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魔女と歩く日々  作者: 太夫 有
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第3章

 王都にたどり着いたのはその二日後のことだった。

 途中停車した駅に救援用に展開していた軍と警察に乗客はいったん保護され、取り調べを受けたのだが、あくまでも被害者であるということで比較的簡単な聞きとりだけで解放された。ガーネットもそこで同じように聴取の対象とはなったが、軍務ではなくあくまでも一般旅客として強盗に立ち向かったものということで聴取は略式のもののみで済まされた。

 その後、希望する者は臨時に手配された列車で王都に向かうことになったのだが、ガーネットもそこに乗り込むことにした。

 列車強盗と線路沿いの山の崩落という大トラブルに見舞われたにしては、当初の一日遅れで済んだのは不幸中の幸いと言うべきだったのかもしれない。むろんそれは偶然でも何でもなく、強盗のせいで最大の売りである安全性と安定性にケチがつくのを恐れた鉄道公社が、常軌を逸した手際の良さで対応したからなのだが、その辺の事情にはガーネットもアリスベルもさして興味はない。

 そうしてやっとの思いで到着した王都で、今、ガーネットは茫然と群衆を眺めていた。

 とはいっても、何も好んでそうしているわけではない。身動きができないせいで、目を開けばいやでも広場に集まった人々が目に映るというだけだ。

 だって、

「まさか、ギロチン経験するとは思ってもみなかった、けど……」

 王都中心の円形広場。かつては外征から帰還した軍の凱旋式を執り行われていた場所でもあり、その広さは人口密集都市である王都の中心部とは思えないほどに広く開けている

 その広々とした空間の中心に臨時で設置されたギロチンに固定されている、というわけだ。

 視線を落とせば、はねられた首が転がり込むバスケットが置いてあるのだが、使いまわされているせいで血の跡と思しき、赤黒いシミがこびりついているのが生々しくて、とにかく視線を逸らすには前を向いて群衆に面をさらすしかない、というわけだ。

「大丈夫、だよな」

 そうつぶやく声はどこまでも自身なさげで、何なら自分の悪運は尽きてしまったのではないかとどこか見当違いの疑問に心を乱すガーネット。向けられた民衆の視線は憎悪と嫌悪に満ち満ちているのもその不安に拍車をかける。

「やべ……ダメな気がしてきた」


 わずかに時をさかのぼる。

 王都に辿り着いたガーネットは、何よりもまず無事に列車が所定の位置に停車したことに感動した。過去数度列車に乗ったのだが、例外なくトラブルに巻き込まれてきた身としては、むしろこの後に常軌を逸した何かがあるのではと勘繰ってしまうが、そんなこともなかった。

 何事もなく改札を通り、人ごみをすり抜け、駅舎の外に踏み出したそこには眩いばかりの太陽に照らされる王都の光景が広がっていた。

 聖王国スー・アレンサドラ。その王都、アレクシアの街は今日も人類繁栄の象徴のように活気に満ち溢れていた。右を見ても左を見ても立ち止まっているものなどおらず、往来には喧噪が充満し、市には世界中のあらゆるものが揃うと称されている。

「すごいものだね。ここまでの繁栄をきわめていようとは」

 素直に感心するアリスベルだが、そこにあるのは感動でも驚嘆でもないように見えた。

 かと思うと、

「っ!?」

 一瞬だけ何かに反応するように眉根を寄せ、視線だけで周囲を二、三度見回す。

「どうした? なんか変なのでもいたか?」

 同じように周囲をぐるりと見渡してみるが、特に異質なものは見当たらない。いや、四百年という時の隔たりがある魔女から見たらすべてが異物なのかもしれないが、少なくとも警戒しなければいけないものはないはずだ。

 と、不思議に思っていると、

「いや、何でもないよ。ふふ、面白いことになりそうだよ」

 などと、不穏当極まりないことを言う始末だ。

「あんたが楽しめるような出来事なんて絶対ごめんこうむりたいね。でも、こんだけ反映してりゃそれなりに騒動には事欠かないよ。この二、三十年で王都に集まる人も物もすっごい増えたんだってさ。ま、人増えたのはこの国に限らないらしいけど」

「ちなみに言うなら、四百年前とは比べ物にならない密度だよ」

「はは、じゃあそのうち世界中どこに行ってもこんな賑やかな町ばっかになるかもな」

「あながち冗談ではないかもしれないね」

 冗談のつもりだったのだが、妙に含みのある返しを受けてちょっとだけ戸惑った。

「そ、そうなったらそれこそ魔女が社会復帰できる場所なんてなくなっちまうかもな」

 更にドツボだった。

 もっとほかにあっただろうとは思うが、既に言葉は口を出た後だ。

 気まずさを増した空気にもう何を言うこともできずにたたずんでいると、

「それはそれとして、だ。少々気になる場所があるのでそこまで同行願いないかね? ついでと言っては何だが、食事でもしながら君の報酬の話でもしようではないか」

 思いもよらない展開に、蒸発寸前だった思考は見事に停止してしまう。

「どうしたね? よもや忘れていたのかい?」

 まさかだった。むしろどのタイミングで切り出そうかとタイミングをうかがっていたぐらいだぐらいだが、まさかこの微妙な空気の中で、しかもアリスベルの方から持ち出されるとは思っていなかったので、いささか意表をつかれたのだ。

 ともあれ、絶好の機会だった。

「んなわけないじゃん。とっとと貰うもんもらって」

 もらって……どうなるのか? もらって終わり。報酬を受け取ればそもそもの願いである王都への同行は達成だ。そんなことは百も承知しているし、一刻も早くその瞬間を迎えるために無茶をしてまで急いできたのだ。

 だが、同時にこうも思った。

 こいつはどこへ行くのだろうか、と。

 社会復帰と言うが、魔女が復帰するような社会なんてこの世界のどこにもありはしない。魔法がどれだけすごかろうと、どこに行っても異物扱いを受けるのは間違いないだろう。

 もちろんそれは自分の預かり知らぬところだし、最初にはっきりと言いきっている。

 自分は王都まで連れて行くだけだ、と。そのあとは知らない、と。

 なのだが、

「あのさ」

 既に雑踏に踏み出していた小さな背中に向けて呼びかけて、

「あ~、いや、何でもない」

 やめた。今さらどの口で何を言う。そもそも自分に何ができるというのだ。騎士とは言ってもただの軍人でしかなく、貴族としては味噌っかすほどの権力も持ち合わせていない小娘だ。

(たった何日かだってのに、変な情でも湧いたか?)

 まさか自分がと胸中で失笑しながら、コトリと小首をかしげるアリスベルに歩み寄る。

「んで、飯ってもどこで食べるんだ? 一応お勧めはあるけど」

 もちろん、王侯貴族が訪れるような高級店などではなく、庶民感覚の酒場や定食屋だ。こちとら薄給でピーピーあえいでいる身なのだ。おかげで安くてうまくて量が食える店のレパートリーには事欠かない。古今東西、強いのはうまい飯を腹いっぱい食ってる軍隊なのだ。

 というわけで、先導するべく歩調を早めようとしたガーネットだったが、

「いや、もう行き先は決めてあるのだよ」

 まさかの返答に、面食らってちょっと間抜け面になってしまった。

「なに? あんた王都に来たことあんの? 四百年外出してないって言ってたけど、じゃあ、前に来たのは四百年前?」

 だとしたら、さすがにそんなにも古い老舗はのこの王都といえど残っていないはずだ。が、

「いや、王国としては成立していたとは記憶しているが、この街には来ていないよ」

 つまり、同じ時代の別お待ちには実際に言って、その目で見てきているのだと思うと何とも不思議だ。

「んにしても、来たことないのに行き先決めてるって、なんか矛盾が」

「まあ、任せてくれたまえよ」

 腑に落ちないガーネットの問いもさらりとかわすと、アリスベルはさほど迷う様子もなく大通りを抜け、いくつかの小道に入り、まるで何代にもわたって住み続けた住人のような慣れた足取りで一本の路地に足を踏み入れた。こんなところ、王都に生まれ育ったガーネットでも来たことがない。

