結城 充と仁科 充とジョン・マシュー・バーガー
「仕事のことは紹介してくれんの、感謝する。ありがとう」
「でもあんた、英会話スクールで内定もらったんでしょ? どうするの?」
「内定承諾の前に雇用形態の確認する。あとは受け持つクラスについての相談かな。配給会社が、通るかわかんねーし。蹴るって選択肢はない」
「そう。わたしが言えた義理じゃないけど、先方に、なるべく迷惑をかけないように。最低限に留めなさいよね」
「ああ」
「それじゃ、話を通しとくわよ?」
「頼んだ。面接まで漕ぎ着けたら、ランさんの名前は遠慮なく使わせてもらう」
「どうぞ。もともと、わたしがその仕事に就いたのは、あんたの父親の紹介よ」
「チチオヤ?」
タカシがミツルに横目をやると、ミツルは一瞬目を丸くして、すぐに首を振った。
「ぼくじゃないよ」
「……ああ。『血の繋がった』ってやつか」
眉間に皺を寄せたタカシは、ミツルが目の前にいなければ、そのまま舌打ちでもしていそうな嫌悪感を滲ませていた。
どうもジョンへの誤った認識がありそうだ。
「あんたの父親は、妊娠がわかって逃げたわけじゃないわよ」
「知らせてもいねぇんだろ。わかってるよ」
「それだけじゃないわ。ジョンは――あんたの父親は、一緒にニューヨークに来ないかって誘ってくれたわ」
タカシが目を見開く以上に、ミツルの驚きが勝った。
ダイニングテーブルに手をつき、椅子から立ち上がるミツルは、それでもガタリと音を立てることもなく、静かな所作で、育ちの良さがよくわかる。
一方でタカシは、目を回して下くちびるを突き出し、首を傾げる。
ミツルとわたしとの間に素早く視線を走らせると、肩をすくめて、両手で囲ったマグを口元に運んだ。
一度も顔を合わせたことはないはずなのに、タカシの仕草は、かつてのジョンによく似ている。
ミツルは、こちらに目をひたりと合わせたまま深呼吸すると、口を開いた。
「――なんだって?」
「話していなかった?」
「聞いていないよ。……ねぇ、それは、もしかしてぼくのせいなのかな?」
「どうかしら。どちらにせよ、ジョンもわたしも、友人以上の関係になる可能性はなかったわ。ビジネスチャンスの一つではあったけど、わたしは音楽業界にさほど興味はなかったし」
とはいえ、映画と音楽の関係は深い。
共依存であったり、独立し対等であったり、支配と被支配関係であったり、反発し合ったり。
それは様々だけれど、男と女がそうであるように、映画と音楽も、切っても切れぬ仲だ。
だからジョンについて行き、渡米した後に人脈を築き、映画業界へと縁を繋ぐことはできただろう。わたしに能力があれば。
成功に必要なもの。実力と運。
運は既にジョンが。三ツ星レストランのシェフじゃなくても、大衆食堂の料理人を経験した人間ならば扱えるくらいに、下ごしらえした状態でストックしてくれていた。
『さあ、お好きにどうぞ』
手づかみで齧るも、煮るも炒めるも、ご自由に。
そしてわたしは投げ捨てた。
「蘭さんが、彼のことを友人としてしか見ていないことは知っている。だけど彼はどうなんだろう? タカシ君のことくらい、知りたかったんじゃないかい? 彼は蘭さんのことを気にかけてくれていたようじゃないか。仕事まで世話をしてくれるなんて――」
「院長先生。それは、いまさら蒸し返しても仕方ねぇよ。アイツは俺を知らねーし、俺もアイツに『オマエの息子だ』なんて名乗り出るつもりもねぇ。
「だいたいそのチチオヤってやつは、ランさんのこと、覚えてんの?」
顔を斜めに傾げたタカシが、グイと顎を前に突き出し、そのまま顎の先で、釣り竿を振るように素早く弧を描く。「言ってやれ」とか「あんたの番だ」といった素振り。
この仕草も含めて、この子の表情や身振り手振りは、映画の受け売りが多い。
ふつうに日本で育った混血児ならば、きっとこんな仕草は頻繁にはしないのだろう。
いや、親を真似て、結局は日本人にしては大仰な表情と動作になるのだろうか。
「あんた、今年でいくつだっけ?」
「二十四」
たった一人の息子の年齢も把握していない母親が、わたし。
「じゃあ二十四年間、音信不通なわけね。覚えてないんじゃない?」
「まぁ、そうだよな」
