9話:地に輝く凶星を見た
すれ違いざまに竜の腹を【恐るるべき牙】で殴りつける。
茶色の竜鱗が砕け、弾け飛ぶ。
振り抜かれる尾をしゃがんで躱し、さらに右方へ跳ね飛べば、先ほどまで居た空間を鈍色の爪が抉った。
スティは6体の竜を相手に空中戦を繰り広げていた。
普段集まることなどないくせに竜どもは連携が妙に上手く、中々決定的な隙が作れないがそれでも優位に戦いを進めていく。
一撃離脱に徹し、深追いはせずに着実に傷を重ねていく。
それが可能なだけの膂力と武装、それから持久力を彼は備えていた。
同士討ちを嫌がってか、竜はブレスを吐いてこない。
スティとしては、直線的で動作の大きな攻撃は避けやすくむしろ歓迎なのだが。
攻撃の種類が1つ削られているということで満足することにした。
竜の爪が空を切る。
虚空を噛み砕き、尾が影を薙ぐ。
接近された時に竜の巨体は死角を生む。
そしてそれ以上に、届くはずなのに触れられない場所が出来る。
スティはそこに潜り込み、攻撃を回避していた。
その場に留まり正面から打ち合いをしていては、数的不利で押し潰されてしまう。
スティが動きを止めれば、四方から囲んで魔法でも何でも好き放題に出来るのは竜の方だ。
足を止めないことはこの戦いにおいて最も重要な事柄だった。
冷静に思考を回転させ視覚のみならず聴覚から得られる情報、果ては触覚による空気の流れについてまでを処理していく。
鋭敏に研ぎ澄まされたスティの感覚は、鱗の下の筋肉の動きや竜の小さな目の向き、呼吸や脈動すらも察知していた。
竜は大きく、であるのに俊敏だ。
故に、その身体の末端は凄まじい速度で動くのだが、それでも首や腕を振るって音を超えることは無い。
音速を超える尻尾の一撃であっても、予備動作が大きいために見てさえいれば対処が出来た。
スティが気を付けるのは、死角を作らないこと。すなわち、位置取りだった。
スティにとって、これは勝てる戦いだ。
だが、消耗が無いわけではないし、不安が無いわけでもなかった。
半自動的に槍を振るって竜の爪を弾きながら、スティは地上の様子を窺う。
戦況は芳しいとは言えなかった。
舌打ちが出た。
止めようと思ってたのにな、と彼の胸中にわずかな後悔が浮かび上がる。
結界には既に穴が空いているようで、防壁の上に取り付く竜の姿が見えた。
まだ空中に3体が飛んでいて応戦しているが、降り立って暴れる2体への対処に人員が取られてそれも苦しく見える。
竜擬きも防壁をよじ登っており、ここからさらに戦線が混乱することは目に見えていた。
(少し急ぎたいところだが……)
錆色の背中を殴りつけ、続け様に背後から突っ込んできた白色の顔にカウンター気味に槍を叩きつける。
「クソどもがぁ!」
竜の動きは雑になりつつあるが、戦意も体力も旺盛である。
例えばこれが1体や2体を相手にしているのであれば、反撃を承知で力押しに出て良かった。
いくらか傷を負うかもしれないが、さっさとケリが着いたことだろう。
苦しい戦いになるだろうが、3体が相手でも殺せる公算は大きかった。
だが、6体はさすがに多い。
1体を仕留めるまでに他から袋叩きにされてしまう。もしかすると、スティが狙った1体を切り捨てて諸共に攻撃をしてくる可能性だってある。
同士討ちを避けているようには見えるが、基本群れない竜が最後までそうし続けるかは賭けになる。
スティはそれに賭けようとは思えなかった。
だが、いつまでもこの膠着状態を続けることだって出来ない。
先に地上が蹂躙されてしまう。
どこかで勝負に出る必要性があることを、スティは強く感じていた。
戦闘は継続される。
それをどのタイミングにするか、注意深く見極めながら。
***
宙を跳ね回り、竜の攻撃をいなし、縦横無尽に駆ける男の姿は少女の心に憧憬として刻まれた。
竜を討ち、空を掌中に収めるという少女の理想のある種の体現であったからだ。
天を仰ぐレフィの目は大きく見開かれ、上空での戦いに釘付けとなっていた。
キラキラとした輝きを放ち瞬きすら忘れて見入る彼女の瞳には、明らかな羨望と歓喜の色が浮かんでいた。
今も上空では竜たちと真っ向からの殴り合いが繰り広げられている。
竜浸兵が、スティが跳び上がってからレフィは五度、索敵用の術式を打った。時間にして三時間弱になる。その間にスティは一度も降りて来ていない。
(すごい……すごい!)