 戸惑うガーネットを置いてけぼりにして、まるで自宅の庭のように軽やかな足取りで進むと、

「おそらくここだよ」

 アリスベルは不意に一枚のドアの前で脚を止める。

「なんだよ「おそらく」って。っつか、これほんとに店か? ただの人んちじゃあ」

 ガーネットがそう訝しがるのも無理はない。

 そこは看板も出していなければ、何らの装飾もない、どこからどう見ても個人宅の何の変哲もない勝手口でしかないのだ。建物も、ごくごくありきたりな石壁で、たぶんもう一度ここにきても、ガーネットはこの扉を特定で着ないだろうと思った。

「間違いないはずだ。ここに至るマナの流れが他と異なるので探しやすい」

「まな? の流れ?」

 人生初登場の単語に戸惑うガーネットに、アリスベルがとつとつと説明する。

「簡単に言うと、世界中に満ち満ちるエネルギーのようなものだよ。存在の根源とでもいうべきか」

 それらしく説明してくれるが、内容は全く頭に入ってこない。せいぜいが「そんなものもあるのか」という程度で、現実感は全くない。

「ふうん。魔法ってのはそれを見たり使ったりするもんなのか?」

「魔法の中にはそういうものもある、とだけ言っておこう。では」 

 扉を開けると、そこは外観に反して中はごく普通の食堂だった。

テーブル、カウンター、そして客。入口が一見して普通の民家である以外は、どこにでもあるような酒場の光景が広がっていた。ただし、大っぴらに営業しているわけではないのが店内の雰囲気にも影響してるのか、どこかアングラな店いった感じがするのは否めないが。

「まじか……こんな店、あったんだ」

 まるで何かの魔法にでも掛けられたかのようだが、確かにそこには酒場独特の香りと熱気が充満していて、空きっぱらを存分に刺激した。のだが、

「なあ」

「何だね?」

 困惑するガーネットをよそに、アリスベルは相変わらずのためらいのない歩みで問答無用でテーブルに着く。

「やたら見られてないか?」

 躊躇いがちに席に歩み寄ったガーネットは、何ともいえない居心地の悪さを感じていた。。

 見られている。

 客を見る店員だけじゃない、店内にいる客も含めた全員の視線を感じる。それも、一切の遠慮のない、異物を観察する視線。

 会員制か、そこまでではないにせよ商会がないと入れない店か。兎も角、ここは場違いにもほどがあるだろうと、もう一度周囲の客層を観察したところで、

(? なんだ? ここの客、なんか変わってる?)

 一見してどこがどうというわけではない。会員制やある種の非公式なサロンであれば、コンセプトに沿った人間が集まるという意味で、その客層にある種の特殊性や偏りがあるのはむしろ普通だろう。ただ、今アリスベルが感じているのはそういったものとは少し違う、違和感だった。

(っていうか、なんだろう? この居心地の悪さは……疎外感?)

 独特の意義こちの悪さも手伝って、ガーネットはこの場を早々に離れたい気持ちに駆られていた。

「とりあえずあたしらは歓迎されてないっぽいしさ、やっぱどっか別の店に」

アリスベルを促して店を出ようとしたその時、店主と思しき初老の男が歩み寄ってきた。

「どちら様で?」

 言葉こそ選んではいるが、その雰囲気は客の出迎えには少々無愛想に過ぎる。

「あ、ああ、すいません。あんまり知らなくて。すぐ、出て行きますんで」

 椅子からケツを浮かてせ立ち去ろうとするガーネットの言葉を遮るように、店主が尋ねた。

「こちらのことは、どこでお知りになられました?」

「あー、すみません。ほら、やっぱここは紹介とかいるんだよ。すぐに出ないと」

 あまりの恥ずかしさに変な笑いを浮かべながらアリスベルの肩をつかむガーネットだが、

「いや、出る必要はないよ」

 どっかりと深く腰掛けたアリスベルは微動だにしないどころか、傲然と店主を見上げて不遜な笑みを浮かべている。

「むしろ、大当たりだ」

「あんた、何言って」

 アリスベルを引きずってでもこの場から逃げ出したい気持ちでいっぱいのガーネットだが、どうやら何もかもが手遅れだったらしい。

「お譲ちゃんたち、ここはな、あんたらみたいなのが来ていい店じゃないんだよ」

 そう言ってのそりと立ち上がったのは、そばのテーブルでちびちびとやっていた男だったが、驚いたのはその図体のでかさだった。

「でか、え? え? ちょっと、でかすぎないか?」

 自分の置かれた立場も気まずさも忘れて、ガーネットは口走っていた。

 無理もない。何せこの男、小さすぎる椅子にケツをおさめるために縮こまっていた体を伸ばすと、頭のてっぺんが天井の照明に当たってしまうほどの巨漢なのだ。しかも体の各部がその身長に見合う以上に逞しい。二の腕などガーネットのウエストほどの太さもある。

 ただ、最初こそそのでかさに意表をつかれたガーネットだったが、それ以上に威圧的なのはその顔だった。凄まじく掘りの深い顔立ちは、戦争で色々な国を回ったガーネットが出会ったどの人種、民族のものとも異なっていた。というか、もはや人間離れした何かすら感じる。

 と、その珍し異様と度を越した巨漢具合に圧倒されているところに、

「その顔立ち、トロールかそれともオークかな? いずれにせよ」

 アリスベルのまさかの暴言が、その場を一瞬にして凍りつかせた。

緊張の糸が一気に張りつめる。

 トロールやオークといえば物語に登場する巨躯の醜い化け物の代表格で、確かにこの類の男には恰好の挑発文句だろう。もしガーネットがこの男と喧嘩になったら、きっと同じ挑発を使ったはずだ。現に男は鼻筋に深くしわを寄せ、怒りに顔を歪ませる。

「ばか! 何でそんなこと言うんだよ! す、すみません! この子世間知らずで、あとでちゃんと言って聞かせますか、ら……あ?」

 明らかに人のものとは異なる鋭い牙と爬虫類を思わせる鋭い瞳がこちらに向けられた。瞳には瞼とは別に瞬膜までが、水平方向に開閉している。

「悪いが俺はオーガだよ。さあ、人食い鬼に食われたくなかったら大人しく出ていきな」

 最初はえらくノリのいい冗談かと思ったが、男の外見的特徴に気が付いた瞬間に、そんなものは吹き飛んでしまった。特に、犬歯というには巨大すぎる牙が口元にぎろりと生えているのは、どう見ても同じ人間だとは思えなかった。

(エルフの次は、オーガ? 冗談キツすぎねえか?)

 そう思いながら、もはやその存在を否定できなくなっているのも事実だった。実際にエルフの存在をその目にしてしまっているのは大きかったようだ。

 巨岩のような拳が振り上げられ、でも実際には振り下ろされることはなく、開いた掌がゆっくりと迫る。どうやら向こうは暴力に訴えるのではなく平和裏に解決しようとしているらしいが、デカくて分厚すぎる掌はそれだけで本能的な恐怖を刺激するに十分だ。

 にもかかわらずアリスベルは、尚も挑発的に皮肉めいた表情を浮かべ、

「人と交わり血の薄まったものでは、その呼び名ももはや過去のものだろう。オーガもどきよ」

 それを聞いた自称オーガのこめかみがひきつったのを、ガーネットは見逃さなかった。

「なにをどれだけ知ってるのか知らんけど、ちょっとぐらい怪我しても文句言うなよ、お譲ちゃん。中途半端な知識と勇気は大けがのもとだ」

 アリスベルの顔よりもはるかに大きな掌が外套の襟にかかる。どうやら摘み上げてそのまま放り出そうとしたのだろうが、すぐにその異変に気がついた。

「重っ……ちが、なんだこれ? うご、か、ない」

 どっしりと足の裏に根が生えているかのように腰を落とし、重心を下げ、渾身の力を込めているのがはた目にも明らかだ。現に、オーガの足元の床板がめきめきと軋みを上げているし、ズボンやシャツの中では筋肉が膨らみ、布地がはちきれんばかりに引き攣れている。

