ムムニイB(夢見る機械プロローグ)
連載小説「夢見る機械」のプロローグに位置付けられる短編です。
デジタル化の申請券がようやく手元に届いた。
まあ、時間がかかるのも無理はない。地球上の全人口が対象なのだから。
「連番なのね。」と妻が言う。
「そりゃあ、夫婦だからだろう。」
ムムニイは嬉しそうに初老の妻に笑いかけた。
これからいよいよ人生の晩年に入るという彼らは、幸運なことに全人類の不老不死化という大イベントに遭遇することができたのだ。
もう半世紀早く生まれていたら、その機会はなかったに違いない。
60年ほど前、この地球上の人類を、歴史始まって以来の未曾有の大パンデミックが襲った。
当時の世界人口の40%がたった10年の間に死ぬという大惨事の末、人類の意識は大きく変わった。
ムムニイが生まれたのはちょうどこのパンデミックが収束した頃のことで、この世代は特に「サバイバーズベイビー世代」と呼ばれる。
申請券を持って、妻と一緒にムムニイはシティオフィスへと出発した。
オフィスは20キロほど先にある。50代になった彼らにとって、この距離を自走車で行くのは結構こたえるだろう。
「まあ、夕方までに着けばいい。ゆっくり行くさ。」
彼の自走車にはソーラーパネルの電動アシストが付いてはいるが、それは本当に気休め程度のアシストでしかない。基本は彼の脚力にかかっている。
本格的なソーラー車などは、環境負荷税が高くてとてもじゃないが彼なんかの収入では手の届くものではない。
しかし、そういう格差も不平等もまもなく解消される。ムムニイは人口が減って空き家や空き店舗が目立つようになった街並みを眺めながら、時々休憩しては自走車をこいでオフィスを目指した。
路面のコンクリートや建物の隙間から草が生え、新緑が目に痛いほど美しい。
人間が壊してきた自然が、こうして少しずつその傷を癒し始めているんだな——とムムニイは静かな笑みをこぼしながらその風景を楽しんでいた。
空は晴れて4月の風が心地よい。
パンデミックが人類による環境資源の食い潰しによって起こった——という認識がコンセンサスを得るには、それでも収束後10年の歳月を要した。
地球生命圏においては、1種類の生命種が使うことのできるエネルギーには上限がある——。それが認識されるようになると、人類の文明はその向かう方向を大きく変えた。
エネルギーと資源の消費を削らなければならない。削らなければ再び「人類削除アルゴリズム」が動き出す。
科学者や技術者による懸命の技術革新が繰り返されたが、テクノロジー自体がエネルギーと資源を食う。その分、人間自身が使うことのできるエネルギーや資源が減ってしまう、という自己矛盾に苦しんだ。
人類削除のアルゴリズムと思しき「病気」は、感染症のみならず、体内の細胞反乱の形でも頻繁に現れた。
人口が多過ぎるのかもしれない・・・・。
だがそうは言っても「減る側の人」を、いったい誰がどうやって決めていいというのか?
このまま人類は削除アルゴリズムに身を任せるしかないのか———?
ムムニイがシティオフィスに着いたのは、本当に午後の太陽が西に大きく傾いた頃になった。
「では、こちらの書類をよく読んで、デジタルサインを行ってください。」
オフィスの担当者が、ムムニイと妻に申請券を差し込んだタブレットボードを手渡した。
「疑問点があれば、ご説明いたします。」
こうした作業は一時期 AI に任されたことがあるが、結局は人間とデジタルシステムのインターフェースは人間が行った方が消費エネルギーが少ない、ということが分かって、再び可能な限り人の手が介在するようになった。
長々と権利や注意事項の書かれた文書が表示されたが、ムムニイはざっと目を通しただけで「了承」ボタンを押し、デジタルサインを行った。
おおよそのことは、繰り返された報道で分かっている。すでに決心をしたから、ここに来たのである。
テクノロジーが敗北宣言を出す一歩手前まできた頃、1人のデジタル技術者によって革命的な提案がなされた。
50億の人類が「生きて」いくための、テクノロジーを含めたエネルギー消費を限度内で確保することは不可能だ。
ならば、50億の「意識」だけをサーバーチェーンシステムの中に取り込んで活動させるようにすれば、必要なエネルギーと資源はサーバーチェーンシステムの維持分だけになる。
その総量は、50億の人類をその肉体ごと支える場合の必要量の1万分の1ほどですむ計算になる——。
それはとりもなおさず、50億の人々が誰も脱落することなく「不老不死」を手に入れることと同義ではないか。
人類の長年の理想は、ようやくここで実現するのだ。
もちろん、喧々囂々の議論はあった。
しかし、文明的生活を維持したままで量の上限をクリアするには、20億程度にまで人口を減らさなければならない、という試算が分かった時に、多くの人はこの計画に納得した。
原始人の生活に戻るくらいなら——、身体感覚が擬似的になることくらい・・・。
ムムニイは目が覚めた。
何か変わったのだろうか?
