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魔女と歩く日々  作者: 太夫 有
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第4章

 その翌日の夜、ガーネットはほぼ垂直に切り立った崖にろくな装備もなく厳しい顔でへばりついていた。

「まさか、自分の国の城に忍び込むことになるなんて思いもしなかった」

 星の明かりを分厚い雲が覆い隠す深夜。決め手だったのはその夜が新月だったことだが、それ以上にことを急ぐことにしたのは、いや、急がなければならなかったのは、思った以上に憲兵や警官隊の動きが早かったことだ。

(もうちょっと動き出すのが遅かったら、確実にあたしらは身動きできなかった……やっぱ今回のお上の動きの速さは異常だ)

 アリスベル奪還の意思を固め、さて準備に取り掛かるかと策を巡らせかけたとほぼ同時のタイミングで、娼館街に警官隊が大挙して押し寄せ、代表であるマズナグとジンゴに対する聞き込みが開始された。聞き込み、などと体のいい言葉を選んではいたが、あれは実質的に身柄の拘束だっただろう。建物のすべての出入り口に人員を配置して封鎖し、執務室には武装した数名がほとんど突入同然に乗り込んできた。

 直前にその動きに気づいたマズナグが、緊急用の地下道で脱出させてくれなければそこで自分たちも身柄を押さえられて、全てが水泡に帰していただろう。

 おかげでろくな準備もできぬまま、ほぼなし崩しに行動を開始したのだが、当然装備らしい装備も整えられず、根回しらしいことも何もできないとなれば残された手段は限られていた。

「幸いここは天然の地形を利用した城塞だからな。限られた場所にだけ人員を配置すればよいように考え抜かれている半面、有事でもなければそこ以外の警備が手薄になるというわけだ」

 十九号の丁寧な説明の通り城の立地は実によく考えられており、城へのルートはかなり限られているおかげでそこの警備は堅牢無比。正面突破するとなればそれこそ一個大隊を運用しての攻城戦規模の戦闘は免れないだろう。

 とはいえ、

「そりゃこんなとこ人間が登れるなんて誰も考えないからな。ちなみにいうと、あたしはまだここを登り切れると思ってない」

 斜面とさえ呼べない岸壁は、そのはるか頭上に城壁の明かりこそ見えるが、まともな神経の人間であればまずの登ろうとは思わないだろう。いや、一人だったら間違いなく不可能だ。

 そう思いながら、先を行く十九号が撃ち込んだハーケンに手をかけ、体を引き上げていく。

 腰には万が一の時に備えてロープが括り付けられている。反対側はもちろん十九号の腰につながっている一蓮托生だ。

「仕方がないだろう。むしろ、たったの一日でここを登る道具が調達できただけでも奇跡だ」

 二人がかりで警官隊や憲兵の目を盗んで登山用品をかき集められたのは、ひとえに亜人種ネットワークの、さらに言うならマズナグが事前に根回しをしてくれていた関係者各位のおかげに他ならない。

「そりゃわかってんだけどさ、それでもここを行くしかないって……条件厳しすぎってこと」

「無駄口をたたかずに死ぬ気で登れ。いくら俺がトカゲでも壁から離れてしまえばあとは落ちるだけだからな」

 そう言いながら、人間では到底できない動きでするすると岩壁を登ってはガーネットの手足の長さに合わせた位置に適切にハーケンを打ち込んでゆく。両手の平だけではなく、ブーツを脱いだ両足の裏もがまるで岩壁に吸い付いているかのように張り付いて登っていく様は、なるほどトカゲそのものだ。本人曰く「そういう風にできている」らしく、確かに家の壁を走り回るトカゲを見たこともあるが、それでもほぼ人のシルエットである十九号がするすると壁を登る姿は現実感が欠落している。

「いっそあんたがおぶってってくれた方が早いかったんじゃない?」

 などと苦し紛れの軽口をたたいてみると、

「何かあった時には真っ先に背中のお前を放り出しての戦闘になるが、それでもいいならな」

 と、どこまでも淡々とした言葉が降ってきた。

 そこでふいに、それまでに全行程の三分の二ほどを登ってきた足元を覗き込んで、後悔した。

「ひっ」

その麓は闇に飲まれてもはや見えなくなっているとはいえ、その高さに腹の底がぎゅっと縮こまり、足がすくみあがる。

「だよな、はは、は」

 ひきつった笑みもどこか虚しい。

 そこからの残り三分の一の行程は終始無言で、ガーネットはひたすらにハーケンにかける体重のバランスと、万一の時のためのロープを結ぶ作業に終始したため、思いのほか早く登りきることができた。

 最後の最後、城壁の基礎部分に体を引き上げるときにはさすがのガーネットも握力が失われたかのように力が入らなくなっていた。

「これ、もうちょっと高かったらマジでやばかったかも」

 頭上の見張り櫓から身を隠せるほどには闇が深く、樹木もそれなりに生い茂っていたのでそこで一休みできたことは幸いだったが、早々のんびりしてもいられないのが現実だ。背中に感じる木の幹と、尻の下の草の感触が何とも言えず離れがたい。

「こっから先はとにかくスピード勝負になる。もっかい確認するけど、地下独房までのルートはあたしが先導する。あんたはバックアップで、あたしがあいつを牢から出すまでの時間稼ぎ、最悪警備の連中が来たら戦闘をお願い」

 地下牢のどこかに幽閉されている、というところまではマズナグの遠隔視で確認済みだが、城に張られているらしい結界の影響で、どうしてもそれ以上の詳細な場所は見ることができないらしかった。

「結界なんてもんが出てくるってことはあたしらの侵入はすぐばれると思った方がよさそうな気もするけど」

『さすがに向こうはその存在を秘匿してなんぼの連中だ、表立ってはことは起こさないだろうから、そのわずかばかりのタイムラグだけがこちらの勝機さ』

とのマズナグの論を信じるしかない。

 しかし、仮に天使の結界による妨害がなかったとしてもこれから乗り込むのは大陸最大の国家の中枢だ。まともに考えて成功する可能性が限りなくゼロに等しいのは、言わずもがなだ。

(あ~ぁ、なんでこんなイチバチな人生しか歩めないんだろな、あたし……)

 深いため息とともに、生まれてこの方何度目とも知れない恨み節を胸中で零しながら、立ち上がって歩を進める。

「でも、それしか選択しないんだよな、畜生」

 腹の底から沸き上がった怨嗟を口にし、その負の力で前に進む。これもいつものことだ。

「覚悟は決まったか?」

 城壁沿いに入り口を目指して歩く中の十九号の問いに答える間もなく、木製の古びた扉が視界に入る。幸いにも外側には衛士は配置されていないらしい。

 真正面に扉を見据え、一度だけ城壁の上と見張り櫓に兵士の姿がないことを確認して、ガーネットは腰の剣に手をかける。

「んなもん、なかったら今頃とんずら決める列車の中だよ」

 狙うは扉の蝶番。ここを破壊してしまえばこの手の古い扉を破壊するのはさほど難しい話ではない。

 ふっ、と深く速い息とともに踏み込み剣をふるうと、錆の浮き始めた蝶番が金属音とともに両断され、

 ずっ

「ん?」

 地響きが足元から脳天を揺さぶった。一瞬、剣をふるった反動かとも思ったが、すぐ隣で十九号が珍しく動揺して周囲を警戒しているので、どうやら本当に足元の地面が揺れたらしいと分かった。

 そして次の瞬間。

 ずしん! どお……ん!

 立て続けに次の、先ほどのものとは比べ物にならない大きな衝撃とそれに続く振動。それも、城全体が揺れるほどの巨大なものだ。それが証拠に、先ほど蝶番を両断された扉が揺れのせいでで外れて半ば以上倒れてしまって、かろうじて内側からかけられていた錠に引っかかっているだけとなった。

「地震?」

 このタイミングで? と思いはしたが、半開きの扉越しに伝わってきた城内のざわめきにその想像は即座に否定され、次の瞬間には倒れかけの扉を踏み越えて飛び込んでいた。

 飛び込んだ先は城を取り囲む中庭だったが、運よく見回りの衛兵の姿もなさそうだ。

「やっぱあいつか」

 屋根の稜線越しに見える、闇夜の黒を染め上げるほどの炎のオレンジと、そこから立ち上る黒煙に、ガーネットは確信する。

 間違いない、こんなタイミングで都合よく何かがあるとしたらそれは偶然ではありえない。何せ、侵入者はこの自分なのだ。悪いほうに物事が転ぶことはあっても、幸運などあろうおはずもない。となれば、

「アリスベルが、あたしらのために城の中でパニックを作ったんだ!」

 それがどんなものかはわからないが、場内は蜂の巣を突いた大騒動になっているのが、城のはずれのこの場所にもはっきりと伝わってきた。

 そこさらに、

 どお……ん……

 再び腹の底に響くほどのな大きな振動が城全体を揺さぶり、大気が震える。すでに阿鼻叫喚の地獄絵図と化しているであろう城内からは、怒号とも悲鳴ともつかない狂乱の声が絶え間なく響いている。火の手も、先ほどよりもはっきりと空を染めるオレンジ色に勢いが増しているらしいことがうかがい知れた。

「いくよ!」

「あ、ああ」

 確信を持ったガーネットとは違い、何が起きているのか見当もつかないといった様子の十九号は最初の一瞬こそためらいを見せたが、動き出したその足に迷いはなかった。

 城内への進入も同様に扉を力づくで破壊しての強引なやり口だったが、内部は誰もかれもが突如として巻き起こった爆発と火災に駆けずり回っており、もはや警備どころではなくなっていたらしい。