「どうしたね? このような小娘一人を持ちあげることもできず、オーガが聞いてあきれるよ」

 初めて見た、アリスベルの挑発的な笑み。

 こいつこんな顔もするんだと驚いた半面、やっぱりなと納得するのもすぐだった。

 相変わらずの底の知れなさに変な関心をしている間にも、巨漢はムキになってアリスベルを持ちあげようと全身に力を込めている。額やこめかみに血管の筋が浮かび、腕の筋肉ははじけ飛びそうなほどに太くパンプアップ。ギリギリとかみしめた奥歯はそのが咬筋力で砕ける寸前だが、それでも尚びくともしないアリスベルは、失笑にも似た笑みを口の端に浮かべ、

「訂正しよう。君は立派なオーガだ。その隆々たる筋骨も、凶暴で残忍な性質も、そして」

 言いながら、と首のすぐ脇に伸びている巨漢の手首にそっと小さな手のひらを添える。

「知性のなさも」

 触れたかどうか、そんなソフトなタッチの瞬間に巨漢はぐるりと白目を向いてその場に崩れ落ちた。ひっくり返りざまに近くの椅子やテーブル、そしてそこに座っていた他の客を盛大に巻き込んで倒れる様は、昔話で邪悪な鬼神が小人の英雄に倒されるシーンを彷彿とさせた。

 店全体がうっすらと揺れるほどの衝撃が過ぎ去ると、店内は水を打ったように静まり返り、誰もがアリスベルを注視している。その視線には、最初に見せたような敵意はなく、今やそこにいる全員が恐怖におびえている。

(なんだ? 大抵は他の連中が参戦してきて大乱闘、ってのが相場なんだけど……)

 かといって、客同士につながりがないわけでもなさそうなだけに、一様に怯えている様は違和感を通り越して奇妙ですらあった。

 そんな中ただ一人、店主が慌て気味に駆け寄ってくるとアリスベルに向かって一言。

「今のは……まさかあんた、魔女かい?」

 どうやら今の一連の出来事が魔法によるものだと理解しているらしかった。

「ごく単純な魔法だよ。彼の神経伝達を阻害して、腕が上がらないようにしただけだ。それを彼は重さのせいだと錯覚したようだがね。自己紹介としては上出来だったかな?」

 隠そうともしない態度にようやくガーネットの理解が追いついた。

「というわけだよ、ガーネット君。ここは、この世界にあって『存在しないもの』として扱われる者たちのコミュニティ、というわけだ」

 数日前までであればこの時点で自分は夢を見ているのだと思っただろう。

 だが、この数日で現実なるものがいかに脆弱なものかを思い知ったガーネットは、驚くほど冷静でいられた。それどころか、

「こんなにたくさんいるんだな」

 他の客をぐるりと見渡して、その多種多様な外見に感心すらしている。

 なるほど、先ほどのオーガほど極端な外見ではないものの、確かにそのつもりで見ればお伽噺や創作物に出てくる”人ではない存在”の特徴をもったものばかりだ。隅っこの毛深いおやじはよく見れば耳の形が獣のそれなので、獣人か何かだろうか。でかい水がめの傍を離れない女性の肌は鱗のようにもみえるのでマーマンの類かもしれない。頭に小さな角のようなものが見えるものもいれば、肌質が樹木に近い奴なんかは室内灯のそばで悦に入っている。疑似日光浴、といったところか。

「常識、というものの不確かさだね。”そんなものは存在しない”という前提に立っていれば、それらしいものを見たとしてもその範疇から出た何かだとは判断できない。たとえば彼の持つ角も、そうと思わなければ変わった形のコブと認識されるだろうし、あの樹人などは皮膚の病気か何かだと解釈されるだろうね」

 まさにその通りだった。

「そうすることで常識の枠内に全てを収めてしまう。そのつもりのあるなしに関わらず、人は今ある規範の外にはおいそれと出られないものだよ」

 まさに数日前までの自分がそれで、やや強引にではあるもののその外に引きずり出された身としては言葉もない。

「世界は認識によってできている。そして、こうした規範をつくることで本来あるものをなくしてしまう、亡き者にしようとしているのが今の世界の流れというわけだよ」

 常識というものの盤石さを疑わない在り様は、こうも簡単に世界の姿を変えて見せてしまうのかと驚く半面、これまで自分がこんなにも不確かな認識で生きてきたと痛感させられる。

「仮にこの中の誰かが往来のど真ん中で、自分が亜人種だと騒ぎたてたところで、頭のおかしいやつか新興宗教に狂ったのだと思われるだけで終わるよ。最悪、新種の伝染病の感染源扱いか、反社会オルグの活動だとして逮捕はされるかもしれながね」

 ぶっ倒れているオーガを介抱しながら店主の男は寂しそうに「それだけだ」と呟いた。

「あじんしゅ?」

「人に近いもの、っていう意味の言葉だよ。まあ、我々のせめてもの抵抗だよ。人ではない、別の種として存在している、という小さな主張さ」

 そう漏らした店主の言葉はどこまでも弱々しく、そのささやかな抵抗の無力さを実感してるのが手に取るように分かった。

「そうして我々は、徐々に、けれど確実に『人間』にされていくのさ」

 ただ刈り取って駆逐するのではなく、世界の認識を改変する事で「最初からいなった」ことにされてしまう。

 想像するだにぞっとする手法だ。

「少なくとも四百年前の世界はこうではなかったよ。人は他の種族の存在をきちんと認識し、それゆえに多種多様な種族、今でいう亜人種ということになるかな? と共存していた」

 出会った当初からアリスベルの語っていたことだが、何が起こっているのかを、その当事者を目の当たりにして理解した今では、その意味するところの重みを実感せざるをえない。

「それ、ってつまり……え? ごめん。理解が追いつかないわ」

 何が起こっているのかはわかっても、それに対して何をすべきかが、何かすべきなのかがさっぱり見当もつかずにただただガーネットは困惑する。

「まあ、今ここですぐにどうこうということもないが、とりあえずは君が一歩世界の外に踏み出したというだけで十分だと思うよ。難しいことは食事の後にしようではないか」

 そういうとアリスベルは再び席に着き、店主に適当に食事を見繕うように依頼した。

 途中、オーダーはこれで良いかと尋ねられたような気もするが、ガーネットはその単純な問いすら言葉として認識できず、ただただ壊れたおもちゃのようにうなずくだけだった。

 出てきたのはごくごく普通の料理で、味もまずまずだった。

 これでまた、見たことも聞いたこともない食い物が登場すれば混乱は必至だったが、見知った料理を口にするにつれて徐々にここが今まで生きてきた現実の延長線なのだと実感することができた。

 ひとしきり平らげるころには思考にかかったもやも晴れて、まともな会話もできるようになっていた。

 そのタイミングを見計らったように、店主が食後のコーヒーを出しながら話しかけてきた。

「驚いたよ。まさかこの時代に魔女が生き残っているとは」

「むしろ驚いたのは私の方だよ。たったの数百年でこれほどまでに世界の勢力図が変わっていようとはね」

 コーヒーを一啜りしたアリスベルが、しみじみと呟く。

「四百年? あんたの一族はあまり外との関わりを持たなかったのかい?」

 店主の疑問もその通りだ。いくら魔女とはいえ、まさか人間が四百年の時を生きながらえているとは思いもしないだろう。

 アリスベルも「まあそのようなところだね」とあいまいにお茶を濁すだけにとどめたのは説明を面倒くさがっただけには思えないが、ガーネットもあえて突っ込む気にはなれなかった。