わたし達の会話に、ミツルが不満そうに眉根を寄せた。
タカシはジョンによく似た表情で、目を回し、眉をぐっと上げて、水平線とそれに並行する波を数本、額に刻み、おどけるように肩をすくめる。
「アイツがランさんを覚えてるとして。そんで俺に名乗り出るつもりがあったって。ノコノコ出ていきゃ、アイツの周囲が黙っちゃいねぇだろうし。
「認知されたら認知されたで、向こうは日本より契約だなんだと、うるさそうだ」
「それはタカシ君の言い分だろう。それに、当時もし――」
「たとえ俺が生まれた当時、アイツに認める気があったところで、アイツのバンドは盛り上がってたところだろ。売りにもならねぇ、マイナスにしかならねぇスキャンダルなんざ、つき合いたかねぇよ。
「無名の一般人。それも日本の女。オノ・ヨーコされちゃかなわねぇって、めんどくせぇ書類にサインさせられて、黙ってろって金もらって終わりだろ」
おそらくタカシの予想は、そう外れてはいないだろう。だが、ミツルが気に掛けているのは、おそらく違うこと。
親から与えられる愛だとか、父性だとか、情だとか。そういった類の。
ミツルが深く息を吐き出し、ゆっくりと首を振る。
傷ついているのだろう。優しい男だから。
責められている気になる。
タカシがこうなったのは、わたしのせいだ、と。
育てた記憶もない、わたしの。
タカシが「あーっ! くそ!」と唸りながら、乱雑に頭をかきむしった。
「院長先生! 君江さんのことがあったから、大人しくしてるつもりだったけどさ。わりぃけど、遠慮すんのはやめた。あのさ、アンタのはそれ、ただの嫉妬とアンタ自身の罪悪感だろ?」
ミツルがギョッとしたように目を見開き、口を開ける。
空気を吸って、吐いて。
言葉が音にならないのを見て、眉根をきつく寄せたタカシが舌打ちする。
「めんどくせーんだよ。色々言い訳つけてさ。自信がねぇだけだろ? 男としての自信。ねぇんだろ? 『スター』のアイツと比べちまってんだろ? だからアンタはアイツのこと、調べなかったんだろ?
「俺だったら、惚れた女を孕ませた男なんざ、ぶん殴ってやりてぇし、調べねぇでいるなんざ考えらんねぇ」
当時、ミツルに相手は誰かを問われ、フェスで来日していたミュージシャンだとだけ答えた。
ミツルはそれ以上、聞かなかった。
となりを見れば、硬直したミツルがいた。
言い過ぎだと止めるべきだ。パートナーならば、ミツルの自尊心を守るべきだ。
だがわたしには、タカシに負い目と罪悪感があり、それ以上に、タカシの解説を聞きたいと思ってしまっている。
愛する男の本心を、息子に、男として暴いてくれと。
隅々まで明らかにさせ、スクリーンにまざまざと映し出してくれと。
わたしの恐ろしいまでの執着心が、タカシを止められない。
「それとアンタの不安。ランさんがこれからもアンタについてきてくれんのか。また逃げんじゃねぇのかって。
「あのさ。そんなの知らねぇよ。俺には関係ねーだろ。自信ぐれぇ、自分でどうにかしろよ。アンタ、これまで一人で生きてきたんだろ。どっかになんか、根拠くれぇあるだろ。
「それにさ。ランさんなんか、過去の思い出で美化されてるだけだかんな? 正直、アンタのが先にランさんから逃げ出すんじゃねぇかって思うぜ。わりぃけど、アンタが逃げ出したところで、俺はランさんを引き取ったりなんかしねーよ」
タカシは湯気の絶えたマグを引き寄せ、呷った。ランナーが給水ポイントで水分を口に含むかのように短く。
撹拌のし過ぎで、酸味のきつくなったコーヒー。
「俺は院長先生に感謝はするけど、恨んでなんかいねぇよ。ランさん引き取ってくれてありがとなって。ロックスターと引き離されたなんざ、思ってねぇよ。
「あのな。院長先生は、もしかしたら俺に気が引けてんのかもしんねぇけど。ランさんとロックスターで、ままごとの両親揃っててくれたら、なんざ、考えたこともねぇからさ」
「なんて返せばいいのかわからない。恥を忍んで言えば、君の言う通りだ」
ミツルが俯きかけたところで、タカシの手が伸びてくる。ミツルが顔を上げる。タカシがまっすぐにミツルを見ている。
わたしはマグに手をかけ、酸っぱくてぬるいコーヒーを一口飲んだ。香りだけはまだ鼻先をくすぐる。
