その被害は何故か司令に気に入られている私に来る。
「だからみのりちゃん、彼に話しておいてくれないかしら。面接の点数をおまけしとくからって」
「面接の点数をおまけしたくらいでは受かりませんよ。それに、ああいうバカは命令無視して突っ走って、真っ先に死ぬに決まってますから」
「……そっか。心配なんだねぇ。いいね、青春だね」
司令が怪しげな表情で笑った。何やら誤解しているらしい。
「ですから、違います」
「いいって、隠さなくて。私なんてね、学生時代は勉強漬け、就職してからは仕事漬けで、女らしいとこなんて見せたら舐められるし、仕舞いには鉄の女とか呼ばれてもう、青春なんてなかったんだから。恋は出来るうちにしとくべきよ!」
聞くところによると、司令は以前の部署ではかなり堅い性格だったらしい。それが何故ここではこんなにフランクになってしまったのか。きっと最高責任者ということで、誰にも気兼ねする必要がなくなったせいだろう。
「……司令だってまだまだじゃないですか」
「そうもいかないのよね。ほら、忙しくて出会う男って職場の人間だけだし、そうすると部下か上役の爺さんしかいないし。部下はやっぱりまずいし、爺さんは勘弁してほしいしね……。みのりちゃんがうらやましいわぁ」
「ですから、彼ではないと……」
その私の言葉を遮るように。
非常ベルが鳴った。同時に警告灯が灯り、周囲が赤く染まる。それまで私達のやりとりを温かい苦笑いで見守っていた所員達の表情が、緊迫した面持ちに変わった。