「でも、それが時代の流れと言うやつなのかもしれないね。我々のような人以外の種は、細々と生きながらえるか、伝承の中だけの存在となるか……」

「興味深い意見だが、果たしてそれが本当に時代の選択であれば、の話だね」

 コーヒーをすすり、ふと思いついたのかアリスベルが「そういえば」と店主に声をかけた。

「エルフ、というのは最近では珍しいのかね」

 そこには暗に「四百年前と比べて」というのが込められていることを察してか否か、店主は少しだけ考えてから、言葉を選んだ。

「最近では亜人種そのものが珍しくなってるけど、エルフはその中でも会わない方だね」

 予想通りとでもいうように頷くと、アリスベルは更に続けて問う。

「では、それが純血種かそれに限りなく近いものであったらば?」

「はは、それこそお伽噺だ。エルフに限らず、純血かそれに近い存在となると奇蹟だ。皮肉な話だが、出会う確率でいうならすでに架空の存在だ」

 それは自らに対する皮肉でもあるのだろう。店主はどこかさびしげに笑みを浮かべている。

 アリスベルはと言うと、店主の様子には目もくれず何事かを熟考しているようで、小声で「なるほどね」とひとりごちている

「あんた、そういや列車でもそんなこと言ってたよね」

「ああ。そしてここにきていくつか確信したことがある」

「っていうと?」

「この世界の歪みは、何者かの意思によるものだ」

 変な笑いが出た。

「陰謀論……って普通ならいうとこだけど、それを言わせないためにあたしをこんな店に連れてきたってわけだ」

 いつの時代どこの場所でも、何かにつけて陰謀論を論じる者はいるが、大抵が誇大妄想狂による取るに足らない妄言だ。今回もこの場所に来ていなければそう切って捨てただろう。

「やはり君は面白い」

「あたしは面白くない。言っとくけどもう最初の依頼は果たしてるからね。もうこれ以上、厄介事には巻き込まれないからね」

 手元のカップに口をつける。久しぶりのちゃんとした味わいは、数少ない心のオアシスだ。もちろん、現実逃避なのは言うまでもない。

「そうつれないことを言わないでくれたまえ。全ては私の社会復帰のためだよ」

「いや、もう社会復帰って何なのかがわかんねえよ」

 鼻腔をくすぐるふくよかな香りに、ほんのりと口角が緩む。

「簡単な話だよ。このまま私が社会に出るだろう、魔女として」

「魔女として社会に出るってのが想像できないけど、百歩譲ってよしとするわ。うん、続けて」

「するとどうだ、この世界では私はただの異物でしかない」

「それは同意。ものすっごい異物だね」

「戦争になるね」

 一瞬、コーヒーの味がわからなくなった。

「……ここで飛躍しすぎ、って言えないのがつらいとこだけど、まあでもいいんじゃないのか? どんな形であれ世界に関わるのは」

 むしろそれこそが最もアリスベルらしい、世界との関わり方にさえ思えた。

「その意見はもちろんだが、問題はそのあとだ。仮にどちらが戦争に勝利しても、結局は私には社会復帰の道は残されていない」

「いまいち何言いたいのか見えないけど、いいや」

 口の中に満たされた苦みと芳醇な香りが心を落ち着かせる。そうでなければこんなあほな話は聞いていられない。

「私が勝てば世界は滅ぶ。これでは社会復帰は成し得ない。何せ滅んでしまったのだから」

 滅ぼすまでやるんだ、とはもはや疑問ではなかった。

「で、ここが本題なのだが、私が負けた場合だ。今のこの世界では、魔女という異物はどのように扱われるね?」

「あ~、そゆことね」

 おそらく、歴史にすら残らない。神話や伝承の類の中で、悪魔やほかの亜人種と同列に語られるだけで、なかったことにされる。事実、四百年前の人魔大戦が既にそれに近い扱いをされていることが、そのことを如実に物語っている。

「確かに、社会復帰目的で社会に関わったのに、なかったことにされてりゃ世話ないな」

「というわけで、私はどうやらこの世界を変えようとする何者かを引きずり出し、その企みをねじ伏せなければならなくなった」

「そりゃまた御大層な。で、あてはあるの?」

 そもそもの前提が半ば陰謀論じみているにもかかわらず、さらにはその首謀者を特定すると来た。もはや誇大妄想を超えた何かの域だが、目の前の少女はどこまでも本気のようだ。

 呆れてものも言えないガーネットが、さて次はどんな話題でお茶お濁そうかとカップを傾けると、おもむろに近づいてきた店主が声をかけてきた。

「盗み聞きするつもりはなかったんだが、何だ? あんた、仕事を探してるのかい?」

 どうやら端々に登場する「社会復帰」という単語からそう解釈したらしい。さすがに「いえ、この世界の歪みを正すために諸悪の根源を探してます」なんて言えるはずがない。

「ああ。あたしじゃなくてそっちがね。いや、まあ、あたしも近々そうなる可能性大だけど」

 もはや軍籍があるのかどうかすら怪しい身としては、あながち冗談でもなかったりする。

「だったら今は止めといたほうがいい。間が悪かったね」

「どういうことよ?」

 深刻そうな顔をする店主に思わず訪ねてしまったが、余計なことを口走ったと気づいた時にはすでに遅かった。アリスベルは店主の言葉に耳を傾けて首を突っ込む気満々だ。

「あんたらがこの店に入ってきたときにあの大男、オーガが過敏に反応したのもそれが原因なんだがね。今私ら亜人種はある事件のせいでうっかり外を歩けないのさ。それこそ、こんな店で集まってるなんてのがお上に密告されようもんなら、問答無用で一網打尽の即逮捕だよ」

 声を潜めて耳打ちする店主だが、亜人種だらけのこの店でそんなことをするに意味はないように思えた。

「の割にはそこそこの人数が来てるように見えるけど」

「ちょっと前まではそうでもなかったんだけどな、引きこもって息をひそめてるのも限界が近い。そんな連中の息抜きになればってことで私も店を開けてるってわけだよ」

 トーンを落とした声には隠し切れない焦燥と疲労感とがにじんでいるように思えた。どうやら嘘ではないらしい。

「ふうん、なんか複雑な事情みたいだな。で、なんでそんなに追い詰められてるわけ? ってか、亜人種だからってだけで人目を避けなきゃいけないのは今に始まった話なの?」

 これまでの話でも、どちらかというとひっそりと日陰者として生きることを余儀なくされているような印象だっただけに、ことさらにそのことを持ち出されるのは妙だった。

 けれど、

「そういうわけじゃないんだがね、今回のはたちが悪い。あんた、最近王都を騒がしてる通り魔の話は知ってるだろう?」

 そういえば、今回の任務を押し付けられて王都を出発するちょっと前からそんな話が上がっていたのを聞いた気がする。

「そういえば、あったね。あれってそんなに大ごとになってるの?」

 たかが通り魔というつもりはないが、それと一体何が関係するのかと首をひねっていると、

「公開はされていないが、あれな、死体が食われてるんだ」

 「へえ」と相槌を打つのがやっとだった。もちろんその薄い反応は、裏で脳みそがフル回転していろいろと察してしまったうえで、そう反応するしかなかったからだ。

 と同時に、一つの疑問に突き当たった。

「ってことはさ、官憲は亜人種の存在を認知してるってこと? あれ? じゃあ、存在をなかったことにしようとして、あれ?」

 猟奇事件の犯人候補として疑われ、その行動が制限されているというのはつまり「亜人種という、そういう事件を起こしてもおかしくない奴らがいる」と認知されているということだ。いないものとして扱われているのであれば、そもそも捜査の対象にはならないはずではないか? そんな矛盾をはらんだ言葉にならない疑問に、店主は疲れ切った声で答える。

「いない体ではあるが、存在することは周知の事実。そして、ことあらばまずそいつらから疑う、ってのが暗黙なのさ。官憲や聖教会の上の方に限ってではあるがね」

「まじかよ、やべえ奴じゃねえか」

 ことの重大さに頭痛をこらえているようなしかめっ面になるガーネット。

「ある程度は想定していたが、思ったよりもこの件は根が深くて厄介なようだね」

 方やアリスベルは、言葉ほどには表情に驚きは出ておらず、むしろその程度は想定内だと思っている節さえある。

 確かに、大きな事件が起こったときにそれを利用して冤罪だろうと何だろうと、時の政権や権力者階級に都合の悪いものを葬ってしまうというのは、ないわけではない。

 しかし、今回の件はそういったものを遥かに超越しているように思えた。

「私らもここで長く暮らしてるが、こんなのは初めてだ。だからって声を上げればそれこそ格好の的にされるだけだ。いずれにせよ、私らにできることは嵐が過ぎ去るのを息を殺して待つだけだよ」

 最後のぼそりと「過ぎ去ってくれればいいんだがね」とこぼした掠れ声には、どうしようもない諦めがにじみ出ていた。

 しばらくは誰もが口を開くのがはばかられる沈痛な静けさが店に満ちていた。アリスベルも、何か思うところがあるようでじっとテーブルの一点を見つめて唇を引き結んだきりだ。

