第4話 生まれ直した二度目の世界
《RIOT、ゆうた、アリシア、ハイル…》
声が聞こえる。
名前をひたすらに読み上げ続けている。
その行為になんの意味があるのかは分からないが、ただただ名前を読み上げる声が聞こえてくる。
《クリス、エレノア、まゆう、じょう…》
日本人だけではなく、他の国の名前も読んでいる。
それだけじゃ、意味を推し量ることはできない。
《…無い》
突如に名呼びが止まり、独り言を呟く。
声は幼い少女のようにも、老婆のようにも聞こえる。
《誰だ?お前は》
誰かに問う声。
その語気は何かを責めるような激しいものだ。
《名前が無い。何者だ?》
名前が無いて言われても、何をもとにして名前がなくなっているのか分からない。
そもそもこんなことを考えるの自体、無意味なことだろう。
《…まさか、また来てくれたのか。だが、私はもう…》
期待が膨らむような声が、しかし諦めたような声音に変わる。
《……寂しい…独りは嫌なんだ…》
突如心中を吐露する声は、弱音は吐く。
《あなたなら、私を救えるかもしれない。
…助けてくれ。名も知らぬ、理を持たぬ者よ》
理を持たない…って、まさか。
そこまで思考した後、俺の意識は覚醒した。
◆◆◆
体がある。存在が輪郭を帯びている。
目覚める前の薄い思考の中で、そんなことを意識した。
自分の存在が肉体という器に押し込まれている感覚は、奇妙に感じるのだがそれが当たり前なのだろう。
次に意識したのは、肉体があることで感じられる、五感からの情報。
背に感じる触覚は、自分に肉体が輪郭だけではなく重さ、質量を伴っているものだと教えてくれる。
鼻腔に流れ込んで嗅覚を刺激する空気には、においという情報が含まれている。
青々とした草の匂い。肺を洗うような樹木の香り、澄んだ甘い花の匂い。
耳に入り鼓膜を震わせ、聴覚を刺激するのは、風によって木の葉の擦れた音に、さえずる小鳥の、近くから流れる清涼な水流の音。
これらの感覚は、あの空間。"混沌"では感じ取ることのできなかったものだ。
なら、ここはあらゆる感覚の機能しないあの空間ではない何処か、なのだろう。
もちろん車や列車の暴力的な走行音など、聞こえてくるわけはなかった。
そして、先ほどから閉じた瞼の外から撫ぜるは、スマホの液晶から放たれるものではなく、自然の光なのではないだろうか。
徐々に意識が明瞭になるにつれて、俺はゆっくりと瞼を開いた。
緑と黄みがかった光が勢いよく飛び込んできて、次に入ってきたちりばめられた青い光に何度も瞬きを繰り返して目を慣らす。
そのまま上体を起こして周囲を見渡して、思わず呟いた。
「……ここは……」
まず目に入ったのは、木漏れ日を浴びて小さく輝く草叢。
ところどころに小さな花を咲かせ、群生している場所もあった。
草の絨毯が敷き詰められた地面が広がり、遠くの方では逞しい幹を湛えた樹木が連なる深い森の境目を清澄な川が流れている。
四方を見渡すと、周りはこれまた大きな木々が俺を全方位に包んでいた。
つまり俺は、森の中に開けた円形の場所に転移したらしい。
頭上には澄み渡る青空が果ても無く広がり、綿あめのような雲が浮かんで風に流れている。
「……どうやら、森の中で目覚めたらしい」
もちろん答える声はない。
こんなところで目覚めた理由ははっきりしている。
俺は、混沌と呼ばれる空間を彷徨い、その果てに霞消えゆく道をたどるのだと思っていたが、実の所そうではなかった。
俺が消えるその間際、理外の残滓という存在に救われた。
そして彼らから"世界を均衡に導く"という使命と、それを満たすために必要不可欠な"理外の力"を継承した。
力を継ぎ、使命を果たすために、俺はこの世界に転移した。
そこまでは記憶にしている。
そして、世界に転移した後最初に気を付けなければならないことも、しっかり覚えている。
俺はすぐさま立ち上がり、周囲を警戒する。
生き物の気配は感じないが、もしかすると、件の人物––––––世界の拡大を行い、均衡を崩しているという人物––––––はすでに俺のそばに来ている可能性も、否定できない。
数刻経った後、敵意の類を一切感じなかったため、警戒を一段階解く。
まだ姿を現していないだけでそばにいる可能性も、これから会敵するということも事実だ。
いつの間にか、いかにも村人風な服装をしていたことすら気にも留めないまま、俺は現状の確認を終えた。
「とはいえ……これからどうすっかな」
ひとまず、現状の把握は済んだ。
それと同時に問題も見えてきた。
まず初めに、この場所は安全なのだろうか。それを確かめないと。
元居た世界とはまるっきり違う、ここはファンタジー小説やゲームでしか出てこないであろう……まさしく"異世界"なのだ。
世界が異なるということはそれだけで何もかも違う。かもしれない。
自分の目を通した作品のほとんどは、どのような世界であっても危険があった。
それはたいてい、自然環境が生み出した脅威であったり、いわゆる……魔物だったりする。
そういった存在が、この森に生息しているのかどうかすら、俺には知識がないのだ。
例えば、近くの一本の木の幹についている浅い傷。地面から相当な高さまで生えている樹の枝が分かれる箇所近く、つまり先端についているあの傷。
もしかすると、あの高さに傷をつけられるような大型の獣が生息している証かもしれないし、或いは小型だが獰猛な生物のいる証かもしれない。
しかしそれを俺に判別する方法はなく、まさに右も左もわからない状況といえるわけだ。
「近くに水はあるし、水分補給には困らずに済みそうだけど……」
近くに流れる小川はとても澄んでおり、乾いていた喉を潤すために手ですくって口に運んだ。
まさに、甘露と言わざるを得ないほどの満足感が広がった。
冷たさに思わず奇声を上げててしまうも、それを気にする者もいないのでそのまま貪る。
コンビニエンスストアでミネラルウォーターの購入を渋ってしまいそうになるほど、爽やかで甘い味を感じると、数秒陶然としてしまった。
「喉は潤ったけれど、問題は食料だな」
近くを見渡したところ、食べられそうな実の生った木はない。
そもそも実がなっていたとしても不用意に食べるのは危険だ。せめて、有害物質の有無を確認しなければならない。
それに……もし、先ほどの俺の予想が正しいとして、この川はそう言った生物も水分補給に利用しているのだとしたら、かなり危険なのかもしれない。
とはいえ、川幅はかなり広く冷たさと綺麗さから考えても、かなり水源は近いように思う。
とすると、近くに家なり街なりが存在しているとしたら、下流に向かうのが賢明だろう。
「さて、周囲を警戒しつつ向かうとするか」
俺は流れに沿って歩く。
川の緩やかなカーブと木々の群れで視界は遮られ、見通すことはできない。
なにが待ち受けているのか全くの未知に、いつしか忘れてしまった冒険心が湧き上がってきた。
子どもの頃に憧れた、幻想の世界。
まさかそこに自分が降り立つなんて、一切予想もできなかった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマーク、☆評価は結構ですので、もしお時間に余裕がありましたら、もう一話読んでいただき、作品をお楽しみください。