仁科 充とジョン・マシュー・バーガー(2)
「そういうランも、ホームを見つけた?」
ソファーに背をもたれかけていたジョンが、上半身を起こし頬杖をつく。小指で下くちびるをつついて舐め、青い目がきらりと光る。
面白がっている声ではない。まなざしは優しい。
「なぜ?」
「以前とは違う気配がする。なにより大事で落ち着く、かけがえのない場所を見つけた女性の香り。俺がどれほど心を尽くして口説いても、ぜったいに折れないし振り向かないわって、挑発的で。とてもそそるよ」
「あなたらしくて笑っちゃうけど、残念ながらそんな人はいない」
「ほんとに? こういうの、外さないんだけどな」
ジョンは首をかしげる。
ミツルの存在をジョンに隠す必要はない。だけど打ち明ける気にはならなかった。
ジョンに恋心を抱いているとか、黄色い帽子のレディに嫉妬心が沸いたとか、そんなことはない。
いや、それはウソだ。くだらない虚栄心と自尊心。恋心がないのは本当。だけど、嫉妬心。それはある。
ジョンはいつだって楽しい男だ。才能もある。頭もいい。そしてわたしの『取扱説明書』を深く探ろうとしない。それどころか、気にかける素振りすらない。それでいて、セックスを楽しめる。
ジョンとのセックスは愉快で情熱的で、ただひたすらに楽しい。
喘ぎ声より笑い声。いやらしい言葉はたくさん使うけど、ぜんぶおふざけ。おしゃべりの延長で、確実に決まるダンクシュートが約束された1on1。
寄り道はすれども、ジョンがホームと定めた、黄色い帽子のレディ。その彼女とのセックスはどんな? きっと楽しくて素敵で、最高に違いない。
黙っていると、ジョンはからかうようにウィンクした。立ち上がって、こちらにやってくる。ベッドがジョンの重みで沈む。
「妬けるな。俺以外の男と恋仲になるなんてさ」
色っぽい吐息交じりのかすれ声。こんな声を持っているのに、ギターの腕だって最高なのに、それなのに歌がうまくないなんて。
共にカラオケに行かなければ、信じられなかっただろう。
「恋人じゃない。FWBよ」
「へえ。ランが?」
わざとらしく口笛を吹き、眉を上げる。額にできる水平のシワ。
先日会ったミツルの兄、あのブラコン男にあった眉間のシワとは違う類のシワだ。ジョンとブラコン男のシワがもし重なれば、十字に交差する。
だけど、売られた喧嘩は買う。それは同じ。
「どういう意味?」
「だってランとのセックスは面倒がなくて楽しいけど、中毒性はないから」
「しつれいね」
「褒めてるんだよ、ラン。君とのおしゃべりが俺は好きだ。セックスはオマケ。女のコになった気分さ」
そう言うと、ジョンは前をシーツで隠し、両脇をギュッと寄せた。広い肩を小さく縮めて胸を寄せると「どう? アタシ、そそる?」と流し目をくれる。
「ええ。とても。イケてるお嬢さん、わたしと朝食をどう?」
「よろこんで」
「オマケのセックスのスタートね」
「オマケが本命になることって、よくあるよね」
「もう黙って」
「ホントに? 無言の俺でいいの? それって楽しい?」
おしゃべりはやまないまま、くちづける。わたしの手がジョンのソレに触れる。
「あなたが口を閉じるのは、きっと棺桶に入るときだけね」
「ヴァンパイアになるから、口は閉じないよ」
「レスタト? ルイ? どちらも好みじゃないわ」
「トム・クルーズもブラッド・ピットも、俺の美貌の前ではかすむから、しかたない。リバー・フェニックスがもし生きていたら、いい勝負だったかも」
ジョンの手がわたしのアソコに触れた。
体が硬直する。蝋人形になったみたい。マダム・タッソーの館へようこそ。今日からあなたも仲間入り。
わたしの目をジョンが覗き込む。ガラス玉のように青い目。わたしの怯えた顔が映っている。それ以上に期待が。
どうか、塗り替えてほしいという、他人任せの。
「怖がらないで。大丈夫。ほら、ヴァンパイアが君のノドを噛み千切るよ――」
ヴァンパイアの牙には催淫毒。首筋から注がれれば、淫らに花開く。
「この俺が女に奉仕しているなんて、信じられる? 俺は信じられない! ラン、君すごくラッキーだよ」
ジョンが取扱説明書を破り捨てたこと。
お互いにわかっていた。これはルール違反。だけど、新しいルールが必要。わたしのために。
だからジョンは何も言わず、触れてくれた。まずは指で。そして舌で。へたくそな歌を歌うくちびるで。
「今日はラバーをつけなくていいよね? 俺は病気なんて持ってない。ランはピルを飲んでるだろ?」
ミツルと付き合い始めてから、ピルは飲んでいなかった。
「俺の出会った日本人は大抵、穏やかで勤勉で誠実で保守的だった。ラン。きみのような子以外は。
「日本は居心地がいいかい? 一緒においで、ラン。ニューヨークには、君みたいな子はたくさんいる。男も女も。珍しくなんてない。
「性的に搾取されたことがあって、アダルトチルドレンで、セックス依存症で、享楽的でナイーブで躁鬱で、ヒステリックで、刹那的で、だけど皆、人生を楽しんでいる。コントロールのきかない感情を抱えたまま、激情を仕事やプライベートにぶつけている。
「ドラッグやアルコールに逃げるやつも多いけど、ランには映画があるだろ?