レフィは口がポカンと開いていることにも気付かず食い入るように見つめていた。
護衛役である騎士デラムは、索敵術式を起動させては物見台に走り行き空を見上げる少女の姿を、苦笑とともに見守っていた。
なんとも微笑ましい。とても成人した女性には見えない。4つになる娘と並んだら姉妹のように見えるだろうな。
そんな感想を抱く。
ここが戦場ではなく、世が平和であればと思わずにはいられない。
監督官の少女はまるで争い事に向いていないと感じられた。
上空での戦いに目を凝らす。
男は忙しなく動き回り、竜はそれに翻弄されていた。
加速も停止も自由自在。鋭角的に曲がったかと思えば跳ね上がったり、落下の最中に加速したりと好き放題に動いている。
離れて見ているデラムですら時折見失いそうになるのだ。直接相対している竜にしてみればなおのことだろう。
(上は勝てるな)
確信があった。
竜たちは傷つき、動きは徐々に鈍りつつある。
対して竜浸兵の動きに陰りはない。
趨勢は明らかだった。後は時間の問題である。
デラムは視線を空から下ろした。
その向けられた先は防壁の上で行われている戦闘だ。
監督官の少女は全く気に留めていないが、デラムたちに影響を及ぼす可能性があるのはこちらの戦いの方だ。
自然、その行く末には注意を払って見守っていた。
デラムの表情が苦々しいものへと変わる。どうせ面頬で見えやしないがために、取り繕うことなどしなかった。
地獄絵図が広がっていた。
防壁の上に乗る竜は3体に増え、猛威を奮っていた。
竜擬きも続々と乗り込んでいて、此処彼処で戦闘になり陣形などとうの昔に崩れ去っていた。
魔術兵たちも個々に応戦することを強いられ、大規模な攻撃魔術を組む余裕は欠片も無かった。
(先制攻撃が成功していれば……)
そう思わざるをえない。
失敗の理由までは第三高楼からでは分からなかったが、それでもそれが手痛い失敗であることは分かる。
成功していれば倒せずとも牽制にはなっていたはず。そうすれば、早々に防壁に取り付かれることはなかっただろう。
可能性の話だ。たられば、は戦場で厳禁なのだが、どうしてもそう考えてしまう。
離れて見ているだけの状況が、思考に耽る余裕をもたらすのだ。
そしてその思考が1つの喜ばしくない可能性を提示する。
第三高楼への参戦命令だ。
現時点でこちらに敵は回って来ていない。手が空いているというのが実状だ。
なれば空いている手を動かすのは道理。
敵の背後を取るように展開して、挟撃の形をとれれば戦況はいくらか好転する。
……ただ、そこにはきっと監督官の少女も含まれるだろう。
デラムは改めて戦場を見る。
食い殺される兵がいた。
引き裂かれる兵がいた。
叩き潰される兵が、突き落とされる兵がいた。
若い兵士が鳥のような竜擬きに啄まれて死んだ。
老いた兵士が猿のような竜擬きに首を捥がれて死んだ。
噛られて、刺されて、ねじ切られて、放り投げられて、抉られて、死んでいた。
死体が溢れていた。
英雄が居なかった訳ではない。
今なお戦い続けている者は、皆勇士である。
竜浸兵はその豊富な魔力で、強大な魔術を立て続けに放ち竜を攻め立てている。
バリスタを撃ち続けた兵は、最期には発射台ごと竜の尾で叩き壊されたが、その撃ち続けた杭は竜の身体に無数の穴を開けた。
騎士は剣を振るって竜擬きを切り捨て、兵を指揮して防衛陣地を作ろうとしていた。
彼らは皆、血肉に塗れていた。
デラムはその様子を離れて眺めているだけの自分が歯痒く思えた。だが、同時に監督官の少女をあの戦場に連れて行きたくないと願った。
あそこは死地だ。
レフィは脇に控える護衛の騎士が何やら考え込んでいることに気付いていた。
内容までは見通せない。だが、悩んでいるように感じられた。
