仁科 充とジョン・マシュー・バーガー(1)
人はどうして忘れてしまうのだろう。
それともこの現象は、わたしにだけ起こることなのだろうか。愚かなわたしにだけ。
幸せというものはそのさなかには、より上を望みがちで、今がかけがえのない時だということに気がつかない。
いつもどこかに出かけたがって、ホームはあるのに、滅多なことでは帰らない。
若くて、体力があって、やる気に満ちて、希望があり、ときにはチープな絶望もあるけれど、野心があって、肌はシャワーの水を弾いたし、おっぱいは前を向いていて、おしりも突き出ていた。何時間でもヤっていられる気がした。
なんにでもなれる無敵感は、空を飛ぶことではなく、いつだってミスは挽回できるはずで、チャンスは血眼になって探せばどこかに必ず隠れているはずで、探し人とは必ず出会えて、代わりはいくらでもいる。
望めば叶う。動かずにいる言い訳など、どこにもない。
最悪のことが起こったと思ったけど、悪いことですらなかった。
あれはイエローブリックロードを歩む途中の、ちょっとしたつまづきでしかなく、こぼれ落ちたルビーのリボンを拾って靴にくっつけ直したら、また歩き出せることだった。
かかとを三回打ち鳴らせば帰れる場所。ホームは、まだあったのだ。
「蘭さんは、ぼくを信用していないの?」
これで何度目だろう。うんざりする。
悲しい、という感情をめいっぱい顔にのせてミツルが縋ってくる。
「そうじゃない。ただ、わたしはアソコを触られたくないし、舐められたくないの。
「ミツルのを口で咥えてあげないのは悪いと思うけど――」
「ぼくのことはいいって、何度も言っているよね? だいたい蘭さんは、ぼくに触れてくれるじゃないか。でもぼくは、蘭さんに触れられない。
「ぼくは蘭さんにひどいことをしそうな人間? 蘭さんにとって、ぼくはどんな存在? 話を逸らさないでほしい」
うんざりだ。
何度も言ってるのは、わたしだって同じ。
ひどいことをしそうか?
いまこの問答が、ひどいことだ。
「そんなに女のアソコを舐め回したいんだったら、紹介するわよ。定期的にクリニックで検査していて性感染の心配がなくて、テクニックがあって、お金もかからなくて、身なりのちゃんとしていて、後腐れのない子。番号いる?」
サイドテーブルの携帯を手繰り寄せ、二つ折りのそれをぱかりと開く。薄暗い室内で液晶が青白く光ったところで、ミツルの手が伸びてきて、ぱたりと静かに閉じた。
「蘭さん。それはぼくだって傷つく」
「あらそう。じゃあ、もうやめる?」
くしゃりとミツルの顔が歪み、泣くかな、と思った。ミツルはまぶたを閉じ、深く息を吸った。
小さくくちびるを震わせながら、細く長く息を吐きだしていく。その様子を冷めた目で眺める。
窓にはレースカーテンだけがかかり、青白い月の光がミツルの背後から差し込んでいる。
「――なにか理由があるんだろうなって、思う。きっと簡単には口にしたくないことなんだろう。それを無理やりこじ開けて聞き出したいわけじゃないんだ」
「じゃあなに? わたしは『嫌だ』と言ってるのに、ミツルの自己満足のためだけに触らせて舐めさせろって? 『ぼくはこんなにうまいよ。どう? 気持ちいいだろ』って。そういうこと?」
どうして、そこでミツルが傷つく顔をするのか。理解できない。
「ラン! ひさしぶりだね」
白い歯をキラリと光らせて、ジョンは片手を挙げた。
相変わらず、コカコーラや洗剤のテレビコマーシャルや広告みたいな笑顔をする男だ。
広告と言ったって、日本のじゃない。もちろんアメリカの、あの大仰で胡散臭いやつ。
ロックフェスのムック本作成のための取材。
ジョンはアメリカに帰国してまもなく新たなバンドを結成し、一年後には大手レコード会社と契約し、デビュー曲はたちまち大ヒットとなった。そして今、ジョンはフェスに招かれたバンドメンバーとしてここにいる。
わたしは取材記者として。また取材スタッフ監督として、ここにいる。
「ひさしぶり。ずいぶん大物になって戻ってきたわね」
「そりゃ、俺が成功しないはずないだろ?」
ウィンクする側の口角も一緒に挙がり、わたしの後方でカメラを構えるカメラマンが小さく口笛を吹く。それに気がついたジョンがカメラマンに「君もそう思うでしょ?」と笑いかける。
カメラマンはぎこちなく「アイ・アグリー」と言った。
