結城 充
「まぁさ。いまさらランさんのこと、『母さん』なんて呼べねぇよ」
「そうね」
四人掛けのダイニングテーブルを囲む、男二人に女一人。ひと席は空席。
テーブルの上には、不揃いのマグカップが三つ。
コーヒーミルにサイフォンはあるのに、食器類の揃えがないため、手土産として渡されたアテスウェイのパレブルトンは、ニトリの撥水効果つきの樹脂食器に並べた。
軽くて割れない、汚れの付着しにくいことが特徴の、他に何も特筆することのない白い皿。その上で、ブルターニュ地方出自の厚焼きクッキーは、個包装されたビニール袋から出たくなかった、と拗ねているように見えた。
バターとコーヒーの香りが交じり合い、ぴりぴりとした緊張感の中、のんきに揺蕩っている。
中年の男女が横並び。
その真向かいに二十代の青年が一人。
男二人の名は、漢字が同じで、読みが違う。
充と充。
昔の、そして再び復縁した男と、わたしの息子。
二人の血は繋がっていない。
ミツルが、タカシとわたしの顔を交互に見る。
温度のない母子のやり取りを前に、ミツルはじっと息を潜めている。
玄関の扉を開けて、挨拶を交わし、『à tes souhaits!』の白字がプリントされたホリゾンブルーの紙袋を、タカシから受け取ってからずっと。
「呼びたい時期もあったよ」
「そう」
タカシは「ああ」とおざなりに頷くと、慌てて息を継ぎ、顔を上げた。
「――だからって、恨んでるわけじゃねぇからな。ただもう、その時期が過ぎちまったってだけで」
わたしの罪悪感を気遣ったのだろう。
言葉を吟味して舌の上で転がし、確かめるかのように。吐き出す息と一緒に一言ひとこと。区切りながら、抑えた低く落ち着いたトーン。
いつの間にか男になり、いつの間にか息子ではなくなっていた。
いや。タカシが生まれたその瞬間から。わたしは、タカシを息子として見なしてはいなかった。
『母さん』と呼びたい時期があったと言う。
それを拒絶したのは、わたしだ。
幼少期のタカシが求めていた母性。
君江さんがそれを補っているのか。タカシが君江さんに父性を与えることで、自らインナーチャイルドを慰めているのか。
それは二人の問題だ。
わたしには、何を問う資格もない。
タカシを人形扱いし、『お気に入りの人形』を奪っていく君江さんに、理不尽な憎悪を燃やした挙げ句、暴力を振るったわたしには。なにも。
君江さんの左耳は、未だに聴力が不安定だと聞く。
君江さんは、タカシの恋人で、ミツルの姪っ子。
わたしの醜い妄執が怨霊となったのではないかと、ときどき疑うことがある。
実親の仁科 賢治夫婦からあまり構われなかったらしい君江さんを、ミツルは叔父としてよく気に掛け、可愛がっていたそうだ。
それを好機とばかりに、わたしの『猿の手』が君江さんの髪を引っ掴み、生け贄にしようとズルズル奈落へ引きずり込んでしまったかのように。タカシと君江さんは出会い、恋に落ちた。
咳払いが聞こえて、内に潜りかけていた意識を戻す。
目をやると、タカシがテーブルの上、両手を忙しなく組み換えていた。
何度となく、手を離し、落ち着きなく組み直す。
そわそわと指が遊んだり、トントンとテーブルを叩いたり。
人差し指が反対の手の関節をなぞり、指の付け根にたどり着いたとき、タカシが口を開いた。
「――ランさんのこと。恨んでねぇってのはホント。だけど、君江のことは別だ。アレだけは一生許さねぇ。
「君江が許したとしても、俺は許さねぇし、忘れねぇ」
「わかってる。許さなくていい。ごめんなさい」
頭を下げると、組み合わされたタカシの手の白さが目に入った。
固く結び、血の気が失せたのだろう。
その拳の上にある顔。
顎を引いているせいで、顔全体にカゲが落ちている。凹凸があるために、より一層凶悪な形相に見えた。