声をかけようかと迷う。しかし何を話せば良いのか。
相手は騎士であり、レフィの父より少し年下といったくらいの男性だ。話題が無い。
どうにも出来ないことであるため、それはひとまず置いておくことにした。
瞳に映る空は、第三高楼が結界内に建てられているために緑色だ。
しかし、その向こう。
竜浸兵が戦っている空は結界よりも上。青くどこまでも広がっていることを彼女は知っていた。
叶うのであれば、あちらに行きたい。
ともに戦い、竜を討ち倒したい。
そう切に願うが、それが難しいことはよく知っていた。
それでも、この理想に近づけているという実感が彼女を動かし続ける。願いは捨てられず、今も祈り続けている。
一際大きな咆哮が轟いた。
怒りよりも苦痛に満ちたそれは、戦場から距離のある第三高楼までをも震わせた。
それは断末魔であった。
竜が、落ちる。
上空での戦いは、天秤が大きく傾いた。
断末魔の叫びをあげて、緩やかに落下を始めた鈍色の竜。それに気を取られたのか、他の竜が一瞬動きを止めたところをスティは見逃さなかった。
間隙を縫い、深緑の竜に迫る。
レフィにはもう瞬間移動としか思えなかった。今まで以上に速く、それこそ方向転換をするその時しか姿を捉えられなかった。
深緑の竜は死ぬ瞬間まで、スティを目で捉えることが出来なかったのではないか。
竜の眼球に槍が深々と突き刺さり、死へと至らしめる。
するすると滑るように距離を取るスティに、レフィは感嘆の吐息を漏らす。
圧倒的だった。数的不利でありながら2体も屠って見せるとは。
見るに、竜は疲弊していて精神的にも安定せず、得意の飛行ですら精彩を欠いている。
後は時間を稼げば確実に勝てる。
レフィがそう思ったその時だ。
スティは竜に向けて突撃をかけた。
「えぇっ!?」
レフィの口から淑女らしからぬ声が飛び出してしまった。それほどの驚きだった。
経験の乏しいレフィですら容易に勝てる方策が見えたと言うのに、スティが分からぬはずはないからだ。
「彼は下への加勢を考えているのでしょう」
デラムが幼子を宥めるように言った。
妙に優しげな口調に小首を傾げると、彼はそれを発言への疑問の表れとして捉えた。続けて言う。
「防壁上部での戦闘は混迷を極めており、状況は悪いと言わざるをえません。ですが、上空を抑える竜からの圧力を除ければ希望が見えます。
いえ、彼ならばそれ以上も可能でしょう。彼自身もそう考えているからこそ、危険を承知で力押しに出たのです」
4体の竜を相手に攻勢に出るのは分が悪い。スティは承知の上で勝負に出た。
勝機はここだ。逃せばセベルストルは壊滅を免れない。
上空での戦闘は先ほどまでよりも苛烈なものとなっていた。
スティの戦法が変わり、すぐさま離脱せずに力比べにも応じるようになっていたからだ。
躱す。いなす。それだけでなく、弾く。強引に打ち抜く。そんな動きが増えていた。
必然、スティの身体にも負担がかかる。移動し続けなくなった分、竜の攻撃も掠めるようになっていた。
さすがに第三高楼からでは視認できなかったが、スティの身体は着実に傷付いていた。
皮膚が割け、筋肉がプチプチと破断していく。流れ出した血は、軍服を赤黒く染めていっていた。
だが、それは竜も同じだ。
それまでよりも力の籠った一撃は、竜鱗を砕くのみならずその下の肉をも抉り飛ばしていく。衝撃が竜の身体の芯まで染み入り、内臓を揺さぶり血を吐かせた。
苦痛に堪えかねたかのように、錆色の竜が一声吠えた。
それに呼応するように残りの3体はスティの動きを妨害する。錆色とスティの間に割って入り距離を空けさせた。
錆色の竜は大きく羽ばたくと、凄まじい速度でその場から飛び立った。
みるみる小さくなるその姿にレフィは呆然とした。
(……逃げた? 竜がっ!?)
