3話:微妙に肩透かし
窓の外にはいつもと変わらぬ緑色の空が広がっている。
常と変わらぬはずの見飽きたその光景に、しかし何故だかレフィの足が止まった。
レフィはこの緑色の空が嫌いであった。
本物を知っているからだ。
帝都上空を覆う対空結界が展開されるよりも前には、空は青いものであった。
どこまでも澄んだ青い空は見上げていると、逆さまに落ちていくのではないかと恐ろしくなるほどだったことをよく覚えている。
星々は大小様々なものが観測でき、家庭教師に夜空の星図を教わった。砕いた宝石の粒を空一面に撒いたとしても、あれほどのきらめきには届かないだろう。
朝焼けで赤く染まった空はおどろおどろしく思え、夕焼けでオレンジに染まればその日の終わりを感じて使用人たちに労いの言葉をかけた。
日が落ちた直後の深い紫色はどんな魔術よりも感動したし、夜明け前の濃紺には思わず祈りを捧げた。
全部全部、レフィの大切な思い出であり、この帝都では見られなくなってしまったものだ。
今、帝都の空は緑色に染まっている。
帝都全域を対空結界が覆っているからだ。
この対空結界により、渦巻く魔力が空の色を変えていた。
これが必要なものであることは理解している。
竜は空を自在に飛び、前線から離れた帝都近郊にも少数なれど姿を見せている。
結界による守りが無ければ、竜はすぐさま襲いかかってくるであろうことは間違いなく、そうなれば民に被害が出てしまう。
だが、それと好悪はまた別だ。
レフィはどうしてもこの毒々しい空が好きになれなかった。
しかし初めから今のように嫌っていたわけではない。
レフィが帝都の空を嫌うようになったのは、ある出来事がきっかけだった。
レフィには、今年で9才になる妹がいる。
常に可愛い盛りで、実家に足を運んだ際には一日中ベッタリだ。
妹もレフィによく懐いていて、彼女のすることや仕草を真似て見せたりしていた。最近はお洒落に目覚め始めて、軍人の姉の身だしなみに口を出したりするようになりつつある。
以前に「ねえさまのまね」と言って、ソファにダイブして見せられた時には困らされたものだ。
はしたないと叱るには、日頃自分がしていたせいで出来ず、結局母に見つかりレフィが原因と知られてこんこんと説教をされた。
そんな可愛くて仕方のない妹が、4つの頃にレフィに聞いてきたのだ。
『ねえさま、どうしておそらはみどりいろなの?』
言葉に詰まった。
4才の子どもに対空結界がどうのとか、魔力がどうのとか、小難しい話をしても答えとしては不適格だろう。
ならば、だとしても。
一体どう答えろと言うのか。
答えに窮したレフィは、ひとまず質問の出処を探ることにした。すぐに後悔することとなったが。
妹にどうしてそんなことが気になったのかを聞けば、彼女は素直に教えてくれた。
持ち出してきたのは1冊の絵本。
『夏の魔女と冬の王子』というその御伽噺は、古くから帝国に伝わっていて、レフィも幼い頃に読んだ覚えがあった。
もうこんな本が読めるようになったのかと感心していると、妹はとあるページを開いて指し示した。
それは絵本の最後のページ、王子を探し歩いた魔女が秋空の下でついに見つけ出して再会を果たす場面だ。
絵本に描かれた澄みわたる青空と白い雲を指差して妹は言った。
『おそらはみどりなのに、ごほんはあおいの。まちがってる』
何か言葉を発するよりも先に、妹を抱きしめていた。
刺すような痛みが胸に走り、喉が締め付けられたように苦しかった。
妹は何も悪くないというのに、青い空を知らないのだ。
生まれた時から空に蓋をされ、紛い物を見せられている。
きっと妹は、このまま本物の空を知ることなく生きていくことだろう。
都市結界の外に出る機会など滅多にない。それこそ軍人か一部の研究者にでもならなければ、一生を帝都の中で過ごす。
空は緑色だと信じて大人になって、朝焼けも夕焼けも知らずに結婚して、星の瞬きを子どもに教えることもなく生きていくのだ。
そう思った時、レフィの胸にどうしようもなく昏い炎が点った。
そんな未来は覆すべきだ。
正しい世界を取り戻さなければならない。
この時以来、レフィは緑色の空が大嫌いになった。