「院長先生。ランさんのこと、よろしくお願いします」
がばりとタカシがミツルに頭を下げた。完全に虚を突かれたミツルは固まり、タカシがこちらに顔を向ける。
「『母さん』とは呼ばねぇけど、ランさんは俺のハハオヤだから。幸せになってよ。俺も幸せになるから」
わたしはタカシを育てなかった。
タカシはわたしを母親に戻してくれた。
だからわたしも、せめてタカシの幸せを祈ろう。母親として。
「ええ。幸せになるわ」
「だってさ、院長先生。ランさんの幸せはアンタにかかってるから、よろしくな。この人、放っておくと、誰に迷惑かけるかわかんねぇし」
誰にも迷惑をかけず、一人でひっそり暮らし、静かに老いるというビジョンが見えないことに、わたし自身同意する。
ミツルはタカシを、次いでわたしを見た。
本妻と愛人にはさまれたヒュー・グラントみたいな困り顔に、まずはわたしが。そしてタカシが噴き出す。
「いやぁ……。どうしたものだろう。まるで救世主扱いしてくれるね。
「君たち、ずいぶんぼくを買ってくれているようだけど、その実、甘く見くびられているようだ」
「だって実際、院長先生は、俺たちにとっちゃ救世主だぜ。それにランさんはマジで、『いい女』なんかじゃねぇよ」
タカシが両手のひらを見せて肩をすくめる。ミツルに見せつけるよう、「イーッ」と口角を引っ張って下げる表情に、苛立たされる。
よし。売られた喧嘩は買おう。
「そうね。そもそもミツルがタカシに負い目を感じる必要なんてないのよ。だってミツルがわたしに『生んでほしい』って言わなければ、わたしは生むつもりなんてなかったのだし。ミツルのおかげでタカシは生まれたようなものだわ」
「蘭さん、それはちょっと……」
「マジで、ランさん。あのさぁ……。いや、知ってるけどよ……」
売り言葉に買い言葉に加え、ミツルのフォローをしたつもりだった。だが息子の前で言っていいことではなかった。
ミツルは顔を青くして、タカシをチラチラと見ながら、必死に何か言葉をつむごうとしている。
タカシは肘をテーブルにつき、額に手を当ててため息をつく。そして顔をあげると、憔悴した面持ちのミツルにへらっと笑いかけた。
「あー、いいのいいの。院長先生。気にすんな。この人、こーいう人だからさ」
何度もこうして、タカシはわたしに打ちのめされてきた。何度も。
その都度、今と同じように笑って諦めてきたのだろう。そしていまや、なにもわたしに求めていない。
わたしにできることは、タカシから離れ、タカシを逃してあげること。
そしてタカシの幸せを祈る。タカシの人生の邪魔をせず。
「あんた、やっとわたしから逃れられたわね」
「そうそう。ホストしたのだって最初はランさんから逃げるためだったのに。適当に女に飼われつつ、金貯めて、フラフラしようかなって」
「その発想がわたしの血を受け継いでるって感じるわ」
「揃ってクズだもんな」
「だから結局、わたしに飼われることになったのよ」
「それ、ランさんが言う?」
ミツルは黙って冷め切ったコーヒーを飲み、パレブルトンを齧った。白い皿の上に茶色い欠片がぽろぽろと落ちていく。
もごもごと口を動かすミツルに顔を向けた。ミツルが指先についた粉をこすり合わせて、皿の上に落とす。
「嫉妬してるってタカシが言ったこと。その通りだって言ったわね?」
口いっぱいにクッキーが詰まったミツルは、目を泳がせたあと、小さく頷いた。
「ジョンがわたしに仕事を紹介してくれたのは、もちろん友情と好意だろうけど、結局は『富む者は富まざる者へ施しをすべき』っていう、よくある思い上がった自己満足だと思うわ」
「……確かにそうだろーけど。それ『も』ランさんが言うことじゃねーと思うわ」
呆れ声のタカシに焼き菓子を飲み込んだミツルが続く。
「ぼくもタカシ君に同感だなぁ……」
どうやら、ミツルとタカシは意気投合したらしい。
タカシの人生から出ていく。それからそのあと。わたしがするべき唯一のことは、これまでの自分の人生と向き合うことだ。
わたしが一人で狂い、罪から逃がれようとするのを、ミツルが見守り防いでくれるだろう。
今度こそ、逃れられはしない。
(「THE CRAP オブ・ザ・くず、バイ・ザ・くず、フォー・ザ・くず」本編 了)