おかげで二人はほとんど何の警戒もなく想定していたルートを駆け抜けることができた。兵士との鉢合わせだけを避けるだけだったおかげか、当初の想定よりもはるかに短時間で地下独房へと続く階段にたどり着いたのだが、

「さすがにここから先は無警戒ってわけにはいかないよね」

 数えるほどしか明かりのない階段は、その先を見通すことができないので恐る恐る歩を進めざるを得ない。この先はおそらく衛兵の詰め所があるはずだが、そこで待ち伏せされているとなると圧倒的にこちらが不利だ。

 とはいえ、場内の騒ぎもいつ収まるとも知れないのでもたもたしていればそれだけこちらが不利になるだけだ。

「予定通りあたしが前、あんたはバックアップ。向こうが何人いるかはわかんないけど」

 囁き小声で伝えると、十九号は無言で右手の親指を立てた。了解のハンドサインだ。

 ここからはほんの些細な物音も命取りになる。極限まで足音や服の衣擦れ、装備のガチャつく音を殺し、しかし最速の動きで階段を下ってゆく。

 壁のろうそくが映し出す自身の影が階段の向こうにギリギリ届かないところで一度だけ立ち止まり、視線だけで十九号とタイミングを確認。小さく、深吸った息を止めて、床を蹴った。

 飛び込んだ先は案の定兵士の詰め所で、石造りの地下室天井にはオイルランプの頼りない明かりが一つきり。簡素な木製の机と椅子一組と、その机の上には衛士の暇つぶし用と思しきボードゲームがやりかけのまま置かれている。そして、

「やあ、やはり来てくれたね」

 部屋の隅に置かれた木箱の上に座り、盤上の駒を動かすのは自分自身の姿。

 力の限り脱力し、灰の中の空気をすべて吐き出す大きな大きなため息をついた。

「まあ、このぐらいはあんたなら造作もないわな」

 自分の姿に向かって話しかけるというのは何とも気持ち悪いが、今はそれ以上の脱力感、もっと言うなら徒労感が全身をくまなく塗りつぶした。

「そうでもないさ、君たちの手引きあればこその脱走だよ。私一人ではさすがにここを出ることまではできないさ。それに」

 そういいながらガーネットの姿をしたアリスベルは、盤上のゲームに終止符を打つ最後の一手を打つ。まるで、このタイミングでガーネットたちが現れることから逆算していたかのような完璧なタイミングだ。

「それでは何も解決はしないからね。それがわかっているからこそ、君はわざわざ獄中の私を迎えに来たのではないかね?」

「すべてお見通しかよ。やっぱあんた、魔女じゃなくて悪魔じゃねえの? ってそれはそうとしてさ、見た目元に戻してくんない? やっぱ自分相手に話しかけるってのはいい気分じゃないわ」

「そうだね、もうこの姿でいる必要もないからね」

 そう言って木箱から立ち上がったその姿は、すでにアリスベルに戻っていた。鏡がないので顔は確認できないが、見下ろした自身の姿が戻っていることを確認したガーネットは、

「んじゃ、十九号後はよろしく」

 とだけ告げて、いそいそと詰所奥の扉から独房の並ぶ廊下へと歩を進めていく。

「何をしているんだい? 奥の房にはほかには誰もいないはずだよ。それに、私の起こした爆発騒動の混乱もそう長くは続くまい」

 隣をすり抜けようとするガーネットの袖にアリスベルの細い指先が触れるが、ガーネットはそれをあえて振り払った。

「ガーネット、君?」

 アリスベルの声に動揺の色が浮かぶのなんて初めて聞いた。そう思ったガーネットはなぜか妙に誇らしげな気持ちになり、揚々と告げる。

「だからだよ。ほら、さっさとあんたらは脱出すんの。理由はあんたが一番よくわかってるでしょ」

「それは……まさか」

「勘違いしないでよね。なにも、あんたの身代わりになってギロチン食らってことを丸く収めよう、なんて聖女様じゃないからね、あたしは」

 その言葉だけで十分だったのだろう。アリスベルは虚を突かれたように目を見開いたかと思うと、途端に口の端を釣り上げてにやりとほくそえんだ。その笑みはどこまでも魔女的で、腹立たしいほどに魅力的だ。

「やはり君は面白い。私の期待通り、いや、期待を遥かに超えてくれる。最高の存在だよ」

「それ、絶対に褒められてないよね? って、おしゃべりはここまで、あとは道々十九号からでも聞いてくれればいいし、まあ、あんたのことだから何もかも察しがつてるかもだけど」

 そういって牢の中に転がされ、気を失っていた二人の兵士を引きずって詰所に放り込むと、その房の中に入っていくガーネット。

「うわ、こんなとこにあと二日、いや、一日半か。それでもキッツいなあ……」

 石造りの独房には窓もなく、じめじめとした陰気な空気はそこにいるだけでどんな凶悪な罪人も気が病んでしまうだろう。申し訳程度の木製のベッドにシーツが一枚きりという環境の悪さもそこに一役買っている。

「ってわけだから、とっとと行って。あと出てくときに外から鍵かけんのも忘れないでよね」

 ふて寝をするようにベッドにどっかりと横になると、二人を追い払うように手の甲をふる。

 その姿に、あきれ顔を浮かべて詰所を後にしようとする十九号と、その背中を追って歩き出すアリスベルの方を見もせずに、付け加える。

「んで、今度はあんたがあたしをちゃんと助けに来なさいよね」

 その言葉がよほどうれしかったのか、ガーネットには見えない角度でうれしそうに微笑みながら、精いっぱいの皮肉を込めて返した。

「私は君を裏切るかもしれないよ?」

 その声がいつになく弾んでいることに、果たしてガーネットが気づいたかどうかは定かではないが、答える声には迷いはなかった。

「そんときゃそんときだ。恨むのはあんたじゃなくて、人を見る目のなかったあたし自身だよ。それに」

「それに?」

「残念だけどあたしが信じてるのはあんたじゃない。あたしの悪運だ」

それを聞いたアリスベルは、もはや言葉もなく軽やかな足取りでその場を後にした。


 そして今、首と両手首をギロチン台に固定されたままで改めて広場のやじ馬どもを眺めるガーネット。

 執行官のサディスティックな表情も腹立たしいが、何より人の頭が落ちるところを見にわざわざ集まる群衆どもの悪趣味な視線に、腹の底が冷えるほどの嫌悪感が満ちていく。

 執行時刻の正午ちょうどまであといくらもない。中天にかかりつつある日差しの温度とは違う熱量がじわじわと鼓動を速める。

(これ、よくよく考えるととんでもない博打だよな)

 いまさら、と思いつつも自分の命がいかにペラペラの薄氷の上に晒されててるのかをかみしめずにはいられない。

 もし、執行官の気まぐれでいきなりギロチンの刃が落とされたら。もし、時計がくるっていて執行が早められたら、もし、アリスベルたちが執行日時を間違えていれば。もし、計画の準備が間に合わなければ。もし、もしも、

(アリスベルが裏切ったら)

もし、もし、もし……。

 数えきれない”もし”は、しかしそのどれ一つが現実のものとなったとしてもそこにあるのは確実な死だ。そして、今のガーネットにそれを拒むすべはない。

 急激に実感した自身の死。もはや運や偶然では絶対に回避できない、今までの人生の中で最も死までの距離が近い状況に唐突に心臓が早鐘を打ち、口の中に血の味が充満する。

 途端にそれまでやかましいほどに頭に響いていた群衆のざわめきが遠のき、耳に残るのは自身の呼吸と心臓の音だけになった。それこそ、忍び寄る死神に足音があればそれが聞こえてしまうであろう静けさが、ガーネットの心を乱した。

 狂ったように叫び散らかしたくなる。自尊心も、恥も外聞もなく喚き散らして命乞いをすれば、自分はやっていないのだと訴えればこの処刑を取り下げてはくれないだろうかと、頭の片隅によぎった哀れな希望が瞬く間に脳と心を食い散らかしていく。

 震える唇をかみしめる冷静さも忍耐力もそこを突きそうになっている。

 涙も鼻水も、小便までまき散らしてギャンギャン泣き叫べば、あるいは温情をかけてはもらえないだろうか。

 どこまでも後ろ向きで、浅ましく、しかし人間じみた感情の波に飲み込まれたガーネットだが、それでも最後の最後に残された冷静さのかけらで奥歯をかみしめてぐっと前をにらみつけた。最前列で馬鹿にしたような嬌声を上げていた中年のおっさんが、その眼光の鋭さに悲鳴を上げて黙りこくるほどの鮮烈さだが、もちろんガーネットの瞳に映るのはそんなしょうもないものではない。

数千の群衆のさら向こう、来るかどうかを疑いすらしない、そもそもそんな疑問を抱かなかったからこそ今自分がこうして命をベットして待っている、そいつ姿を。

そして、

「っくそ! おせえわ」

 ぼそりと呟いた一言に気づいたのはすぐ隣で立ち尽くしていた執行官だけだったが、その意味を問う間もなく、それは起こった。

 群衆の一角から突如として悲鳴が上がり、弾けるようにしてその周囲の人間が逃げまどい始めた。最初こそ遠巻きな連中は、「ブスが痴漢に尻でも触られたか」ぐらいの冷ややかな視線を投げるだけだったが、その尋常ならざる狂気じみた悲鳴に、徐々に事態が尋常ではないことを悟り、そこにとどめの一言が投げつけられた。

