ビアピッグ
◆ビアピッグ
お昼過ぎまで寝たり起きたりを繰り返した。ゆっくり寝たかったのに、カーテンをむりやり通過してくる夏の熱気に安眠は剥奪された。
友人の澄子からは午前に連絡があってからそれっきりだった。幼馴染の彼女は小田急線沿いのどっかの大学に通っている。澄子もそうだけど、ワタシは大学の名前を気にしたことはない。だから何度聞いても彼女の通う学校を忘れる。
性質が似ているワタシたちは、たまーに会ってはだらっと駄弁る仲だ。互いの家に歯ブラシ等も置いてある。気軽に会える。
今日も今日とて、「夕方に渋谷あたり」と約束をしただけで具体的な時刻は未定。ワタシたちの夕方とは、夏はだいたい6時ぐらいのはずだ。だけどあの澄子は仮に時間を定めたとしても平気で30分は遅刻してくる女だし。一時間遅く見積もって、七時ぐらいに向こうに着けばいいだろう。それでもきっと待たされる。はっきりした時間を言えないくせに、こちらが待ち合わせの場所に見当たらないとプンスカする。メンドーな友人だ。
いつもの半裸族の姿ではなく、フツウの格好で部屋の掃除をした。
『カワイらしいカラダだねェ』
と覚めない悪夢の中指が言うから、仕方なく服を着たのだ。
ほとんど毎日バイトだから部屋にいる時間なんて少ないのに、たまの休日は掃除で1日の半分がつぶれてしまう。フッとした時に目についたホコリや汚れにばかり固執してしまって、何か生産的なことができない。汚れを消すだけ。プラスの無い日々。
料理なんてもってのほかだ。バイトであれだけ包丁を振り回しているのに、家にいてまでそんなことはしたくない。本来なら就活をすべきだけど、求人をネットで検索しているうちにワタシは自信をなくしていく。そうして、気がつくとどこかの汚れをこすっているわけだ。
今日もそんなんで、時間を浪費してしまった。
“夕方”過ぎ、下北沢から井の頭線に乗る。
ほんの数分間、物思いにふける。この時間だとスーツや学生服の人たちが多くいて、もちろんよそ行きの若者もいるけど、ワタシは仲間はずれのような…………そんな気持ちを味わった。何者でもないワタシは、どこにも所属できずに、触りたくもない吊り革につかまって、振り落とされるような感覚に抗うしかない。
渋谷に到着。暑いので建物の中を通ってハチ公の広場に降り立つ。
ケータイで逐一連絡ができる時代でも、待ち合わせ場所で有名なこの場所には待ち人風情があちこちに。ワタシは人と約束して会う際、いざ会うまでの時間がとても億劫で、いっそドタキャンされないか…………ぐらいにうじうじする。人嫌いかなァ、なんてふうにも思うけど、広場に立ち尽くす人達もみな、どこか億劫そうな顔をしていた。
みんな、メンドーなのかな。
澄子にLIMEを送るが、連絡はなかった。
『なぁなぁアンナぁ。アンナの知ってる雑学を聞かせてくれよォ』
ワームがわめいた。小さなカラダなのに、この雑踏の中、イヤホン越しにもはっきりとその声は聞こえた。
昨日のきゅうりやかき氷のことを言っているの?
めんどくさいやつだ。
じゃあ————、雑踏を眺めながら何か雑学を探していた自分に呆れる。
バグるの語源は、昔あるコンピューターの中に蛾が入り込んだことが関わってるってのは? 回路で焼け死んだ実際のバグ……つまり蛾の成虫が機械に不具合を起こさせたってエピソード、知ってる?
『知らねェなァァ。でもなんだかよォ、アンナの頭の中に入りたくなるような話だぜェ』
コイツが頭の中に……考えただけでゾッとする。
ホントに、不快害虫だ。
『不快ねェ……アンナがオレを好きになれば、毒蛾のこのオレも綺麗に見えるはずだぜェ?』
そんなことあるわけない。…………あれ?
ワタシは忌々しい中指を見て、あることに気が付いた。
『んんぅ〜〜? キスでもするかァ?』
ワームがにんまりとするので、ワタシは考えを振り払うように頭を振った。
お酒が飲みたくなって、『先にどっか入ってるから』と澄子にLIMEをした。何の気なしにドラッグストアを覗いてから、近くの安居酒屋、鳥華族に入った。チェーンで充分だ。澄子が相手だから見栄を張る必要がない。
「後から1人来るんですけど」
と言うと、バイトと思しきスタッフが、「あー……」と何かを思案し、渋々といった様子で4人席に案内してくれた。時刻は8時。さすがの澄子もそろそろ、『もう着いた』だとかそっけないメッセージを、渋谷の1、2こ前の駅から連絡してくるはずだ。
飲んで時間を潰すしかない状況。
遅刻魔め。肩身が狭いんだよ。はよ来い。
ワタシは1杯目のビールが空く前に2杯目のビールを頼んだ。それからトイレに行く。席に戻った時には新しいのが有り、間髪入れずに次にありつけるという寸法だ。
飲むしかない。なんとワタシたちの掟では、待たされている間に飲んだ分は待たせた方に請求できるのだ!