空を見るたびに、質問してきた妹の無邪気な顔が思い出される。空は緑だと信じるあの純真な瞳を忘れることが出来ない。
そのようになった元凶である竜を滅ぼすべく、レフィは軍に入り監督官候補となった。
(ようやくだ)
あの時の決意に向けて一歩ずつ進めている実感があった。
いつの間にやら拳を握りしめていた。
肩に力が入っていることが感じ、レフィはふぅっと息を吐く。
「なぁに、見てんだい?」
背後からかけられた声に飛び上がりそうになった。
振り向けば『竜浸兵』の男がそこに居た。
立ち止まったレフィの所まで戻ってきていたのだ。
そのまま男はレフィの頭越しに窓の外を眺める。
当然、男からも大したものは見えやしない。精々が建物の屋根と帝都の空くらいだ。
「……あぁ、なるほどな」
ぽそりと呟きが降ってきた。
レフィが見上げれば、男は納得したと言わんばかりに頷いていた。
「……ボクの何が分かる」
声が固くなっている自覚はあった。
家族との思い出に踏み入られたような思いに、レフィの心はささくれだった。
苛立ちが視線に滲み出す。
子犬が精一杯威嚇するように下から睨めつけてくるレフィの様子に、『竜浸兵』は苦笑せぬよう堪えるのがやっとだった。
彼からすれば、レフィは可愛らしい小動物に近い。
その青灰色の瞳で、穴が開くかと思うほどに睨まれようが、愛らしさは覚えようと恐ろしさなど毛ほども感じられない。
だが、そんな思いはおくびにも出さない。
知ればこの少女は傷つくだろう。
ともに戦うことも困難になるかもしれない。
そこに益は無い。喜びとも効率とも無縁だ。
何よりも、己れの足で立つと決めた戦士への侮辱になる。
地下牢で会った時の言葉と、空を険しい顔で見つめている姿から、レフィが青い空に焦がれていることは容易にうかがい知れた。
この帝都の結界を、いっそ憎いとすら思っているようですらある。
何がきっかけかまでは知らないが、その苦しみには共感できた。男もまた、この天を覆う蓋を快く思っていなかったからだ。
レフィの戦おうという意志は、男にとって歓迎すべきものであった。
だからこそ、安易な同調は厳禁であると理解できた。
「……まだ大したことは分かんねぇけどよ。
監督官として、まぁ、なんだ。期待はしてんだぜ」
吠えたてようという気勢を削がれ、レフィは己れの中の怒りが空転するのを感じた。
たった一言で良いように心動かされる自分を甘いと思う一方で、しかし確かに心地よく思う自分も居る。
(ぐぬぬ……)
レフィには心の中で唸ることしか出来なかった。
♦️
むくれて話さないレフィと、その後ろを歩くどこか機嫌良さげな『竜浸兵』は廊下の奥まったところにある部屋へと辿り着いた。
分厚い樫の木の扉の脇には立哨の兵士が控えている。物々しさを感じる部屋だ。
ここが目的地である。
立哨の兵士に確認をとって入室した2人を、床一面を埋める大魔術陣が出迎えた。
──帝都は現在封鎖されている。
それは帝都外縁を囲う防壁とその上空に蓋をする結界によってなされており、街門を通っての人の出入りも出来なくなっていた。
物理的にも、物流的にも、経済的にも断絶しているのである。
完全に閉ざされた街を、ある者は揺り篭と呼び、またある者は棺桶と呼んだ。
食糧は備蓄分と、新たに都市内で生産を始めた分が軌道に乗ったことである程度は賄えていた。
だが、それでも限界はある。
入り用なのは食糧だけではなく、衣料品や薬剤、木材などの資材に金属資源と広範になる。
とてもではないが一都市で調達出来るようなものではなく、対応が必要であった。
その解決策として用意されたのが、転移魔術陣になる。
都市結界の構築基点に組み込まれた転移陣は、各都市間を一瞬で移動することが可能であった。
起動時の魔力消費を結界構築の余剰分から回すことが出来る優れ物で、専門に学んだ魔術師であればそこまで高い技量がなくても運用が出来るという代物だ。
欠点としては、一度に転移が出来る輸送量に限界があることと連続での稼働が出来ないこと。それに加えて整備性の悪さが挙げられるが、それらを差し引いても帝国の維持に欠かせない。
学術院の主な功績の1つである。
2人が訪れた部屋は、その転移陣が設置された部屋の1つだ。