 さすがにこの雰囲気で食事をする気にもならず、もっと言うならアリスベルの目的がものを食うことではなかったというのもあって、二人のコーヒーカップが空になるのが退店の合図ともなった。店を出るときにいくらかの視線が背中に突き刺さっているのを感じたが、振り返る勇気はなかった。

 路地を抜け、角を曲がり、少しずつ通りが広くなるにつれて人通りは多くなるが、そのすべてが当然のごとく普通の人間だけだということに、今は軽い違和感すら覚えている。

 そしてもう一つ、

「気づいてる?」

 そんな何の変哲もない人の流れに一つだけ、ずっと一定の距離を保ってこちらについてきている明らかに異質な影があった。

「そうだね、一応店を出たところから、ということであれば」

 アリスベルもその追跡者のことには気が付いているのを確認すると、ガーネットは視線だけで通りからはずれる一本の路地を示した。

 対するアリスベルは頷きこそしなかったが、視線の向きと緩やかな歩調の変更で緩やかに進路を路地に向けてゆく。

 逆向きの人の流れを縫うようにして横切り、通りにはみ出すようにして陳列された雑貨屋の商品をかすめて道の端に寄り、ちらりと一瞬だけ背後を盗み見る。さすがにそんなに露骨にこちらとの距離は詰めては来ていないようだが、往来の流れに僅かなよどみが生まれているのが確認できた。

(ん、ちゃんと追ってきてるな)

 それ以降は背後を確認することなく、極めて自然な足取りで立ち並ぶ飲食店を区切る路地の一本に足を踏み入れた。

 人ごみの埃っぽさと雑多な料理の臭いに加えて、空気の流れが滞った場所特有の据えた臭いが入り混じっている。こんなところに好んで足を踏み入れるのは残飯目的の野良犬や野良猫か、さもなくばお天道様の下を堂々と歩けない日陰者かだ。

つまり、おあつらえ向きだった。

 しばらく奥に進むと、もはや隠す必要もなくなったと判断したのか、背後の気配は足音さえ殺すことなく徐々に距離を詰めてこちらに接近し始めている。

 こちらの意図を組んでくれたとは思わないが、話が早い。

 複雑に入り組んだ路地を抜け、通り沿いからワンブロックも奥まったところに入り込めば王都中心街とはいえ空き家も少なくない。スラム街半歩手前のようなその場所は犯罪の温床として警戒されている区域で、つまり切った張ったに第三者を巻き込まないためにはうってつけだ。

 比較的広くなっている場所を選んで足を止めると、くるりと回れ右。今しがた自分たちが抜けてきた路地に向かって言い放つ。

「間違ってたら謝るよ。あんたが通り魔で、こっちは被害者ってことで間違ってないよね?」

 腰の剣には手をかけてこそいないものの、ワンアクションで抜き放てるように上半身は脱力。

 単なる物取りか何かで、女二人だと甘く見ていたやつがこれで引き下がってくれれば御の字。引き下がらなくても軽くひねって蹴り返すだけ。

 そして、そのいずれでもない場合は、

「悪いけどいろいろと聞かせてもらうよ」

 こちらの行動に反応した影が角から飛び出す瞬間を押さえるように、先手を打って地面をけったガーネットだったが、その目の前に影が落ちたのは全くの幸運だった。

「上ぇ!?」

 先手を取っていたのは向こうだったらしい。

 頭上を振り仰ぐよりも先に壁を蹴って進路を捻じ曲げ、不自然な体制の中で腰をよじって剣で頭上を薙ぎ払う。

 見えたのは、両手に短剣を携えた軍服姿。

 そいつが人間であるという以上の情報を得るよりも早く、互いの刃が交錯し、薄暗い路地に火花の明かりが散る。

「くっそ! なんであたしはナイフ使いにばっか会うかな」

先日の列車内に続いてこの狭い路地での立ち回りと、長剣のほうが不利になる状況ばかりで出会うナイフ使いを、ガーネットは本気で嫌いになりかけていた。しかも、

(こいつ、めっちゃ強い!)

 獲物の有利不利だけではない、相手の圧倒的な技量にガーネットは舌打ち一つままならずに限られた動きで剣をふるう羽目になっていた。

 片方のナイフを裁けばもう一本が手品のように死角から襲い掛かり、鼻の頭を掠める軌跡に息をのんだ次の瞬間にはわき腹に迫る一撃を間一髪で払いのける。そんな、一瞬から次の一瞬への綱渡りのようなやり取りは、しかし確実にガーネットを追い詰めていた。

 しかし、その中でも頭の中の冷静な部分が相手が何者であるのかを分析し続けている。

 軍服だが、正規兵のそれとはやや異なっているのはその軍帽のデザインが儀式の際に装着が義務付けられている礼装に近いからだ。よく見れば軍服もどちらかといえば礼服寄りのデザインで、細かな部分に衣装が施されているのは警官隊のそれに近い意匠だった。

(憲兵隊か!)

 軍内部において警察組織的な役割を持つために、戦場ではなく基地内での活動を主とする彼らは服装も警察寄りのものになっているのだ。

 ということは、少なくともこいつらは通り魔犯なんかではなく、場合によっては同じ目的で動いている可能性がある。そう思ったガーネットは、

「待て待て待て! あたしは」」

 息つく間もないない斬撃をすべて紙一重でしのぎ、後方から駆け寄るもう一人の挙動にも注意を払い、さらには少し遠巻きに状況を見守るいくつかの気配すべてに聞こえるように自身の所属を、

「まて! あたしは独立遊撃……」

 叫びかけて、やめた。

(なんでだ? なんで、軍内部の秩序維持のために”軍組織のみを活動対象”としているこいつらが動いてる?)

 自分の知る限り、この国の憲兵隊が一般的な警察任務を遂行することは、よほどの有事でない限りありえない。それゆえに、憲兵隊の活動は一般軍人にとっては敵の動向以上の一大関心事とさえ言われる。

 そんな、戦場で常に体を張っている兵隊を相手にする連中が並の技量であるはずもなく、もれなく一騎当千の強者だらけで、目の前のこいつの技量からも相手が憲兵である可能性は濃厚だった。

 だとすれば、可能性は二つ。

 一つは、本当に自分が憲兵に追われている可能性。これは否定できないが、だとすれば堂々と名乗りを上げるのは墓穴以外の何でもない。むざむざ逃げ道を自分でふさぐこともない。

 そしてもう一つは、

(憲兵がこんな昼間っから街中で動くような不祥事が、軍内で起きている。で、あの店から出てきたあたしらを襲撃するってことは……通り魔事件は、軍人の犯行?)

 そこまで考えたところで、再び思考を体さばきに割り振る。いずれにせよここで名乗りを上げるのは悪手なのは間違いない。かといって、自分の力量ではここにいる全員を押し切るには心もとない。仮に押し切ったとしても、それはそれで別の罪状がくっついてしまうだろう。

(となれば)

 不本意だが、と自分に言い訳するように前置いて、視線を一瞬だけ背後のアリスベルに向ける。相手が相手なのでそれ以上の油断は即座に死につながるが、それですべてを察してくれると信じるほかない。

すると、その意をくんでくれたらしいアリスベルは視線の動きだけで頷いたかと思うと、静かに瞼を閉じて、すっと小さく息を吸い込んだ。

(よし! ここは魔法でこのピンチからバックレるしかない! たのむぞ!)