「人殺しぃぃぃぃぃ!」

 瞬間、広場のあらゆる場所から叫び声と悲鳴が上がり、群衆はパニックに急き立てられて出鱈目に逃げまどっては肩をぶつけ、ののしりあい、怒号を飛ばしては倒れた誰かを踏み越えては引き倒されている。広場が狂乱に満たされるのに時間は必要なかった。

 もちろんこのからくりもガーネットの計画通りだ。

 群衆の心理をコントロールするべく最初に悲鳴と怒りの声を上げたのがこちらの息のかかったものだということ。それが、ほとんど人間と見分けのつかない亜人種なのか、それとも人間の中に協力者がいるのかは定かではないが、効果は覿面だった。

 混沌が最高潮に達したその瞬間を狙いすまして、そいつらは現れた。

 先頭を切ったのは二足歩行をするトカゲの獣人、言わずもがな十九号だ。その後ろに続くのは、この王都にこれほどたくさんいたのかと感心するほどの、多種多様な亜人種の一段。あの食堂で見たものも混じっているような気もしたが、その数の多さに個人を特定するのは不可能なように思えた。

 その一角、最初の悲鳴が上がったあたりで雄たけびとともに大ぶりのなたを振り回し、人々を恫喝して追い立てているのは、あの見覚えのある灰毛の狼の亜人種。死体が動いている、などとは露ほども感じさせない。

(まあ、あの役回りはあいつが適任だろうな……胸が痛まないっていうと、嘘だけどさ)

 そんな、この世界にいるはずのない異物が大挙して押しかけ、群衆を追い立てているのだから二重三重の意味で群衆のパニックは加速していく。中には地べたにうずくまってヒステリックに叫び散らすものから、現実の展開に追い付かずにただ棒立ちする者までいる。襲い掛かる亜人種に立ち向かわんと拳を振り上げる男衆もいないではないが、そういう怪我につながりそうな連中は、率先して十九号ら熟練の者の手によって無力化されていく。

 片や、完全に不意を打たれる形となったギロチン刑執行と民衆の統制のために配置されていた衛士たちも、さすがにいきなり登場した亜人種の姿に混乱の色を隠せずにはいたが、それでも初動の遅れを取り戻すべく動き始めていた。

統制の取れた動きで広場の制圧のために陣形を組み立てるべく、上官の支持の元それぞれの配置については民衆を誘導し、亜人種を制圧するべく手にした剣や銃を構えている。当然、この規模の騒動となれば警備にあたっていた警官隊だけでは抑えられるはずもなく、刑の執行官までもが鎮圧に乗り出してはいるが、騒ぎは収まるどころか官憲の横柄な物言いにさらに狂気の度合いを増すばかりだ。

 ここだ。ガーネットがそう感じた完璧なその瞬間を狙いすまして、その声は響き渡った。

「そこにいるのは本物の殺人鬼ではない。本物は、ここにいる!」

問答無用でその場にいる全員の意識を引っぱたいたのは、そよ風の透明さを感じさせる透き通った声だった。しかし、その涼やかさとは裏腹に、そこにいた全員の意識を根こそぎ奪い取ったその声に、時が止まったかのように広場のすべてが制止した。うかつにも、この展開と声の主を知っていたはずのガーネットでさえ、息をするのも忘れて声に聞き入ってしまった。

静止した狂乱の中、声はさらに続ける。

「そして民衆よ、それ以上の現実に目を向けるときが来たのだ。この国に、世界に存在する人ならざる者の姿を!」

 決して大きくないその声は、しかしまるで耳元で話されているかのようにはっきりと、ほかのどんな音にも声にもかき消されることなく、全ての人々の耳に届いている。それがどのような魔法であるかはガーネットにはわからないし、それ以外の全員には何が起こっているのかもわからないだろう。しかし、それが覿面だった。

 その声に促されたかのように、人々の目は広場に現れた異形の存在をとらえて、はっきりとそこに”いる”ことを認識している。それは群衆も兵士たちも同じようで、誰もがその場で動きを止めて、ただただ視線だけを巡らせている。

 そこを狙いすました、次の一言がポツリと群衆の中から上がる。

「あんなのがいるなんて、聞いてないぞ」

 最初のトリガーを引いてしまえば、あとはその流れのままに進むのが群衆というものだった。

「あいつらはなんだ?」「真犯人って、あの化け物のことか?」「あんなのが人を殺して食ってたのか?」「俺たち、ずっとあんなのと一緒に暮らしてたのかよ」

そんな、心のままに混乱を口にする群衆から次の声が上がるのは、必然だった。

「化け物に食われていたのに、お前らは何をやっていたんだ」

「こんな茶番で国民をだまそうとしていたのか!」

 疑問の声が怒りに代わり、声とともに足が動く。

 瞬く間に警備の目的は民衆を引っ掻き回す亜人種の方ではなく、手の付けようのない暴徒と化した民衆を鎮圧することにすげ変わり、しかも亜人種たちも絶妙な距離感をもって群衆を追い立てるので、警備目的で配置されていただけの少数の衛士で手に負えるはずもない。

 そんな混乱の極致を狙いすましたように、ガーネットに自由が訪れた。

「おっせえよ。ちょっと、来ないんじゃないかってビビっちゃっただろ」

「おや? 君は私のことを信じてはいなかったんじゃないのかね?」

 ごとりと音を立てて、手と首を固定していた拘束具が落ちる。たかだか数刻とはいえ、体の動きを制限され、固定されるというのはかなりの負担だ。

 ギロチン台から抜け出し、バキバキに固まってしまった手首と肩回りをほぐすように動かすと、おっさんの関節のようにバキボキと音が鳴る。

「ここまでは一応狙い通り……なんだけど、このまんま放っておいて暴動をでっかくするのもありなのかも、って思っちまうな」

 眼下に広がるのは、亜人種という想定外の存在を突き付けられてなお、同じ人間同士で争うという人の汚いところを煮詰めた闇鍋のような光景だ。こんなものを見てしまっては、いっそ世界から消えるべきは人間の方では、なんていう危険な思想もわかないでもない。

「はは、私としては君といられるのであればそれがどんな世であっても構わないのだが、さすがにそれでは関係のないところの被害が大きすぎる」

 と、そろそろどこまでが冗談かわからなくなりそうだったので、ぐりっと肩を一つ大きく回したガーネットは、「さて」と区切りをつけて振り返り、

「これで亜人種の存在は周知のもんになって、天使様がコツコツと築き上げてきた社会構造は総崩れ確定。ってわけで、計画通りあたしはこの歪みを作り出した親玉のとこに……って、誰?」

 目の前に立つ絶世の美女の姿に、目がつぶれるかと思った。

 すさまじい美人、いや、美人とかそういう次元ではない、もはや人ではない別の生き物にさえ思える美女が、そこにいた。

 赤みを帯びたロングヘアは、燃える黄金がそのまま絹糸になったかのように煌めくストロベリーブロンド。瞳は海の透明感をそのままたたえるブルーアイで、うすい唇はほんのり桃色に艶めいている。切れ長な目じりはわずかりたれ目気味だが、それも絶妙なアクセントだ。

 そして何よりもガーネットの瞳と心を奪ったのは、嫉妬と憧れの視線を一心に受けてなおゆるぎない存在感を放つ、胸元の二つの大きな水蜜桃。窮屈そうに服の中におさめられてなお主張をやめないその存在は、もはや美と性の暴力だと思った。

 その姿を構成するすべてが神の造形の究極をそのまま体現しているようだった。

 神の最高傑作。そんな賛辞すら追いつかないその姿に、ガーネットは本気で今の状況のすべてをほっぽり出して見とれてしまった。

「気持ちはうれしいが、さすがに見つめあっている場合ではないと思うのだが?」

 至極まっとうな美女のセリフだが、その甘く甘美な声音が耳に入るだけで脳がとろけてしまうようでさえある。と同時に、そのどこか聞き覚えのある声に、最後の最後に残った頭の中の冷静な部分が記憶の中の人物と目の前の美女を結びつけることに成功した。

「アリスベル?」

「なぜ疑問形だい?」

 当然だが、別人だからだ。

「ああ、そういえばこの姿は見せたことがなかったか。こちらの方が私の本当の、というか実際に結界に閉じ込められたときの年齢の姿なのだよ。この姿だといろいろと効率が悪くてね、エネルギー消費の少ないあちらの姿で過ごしていたというわけだよ。胸も邪魔だしね」

 胸が、邪魔?