帝都内には他にも転移陣の部屋が隠されているが、保安上の観点から全てを把握する者はほぼいない。
また、結界構築の基点も兼ねているために分散して配置されており、第二師団がある程度自由に使える割り当てはこの部屋にある1つだけだった。
コンクリートで四方が固められ装飾もなく寒々しい部屋は、研究所の地下室と印象が似ていた。
部屋に入ると、立ち合いの兵士と起動役の魔術師が待っていた。
オレーグからの命を受けて準備していたと言う。
そこでレフィは魔術師としてあることに気付く。
「この部屋……。すごい数の防御魔術が編まれてる」
一見してそれと分からぬように秘されているが、十重二十重に転移陣を囲むように防御魔術が組まれていた。
殺風景な部屋であるが、堅牢さで言えばそれこそ帝城の謁見の間にも迫るのではなかろうか。
恐らく、建物ごと吹き飛ばされたとしてもこの部屋だけは無事に済むはずだ。
それほどに頑丈に、執念深いほどに魔術で強化されていた。
起動役の魔術師が得意気に話し出す。
「ここは結界の基点ですからね。謂わば帝都防衛の要、何においても守るべき場所の1つになります。それ故に、たとえ竜のブレスが直撃したとしても耐えられるように設計されているのです。単純な強化から空間固定、プールした魔力による防壁の展開、復元機能まで備えられ、それでもまだこの部屋の術式の全てではありません。学術院の秘伝も偽装して組み込まれていると聞いています。当然、準備には相当な予算が注ぎ込まれたと思われますが、事態が事態でしたからね。必要経費ということで陛下肝いりで推し進められたらしいですよ。そんな軍事上、また政治上の重要施設であるこの転移陣の管理と運用を……」
「──あー、はいはい。良いから準備してくれ。あんた、話が長ぇんだよ」
『竜浸兵』が話を途中で遮って、転移の準備を促す。脇に立つ兵士も早くしてほしい、というような表情を浮かべていた。
青年魔術師の熱量に押されていたレフィは、周囲の反応からこれが平常運転であることを悟った。
転移術式の起動準備が進められていく。
レフィたち2人は転移陣の中央に立つ。
魔術師は転移陣の端でしゃがみこみ、何かを唱えながら懐から筒を取り出した。
兵士は離れてその様子を注視している。
レフィは間近で聞くのが初めてなために耳をそばだてたが、それがどのような詠唱かまでは聞き取れなかった。発せられた呪文は言葉がいくつも重なったように聞こえ、音が歪曲している。
(詠唱が秘匿されてる)
珍しいが、勝手に転移陣を起動されないためにも必要なことだろう。
術式陣そのものに手を加えることで、詠唱を聞き取れないように出来ることは魔術師としての教練過程で学んでいた。
まさか、実際にお目にかかれるとは思っていなかったが。
ぼんやりと発光していた転移陣は、詠唱に合わせてその光を徐々に強めていく。
レフィの胸の内で心臓がその存在を強く主張した。
拍動が速く強く大きくなる。
ごくりと唾をのんだ。
転移陣が一際強く輝きを放ち、部屋中を白く染め上げる。
レフィはあまりの眩しさにギュッと目を瞑った。
まぶた越しに目に突き刺さる白光が収まり、目をパシパシさせながらレフィは辺りを見回す。
ぼやけてよく分からないが、魔術師たちの姿は無いようだ。
「ハハハッ!
お疲れさん。セベルストルに到着だ」
「えっ!?」
レフィは『竜浸兵』の言葉に仰天した。
(中央の転移陣に乗った時は、もっとなんか仰々しかったのに!)
教練過程で演習に出た時は、中央司令部管轄の転移陣を利用した。
その時には光るだけでなく、音がなったり出迎えがあったりしたのだが、今回はそうしたことは全く無かった。
考えてみれば、戦功が挙げられるような前線に送り込まれているのにそんな余裕は無いことは分かる。
だが身構えていた側としては、正直なところ物足りなさがあった。
言い表し様のない小さな失望を息に乗せて吐き出すと、隣に立つ『竜浸兵』がくつくつと笑った。
レフィは苛立ちのままに、その脇腹を小突くと平然を装って部屋を出る。
『竜浸兵』の脇腹は鋼板のように硬かった。
拳がじんわりと痛みを訴えていた。
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