竜とは気位が高く人に背を向けて逃げることはない、と聞いていたレフィは、その思いもよらない行動に眉をひそめ歯を軋ませた。
「あれは……。念のためお下がりください、中尉殿。ここまで離れていれば問題ないとは思いますが」
デラムは何かを警戒しているようだった。
物見台から建物の中に入ることを勧めてくる。
何故かとレフィが問えば、彼は空を指差し簡潔に答えた。落ちてくるからです、と。
その指はスティの居る辺りよりも遥か上に向けられていた。
雲が一挙に散らされ、天に大穴が開いた。
いや、穴は開いていない。かき消された雲によってそう見えただけだ。
そうと知りながらもレフィは肝の冷える思いだった。
穴の中心、天頂で輝く赤茶けた光点は間違いなく、先ほど飛び去ったはずの錆色の竜だ。
これから何が起きるのかはすぐに理解できた。
デラムに従い奥へと逃げ込みながら、背後を見やればスティは2体の竜と戦っている。
白い竜の姿は既に無い。スティが落としたのだろう。
2体の竜は傷を負い、己れの血に塗れて見るも無惨な有り様で、もう鱗の色で見分けることも出来なかった。角は折れ、目は潰れ、翼には穴が開き、腕が欠けていた。どちらも同じように傷だらけだった。
縋り付くようにスティを襲い、必死にその場に留めようとしていた。
レフィが高楼の建物の中に引っ込んだ直後のことだ。
耳をつんざく轟音が高楼を揺るがした。
落雷の何倍もの衝撃が全身を揺さぶり、レフィはよろめく。
ガタガタと窓枠が音を立て、照明の魔術具が壁から外れ床に落ちた。
詰めていた衛兵や侍女が悲鳴をあげた。
パラパラと埃が天井から降ってきていた。
地鳴りが止み、揺れが収まったところでデラムが動き出す。
兵に損害確認を指示する声を聞きながら、レフィは少し傾いた窓の下桟に手を掛け外を覗いた。
衝突の跡は凄まじかった。
防壁を擦るように落ちたそれは、地を穿ち壁を砕き周辺をかき混ぜていた。
土砂と人と、それから竜擬きの血肉が混合した何かが打ち撒けられ、辺り一帯に飛び散っている。
瓦礫は未だに崩れ続けていて、幸いにも呑み込まれずに済んだ兵士も竜擬きも逃げ惑うばかりだ。
血の滴る生の挽き肉を塊にして、床に叩き付ければ少しは似た光景が作れるだろうか。
あまりの惨状に、レフィは自分がどんな顔をしているか分からなくなった。
(……スティは?)
遅れて来た思考にハッとする。
初めて見る光景に頭がうまく働かない。受け入れることを拒否しているようだった。
あの竜は、錆色の竜はスティ目掛けて墜ちてきた。他の竜もそれを理解して足止めをしていた。
彼の姿を探して衝突で穿たれた穴に目を凝らす。レフィの位置からでは影になるようで、穴の底は見えない。
(もしかしたら)
そう思い視線を穴の外、崩れた防壁やまだ無事な辺りへと彷徨わせる。
避けたのではないか。それに賭けた。
と言うよりは、あれが直撃したのならば死んだだろうとレフィは自然と考えていた。
生きているならば避けているはず。
そう考えて、あちらこちらに視線を向けていたレフィだからこそ気付くことが出来た。
ある意味、この戦場で最も冷静だったレフィは最初にそれを見た。
東の空が、燃えている。
いやさ、燃えていたのではない。
赤く赤く輝いているだけだ。
火は出ていない。日が出てきた訳でもない。太陽は傾いているが、まだ頭上でレフィたちを照らしている。
あれは魔力の輝きだ。
先の錆色の竜の突撃前に、上空で放たれたような光。
ただ、その規模が比べ物にならない。
それこそ星と太陽の違いだ。
レフィのただならぬ様子にデラムが気付き、続いて東の異変にも気付いた。
他の兵も気付き、防壁に残る兵たちも気付いたようだった。
魔力が2度3度煌めきを放ち、煌めく度に光点の大きさを増していった。
力を溜めていることを、それを見る誰もが理解した。
デラムがレフィを庇うように前に立つのと、ほぼ同時。
東の空で、破滅の星が瞬いた。
──レフィが覚えているのは、彼女を庇う大きな背中と何かが飛んできたこと。
それから、全てを塗り潰す赤い光だけだった。
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