まさか魔法に頼る日がこようとは夢にも思わなかったが、使えるものなら何でも使うのが信条だ。卑怯だなんだというのは負け犬の戯言だ。

 というわけで、どんなトンデモな効果が発揮されようと対処できるように身構えて、

「きゃーーーーーーーーーーたすけてころされるーーーーー」

驚くほど棒読みの絶叫が、狭い路地裏にこだました。

「なふ」

 人間、驚きすぎるとぐうの音も出なくなるというが、「なふ」は出るらしい。

 しかし、なふなふ言っている間にも斬撃の雨は降りやまず、何なら先ほどよりも苛烈さを増しているではないか。当然だが、アリスベルの棒読み悲鳴を聞いたガーネット以外の人間にとっては、それが棒読みであるかどうかなんて関係ない。なんなら、その棒読み具合ですら恐怖によるストレスから六に感情を発信できないのだという独自解釈が加わり、その庇護欲と正義感の炎をさらに燃やすものさえいる。

 というわけで、

「生け捕りであれば手足の数はそろってなくても構わん!」

 指揮官と思しき男の声が路地にこだました。

(おいおいおいおい! なに物騒なこと言ってんだよ! あたしゃトカゲじゃねえんだぞ!)

 勢いを増す斬撃を、それでも薄皮一枚ところでかわしつつアリスベルをにらみつけるが、文句を言う余裕は毛ほどもないのが歯がゆい。

 そうこうする間にも、部隊長のお墨付きが出た数名がガーネットに殺到しているの視界の隅にとらえられた。その中の一人は、悲鳴から被害者だと思われたアリスベルを保護するべくそちらに駆け寄っている。

(一人でもやべえってのに、同時に何人も相手にしたらそれこそ芋虫にされる! っつか、なんだよ目が怖えよ!)

 どうやらアリスベルが美少女であることが男たちの正義気なんだか何だかの火に油を注いでいるらしいのも腹立たしい一因ではあった。

(あたしも女だっつうのに!)

 声には出さずに胸中で力いっぱい毒づきながら、しかしもはや気力も集中力も限界。これ以上の抵抗はかえって相手の戦意をたきつけるだけ。ならば早々に降参するのが得策と、剣を捨てるタイミングを計っていると、

「っ!?」

 突如として、視界が白い闇に包まれた。

 あまりにも唐突すぎる変化に、視界だけではなく施行までも白一色に塗りつぶされ、平衡感覚まで馬鹿になってしまう。

 が、どうやらそれは相手も同じだったらしく、突然の事態に周囲からは動揺の声が上がっているが、おかげで視界だけが白く塗りつぶされたのだということが確認できた。

(ってことは、ここで声を出すのは愚策か。っつっても、相手もすぐにそのことには気づくだろうし、何ができるってわけでも)

 かろうじて聞こえる声を頼りに、距離を稼ぐべく誰もいない方に後ずさっていると、

『この霧に紛れて逃げたまえ』

 アリスベルの声が、驚くほど近くから聞こえた。

 立て続けの不意打ちに喉元まで悲鳴が出かかったのを、腹筋と奥歯の力だけで噛み殺した。今のはヤバかった。

 と、悲鳴をのみ込んで少しだけ冷静さを取り戻すと、今度は伊臣不明な気候に文句の一つも言ってやりたくなって、声のした方を振り返って、

「ひっ!」

 今回の悲鳴は殺しきれなかった。そりゃそうだ、だって、振り返った先、鼻の頭が触れそうなごく至近距離にあったのは、

(なんで、あたしの顔!?)

 まあ、そのおかげでこの真っ白に視界が染まったのは濃密過ぎりきりのせいだということに気がつけたのだが、だからと言って自分の顔がそこにある恐怖はそんな発見の前では味噌っかすだ。

 驚愕のあまり今度こそ思考停止に陥ったガーネットの耳に、さらにアリスベルの声がこだまする。

『君の鼓膜のみを直接震わせて声を届けているので他の者には聞こえない。だが、君の声は周囲に聞こえてしまうので黙って聞いてくれたまえ。この霧に乗じて逃げるのだ。私がこの君の姿で代わりにつかまろう』

 斜め上にすぎる突然の案に、しかし声の出せないガーネットは事態の把握だけに脳をフル回転させるが、それでもその意図はつかめない。

 ただそれでも、自分以外の誰かを生贄に自分だけが逃げるなんて、二つ返事で承諾できるはずもない。抗議のために首を振って、表情だけで反論していると、

『わかっているよ。だが、ただ無策に逃げるのではない。君であれば、今回のこの大きな陰謀の真相にたどりつき、私のもとに報酬を受け取りに来られると判断したからだよ。だから今しばらく、その姿でいることを許容してくれたまえ』

 自分の姿をしたアリスベルに指さされ、自らの首から下を見下ろしてすべてを理解した。

(見た目を入れ替えた、ってことか)

 服装はアリスベルの着ていたものに入れ替わっていた。しかし、着ているものの感触や腰に剣を収めるさやがぶら下がっている感触ははっきりとあるし、手を伸ばしてみると目には見えないさやの感触がはっきりと感じられた。どうやら見た目だけが変わる魔法がかけられているようだった。

 つまり、ここで二人して逃げるのは簡単だが、そうなると二人とも顔を見られているこの状況下では両方に追手がかかる。しかし、犯罪者認定されたガーネットの方だけが捕まれば、被害者のアリスベルの方は、いなくなったとしてもうまく逃げおおせただけだと判断されて自由に動き回れる、ということらしい。

『さあ、この霧も長くはもたない。私のところに真実をもたらしてくれるのを待っているよ』

 どうやら、こいつと出会ってからの定番だが、自分には選択肢がないらしい。

(魔女……な、どうやらこいつの魔女たる所以が、ちょっとだけ見えてきたわ)

 何一つ偶然などない、なんなら偶然の挟み込まれる余地すら計算されているような気がして薄ら怖くさえある。

 ともあれ、こうなればやることはただ一つ。このまま捕まってもアリスベルの姿をしている限りはいずれ解放されるだろうが、つかまらないに越したことはない。

(報酬忘れんなよ! 地の果てまで追いかけてでも回収するからな!)

 声に出さずに心の中で叫ぶと、伝わらないはずの声が届いたかのようにほくそ笑んだ。自分の顔が、たぶん自分はしないであろう形に笑うのは不気味だったが。

『楽しみにしているよ』

 わずかに薄らぎ始めた霧の中、ぼんやりと見えるシルエットを頼りにガーネットは走った。

 地面をける感触も降りぬく腕も腰で揺れるさやの感触もいつも通りなのに、目に映る自分の姿がそれと一致しない違和感は何とも言い難い。

「まて! 降参だ、もう抵抗はしない! 剣も捨てた!」

 背後に聞こえる、降参を告げる自分と同じ声を振り切るように、ガーネットは路地を駆け抜けた。


「っても、そう都合よく真実なんて転がってるわけねえよな~」

 路地での命がけの切った張ったから数刻。自分を追っている憲兵もそれ以外もいないことを慎重に確認したガーネットは、新たな難題にぶつかっていた。というのも、

「おじょうちゃんみたいなかわいい子がこんなところを一人で歩いてちゃあぶない。おじさんが一緒について行ってあげれば安心だよ?」

 ほんの数刻の間だというのに、変なことする気満々の変態野郎に声を掛けられるのはこいつで五人目だ。これが普通のナンパであれば百歩譲って無下にするのも楽しめたのだが、こともあろうに今の自分の外見はアリスベルなのだ。

 つまりこいつらは、年端もいかない少女目当てに声をかけているというわけだ。

 全身が総毛だつほどの嫌悪感に、首を切り落としたくなる衝動を噛み殺すのが精いっぱいだった。

 しかしたちが悪いことに、こういう変態連中は口を開かない少女を気弱だと勝手に判断する傾向にあるらしく、なかなかにしつこく声をかけてくる。なんならそれをいいことに無理やり手を引こうとするやつまでいた。

 というわけで、我慢も限界だった。

「うるさい殺すぞ」

 外見にそぐわない低めの声でどすを聞かせて、蹴りをぶち込むふりをして威嚇する。

 が、これもまったく功を奏さないばかりか、にやにやと「怖いなー」と小バカにしたリアクションをするだけだ。

 警告はした。

余談だが、ガーネットが履いているのは軍用のブーツで、こいつの特徴はとにかく頑丈であること。履き心地や歩きやすさを完璧に無視して、どんな過酷な状況でも兵士の脛から下を保護するために作られているおかげで、兵士たちの間では「武器がなくなれば死んだ同僚の足をもいでそれで敵をぶっ叩け」といわれるほどだ。

