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第1話 彷徨の最中に

 俺の名前は、或川黎人。


 目の前で急行列車迫る線路に飛び込んだサラリーマンを助けようとして、

 代わりに落ちて死んでしまった。

 哀れな死にざまを迎えた。


 –––––よし、まだ。まだ大丈夫だ。まだ覚えている。

 –––––俺はまだ、俺を覚えている。


 こんな奇妙な確認を行うようになってから、いったいどれほどの時間が経過したのだろうか。


 あの日。

 サラリーマンを助けて身代わりに死んでしまった日から、過ぎた時間を感じられない。


 何年も何年もこうしているような気がするし、つい先ほどこの空間に来たのかもしれない。


 もしかすると、時間の感覚すら完全に狂ってしまうほど、永い間ここに居るのか。


 今となってはそれすら判断できなくなっていた。


 ここに来るまでの記憶は、しっかりと残っている。

 

 高速で迫る列車に轢かれ、死を自覚した。


 走馬灯で見た奇妙な記憶と、助けたサラリーマンの表情は今でも鮮明に思い出せる。


 しかし、ここに来てからのことは何もかも、記憶に残らない。


 この、何もない空間で過ごした時間すら把握できないほど、この空間には何もない。


 視界には何も映らず、におい味わうことなどない。


 耳が音を拾うことは無く、触れる感覚どころか手足の動く気配すらない。


 こうして、ただただ思考することしか許されない。


 聴覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚。

 これら五感が一切機能しない。

 一切の外的刺激がないとなると、いかなる変化をとらえることができない。


 そんな空間で、しかし思考を放棄したくはならなかった。


 ぼうっとしていて、無意識に近づくと、思考が薄れ霞んでいくと。

 内と外との隔たりを自覚できる一切の五感が働かない空間では、自分という存在の輪郭がぼやけてしまう。


 確立された自分という存在が、薄れて消えゆく。


 俺は、自分が薄れ消えゆくことに、言い表せない恐怖を感じた。


 それからは、ずっと、ずうっと。

 思考を続けて、自分の輪郭を、自他の境界を保ち続けている。


 ◆◆◆


 唐突に、ふといやな考えが浮かんだ。


 –––––こんなことをして、俺は助かるのか……と。


 思考し続け、自分という輪郭を保つこの行為は、現状維持に過ぎない。


 こんなことを続けたとしても、この何も無い空間から、脱出することはできるのだろうか。


 そもそも、ここから脱出する方法は存在するのか?


 ……それに、もしここから出られたとしても、現実世界の自分の肉体は既に死亡している。


 もしかしたら––––俺の身体は奇跡的に助かっており、しかし現在は身体から一切五感が働かず、所謂植物人間のようになっているという可能性は、否定できない。


 植物人間となってしまった場合、意識のみが存在してこのような状況に陥っている…のかもしれない。


 もし、もしも。


 –––––ここから脱出する方法は存在せず。

 –––––終わりの無い、無限の時間を。

 –––––ただだだ只管過ごすしか無かったら…。


 怖い。

 こんな何にも無い場所で、精神が狂ってもなお解放されることがないなんて。


 なによりも、どんな痛みをも超える恐怖を味合わなければならないなんて。


 嫌だ。


 今はただ、安らぎが欲しい。


 安心したい。


 家族の元に帰りたい。


 元いた世界に…帰りたい。


 ……家族は今、どうしているだろうか。


 家族のことを考えるたび、思考に情景が浮かぶ。


 –––原型も碌に留めていない肉片の入った棺桶の上で、溢れて止まらない涙を流し続ける家族の姿。


 想像しただけだというのに、悲しみが疼き、反響するのをやめない。


 いま思えば、なぜあの男を助けたんだ?

 単なる人助けかもしれないが、普段なら無関心で放っておくはず。


 じゃあ一体なんだ?


 時間だけは有り余るほどある。

 貪るように時間を消費し、自分が死亡する理由を記憶中から探し回った。


 何分過ぎたか分からない空間で長い時が流れる。


 記憶の隅から隅まで探し回って遡って、一つ。思い出した。

 

 思い出した理由は……なんともくだらないモノだった。


 理由…それは、ただ、有名になりたかったんだ。


 いや、正確には違う。

 正しくは、この退屈な人生を、塗り替えたかったからに他ならない。


 俺はずっと、この変わり映えの無い、閉塞感しか感じたことの無い世界にいたからだ。

 