これでデジタル化されたということなのだろうか?
肉体を持っていた頃と、感覚的には何の差異も感じられない。腕に刺し込まれた点滴チューブもベッドも部屋もそのままだ。
隣のベッドでは、妻が同じようにやや不得要領な微笑を浮かべて彼を見ている。
ムムニイは目が覚めた。
肉体を持っていた頃と特に大きな違和感はない。隣に妻が立っている。彼女も不思議そうな顔をしながら、こちらを見ていた。
「あまり変わった、という感じはしないわね。」
「そうだな。だが、体が重くない。すこぶる快調な感じだ。気分がいいね。」
部屋のモニターが自然保護区の映像を映し出し、アナウンスが流れた。
「お目覚めになりましたか? 権利と注意事項をお読みになったと思いますが、これはあなた方『サバイバーズベイビー世代』とそれ以前の世代の方々だけに与えられる特別権利枠による措置です。
この世代の方たちはおそらく、デジタル化の意味を本当に理解していない可能性があるということで、デジタル化と同時に、肉体側も自然保護区への移住を特別に認める『特別枠』が設けられています。あなた方はその権利を『放棄する』欄にチェックが入っていませんでしたので、こうして再度、覚醒が行われたわけです。
この時点で『放棄』を選択し直すこともできますが、どうされますか? 何かご質問はありますか?」
そういえば、あの長ったらしい注意書きの中に、そんなふうなことが書いてあったような気もする。
あまり注意して読まなかったので、よく分かってはいない。
「放棄するとどうなるのかね?」
「再度点滴で薬液が注入され、最初と同じように静かに意識がなくなります。しかしご安心ください。すでにデジタル化されたあなたはこちらに存在していますので、意識の永遠の生存は保証されています。」
「ちょっ・・・・ちょっと待ってくれ。・・・それはつまり・・・、そちらにいる『ムムニイB』が生きてゆくということであって、ここにいる私は死ぬってことじゃないのか?」
「その議論はもう十分尽くされた議論です。」
ソーラー車で自然保護区まで運ばれる間、ムムニイとその妻はほとんど茫然としていた。
ニュースで流される報道や啓蒙を何も疑うことなく受け入れてきていたが、実際に自分ごととして「身体を失う」ということの意味をきちんと考えたことはなかった。
意識をデジタル化する——ということは、身体側のそれは破棄される、ということだ。ちょっと考えれば分かることだった。
自分と妻が永遠に生きてゆける——という華やかな概念に目を奪われて、その裏側にある「解釈」に意識が行っていなかった・・・。
たしかに——。
ムムニイBは永遠に生きてゆくのだろう。しかしそれは、ここにいて茫然としているムムニイAではない。
自然保護区で使うことが許されるテクノロジーは、エネルギーと資源を浪費しないよう極めて限られている。
いわゆる「ジョーモン・テクノロジー」というやつだ。
守らなければ、管理局が「移住者」の延髄に埋め込んだマイクロチップにその浪費ポイントが蓄積されてゆき、それが上限を超えた時にチップが破裂し、その生命が断たれる仕組みになっている。
もちろん放っておいても、その身体の劣化と共に意識もやがて死ぬ。
最初からそれを選ぶ、という変わり者もいるようだったが、何不自由ない暮らしのままで永遠の命が手に入るのに、何を好き好んで——と、ムムニイはこれまで思ってきた。
大自然。
それは都市生活に浸かりきった者にとっては、想像以上に過酷な環境だろう。
はたしてこの年齢の自分と妻は、ジョーモン・テクノロジーだけで半年後には確実にやってくる冬を越せるのだろうか?
その不安とともに、ムムニイの中に答えの緒すら見つからない新たな疑問が立ち上がってきていた。
自分——とは何だろう?
生きている。
とはどういうことだろう?
ムムニイは自然保護区の入り口に立ちすくんだまま、人生で初めて、その難問に向かい合っていた。