 というわけで「めぎっ」という鈍い音とともに変態ナンパ野郎は、砕けた脛を抱えて無言でその場に崩れ落ちた。最初は股間をけり上げようとも思ったのだが、そうしなかったのは情けをかけたからではない。靴が汚れそうな気がしたからだ。

「馬のクソ踏むのは抵抗ないけど、こいつの……なんて、靴捨てなきゃいけなくなる」

 地べたに這いつくばり、痙攣する変態を傲然と見下ろしたガーネットは、周囲がわずかにどよめいたのにを気にも留めずにさっさとその場を後にした。その周囲も、突然男が倒れたことにこそ反応したが、それ以上は特に騒ぎ立てるでもなかった。どうやら小さな女の子のかわいらしい反撃程度にしか思っていないようで「大の男が情けない」と、大事にもならずに済んだようだった。

(なんだ、最初っからこうすればよかったんじゃん)

 実際には男の脛の骨は粉々に砕けており、変態野郎は医者から「どんなデカい馬に蹴られたんだ?」と問い詰められることになるのだが、それはガーネットのあずかり知らぬところ。

 少しだけ胸がすっとしたガーネットだったはつっかえが落ちた胸を撫で下ろしたのだが、まさかそれが次の悲劇の引き金になろうとは思いもしなかった。

「うそだろ……あいつの方が胸、あるのかよ……」

 なでおろした胸の感触と、外見とが一致しなかったのだ。具体的に言うと、掌は確かに胸に触れているのだが、外見上はその手が服の中にめり込んでいるように見えたのだ。もちろんそれもうっすらとでしかなく、端からは厚手の生地に掌が埋まっただけにしか見えないのだが、ガーネットにとってはその薄布数枚の差が決定的な衝撃だった。

 もう一度後ろを振り返って、崩れ落ちている変態野郎の脳天に怒り(八つ当たり)の鉄槌を下してやりたくなったが、その怒りを上回る絶望感にガーネットは焦点の合わないままに通りをよろぼい歩くのが精いっぱいだった。

 そしてこうも思った。

 次に声をかけてきた変態野郎にはこの世から消えてもらおう、と。

 理不尽だとは言ってやるな。これが同年代以上の女性と比べてであれば、多少はダメージも少なくあきらめるための言葉はごまんと用意できただろう。しかし、よりにもよって年下の自分より背も尻も小さな少女に負けたのだ。

 そして、その瞬間は意外にも早く訪れた。

「おい」

 背後からの男の声に、自分のおぼつかないお足取りを本当に心配しての声だとは思えないほどに、ガーネットは冷静さを欠いていた。

 それが功を奏したのだろう。

「今のあたしは人生最高に虫の居所が悪い。恨むなら自分の運の悪さを恨め」

 呪いでも吐いているかのようなまがまがしい声とともに、ガーネットは振り向きざまの裏拳をたたき込む。これがいつものガーネットの体の切れであればもしかしたらヒットしていたかもだが、今回は怒りに任せた大ぶりの一発だった。

 並みの一般人程度であればなすすべなく顎を砕かれてノックダウンだっただろうが、あろうことか背後のそいつは紙切れが宙を舞うかのような華麗なステップでその一撃をこともなげにかわす。被っていたフードマントの端っこをかろうじて拳の端っこが掠めはしたが、それがガーネットを一気に正気に引き戻した。

 同時に、体中の毛穴が開ききるほどの緊張感に奥歯をかみしめて悔やんだ。

(外したんじゃない、かわされた。紙一重で)

 考えなしのバックブローをかわされたことで体制は絶望的なまでに崩れていてとてもではないが次の一撃で牽制するなんてできそうにない。

 隙だらけのわき腹を晒しながら悔やみきれない失態を悔やむ。相手がその気だったらゆっくりご希望の臓器に狙いを定められるだろう。自分ならそうする。

 せめて肝臓と腎臓だけは避けよう、そう思って無理な体制ながらも首をひねってマントにすっぽり隠された相手の、手や足の動きを追うが、

(?)

 よけるためにバックステップをしたそのままの姿で、じっとこちらの動作が終わるのを待っているだけで、ピクリとも動く様子がない。もしかしたらマントの下に暗器でも隠し持っているのかとも思ったが、それもなさそうだ。

 マントの揺らぎが収まるのとほぼ同時にガーネットも体制を整え、くるりと背後を振り返って男と正対することになったのだが、それでも相手が動きを見せることはなかった。

「一応聞いとくけど、幼女趣味の人攫いではなさそうね」

「そういうのは殴りかかる前に聞くものだと思うがな。俺はその外見の魔女ではなく、中に隠れている人間の方に用がある」

 まさかの男の言葉に、今度こそ動揺を隠しきれない。

「なん、で? 外見の、ってことはあんたにもあたしは子供に見えてんだろ? なのに」

 魔法が解けているのかとも一瞬思ったが、窓に映る自分の姿は相変わらずアリスベルのままだし、相手も見た目と中身が違うことを看破したうえで話しかけているのは間違いなさそうだ。では、

「説明は端折るが、そうと聞いたうえで見れば細かな違和感がそこかしこに現れているからな。ただ、そうと聞かされていなければまず気づくことはできないだろうがな」

「そうと、聞いていなければ? 誰に?」

 いきなり怪しさ最大限に急上昇した男に、ガーネットは半歩後ずさりながら腰の剣に手をかける。

「例えば今、あんたは腰の剣に手をかけた。剣は見えなくても重心の偏りやら右半身の力みやらでそこそこにでかい剣、おそらくは騎士剣あたりだろうとは想像がつく」

 うすうす気づいてはいたが、どうやら想像している以上の手練れであるらしい。それこそ実力では自分を遥かに上回るだろう。

 一瞬、この外見を生かして周囲に助けを求めるふりをして逃げの一手を打つかとも思ったが、それでも逃げ切れる保証はない。何より、

「用、って何? あんた、あたしのことは誰だかわかってないみたいだけどこいつのことは知ってるみたいじゃない」

 アリスベルを指して「魔女」と称する相手に、いくら警戒してもしすぎということはない。

 腰だめの構えも柄にかけた手もそのままに、ガーネットはフードの向こうからの声を待つ。

「ちなみに、外見の方にも面識はない。ただ、魔女だと聞かされているだけだ」

 拍子抜けの回答ではあったが、そもそもこの国にあって魔女の存在を、それもアリスベルを魔女だと知っているだけで危険度は最大だ。

 しかし、それと同時に今のガーネットにとってはあるかなしかの真実につながる糸でもある。だから、おいそれとこの糸を手放すこともできないというジレンマもあった。

「で、そのあたしについて来いって言ってたけど、どこに? 何が目的? まさか、憲兵にでも突き出すつもりじゃ」

 考えうる最悪の末路だが、

「目的は知らん。さっきも言ったが、俺も遣いを頼まれただけだ。それと、憲兵だけはないから安心しろ。そこに行けばあんたよりも先に俺の方がお縄だ」

 顔出しじゃないのだから察しろ、とばかりに顔を覆っているフードをつまんでひらひらと揺らす。その奥の顔立ちなどははっきりとは見えなかったが、わずかに見えた輪郭や、何よりも人とは明らかに違う魚やトカゲを思わせるウロコがびっしりと張り付いた肌が物語っていた。

「脛に傷持つ者同士、って?」

「そうとらえてもらって構わない」

 少し前までなら一笑に付したところだが、いまやガーネットは立派なお尋ね者だ。ただし、自分の場合は身代わりのアリスベルが既に確保されているのだが、それでも憲兵に見つかればどうなるか分かったものではない。