『agree』ではなく『ugly』に近い発音と平坦なアクセントに、ジョン以外のバンドメンバーが顔を顰める。
ジョンが片眉をあげ、肩をすくめて『神経質になるなよ』というように、メンバーに向かって両手のひらを広げて差し出す。
「彼は『I agree with you.』と言ったつもりなんだ。日本語にはない発音らしい。彼はたしかに俺ほど幸運を願われた美青年じゃないけど、だからといってそれほど、絶望していないだろうよ」
『good luck guy』と『good-looking guy』をかけて、ジョンが言う。メンバーが笑い、聞き取れていなかっただろうカメラマンも追従して笑顔を作る。
このままでは主導権を握れない。
「ええ。あなた達は実力があり、そしてとても幸運なバンドだわ。デビュー早々に、世界各国のロックフェスに招かれ、ここ日本でも。
「今回あなた方の招かれたロックフェスは、とても歴史があるの。あなた方の尊敬する名だたるバンドも、日本でまったくの無名のころから参加してきた。知ってるでしょ?」
つまり、あなた方はまだ日本での知名度は低い、と言ってやると、メンバーの顔つきが変わった。
ジョンに横目をやれば目が合ってニヤリとし、ぐるりと目玉を回した。
「ランのおかげで、うちの気まぐれパックが、日本でのプロモーションに俄然やる気だよ。
「ほかメンバーの着火剤も。普段は大抵湿気ってるけど、今回のフェスはバーベキューができそうだ。ありがとう」
ベッドの上で転がっていたところで声をかけられ、顔をあげる。
濡れ髪にバスローブ姿のジョンが、ドアから顔だけひょっこり出していた。
「気まぐれパック? メリッサのこと? 彼女と視線が合うたび、石になるかと思ったわ。メデューサの間違いでは?」
「はは! うちのボーカルは負けず嫌いなもんでね。おかげで大きくなったようなものさ」
「というより。ジョン、あなたを取られるってキャットファイト仕掛ける女の目だったけど」
あの後、取材でバンドの紅一点でメインボーカルのメリッサに水を向ける度、射殺さんばかりに睨みつけられた。
助かることに、受け答えはしてくれた。けれど、すべてが挑発的だった。
『あなた、ジョンのなに? 私、ジョンの飼い主よ!』
「彼女とはそういう関係じゃないよ」
『殺したいほどアイラブユー』で、一途な妻から、あの手のこの手で殺害されそうになる夫ジョーイ。
その二の舞を恐れるみたいに、ジョンは両手のひらを挙げた。降参のポーズ。
「あなた達が『トムとニコール』じゃないのはわかってる。あんなに美しくて才能があるのに、彼女、わたしにまで縄張り争いを仕掛けてくるんだもの」
「ランは綺麗で魅力的だよ。会話の切り返しもクールだった。メリッサが嫉妬するのは当然だろ?」
キュリアス・ジョンは相変わらずだ。
これでは大量の睡眠薬入りミートボールスパゲッティを、いつ食べさせられるか知れない。
思わず鼻白むと、ジョンは肩をすくめる。
「本心だよ」
「ありがとう。あなたもカサノヴァみたいで素敵よ」
「フェリーニ版かな?」
「ドナルド・サザーランドのカサノヴァはよかったわね」
「それなら、俺もありがとうって言わなくちゃ」
追い詰められたネズミみたいに、シャワールーム前で突っ立っていたジョンは、大股でこちらに近づいてくる。そしてソファーに深く腰掛けた。
「それはともかく。バンド内でのイザコザはやめなさいよ」
「してない。本当にしてないよ」
青い目を哀れそうに瞬かせ、眉尻を下げると、上目遣いで「信じて」と訴えてくる。
「キュリアス・ジョンが?」
「キュリアス・ジョンは黄色い帽子のレディを見つけたんだよ」
「それなら、なぜあなたは今ここにいるの?」
「だってランは特別な女性だから! 会いたかったよ!」
「その言葉、今年に入ってから口にした女性は、何人いる?」
口を開きかけたジョンを遮るように素早く「もちろん、黄色い帽子のレディはナシで」と付け加えた。
ジョンは途中まで開けていた口を結び、片方の口角だけぎゅっと引っ張って寄せる。
青い目玉を回して天井に視線を投げ、白目の部分が広がった。
「ランで三人目かな」
「なるほど。確かにホームを見つけたのね」
大きく手を広げ、「Welcome home!」とジョンは笑った。
「本心よ」
今年に入ってから三人目だなんて、とても少ない。