タダ酒のうまいこと!
『暇なら話し相手になろうかァァ、アンナぁ?』
SNSなどはあまり興味がないから(あの地下アイドルはたまにチェックするが)、スマホがあっても特にすることがなかった。ヨーチューブとかも観ない。
『返事がないなァァ。もしかしてバグっちまったのか?! アタマ大丈夫かよォ、アンナ〜』
うるさい虫だ。
ワタシは焼き鳥の串でワームを突く。
おりゃ、おりゃおりゃ。
ワームがピクピクとのたうつのが面白くてつい没頭してしまった。
「暇なら話し相手になろうか?」
話すよりオマエをいじめてる方が楽しい。
「ねぇ、キミ」
ハッと顔を上げた。
知らない男が立っていた。立って…………いた。今は勝手にワタシの前に腰を下ろしている。
「なに?」
険のある言い方になってしまった。まぁ勝手に人の席に座るやつに対して礼儀なんて不必要だよね。
「いや、キミが何かワケありそうだからさ。話をきいてあげられたらなと思ってさ」
本来なら見当はずれのそのセリフだけど、ワケあり……というのは的を得ていた。かなり、得ている。
男はブルー系統のスーツを着ていた。短髪、ツーブロ。直感だけど、雰囲気としては、生活費に困窮などはしてなさそうだった。羨ましい。
『オイオイなんだこのシツケのなってねェ男はよォ』
ワームがスッと体を伸ばした。威嚇のつもりらしい。ワタシにしか見えないと言ったのはコイツだ。バカなのか、ふざけているのか。
「ワケなんてないけど」
急に声をかけられるのには慣れていた。声をかける前に相手がそうしていたように、ワタシはじっくりと相手を観察した。
歳は30ぐらいだろうか。自信に溢れている。経済力とか、仕事上で良い立場にいるとか、何かがあるんだ。でもなんだか、そういうのとは異なる妙なモノを感じた。低い鼻を膨らませ、どこか勝ちを確信しているような感じだ。
『いけ好かねェなァァ』
同意。
『オレが何考えてるか分かるかァ、アンナ? なんとかコイツをまいてよォ、勘定を押しつけちまおうぜェ?』
ナイスアイデアだと思ってしまった。
「誰か待ってたのかい?」
「トモダチを」
「ちょうどいいじゃん。そのあいだ一緒に飲もうよ。いつ来るの?」
探りを入れているのが分かった。皮脂がテカるみたいに眼差しが光る。ワタシを見つめてくる。
「まだもうちょっとかかるって連絡がさっききて」
澄子から連絡はないままだ。
「へぇ。よかったね、連絡とれて。いま通信障害になってるみたいだからさ」
男によると、澄子が使っているケータイ会社で通信障害が起きているとのことだ。
だから連絡がつかなかったのか。今頃困っているだろうな。
『アンナぁ、どんどん値の張る酒たのんじまえ! 飲みつくせェ!』
ここ、300円均一だから。
とはいえ、やると決めたからには……だ。
ワタシは飲酒のペースを上げた。
『ヘンな薬盛られんじャァねェぞ? こんなキザ野郎にやられてたまるかよォ。ごぶぅあッ! ウメェ、ウメェ! 人のカネで飲む酒ウメェ!』
ワタシはお酒に中指を突っ込んで、ゆっくりとかき混ぜた。
「うんめェなおいィ!」
ワームの嬉しい悲鳴が聞こえる。
ワタシのその行動をどう捉えたのか、男は静かに微笑んだ。ここでも男は勝ち誇っているような余裕を見せている。ワタシの手札に強いカードがあると知りながら、自分がジョーカーを隠し持っているみたいな。
いくらかして、ワームが言った。
『そろそろトンズラといこうぜェ、アンナぁあ』
ワームは心なしか白っぽいカラダを赤くしていた。
だいぶ飲み食いした。
男にはおべんちゃらも使っておいた。
「なんか頼んどいて。甘め系なやつ」
ワタシは男にそう言ってトイレに立った。荷物は小さなポーチひとつで、始めから肩にかけている。
立ちくらみがした。
トイレに入ると、水垢だらけの鏡で自分の顔をたしかめる。
「起きてる?」
ワタシは声に出してみた。
返事はない。
なんか変だ。
いつもなら、あれしきの量で酔うことはない。
トイレを出る。出入り口はすぐそばだ。レジにスタッフはいない。
「もしもし?」
電話をするフリをして店を出た。
建物が傾いているような気がした。
「ねぇ、返事しなよ」
スマホを持った左手の、中指に声をかける。
静かだ。
高い耳鳴りだけが暗転する視界の中で鳴り響いていた。