 途端に視線に込められていた嫉妬と憧れに、膨大な量の殺意が上乗せされるのに自分でも気が付いた。

「どうしたんだい、そんなに怖い顔をして。子供の姿ではなく、大人のこの姿の方が民衆も耳を傾けるだろうと思ったのだが、あまり意味がなかったのかな?」

 違い違う、そうじゃ、そうじゃない。大人とか子供とかの枠を遥かに超えて、アリスベルの声は広場にいる全員に漏れなく届くだろう。なんなら、ギロチン台近くで暴れ狂い暴言を吐き散らしていたいくらかなど、その存在に気づいた時点ですでにその美貌の虜になって呆けた顔で見とれてすらいる。

 おそらくこの作戦は成功するだろう。いや、想定をはるかに上回る成果を上げるに違いないのは、火を見るよりも明らかだ。だが、それでも、それでも、とガーネットはぐっとこぶしを握り締めて天を仰いだ。

 嫉妬すら追いつかない、憧れすら届かないこの絶望的な距離は、もしかしたら自分の人生における不幸の頂点かもしれないと、握った拳を胸に埋め込まれた宝石に添える。

「何もさ、命が助かったと同時にこんな過酷な現実を突きつけなくても……いいじゃん」

 そして、その最大級の不幸は即座に怒りとなり、心の燃料となって体を突き動かした。

 ダンっ! と地団太を踏むように足を踏み鳴らし、自らの心に鞭打って鼓舞する。

「行ってくる! 天使の野郎、ぶった斬ってやる!」

 完璧な八つ当たりだが、これまでで最も明確で最大の敵意が生成された瞬間だった。

「当初の目的は交渉だったが、君が望むならそれでもよいかもしれないね」

 苦笑するアリスベルは、まあそれでもいいかなと半分冗談交じりに思ってはいたが、そこはガーネットを信頼しての軽口だった。

 鼻息荒くギロチン台を飛び出したガーネットは、すらりとした痩身を生かして群衆の間をすり抜けて走り去る。

 その背中に一度だけちらりと視線を送ったアリスベルは、安心したように唇の端を釣り上げて微笑むと、次の瞬間には垂れ目気味の目じりを細めてスイッと一呼吸。いまだパニックの収まらない群衆と、それらを煽りこそすれ決して怪我をさせることのないように追い回す亜人種たちの姿を眺めて、天に向かって手を上げる。

「聞きなさい! 今あなた方が目にしているのは、隠されていた世界の真実の一端です! 恐れず、逃げず、その目に映るものを受け入れるのです!」

 凛とした透明感のある声がその場にいた全員の耳の奥ではじけた。当然、暴徒たちの怒号が飛び交う騒然とした中で、人ひとりの声が広場のすべての耳に届くはずがない。これも魔法で、アリスベルの声の波長のみを強化し、それ以外の音に相反する波長をぶつけて封殺するという器用な魔法を、極めて短周期でアリスベルが声を発するときにだけ発動しているからなのだが、あまりに限定的に発動するためにアリスベルの声だけがはっきりと聞こえているように錯覚するのだ。

 その効果は少し離れたところで観戦していたマズナグのところにも届いていたのだが、

「おっそろしい魔法だよ。器用とかそんな世界じゃない、ただでさえこの広範囲で限定的な作用だっていうのに、ここまでの微調整を眉一つ動かさずにできるなんて……夢を見てるにしても、悪夢でももっと生ぬるいだろう」

 ゾワリと、体の芯から震えるのは純粋な恐怖からだ。

 少なくとも、アリスベルが同時にやってのけたいくつもの要素を一つでさえ完璧に制御できる存在を、人間亜人種問わずにマズナグは知らない。というか、想像もできない。

「やっぱりこの選択肢は、間違いだったんじゃないか……あれは、利用することそのものがタブーに思えてきた」

 しかし、それしか選択肢がなかったというのもまた事実だと、決して答えの出ないジレンマを噛み殺しながら、マズナグはアリスベルの姿を凝視している。

「この先、世界が終わることになったら、たぶん僕にも責任の一端があるんだろうな」

 それは、すぐ隣で同じように驚愕しているジンゴに対するものであり、同時に自分に言い聞かせるものでもあった。

 これから自分を含め、人間、亜人種を問わずすべてのものの前に現れるだろう困難に思いをはせながら。


 王城の門をくぐりながら、一度だけ城下を振り返る。

 広場の狂騒に注意が向いていたおかげか、比較的スムーズにここまで辿り着けたのだが、そのことよりも不気味なのは事ここに至って警備の衛兵が自分をとがめることなく、それどころか開け放たれた城門に足を踏み入れてもだれ一人こちらに注意を向けさえしない。

(や、違うな。これ、こいつら思考が止まってるんだ)

 そう思ったのは、衛士の前を通り過ぎるときに、その目玉だけがはっきりと自分を追ってはいるものの、それ以上何の行動も起こしていないからだ。

「望むところ、ってことか。どういうオチをお望みかは知らないけど、乗り掛かった舟だし、とりあえずこのままじゃあたしはこの国に居場所がないままになる」

 そう、事態が解決するまでは自分はまだ連続殺人鬼の汚名を着せられたままなのだ。

「なんでこう、あたしの人生のイベントはドツボにはまるとこから始まるのばっかなんだ……やらなきゃそのまま終わるし、成し遂げてもプラマイゼロに戻るだけって、なんか」

 もう何度目とも知れない、自らの運命への呪詛の言葉を吐きながらガーネットは歩く。

 城内に足を踏み入れれば、城下のパニックが嘘のように静まり返っていた。軍務のためや貴族のはしくれとして城内を訪れることもあるガーネットだが、ここまで静けさに満ちているのは初めての経験だった。そのせいか、

「ってか、ほんとに人がいるのか?」

 思わずそんな言葉が漏れ出してしまう。もちろん、目に見える範囲には衛兵もいれば給仕の人間もいるし、誰もが自らの仕事をこなすべく動いてはいる。しかし、それだけ。ただ動いているだけで、そこに人としての意思などといったものが一切感じられないのだ。

 まるで、操り人形で城内の日常を再現しているかのような不気味さだ。

「まあでも、これもあたしを招き入れるためだって思えば合点はいく、のか?」

 その先に待つものが何なのか皆目見当もつかないのはさすがに恐怖ではあったが、それでもガーネットには相手の思惑通りに招き入れられるほかに選択肢はない。

「なんかあたし、今回は誰かの掌の上で踊りっぱなしの気がすんだよな」

 その言葉を裏付けるように、城内ではご丁寧にも特定のルート以外には進めないように兵士が配置されて通路を塞いでいる始末だ。試しにそちらに進もうとすると、無言の兵士が通せんぼするように動いたのには、失笑しか出なかった。

そうして迎え入れられた先、玉座の間まで同じ調子ですんなり進むが、扉の前の衛士も目玉をこちらに向けるだけで一切反応はない。どうやらここがゴールということらしい。

「なんか調子狂うな……ここ来るときはめっちゃ緊張するんだけどな、いつもは」

 何とも拍子抜けする緊張感のなさに首をひねりながら、そういうもんだと割り切って重い扉を引き開けて玉座の間に踏み込んだ。

 見知った広大なスペースの中央最奥、いつもは平伏して見上げることもままならないそこには、ほかの兵士や給仕と変わらぬ意思の通わぬ瞳で虚空を見つめる王の姿。

当然、入室したガーネットに何かを言うでもない王だが、その代りに反応したのはすぐ隣にいる人物だった。

 今まで見たことはなかったが、すぐに分かった。

(こいつが、天使……)

 なぜならこの場において、そいつの瞳にだけははっきりとした意思の光が宿っていたから。それも、こちらへの嫌悪を隠そうともしない明確な敵意が。

 神官のようなローブに身を包んだ痩身長躯の男は、おそらく街を歩けば十人中十人が振り返るだろう洗練された美貌の持ち主で、その穏やかな表情はまさに聖教会の聖典に登場する聖人そのものといった柔和なものだった。

 天窓から差し込む光が透ける白銀の髪も、その神秘性を醸し出すのに一役買っている。

 これがこの状況下ではなく、相手のことを天使だと知らなければ、ガーネットでさえ出会ったことをラッキーだと思っただろう。

 ただ、今はこの状況下で相手が性悪の天使だと知っている。

 しかし、いくら相手が数百年にわたって世界の在り様を歪め続けてきた自己本位な野郎だとは言え、仮にも天使と呼ばれる存在だ。その危険性は想像もつかない。魔女や魔法なんていうとんでもないものが実在するこの世界で、自分の常識なんてものはこれっぽっちも通用しないことはこの短期間でたぶん誰よりも思い知らされている。

(こんな剣いっちょや口八丁でなんとかなるとは思えないけど……)

 それでもこちらの手札がそれしかない以上、それで戦うしかないのが現実だ。

 ゆっくりと、しかしいつでも剣を抜けるように体の重心を常に意識しながら歩みを進める。

 そこへ、間合いを詰めたからというわけではないだろうが、天使らしき男が口を開いた。

「まさか、魔女の封印に失敗したばかりか、それを招き入れて国の根幹すら揺るがすとは……」

 それは果たしてガーネットに対して発したものか、それともただの独り言かはわかりかねたが、それでもガーネットは一応自らの名誉のために反論しておいた。

「一応言っとくけど、あたしが行った時にはもう封印なんてなくなってたし、任務失敗ではないからね」

「わかっています。そのことであなたを咎めるつもりはありません。それに、人は過ちを犯すものです、それを許すのもまた、神の使途としての我々天使の役目なのです、ガーネット・LL・サニーデイズよ」

 何のためらいも、慢心もなくしみじみととそう言う表情に虚栄はない。どうやら本心からの言葉のようだが、それがガーネットの神経を思いっきり逆撫でた。

「ありがたい寛容さだ、ついでにあたしみたいな味噌っかす騎士のことを知ってくれてるのも」

「ですが、そのあとのこの事態は、さすがに看過するわけにはまいりません。わかりますか、あなた方の行いがどれほどの愚行であり、この国や聖教会に対する冒涜であるかを」

 ここで初めて、天使の口ぶりに感情の片りんのようなものが垣間見えた。もっと言うなら、こちらを威圧するような高圧的な口ぶり。

 しかしガーネットは臆することなく真っ向から対峙する。

「そりゃ、何目線でのお説教で?」

 敢えての挑発めいた口調だが、さしたる効果は期待できない。案の定、

「当然、この世界を統べる全能の神の御心です。それを代弁することこそが、御使いたる天使、このレクサールの務めなのですから」

 自らをレクサールと名乗った天使は、一切の迷いなく言ってのけた。どうやらその胸の内にある神への忠誠と人を導く立場である自覚は本物らしい。

「詭弁だな。なら、なんでその神は亜人種をないがしろに、それどころか亡き者にしようとするんだ?」

「邪悪な存在だからです。人の子よ、考えてもみなさい。この世界にあってはならぬものを排除し、今日の繁栄を勝ち得たのはそれが神の意に沿ったものだからです。つまり、この世界が人の世となることは神の意思。そして、その導き手たる我ら天使のおかげで」