 有象無象の一つとして生きて死ぬことに。

 嫌気が差していた、自分が特別な存在では無いと。

 そう知ることが怖かった。


 ……だから、憧れた。

 昔、母さんに読んでもらったお伽噺に出てくる、美しい世界に。


 俺があのサラリ–マンを助けに出たのは、他人の命を救うためなど、という高尚な理由ではなく–––––。


 –––––……何も起きない変わり映えの無い人生に、お伽噺の英雄みたいな出来事を刻める。

 そう思ったからだ。


 自分が主人公では無い人生が、耐えられなかった。


 自分がどれだけ頑張っても、上には上がいることに。


 本気で真意を伝えようとしても、誤解されてしまうことに。


 どうしようもなく、耐えられなかった。


 けれど、それでも耐えなければならない。

 人生は我慢の連続なのだから。

 

 こんな意味の分からない謎の空間なんかより、家族も友達もいるあの世界に帰りたい。


 俺は何もわかってなかった。

 何がすごろくのような人生だ。

 決まったイベントをこなすだけの人生だと……?


 かっこつけるなよ!何が絶望だ!

 あの世界は、安心して眠ることができた。安全が保障されていた。家族から愛情をもらって、孤独にならなくてよかった。

 今はどうだ?誰も頼れる人もいない。安全とは程遠い。


 失って初めて気づいたって…意味はないんだよッ!

 何を分かった気になって、

 達観していると驕慢になって。

 愚かしいにもほどがある……。


 ……なんで。なんで俺は、あんな死に急ぎ野郎を助けたんだよ……。

 あんな奴さえ助けなければ、俺はまだ生きられたはずなのに。


 ––いや、自業自得だ。

 あの人を恨んでも意味はない。

 自分の意思で助けに入ったのは俺なんだ。

 なのに、勝手に恨むのはお門違いにもほどがある。


 ……もっと、家族に感謝するべきだった。

 ちょっと鬱陶しく感じたからって、無視するんじゃなかった。


 俺のことを思って言ってくれてたはずなのに。全ては、間違った道に進まないように、俺の未来を心配してくれていたからこそだろうに。

 

 ……俺は馬鹿だ。

 大馬鹿野郎だ。


 家族の考えも聞かず、自分の価値観や機嫌を押し付けた。

 それでも俺を怒ってくれた理由なんて、簡単だ。


 –––俺は、愛されていたんだ。

 

 この終わりの見えない空間で、永遠に続くと思える時間が流れた。


 その時間は、大切なものを気づかせてくれた。

 だが、気づいただけで今更何もできやしない。


 気づいた後の痛みなんて、知りたくなかった。

 薄っぺらで安い絶望に、幻を抱いていた。

 あのサラリーマンを助けたのも、

 それが原因でこの空間にいるのも。

 すべて、俺の犯した過ちの付けが回ってきた結果だ。


 今ならよくわかる。

 自分がどれほど身の程知らずだったのか。

 しかし、猛省しようと意味はない。

 死んでしまっては、もう何もできないのだから……。


 ◆◆◆


 過ちに気づいてからも、無慈悲に時間は過ぎてゆく。


 あれだけ溢れていた後悔の念も、今となっては霞んでいる。


 どれほどの時間が過ぎ去ったのか、最早それを考えることすらできないほど俺の思考は朧げとなっていた。


 なぜ自分がこの空間に来たのか。

 その理由もわからなくなっている。


 輪郭は虚無に溶けるように消え、薄れ霞み朧げで、存在しているかすらわからなくなる。


 自分を自覚できなくなるこの感覚は、睡眠に近い。

 深く、或いは広く。自分が溶け出していく。

 抗うことすら許されぬ微睡に、徐々に侵食されていく。


 ––––––––––––そうか。これで俺は、消えるのか。


 悟る。

 直感的に感じ取ったこれは、おそらく間違いでは無いだろう。


 今では記憶の大半に靄が掛かって何も思い出せない。


 生まれ育った町の景色も、


 多くを学んだ校舎も、


 家族の顔も、


 何もかもが虚無の影に溶け消えてゆく。


 一つ、一つ。

 俺を構成する側面は消える。

 あぶくの一粒ずつが割れて消えるように、明確に何も思い出せなくなっていく。

 

 ––––––––––––ああ。せめて。暖かな温もりのなかで。


 掻き消える。遂には思考すらも朧げに。


 何も成せず。


 何も起きない。


 何も言わず。


 何にも成れない。


 脇役のような人生は、遂に終わった。


 ………

 ……

 …


 〔過去を顧みているのか。もう。手遅れだというのに〕


 その時、消え入る俺の中に声が響いた。

お読みいただきありがとうございます。


ブックマーク、☆評価は結構ですので、もしお時間に余裕がありましたら、もう一話読んでいただき、作品をお楽しみください。



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