「『君』には夢がある。俺はいつか君に、キング牧師になってもいいと言った。覚えてる? 『俺』にも夢がある! 愉快なやつ等と仕事がしたい。
「きっと楽しいよ、ラン。一緒に仕事をしよう。俺は君を気に入ってる」
ひとしきり乱れたあと、ジョンはこれまで一度もしたことのなかった真似をした。
わたしの頭を撫でた。
それもセックスが終わってからずっと。シャワーも浴びずに、わたしの止まらない涙をぬぐい、額にキスを落とし、頭を撫で続ける。わたしの目から溢れる水量がますます増える。
「それともパリに行ってみる? ランは『カサブランカ』が好きだったよね。ランと恋人にはなれないけど、そうだったふりはできる」
「『カサブランカ』はミツルと……」
しゃくりあげながら口にして、後悔する。
蓋をしめて這い出てこないように抑えていた罪悪感が、地獄の底で待ち構えていた魔王とその悪魔軍団みたいに、おぞましい臭いをまき散らす激流となって心臓を締め付ける。
観光ボランティアで出会ったジョンとの会話。
共通の話題がなにかないか。映画の話をした。お互いの好きな映画を言い合って、とてつもなく古いけど、『カサブランカ』が好きだとわたしが言い、ジョンが「君、日本人だよね?」と口の端を歪めた。
「五十年も経てば、日本人だってプロパガンダ映画をただの娯楽としか捉えなくなるのよ」
「日本人だって、じゃなくて、日本人だから、じゃない?」
そこからジョンとの『おしゃべりとオマケのセックス』がスタートした。
ジョンとの始まりは『カサブランカ』だった。だけど、それはミツルが塗り替えた。ダイビングスクールが終わって、交際がスタートして、恋人としての初めてのデート。
ミツルとの初デートもまた、『カサブランカ』のリバイバル上映だった。
「なんだ。やっぱり『ミツル』は恋人なんじゃないか。そうだと思ったよ。ランが俺以外にbenefitsをつくれるはずがないからね」
「ずいぶんな自信」
「俺の自信じゃない。ランの魅力について。その自信だよ。ランとbenefitsだけでい続けるのは、大抵の男にとって、benefitsじゃなくなってしまうだろ」
この男は、いつか刺される気がする。
いや、アメリカならば撃たれるのだろうか。そのあたりの事情はよくわからない。
黄色い帽子のレディの気性が穏やかであればいい。ジョンの選んだ女性ならば、きっと激しいのだろうけど。
ベッドサイドに置かれたボックスティッシュから一枚引き抜き、思い切り鼻をかんだ。ジョンがもう一枚抜き取り、手渡してくれる。今度はさっきより小さく鼻をかんで、さらにもう一枚と手渡されたティッシュで涙を拭いた。ジョンが長い腕でゴミ箱を掴み、わたしの鼻先にぶら下げる。
使用済みティッシュの数々を放ると、ジョンはゴミ箱を置き、わたしの頭を撫でた。
「ちゃんと向き合うんだ、ラン。俺とできたのは、ランにとって俺が消耗品だからだ。隠されていた愛に気付いたわけじゃない!
「君はジュリア・ロバーツじゃないし、俺もダーモット・マローニーじゃない。いつかの余り者同士、結婚の約束もしたことはないし、俺の黄色い帽子のレディはキャメロン・ディアスじゃない。わかってるだろ?
「彼を大事にしろよ」
フェスが終わり、わたしの企画したムック本が仕上がり、取引先の出版社から刊行されるまでの短い時間。
ジョンとバンドは様々な日本の雑誌の取材を受けた。その中にはなぜか映画雑誌もあり、「ラン、ついておいで」と誘われ同行した。
「この子はおもしろいよ。映画の趣味が合うし、おしゃべりは最高。何よりエネルギーに満ちてる。
「俺は音楽をやってるけど、この子は映画をやるべき。作るのでも、売り込むのでも、なんでも。きっとおもしろい映画ができるよ」
ついでとばかりに、伝手のできた大手映画配給会社に売り込んでくれた。
制作部門にいきなり就くことはできないと前置きを聞かされた上で、すんなり中途採用が決まった。そこで初めて、ジョンの身内に映画関係の人間が多くいることを知った。
脚本家、演出家、キャスティングディレクター、アートディレクター、デザイナー、作曲家、カメラマン。
だがジョンはハリウッドではなく、マンハッタンでもなく、バッファローで育った。
つまり、そういうこと。
ジョンの帰国後、妊娠が判明した。
ミツルと避妊せずにセックスしたことは、なかった。
それでもそれは、最悪のことなんかではなかった。
ジュディ・ガーランドがグレース・ケリーに敗れ、アカデミー主演女優賞を逃したこととは違っていた。