下から睨み、射抜くような視線。
眉毛より奥まった複雑な色合いの瞳が、ギラギラしている。
「ランさんから君江にコンタクトをとるのは、やめてくれ。まぁ、しねぇだろうけど」
言葉に詰まる。
既にミツルを介して、謝罪の場を設けてもらい、改めて君江さんに謝罪をと試みていた。丁重に断られたが。
唾を飲み込んだ様で、タカシは悟ったらしく、思い切り眉間に皺を寄せた。
「しちまってんのかよ……。――クソ。もう、すんなよ」
無言で頷くわたしと、気まずそうに苦笑いするミツル。
タカシはガックリと肩を落としてうつむくと、大きな手で額をなで上げ、長々とため息を漏らした。
「あとはさ。俺のこと、息子として扱って」
そう言うと、タカシは顔を上げてミツルを見た。
それからわたしに向き直る。
眉尻を下げた、腑抜けた顔で「院長先生がそばにいてくれんなら、もう『ミツル』はやらねぇでいいだろ?」と。投げやりで、呆れたような疲れたような声。
けれどどこか、温かい、情の感じる男の声だった。
息子が母親に甘える声ではなく。
男が女のワガママを、呆れながら許すような。
わたしがずっと、タカシに押しつけていた役割。
ホストクラブでバイトをし始めたタカシの客になり、金払いの最もよい、ホストとしてのタカシを支えるエースとなり。
仕舞いには、あれほどガムシャラに打ち込んでいた仕事も辞めた。
仕事にのめり込んでいたのは、いつの間にか現実逃避に過ぎなくなっていたし、ジョンへの友情と厚恩への感謝も、次第に薄れていった。
だから、その逃避先が、仕事からタカシへとすり替わることに、何の抵抗も違和感も覚えず。
息子ではなく、男。
タカシではなく、ホストの『ミツル』。
ホストとしてのタカシの源氏名が『ミツル』になったのは、わたしの希望ではなかったが、タカシの名を書面上、仮名を振らずに読めば、大抵の人間は充と読むだろう。
結局、わたしがタカシの源氏名を指定したのと同じことだ。
タカシをミツルに見立てて、時折はジョンにも見立て。都合よく投影する男の像を変えて。
人形遊びをしていた。これまでずっと。
タカシがホストになる前から。ホストになったあとも。
「もちろん。あんたが許してくれるなら。わたしに異存はないわ。これまで本当にごめんなさい」
「だから、君江にしたこと以外は、恨んでもねぇし、許す許さねぇもねーよ。……まぁいいや。そんじゃ、そーいうことで」
目元と額を覆った両手で、ずるりとそのまま、前髪を押しあげ、天を仰ぐタカシ。
しっかりとした男らしくシャープな顎を突き上げると、まぶたを閉じて鼻から息を吐き出した。
ゆっくりと腕を下ろし、ジョンによく似た顔が正面に戻ってくる。
目を細めて口角をあげる、その表情までよく似ていた。
ホストを辞めたタカシは、就職活動のために髪を黒く染め、短く切り落とした。
ダークブロンドで肩に髪がつくかつかないかくらいの、以前の、ホストとしてのタカシ。瞳の色が違うだけで、今よりいっそうジョンに似ていた。
そこにわたしの血を感じない程度には、生き写しのようと言えた。
『ちゃんと向き合うんだ、ラン』
いつの日かのジョンの言葉。
わたしは向き合わなかった。
最悪なことは、ただそれだけ。
奪われた尊厳でも、望まぬ妊娠でもなんでもない。
わたしがわたしを台無しにした。
そしてタカシのこれまでを台無しにした。
リチャード・キンブルを演じたのは誰だったのか。
妻殺しの冤罪で死刑を宣告され、片腕の男を追うために逃げたのではなく。罪を赦されたのに、息子殺しが脳裏に浮かんで逃げたのは。
見ないふりして、「誰の思う通りにもなってやるものか!」と叫んでいたこと。最悪なこと。
『自分で自分の面倒も見られないの?』
それはわたしだった。