 それは、おそらくは心の底からの信念で、何一つ疑うことのないそいつにとっての唯一無二の真実なのだろう。そして、きっと亜人種やアリスベルのことを知らずにこのことを聞いていれば、自分もその言いようを信じただろう。それだけの強烈で、絶対の自信がその言葉からはあふれていた。

 だから、ガーネットは感じるままに言い返す。

「独善だな」

 言葉を紡いでいた天使の唇がピクリと震えて止まったのを見て、さらに続ける。

「素直に言えよな、信仰心を独占するためにわかりやすく敵を作り出したんだって。そのために自分たち以外の亜人種を邪悪認定した、って」

 ギシリと、天使の穏やかな笑みがひきつった。もう一押しだった。

「もう気づいてて、だからこんな人間一匹相手にわざわざ出向いてきてんだろ? そうまでしてしがみついてる地位が薄氷の上の虚像だって」

 ぶちっ、という天使の中で何かが切れる音が聞こえたようだった。

しかしそれでもさすがに民衆の絶大な支持を集め、その心に平穏を与える聖教会の象徴というのは伊達ではないらしい。表情にほんのわずかな揺らぎを見せたもののすぐにそれを柔和な笑みで覆い隠し、微かに震える声を押さえながら語り掛け、敵意がないことを証明するかのように無防備にこちらに歩み寄ってさえ来る。

「愚かなる人の子よ。過ちは誰しもが犯すもの。その矮小なる魂では世界の向かうべき正しい道筋が見えぬのも無理からぬことでしょう。今からでも遅くはありません、いま一度あの魔女のもとへと引き換えし、その首を捧げなさい。そうすれば、あなたには再び人としての平穏案生活が訪れるでしょう」

 えらく遠回しないいようだが、要するにアリスベルの命と引き換えにお前には命の保証と今後の安定を約束してやる、ということだ。そしておそらく、それだけのことを本当に保証できる地位も政治的な権力も、そして人知の及ばぬ力も備えているのだろう。でなければあそこまで余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべられるはずがない。

 そして、一つだけわかったことがある。

「あのような、人の世の平安を乱すものはあってはならないのです。人の世の平和に必要なのは神の教えたる聖教会と、人の存在のみ。それ以外の邪悪な異物などすべて排除した楽園に共に歩もうではありませんか」

 その絶大な力をもってなお脅威となるのが、アリスベルという存在だということ。

 手の届く距離まで歩み寄り、語り掛けられたのはあまりに魅力的な話だった。

「さあ、あなたはもう邪教に心奪われ堕した存在ではありません。人の世を正しき道へと導く

救世の徒として生まれ変わるのです」

 そう語りかける表情には先ほど見せた揺らぎはみじんもなく、あるのは理想的な聖職者の姿。

 心揺らぐ提案に、ガーネットはゆっくりと目を閉じて黙考する。

 おそらく聖教会の教えの通りに繁栄し、人という種の栄華を体現したかのようなこの国、この時代においては、自分に提示された条件は紛れもなく正義でありこれからを平穏に暮らす最良の選択なのだろう。

 それは自分一人ではなく、昨日までと同じ明日を大多数の国民が享受するためにも必要なことなのだ。昨日と同じ今日が来て、そのことを神に感謝し、天使はその見返りとして同じ明日を保証する。ほんのわずかな、亜人種たちの不自由という贄にさえ目をつぶれば、そこにあるのは理想的な日常だ。存在しないものを恐れる必要もなく、存在しない者との間には差別もいさかいも生まれない。そしてそれを無償で保証する教えが、そうした日常の大義名分ともなる。そうして今の世は平穏を保証されているのだ。

 王都に住まう十万の民、いや、その子々孫々に至るまでの安寧を思えば、自分のとるべき道など迷うべうもない。

 そして目の前の超常の存在は、今の状況をひっくり返すだけの力も持っているのだろう。

 それを確認するためにここに来た。そして、決めた。

「まったく、あんたの言うとおりだわ。あたしらみたいな普通の人にとって必要なのは、全てを詳らかにして今まで見えていなかったことを見せることじゃない。見なくていいものを見ずに、今までと同じ日々が保証されることだ」

「そのとおりです。ようやく悪しき教えからその身を救い出せたようですね。さあ、あとはその手であの邪教の導き手に罰を下すだけです」

 そうして告げられた一言が、最後の最後に自身の決断が間違いでないことの証明となった。

「そうすれば、その身に掛けられた神罰から救われる日も遠からず訪れるでしょう」

 腹に力を籠め、敬虔な教会信者であれば直視することすら憚られるだろう白銀の瞳をまっすぐに見つめ返して問う。

「わかった。でも、それだけで収まるのか? 少なくともあの広場にいる連中は亜人種の存在を知ってる。王都の人口から言えばごく一部だろうけど、そこからでも亜人種の存在が広がるのなんで時間の問題だろ?」

 一瞬何事かとキョトンとしたレクサールだが、次の瞬間にはその程度は些事でしかないと言わんばかりに、穏やかな口調で回答を口にした。

「問題ありません。彼らもまた敬虔なる神の子ら、人の世の安寧のためならば喜んでその魂を差し出すことでしょう。幸い、忠実なる神の兵もあの場にはおります、何ならあなたもその身の潔白を証明するために」

 想定通りの完璧な答えに、思わずにやけそうになるのを抑えきれずに口元が凶悪に歪む。

 その、あまりにも不敬な笑みをたしなめようとでもしたのか、レクサールはわずかに眉をひそめたその瞬間に、ガーネットは次の一手を打った。

「だそうだ、アリスベル。そっちにもちゃんと聞こえてたか?」

 びくりと身を震わせるレクサール。何が起こっているのかわからないといった面持ちだが、飛び出したアリスベルの名に、今度こそ本当にその余裕の仮面はほころび、悲壮にひきつった。

『ああ、広場にいるものは人間、亜人種、民衆衛兵を問わずそこのやり取りにくぎ付けだよ』

 突如として玉座の間に響き渡るアリスベルの声に、レクサールそれまでの落ち着き払った態度が嘘のように狼狽して周囲をあわただしく見渡し、それに気が付いて慌てて窓に駆け寄り、窓の向こうに身を乗り出し遥か城下に目を凝らす。

広場の上空と思しき場所、建物の屋根程度の高さで何かが動いている。それが、空中に投影されたこの玉座の間の光景であることに思い至ったのはほんの一呼吸ほどの後のことだった。

わなわなと震える背中に、ガーネットは声をかける。

「ってわけ。ここでのやり取りはあたしの目と耳を通して、アリスベルの魔法で広場の空に映し出されてるんだとさ。つくづく魔法ってのは恐ろしいね」

「はかったな!」

 ぶわ、っと怒りに白銀の髪が逆立ったのが、少し離れたところからでもはっきりと分かった。

「お互い様だろ? 人のこと殺人鬼に仕立て上げようとしやがって。挙句に、何が人の世の安寧だ。ずっとてめえが特権階級に居座りたいだけじゃねえか」

「貴様……何をしたかわかっているのか?」

 ゾクリと背筋が凍るような恐怖に、体がこわばる。

「ここまで愚かだとは思いもしなかったぞ。その愚かさの償い、貴様の命一つで償えると思わんことだな」

 どうやらなりふり構っている場合ではないと路線を変更したらしい。

「やっぱあたしには無理だわ、あんたのその、犠牲もやむ無しって言いながら他人しか犠牲にしない、他人が全部自分の政治と保身のための道具にしか見えてないの」

「その何が間違っているというのだ! 聖教会の教えの下、人はそれを拠り所として心の安寧を得、正しく秩序を得、明日を約束される。命の保証のない今日を生きる恐怖をぬぐうためには、多少の犠牲など些細なものではないか」

「そうだな。おかげで人間はこの何百年かで驚くほど反映したんだろう。それは認めるさ」

「だったら」

「あたしが気に食わないんだよ! 正論振りかざす奴は、いつでもその正しい理屈で他人を一方的にぶん殴って勝ち誇る。まるでそれ以外のすべてが間違ってます、みたいな面でな」

「正しいのだから当然だ!」

「だからあたしはそいつに噛みつくために来たんだよ。世界の根底がひっくり返る? 人々が不安に混乱する? 知ったことか! あたしはな、こんないつ死ぬともしれない身だからさ、昨日のあたしに顔向けできない生き方はしないだけだ!」

「ならその信念とともに死ぬがいい。神にたてつく愚かさをその身で感じ、後悔しながらな」

 その言葉も終わらぬうちに、突如として背中に不穏な圧迫感を感じたガーネットは、脊髄反射で剣を抜き、振り返りざまに背後を薙ぎ払う。

「っって、なんじゃこりゃ!」

 自らの剣閃を視線で追いながら目にしたその光景に、思わず叫んだが無理もない。

 誰もいなかったはずのそこに、両手足の指で足りないほどの兵士がいきなり表れていたのだから。それもただの衛兵ではないのは、ヘルメットの中の顔に目鼻がないことからも明らかだ。

 その鼻先を、すさまじい勢いで切っ先がすり抜ける。振り返るアクションと同時にバックステップを踏んでいなければ頭を勝ち割っていたその件筋に息が詰まりながら、それでもガーネットは振りぬいた剣の遠心力を利用してさらに跳躍し、敵の数と配置を確認しながら距離を取る。

