レタススラッグ1
◆レタススラッグ
案の定、寝坊した。
「澄子! 起きて!」
ワタシは超速で身支度を済ませながら、ソファで丸くなっている澄子に声をかける。
「あと5分で出るからね。あぁ! ゴミもまとめて出さなきゃ」
「うう、あたしを捨てる気か。トカゲの尻尾みたいに」
「だからそれまた生えてくるじゃん。夕方までうちで待ってるなら寝てていいけど。無理ならゴミ捨て場に捨ててく」
返事はなかったけど、数秒後に澄子は唐突に立ち上がった。
「新しいカレピと会う予定だからあたしも出ていく。捨てられるのはごめんだから」
「トカゲの尻尾のように次々とカレシが生えるね」
「どっちかっていうと尻尾はあたしだけど」
返事しにくいな。
『知ってるかァ、ベイベー。トカゲの再生した尻尾には骨が無ェんだぜぇ』
「なにそれ知らない」
『おォ?! 知らねェか?! ようやく物知りアンナに勝ったぜェ!』
「澄子、再生したトカゲの尻尾には骨が無いって知ってる?」
「正確には骨が無いというか、軟骨はあるよ」
「あ、そうなんだ」
『物知りだなァァ』
澄子と共に部屋を出た。
新宿に行くという彼女とは駅前で別れた。
「今度あんたんとこの店、カレピと行くわ」
「こっそり唐辛子増しとくね」
「じゃあね。ワーム君もまたね」
『オレは会いたくねェなァァ』
「サングラス似合ってるねだってさ」
『言ってねェぞォ!』
ワームは威嚇姿勢で喚いた。
数日間にわたって催されてきたカレー祭も、今日で最終日だ。
さすがにそんな混まないだろうとタカをくくっていたら、アホみたいに混んだ。
「B卓、4名さまご来店でーす!」
「C1のドリンク、先出しに変更です!」
「お会計おねがいしまーす!」
我を忘れるほどに忙しかった。
座卓で子供がラッシーをこぼしたり、順番を抜かされたと騒ぐ客がいたり、窓から蝉が入ってきたりとトラブルも起こった。
ワタシは中間職のウォッシュにいた。
『ほれほれアンナぁ、頑張れ頑張れェ』
黙れ虫ケラ!
「先輩、ビールグラスを2個だけ先に洗ってもらってイイっすか」
「ヤングコーンがなくなりそうだ。裏から持ってきて」
「蝉がまた入ってきました!」
息つく間もない。
誰かが置きっぱなしにした缶詰めの蓋で左の薬指を切る。
『大丈夫かァ、アンナ。ところでお客が1人いなくなったらちょっとはラクになると思わなェかァァ?』
そうね。
『オレがビールグラスにヒビを入れてやるよォ。飲んだ拍子にパリンだァ』
黙ってな。
二の腕のあたりに痛みが走った。
「あ、すいません! 大丈夫ですかッ?」
アレンジから雪平鍋が不用心に突き出されて、ワタシに当たったのだ。ついさっきまで火にかかっていた鍋は焼ごてと同じだった。
「大丈夫ですから……!」
早く冷やさないと跡になる。
やだ。
『ガス爆発ってのはどうだァ? 1人どころかみんな焼けるぜェ』
こんな火傷も気にならないかもね。
『イィィヒッヒッヒッ! かもなァ。じャァさ、わざと転んでカレーをぶっかけちまおう。カレーにはそこの揚げ物油を半分混ぜるんだァァ。熱いぜェ』
指の傷に皿洗い用の洗剤がしみる。火傷がひりひりしてきた。蝉がうるさい。圧力鍋の音、電子レンジ、換気扇、油が爆ぜる音————、
『この食い残しを次のカレーに混ぜてカサ増しすんのはどうだァ?』
そして醜悪なイモムシの唆し。
「黙れって虫ケラ」
シン……とキッチン内が静まり返った。蝉も鳴き止んだ。
「あ、アンナちゃん……?」
勝瀬さんがワタシを見た。
「すみません」
「どうしたの」
「イライラしちゃって」
「そうか。でもそれみんな同じだから」
いつになく真っ直ぐな目でワタシを見る勝瀬さん。
「はい、すみません」
蝉が再び鳴き出した。バタバタと出入り口の方へ飛んでいく。悲鳴を上げる人もいくらかいた。雑誌の棚に蝉は止まる。
「スキ有りっ」
使えない呼ばわりされていた童顔で年齢不詳のワタヌキさんが蝉をひっつかみ、外へ出て行く。そして空へ向けて放り、戻ってくる。店内に自然と拍手が起こった。照れて笑う彼女は、本当に子供みたいだった。
それによってキッチン内の空気が元に戻った。感謝しなくてはならない。
ひと呼吸、おくことができた。
ワタシはみっともなかった。それに気がつくことができた。