「二十……ろ、八。あたし一人にえらく豪華なおもてなしじゃん。何こいつら? 人間じゃなさそうだけど、こいつらぶっ殺すのは聖教会的には殺人の禁忌に触れない?」

 聖教会の教えに、殺人を禁じる内容が明確に含まれているのを揶揄しての言葉だが、

「これは神の兵士、神の御剣だ。神の奇跡により生み出されたる命持たぬ不死の兵士による神罰が禁忌であろうはずがなかろう」

 どうやら自身の手ごまに絶対の自信を持っているらしい。事実、不死の兵士たちの戦力は波の兵士では歯が立たないほどで、甲冑を着ているとは思えない俊敏な動きと、重く速い剣閃は一線級以上、戦場に出れば一騎当千の活躍間違いなしだろう。

それでも、

「いちいち自己弁護して、自分が悪くないっていう屁理屈こねるの惨めになんない?」

 嵐のごとく襲い掛かる剣閃を紙一重でかわし、まともに受ければそのまま押し切られる一撃を器用に受け流しながらのギリギリの状況でも言わずにはいられなかった。強がりというわけではなく、どうにもレクサールの言動のいちいちが癪に障った。

 しかし、それを挑発とさえ受け取らないだけの余裕はあるらしく、レクサールは先ほどまでの狼狽を拭い去った涼しい顔で、遠巻きに眺めながら言う。

「世の理というのはそこにあるものではなく、神、つまり我々が唱えるものが理となるのだ」

「独善通り越してガキのわがまま、さいってーの考え方だな。あたし、やっぱお前が嫌いだわ」

 一瞬でも足を止めれば取り囲まれて一巻の終わりという不利の中、二手三手先を想定した動きで立ち回り、攻撃よりも逃げに徹することでしのぎ続ける中ではそんな一往復のやり取りでさえ命取りになる。それでも、どうしてもこれだけは言わずにはいられないとばかりに、目の前の兵士の顔面に刺突をたたき込んで作った一瞬に口を開く。

「こいつら全部ぶっ殺したら次はお前だ、首洗ってそこで待ってろ!」

 悪役全開の言葉を吐き出すと、兵士の顔面から引き抜いた剣をすぐ隣の兵士に叩きつけて首から上を跳ね飛ばす。しかし、

「くっそ! マジでこいつら不死身なのかよ!」

 顔面を貫かれた兵士は顔に穴をあけたまま倒れもせずに再び剣を振り上げ、首を跳ね飛ばしたやつに至っては落ちた首を拾いもせずにそのままこちらに倒れ込んでくる。

「これが神の奇跡というものだよ。有限の命などという浅ましさにとらわれるぬ、神のためにその存在のすべてを捧げるその姿こそ、聖教会の教えの具現化とも言える」

 満足げに、高らかにそう告げるレクサールの言葉はガーネットに対してではなく、自分で酔いしれるための演説だった。

「何が神の奇跡だ、こんな生きてもいないおもちゃ風情がっ!」

 対格差で押し切ろうと倒れ込む首なしを交わし、それならばと膝から下を切り飛ばして機動力を奪う策に転じるガーネットだが、

「まじか! くっつくとかどんだけカラクリ多いおもちゃだよ、くそったれ!」

 切り飛ばした瞬間こそ崩れ落ちて無力化できたものの、そばに転がる足を自ら拾って断面同士を合わせると、瞬く間にくっついて立ち上がるのだからたまったものじゃない。

 もはや攻めの手は体力の浪費でしかないらしいという、絶望的な状況。

「でも、だからってあきらめるのは癪に障るし、なんか、なんか……」

 逃げの一手となってしまったガーネットは、そろそろ疲労に悲鳴を上げ始めた足腰に鞭打ちながら必死に考えを巡らせるが、そのどれもこれもが最後の瞬間を先延ばしにする以上の効果が見込めない。そこに、レクサールがあざ笑うように表情を歪めながら新たな事実を告げる。

「恐れることはない、愚昧なるものよ。今日のこの日、神のみもとに魂の城下のために送られるのはお前だけではないのだから」

 突然の情報に、ガーネットはピクリと反応して視線だけどレクサールに向ける。

「世の秩序を乱した愚か者を粛正するため、すでに城下には神兵を遣わしてある。もう浄化も完了している頃だろう。さあ、お前も己が罪を償うために……何がおかしい?」

 レクサールが自らのご高説を中断してまで問うたのも無理もない。それほどにガーネットの表情は歓喜に歪み、こらえきれぬ笑いは逃亡劇真っただ中の肩をくつくつと震わせている。そしてついに、

「あーっはっは! そっかそっか、こいつらをあっちに送ったか送っちゃったかっはっは」!

 逃亡する脚と攻撃をフグセグ剣捌きはそのままに、ガーネットは声に出して呵々大笑してしまう。

「何がおかしい! 気でもふれたか?」

 レクサールではなくてもそう思うだろう盛大な笑い声だが、もちろんそうではない。その証拠に、ガーネットの瞳にははっきりと勝利を確信した医師の光が宿っていた。

 その力強い視線がよほど不快だったか、レクサールは汚物でも見やるような視線を投げつけ、神兵たちに指示を飛ばす。

「もうよい、その不浄の存在を早々にこの私の世界から消し去るのだ」

 その言葉に呼応するように神兵たちの動きがさらに精緻で連携の取れたものとなり、加えてガーネットを取り囲むように新たな神兵たちが舞い降りるように虚空から現れる。

「最初っからこうしないってことは、あたしを嬲るのが目的だったってこと? 悪趣味だこと」

「少しでも自らの犯した大罪を償う時を与えてやっただけのこと。しかし、それすら理解できぬ愚かさに、もはや救いの手を差し伸べる必要もない」

「んなもん差し伸べるつもり毛ほどもねえくせに。でもな」

 ほぼ全方位を取り囲む数えきれない神兵の只中で、ガーネットにはもはや打つ手は残されてはいない。どこをどう逃げてもそこにあるのは免れることのできない、死。

 のはずだったが、

「なんだ? どうした? 早くその愚か者を」

 その瞬間は、訪れなかった。

 レクサールがその勝利を確信し、それを現実のものにするべく数十の神兵が剣を振り上げたところで、ぴたりと時が止まったようにそのすべてが制止していた。それは、ガーネットの最後の瞬間を描いた絵画のようだが、現実はその真逆だった。

 身動きしないただの甲冑の群れと化した神兵のど真ん中で、汗だくの額をぬぐいながらガーネットは剣を腰のさやにおさめ、ため息とともにぐったりと肩の力を抜く。

「自前の救いの手が、間に合った……っせえよ、まさかこの瞬間狙って待ってたのか?」

 ガーネットの呼びかける声の先に、慌てて視線を向けたレクサールの表情は、見るも無残なほどに焦りと狼狽に彩られた無残なものだった。

 だからだろうか、

「き、さま……」

 絞り出したような声は、それまでの自信にあふれたものではなく、しわがれた老人のようだった。

「魔女、アリスベル」

「久しいね、天使。君は……レクサール、だったかな? 互いに健勝なようで何よりだ」

 開かれたままの扉をくぐって、ゆったりとした足取りで現れたのアリスベルは、どうやら既知であるらしいレクサールにいつも通りの妖艶な笑みを向けながら、ガーネットを取り囲む神兵の一団に歩み寄る。そして、

「道を開けたまえ。私はそこの友人に用がある」

 そういうや否や、音を立てて動きで神兵の壁が左右に割れ、中央に向かう道が現れる。その中を歩むアリスベルはまるで神兵によって警護されているように見えるが、その光景をガーネットは不思議だとさえ思わなかった。それどころか、

「ま、こうなるわな」

 至極当然の成り行きとばかりに、ぺたりと床にしりもちをついて脱力している。先ほどまでの絶望の逃亡劇のおかげで全身が疲労と汗にまみれているが、それも今となっては過ぎたこと。

「魂のない人形だって聞いた時からこうなるだろうとは思ってたけどさ、一応ヤバかったんだからな」

 神兵の間を悠々と歩み寄ってくるアリスベルに向かって、ガーネットは精いっぱいの皮肉を込めて責め立てる。

「すまない、向こうの状況を落ち着けるのに少々手間取ってしまってね。しかしおかげで想定以上の良い形で事態を収拾することができたよ。それもこれも君がここで時間を稼いでくれたおかげだ」

「ほんとかよ? またテキトーなこと言って丸め込もうとしてんだろ?」

「その証拠がこれだよ。レクサール、ついでに君も見ておくがいい」

 そう言ってアリスベルは天井に向けた指先をくるりと回す。すると、天井近くの空間に窓が現れたように切り取られ、そこに別の場所の景色が映し出された。ガーネットはごく近い記憶の中にあるその光景がギロチン台から見下ろした中央広場であることを察したが、驚いたのはそこに映し出された群衆の光景だった。

「なぜ、なぜ……このようなことが」

 それはレクサールにとっても驚きだった、いや、むしろレクサールの驚きの方がはるかに大きかったのだろうが、無理もない。

「なぜ、人と亜人種がなぜ生きて、なぜ憎しみ殺しあっていない!? 私の、神の兵がなぜ」

 そこから先は言葉にならなかったらしい。それもそのはずで、不死で絶対の力を持つはずの神兵が、まるで糸の切れた人形のようにゴロゴロと広場中に転がっているのだ。その数はそこに見える限りでも数十はくだらないだろう。しかも、それら神兵の残骸を前に人と亜人種が手を取り合い、抱き合い、喜びあっているというのだから、これにはある程度察しのついているガーネットでさえ驚きを禁じ得なかった。

「もうさ、あいつが「私の兵」とか言っちゃったのは突っ込むのも哀れだけどさ、これ何? どうなってんの?」

 すべてが決着したことを察したガーネットだが、さすがにこれだけで何もかもを理解しろというのは無理があると説明を求めると、アリスベルはお得意の不敵な笑みを浮かべる。

「簡単なことさ、本当に共通の、立ち向かうべき悪が現れた時に、人は手に手を取って立ち向かえるということさ」

 アリスベルの説明によるとこういうことだ。広場に巻き起こった亜人種によるパニックのさなか、突如として現れた神兵が兵士、民衆、亜人種の別なく襲い掛かってきたが、アリスベルがそれを制するのはいともたやすかった。しかし、命持たぬものを意のままに操る魔法で神兵の制御を奪ったアリスベルは、そのまま無力化して事態を収束させるのではなく、一計を案じた。自らの支配下に置いた神兵に、引き続き広場にいる人々を襲わせたのだ。当然、命を奪わぬようにという最上位の指示を付け加えて。

 かくして、神兵対それ以外という構図を作り上げ、その結果として人と亜人種の共闘を誘導し、互いに歩み寄るきっかけを作り出した、というわけだ。

「さすがにその結果まで思いのままというわけにはいかないとは思ったが、考えうる限りでは最良のところに落ち着いたと思うよ」

 こともなげに言ってのけるが、それが尋常ではないのは考えるまでもない。

 呆気にとられるガーネットはただただその恐ろしさに背筋を震わせたが、同時にここにきてようやく安どのため息がこぼれた。

 そして、最後の最後にやるべきことをやりきるために、鉛のようになった体に鞭打って立ち上がる。

「ってわけだからさ、残念だけど今回の喧嘩はあんたの負け、ってことでいいよね?」

 魂が抜けたように呆けるレクサールの目の前で、いまだ収まらぬ額の汗をぬぐいながらガーネットは宣言する。しかし、どうしても納得できないらしいレクサールは、壊れたように、

「なぜだ、なぜ、愚かなる人間などが……神の意に反して……」

 と繰り返すばかりだ。

そこに、ガーネットは少々怒気をはらんだ声で、とどめを告げる。

「もう、あんたらの導きにおんぶにだっこの時代はおしまい、ってこと。あんたにできるのは、きちんと時代に幕を引いて、次の時代があるべき姿になるのを祈るだけだ」

 そこで少しだけ迷って、あえて言葉を選んだ。

「それこそ、あんたらの神様にな」

 あまりにも陰険だろうかと悩んだが、それが最大の効果を発揮するのもわかっての瞬順だったが、どうやら功を奏したようだ。

 がっくりと崩れ落ち、うなだれるレクサールには、もはや天使としての威厳はない。あるのは、自らの存在を否定されながらも歴史の表舞台に引きずり出された、一人の亜人種だけ。

 うつむいた顔を覆い隠すように垂れ下がった銀髪を見下ろすガーネットの胸中に、果たしてこれで本当によかったのかという迷いが生まれかけたその瞬間を狙いすましたように、

「では、ここからが交渉だよ。もちろん、条件を出すのはこちらだがね」

 アリスベルがすぐ隣から声を上げる。そうだった、争いは終わったとはいえこれだけではすべてに幕を引いたわけではない。むしろ、ここを誤ってしまうと不要な混乱と無用な悲劇が引き起こされてしまう、そのことを改めて念頭に置いて、ガーネットもレクサールに正対する。

「構想? この期に及んで何をしろと……もう、私には道は残されてはいない。ただ、これまでの信仰が裏返ったのだ。私を殺すのが貴様らか民衆かの違いだけだろう」

 こちらを見上げる表情は見事に空っぽで、本当の絶望を見たものの顔だった。

 理不尽といえばそうなのかもしれない。ガーネットも、この男が本当に人に世を思っていたことに嘘がないことは理解している。だからこその交渉なのも重々わかってはいるのだが、

(なんだろ……手放しで喜べないし、こいつを責め切ることができないんだよな……)

 そんなもやもやを胸中に孕んだまま、それさえも飲み下すのが今回の自分の決断なのだと言い聞かせて、あらかじめ用意していた内容を告げる。

「ただ死ぬんじゃない。これまであんたの作ってきた価値観と一緒に死んでもらう」

「だから、望むと望まざるとにかかわらずそうなると言って」

 いまさら何を、と吐き捨てるようなレクサールを遮ってアリスベルが今回の肝になる部分を伝える。

「その果てに、君が生き残るシナリオがある、と言ったらどうするね?」

 にたりと浮かべたのは、紛れもなく悪魔の笑みだった。

「君にはもう一度、天使をやってもらうよ」

(あたし、やっぱダメなほう選んじゃったかな~)


 マズナグの私室の窓から空を見上げ、体中の筋肉痛に苦しみながらガーネットは鼻息を一つ。

『数百年の長きにわたり、神と天使の名を騙って民衆を誤った道へと導き続けた邪悪なる存在、悪魔よ。その魂を今、神の名のもとに断罪する』

 同じ晴れ渡った空に映し出されている光景を、おそらく王都の住民、人間亜人種を問わないすべての民衆が見上げているだろう。響き渡る声は例によってアリスベルの魔法で拡散されたものだ。

 そこに映し出されているのは、玉座の間の中央。凛とした立ち姿の人物と、その前に跪くレクサール。なのだが、その真実を知るガーネットは何とも複雑な心境だった。

「どうしたんだい? 納得いかない、ってわけでもなさそうだけど……」

 椅子に後ろ前に腰掛け、背もたれに顎を載せてしゃべるせいでがくがくと頭が動くという間抜けな様のマズナグに、ガーネットは迷いがちに、

「そうだな、たぶん何をどうやっても正解はなくて、どれだけ”まし”かってだけなのは、わかってんだけどさ」

 と、答えになったようななってないような返事。

「そうだね、結局歴史の舵をこっちに切ったのがよいのか悪いのかは、それが本当に歴史になるまでわからないからね。でも、どっちに舵を切っても切らなくても、やらなきゃよかったっていう後悔は付きまとうもんだよ」

 そして続けて、

「でもね、やってよかったっていう満足感も必ずついてくる。もちろん別の道には、やらなくてよかった、があるのも確かだ」

 これまた答えになるようなならないような言葉の応酬に、結局答えなんて出ないんだろうなとぼんやりと思うばかりだった。

 そんな、街の片隅の哲学もどきのような問答なぞに関係なく、頭上の茶番は進展する。

 そう、茶番だ。

『あまつさえ、その邪なる思惑のために罪なき亜人種によって人を殺め、亜人種と人の間に争いを産、亜人種を滅ぼそうとした罪、到底許されるものではない』

 そう言って神戸を垂れたレクサールの頭上に掌をかざす精悍な人物こそが、誰あろうレクサール本人だということに、ちょっとだけ気の毒だと思ってしまうのは人の情だ。ちなみに、レクサールの姿で跪いているのは何を隠そう神兵のうちの一体をアリスベルの魔法でレクサールの姿に見せているだけというのだから、これほど人を馬鹿にした茶番もない。

「あれ、あんたが考えたセリフなんだろ。よくあんなえげつないセリフをレクサール本人に言わせたな。あんたも相当根性悪いな」

 窓ガラスに映るマズナグに向かって問いかけるが答えはないが、その代わりとばかりにガラスの中に顔が皮肉っぽくゆがむ。

『その穢れた魂を浄化し、天界に手永遠の贖罪の時を過ごすのだ』

 今どんな心境で言っているのかと想像するのもはばかられるセリフとともに、映像の中のレクサール(神兵)が淡い光に包まれ、その体が徐々に光の粒子へと姿を変えてゆく。そして、

『悔い改めよ』

 の最後の一言とともに肉体のすべてが光の粒になり、ふわりと舞い上がるとそのまま天井をすり抜け、はるか上空を目指して上昇してゆく。それは映像の中だけではなく、王城の尖塔の先端から登る光となっているのがはっきりと目視できる。外のどよめきから、おそらくすべての国民がこの”奇跡”を目にしているのは間違いなさそうだ。そして誰もがその場にひざまずき、祈りを捧げていることだろう。

 もちろんこれらはすべてアリスベルの魔法による演出なのだが、それを知っている身としては、やってることはこれまでのレクサールと何ら変わらないのではという疑念を払しょくしきれない。

『人の子らよ、神の導きを忘れることなく日々を正しく生きよ。さればかように神の救いは訪れる』

 つまりはそういうことだ。

 今回の件は天使の名を騙るレクサールという悪魔が、聖教会と国の政治をほしいままにするために行った歴史的な大悪行だった、と。そしてその圧政に耐えかねた亜人種と、その歪みを正すべきだと悟った人間の正しき行いを認め、神が救いの手を差し伸べたのだ、と。

「そういうことにしとけば、聖教会信徒も過去の自分の信仰を否定せずに済むし、利用されていただけの聖教会もそのけにを失わず、それによって保たれてきた秩序もいじできる、と」

 加えて、その平等の教えには人と亜人種の別などないのだと、実在することが証明された「天使」の口からそう語らせることで、突如として歴史の表舞台に登場した亜人種という存在を受け入れやすくなる、というわけだ。

 そんな、一連の長い長い歴史の大変革の幕引きを見届けたガーネットは、レクサールとのやり取りを思い出す。


「これで君という存在は表舞台から姿を消す。おそらく今回の件は聖教会全体に影響するだろうが、それに対してどう行動するかはこれから長い時間をかけて君らの一族が考えることだ」

 今回の件に円満に幕を引くためのシナリオを告げたアリスベルだが、それは基本的な方向性を発案したガーネットでさえ待ったをかけたくなるほどにえげつなく、しかし今後の混乱を極限まで抑えることを考慮された、おそらく最善のものだった。

「これまで存在を否定されていた亜人種が歴史の表舞台に再び姿を現し、存在を秘することでその神聖さに信憑性を与えてきた天使という種族の真価が問われる、か」

 何とも壮大な話になったもんだと、あくまでも他人事としてコメントする。

「そういうことだね。もう、天使という存在が亜人種の一つであることは隠しようがなくなっている。ただ、それとは別に君という存在はすでに大罪人として召されたことになっている。少なくとも、この国には居場所はないだろうね」

 そうレクサールに事実を突きつけると、力なくうなだれたままのレクサールは生気のこもらない声でぼそりと呟いた。

「いっそ、本当に私を殺してくれれば楽になれたものを」

 さすがにそれは無責任に過ぎると思う反面、自分がその立場であれば同じことを言っただろうな、ともガーネットはわずかばかりに共感する。それこそ、つい最近同じような状況で社会的に死にかけただけに、妙に生々しい実感がある。

「それをさせないのが君に対する最大の罰、というと皮肉に聞こえるかな? 自らの口で語った通り、長い贖罪の時を過ごすのだね」

 それは、隣で聞いていたガーネットですらもがぞっとするような声音だったが、その真意のほどは今もって計り知れない。

「悪魔め……」

「誉め言葉として受け取っておこう」


 はるか上空へと昇る光を見送るのもそこそこに、窓に背を向けたガーネットはもう一つの結末を待つ人物に声をかける。

「一応言っとくけど、あれは生き返ったわけじゃないからね」

 そう告げられたのは、ソファに腰掛けて難しい顔をしている十九号だった。

「わかっている、。あれの中にあるのはあいつの魂ではない。ただ、あいつの記憶を持った肉が何と言うかと、生きていた時のあいつがそう言うかというのは別だ、ってことだろう」

 「あいつ」というのは今回の連続殺人鬼の真犯人である、狼の亜人種だ。

 十九号は誰よりも早くその凶行に気づき、止めようと奔走する中で少しずつその思いを想像し、それがただの食人衝動からのものではないのではと考えるようになった。

 そしていつしかその目的は凶行を止めることだけではなく、その真意を問いただすことへと変わっていた、ということらしい。しかし、その思いを遂げる前に肝心の男は自ら死を選んだ。

「わかっている。ただ、それでも俺は、自分の友人がただ狂ったんじゃないと思いたい……それがたとえ、自分をだますための茶番だったとしてもな」

 なんか今回こんなことばっかりだな、とはさすがに口にする気にはなれなかった。

「わかってるんだったらいいけど……あ、それと、アリスベルから一つだけ伝言」

「なんだ?」

「狂気の深淵を覗くのであれば、それに飲み込まれる覚悟はしておくように、ってさ」

 その意味するところをいまいち理解しかねるガーネットだったが、十九号の方には何かしっくりくるものがあったようで「ああ」という意外なほどあっさりとした相槌だけを残して部屋を後にした。

 おそらくその足で地下に幽閉されている狼亜人種のもとに向かったのだろう。

 連続殺人の本当の犯人として正式に裁かれ、極刑を言い渡されるために幽閉されている男。

「アリスベルの話だと裁判がある二日後ぐらいなら魔法の効力は持続するってことだけど、もしそれまでに切れたらどうすんの?」

 アリスベルの言なので間違いないんだろうけど、と思いながらの余談に、マズナグは気だるげに「そのときはそのときだねえ」と何も考えていなさそうに答える。

 そこに、

「二日、正確には一日と二十刻の期限だよ。それまでは確実に魔法は持続するしそれを過ぎると即座にあれはただの死体に戻る」

 アリスベルの涼やかな声が宣言する。

「もう帰ってきたの? 瞬間移動もできんの?」

 部屋の入口に立つ、ガーネットの胸元ほどの身長の子供姿のアリスベルは「まさか」と含みのある笑みを浮かべる。

「君も知っている方法、まあ今回は応接の間に置いてあったはく製だがね、それを使って飛んで帰った」

 瞬間移動を「できない」と言わないところは敢えて追求せずに、「へぇ」とだけにとどめる。

「にしてもえらく早いお帰りだな。もっとあれこれしてくるのかと思ったけど」

「それに関しては、今の我々はあまりにも今回の件に深くかかわりすぎているからね。特に私は、姿を変えているとはいえ大勢の前に姿をさらしすぎた。それがどのような厄介ごとを産むのかは、想定できないからね」

 あの日、公開ギロチンの場に突如として現れた絶世の美女については、今回の件の一番の謎であるとともに、民衆の最大関心事ともなっていた。いわく、神が遣わした聖女。いわく神そのもの。いわく、いわく……と、尾ひれ背びれのついた噂は日に日にその種類を増し、とっぴさに磨きがかかっている。

 そんな時の人が、万が一にも実在すると知れた時にはそこに全国民が殺到し、望まぬパニックが発生するのは目に見えている。場合によっては、その力を利用せんする連中による無用な争いの火種ともなりかねない。

「まあ、城でも姿消してたとはいえ正解だったかもね」

 そして、そのパニックが起こったときに真っ先にその渦中に巻き込まれるのが自分であろうことを想像して、ガーネットは静かにうなずいた。

 それを契機に、アリスベルが「さて」と切り出す。

「というわけで、行くとしようか」

 もちろん声をかけたのはガーネットに対してで、そのための準備も済ませてある。

提案したのはマズナグだった。面も割れていて話題の渦中であるアリスベルだけではなく、どっぷりかかわっているガーネットも当面は鳴りを潜める方がいいだろう、というのがそもそもの発端だった。

 聖教会というのはこの国だけで完結するものではなく、世界で最も信仰される宗教の一つだ。その根底の一角をなす天使の神秘性を覆したのだ。聖教会側がなんの動きも取らないはずがないし、それが魔女の行いと知れればなおさらだし、そうなる日もそう遠くはないだろう。

 そうなればこの国にはいられないし、それに加えて今後聖教会からは狙われる身になったと考えた方がいい。それならばその厄介ごとの中心であるここを早々に離れるに越したことはないということなのだが、これにはガーネットも賛成だった。

 とはいえ、

「あ~、もしかしてあたしはまた選択肢を誤ったのか?」

 胸元の宝石をなでながら、そう言いたくなってしまうのも無理からぬことだ。

「まあでも、相変わらず死なないだけで一番くそったれな道を歩まされる、っていう意味ではあたしらしいのか……」

 旅支度を整えた背嚢をしょいながら、ガーネットふと胸にあてた手の感触に、あることを思い出す。

「そういえばあんた、あたしのこの呪いのこと知ってるっぽかったけど。でもレクサールの野郎はただ「神罰」とかいうだけで詳しくは知らなさそうだったし」

 そういうと、マズナグは「覚えてやがったか」とばかりに眉根をひそめる。

「おい、なんだよその顔! まさか、十九号をだましたみたいに口から出まかせで」

「失敬だなあ、十九号の件にしても口から出まかせではなかったのだよ。ただ、途中で事情が変わったのを伝えていなかっただけで……」

ごにょごにょと言いよどむのは、やはり後ろめたいからだろう。

「正確に言うと、詳しくは知らない。おそらく正しく理解しているのはかけた本人だけだろう。私にわかるのは、天使の手による神罰の類だというところまでだ。まあ、神罰なんて名前で呼んではいるが、それは天使目線の言い分で、結局は呪いの一種だね」

「じゃあてめえ、あのときあたしに持ち掛けたのはうそだったってことかよ」

 詰め寄ると、マズナグは開き直ったように胸を張って言い張った。

「そういわれても言い訳はできないな」

「てめえ、よくもいけしゃあしゃあと」

「ただ、その呪いをかけた本人であれば、おそらくというのは本当だ。天使の寿命を考えれば、あるいは……」

 なんだか胡散臭い寸借詐欺にあっているような気がしないでもないが、

「それしかないんだったら仕方がない。天使が実在するってのもわかったことだし、ほとぼりが冷めるまではそいつを探すことにするか……はあ、まさかあたしの身を守るために軍籍からも消しておくしかないなんてな。おかげで給料が……はぁ」

 そこでもう一つ思い出す、果てしなく俗で現実的な、具体的に言うなら金銭の話。

「そういえばさ、あたしの報酬の話なんだけど」

 そのタイミングを待っていたかのようにアリスベルが持ち掛ける。

「では、無職となった君に次の仕事を依頼したいのだが、報酬はそれとのまとめ払いということでどうだろうか? 割増しで支払うよ?」

「くっ、てんめ……足元見やがって……」

 なにをするにしてもまず元手がない。稼ぐにしてもそれまで食つなぐ分も必要になるので、実質はアリスベルの提案を受けるほかに選択肢がない。

「なに、単純な要件だよ。私はこれから旅に出る。君も旅に出る。そこでこの時代の時世に疎い私の旅の案内役兼用心棒としてともに旅をするというのはどうだろうか」

 断る理由も、断れるだけの財力もないガーネットには選択肢などあるはずもない。

 悩むことすらできぬ己の不遇に、盛大にため息を漏らしたガーネットは力ない一歩を踏み出しながら、ぼそりと呪詛の言葉を吐いた。

「魔女と歩く日々なんて……」

 その続きにふさわしい言葉は、さすがのガーネットの人生を振り返っても見つけることができなかった。

 ……まだ。

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