 何より、今の自分には全くと言っていいほど情報がない。

「わかった。お互い騒ぎになると都合が悪いってのは一緒みたいだね」

 ここでようやく構えを解いて、ゆるりと背筋を緊張から解き放つ。さすがにこれ以上構えたままでにらみ合っていては足腰がバキバキになる。

「わかってもらえて何よりだ。悪いようにはしない」

 とだけ言うと、男は何を言うこともなく雑踏の中に自然な足取りで踏み出していった。どうやらついてこいということらしい。

「悪いようにしない、ね……すでに大概悪いようになってる気がするけどさ」

 ため息交じりに独り言ち、少しだけ距離を取ってガーネットもその背中を追って歩き出す。


「おい、悪いようにはしないっつったよな」

 フード男の背中をにらみつけながらどすの利いた声を放ったガーネットは、視線だけで周囲の景色をもう一度眺めて鼻筋を歪ませた。

「言った」

 対する位男の方は振り返るどころか足を止めることもなくずんずんと進んでいく。

 さすがにガーネットはその背中についていくことができずに、立ち止まって言い放った。

「これの、どこが、悪いようにはしないだ! 思いっきりその気満々じゃねえか!」

 そりゃそうだ、なんせ連れてこられた先が、

「なんで、しょ、しょ、娼館街なんだよ!」

 色街だったら、誰だってこうなる。

 街並みこそ一見しただけではほかの居住区と変わらぬたたずまいではあるが、個々の建物の細かな特徴や、その窓から外をうかがう艶っぽいながらも生々しい女たちの視線に、個々がそういう場所であることはそうした世事には疎いガーネットにも容易に察せられた。

 何より、

「あんた、さっきからめっちゃ声かけられてるしな」

 露骨にではないものの、道行く女たちがすれ違いざまに男に手招きし、あるいは露骨に女を押し出したポーズと表情で誘惑しているのだから、気づかない方がどうかしている。

「心配するな、悪いようにはしない」

「一切信用できねえよ! どう考えてもこれ、売られて沈められる未来しかねえだろ! 悪いようにしかならねえよ!」

 しかし、そんなガーネットの抗議の間にも男はずんずんと娼館街の通りを奥へ奥へと突き進んでいく。

 一人ぽつんと取り残されたガーネットだったが、周囲の娼婦たちの何とも言えない視線はさすがに居心地が悪く、

「くっそ! なんなんだよ!」

毒づきながらも、結局はなし崩しに男の後を追う羽目になった。小走りにマントの背中を追う姿は、売られそうになった女が男に追いすがるようだ、とみていた娼婦が思ったかどうかは定かではない。

しかし思いのほか男の歩調は速く、手が届くほどの距離に迫ったころには、ずいぶんと娼館街の奥深くにまで踏み込んでしまっていたらしく、周囲の景色も入り口近くのこぎれいな住宅街といった装いから、貧民街のそれに近い印象に姿を変えていた。

 ますますやばいことになっているとは思いながら、このころになるとガーネットもそれなりに腹をくくっていたのだろう。

「おい、まだ奥に行くってのか? 言っとくけど、変なことしようってんなら、あたしにだって考えがある、それなりの覚悟しとけよ。最悪、あんたのあ、あ、アレだけでも切り落として」

 「アレ」が何なのか、とおやじ臭く突っ込まれると顔を真っ赤に染めてしまうガーネットにはこれが精いっぱいの強がりだが、当然男には抑止力どころか挑発にすらならない。

 が、さすがにこれ以上黙している意味はないとおもったか、男は不意に歩調を緩めたかと思うと、フードに手をかけておもむろにそれを払いのけた。

「一応言っておくと、ガキは趣味じゃない。あと、お前らの種族が俺に欲情しないように、俺もお前らの種族には欲情しない

 中から現れたのは案の定、人とは似て非なるもの。亜人種。大きく突き出した口にはびっしりと並ぶ牙。、縦に細長い瞳孔を持つ瞳、毛のない頭部はびっしりとうろこに覆われている。

 物語に登場するなら、リザードマンやアリゲーターマンあたりがその呼び名になるだろうその姿は、トカゲ寄りの人間というよりは二足歩行をするトカゲといった様だ。

「中にはそうじゃないのもいるみたいだがな。それが証拠に、周りを見てみろ」

 そういわれて周囲に目を向けてみると、男の姿を確認した娼婦たちが娼館からちらほらと姿を見せ始めていた。そこでようやく男の意図を理解したガーネット。

「そういうことね。奥の方は亜人種用の娼館街ってわけだ」

 姿を見せた娼婦たちは、その姿こそまちまちだで一見してそれとわかる亜人種からよく意味ないと人間と変わらないものまで千差万別だった。どうやらこの娼館街は表向きは人間用として営業しているが、それを絶妙に隠れ蓑にして亜人種向けの営業も行っているということのようだ。

「幅広い好みに合わせて、ってわけか」

 その真意をくみ取ったわけではないものの、事情は十分に理解できたつもりだ。

「そういうことだ。あと俺の話だが、名前はない。元傭兵だ。十九号と呼ばれることが多い。あと、よく聞かれるので先に言っておくが、卵は産まない種族だ」

 なかなかに衝撃的な情報だが、それはつまり同種で子をなし血脈をつないでいる存在であることも意味している。

 改めてだが、ここまではっきりと動物の特徴を持った亜人種を目の当たりにしたのが初めてだっただけに、衝撃はそれなりではあった。「それなり」というあたりに、ガーネットの非凡さが伺えるのだが、それを伝えたところで本人は一切喜ばないだろう。

 「これ以上何かあるか?」とでも言いたげな十九号の視線だが、さすがの説得力にこれ以上問いただす気も失せ、ゆっくりと首を横に振った。

 それだけで十分とばかりに十九号は再び歩を進めようとして、何かを思い出したように、

「それと、お前では商品価値はない。売るに売れんから安心しろ」

 とだけ言うと今度こそそれまでと同じ、規則正しいペースで歩き始めた。

 ガーネットは誓った。この後に罠が待ち構えていた場合、最優先でこいつを殺ろう、と。


 さらにワンブロックほど歩いたところ、他とは若干たたずまいの異なる建物の前で足を止めると、十九号にその中に入るように促された。

 見るからに老朽化した建物ではあるが、玄関口に施された彫刻の意匠や高めの天井、劣化していながらも時の流れの味わいを感じさせる石造りの壁は、もともとはそれなりに立派な建築だったことをうかがわせた。

 中に入ると、外観の劣化からは打って変わって古さを感じさせない壁や天井の質感に驚かされたが、ところどころに不似合いな派手な内装や装飾品がみられるのはそうした店にありがちなのだが、当然ガーネットにその知識はない。

 驚くほど毛足の長いじゅうたんが敷き詰められていて、一瞬このまま踏み込んでよいものかと躊躇していると、

「ようやく来たね、魔女の連れ合い」

 頭上、吹き抜けになったホールを隔てた上階の廊下から声が降ってきた。

 その声は広々とした吹き抜けホールにしっかりと響き渡り、大したボリュームではないのにズシリと腹の底に響く重さをはらんでいた。小さな声が耳の奥にしっかりと残る、不思議な感触だった。

「わざわざの足労すまないね。すぐにそちらに行くのでそのまま待っていてくれよ」

 頭上からの声になぜか気後れしながら振り仰ぐと、通常よりも高い位置にある二階廊下の手すりに身を乗り出してこちらをのぞき込むようにしている少女が一人。

 逆光で顔がよくわからないが、なんとなく声と外見が似つかわしくないなんて思っていると、

「おい、なにやって、あぶないあぶない、落ちるから、ちょっ! あぶっ」

 いきなり少女が手すりに乗り上げてよじ登り、足をかけてまたがったかと思うと、

「よっ」

 何の躊躇もなく、飛び降りた。

 そこでようやく、少女の髪がわずかに青みがかった緑のウェーブヘアであることと、特徴的な大きな瞳が黄金をそのままはめ込んだような金色であること、黒を基調としたワンピースドレスを身に着けていることが分かったが、そんなものは二の次だ。

 見た目は二階とはいえ、ワンフロアがかなり高く作られているせいで通常の建物の三階かそれ以上の高さの、さらに手すりを乗り越えたのだ。下手をすれば命にかかわるし下手をしなくても無事に済むはずがない。

 大慌てで駆けだそうとするガーネットだったが、さすがに不意を突かれすぎた上に少女の落下点までは距離がありすぎて、どうあがいても間に合わない。

 それでも、

「もおおおお、なんなんだよおおおお!!」

 絨毯の長い毛足と柔らかい感触がうっとうしい。腰にぶら下げた剣がデカいので足を動かすたびに太腿に当たって邪魔だ。最近走ってばかりな気がする。マントのトカゲ野郎が何もせずに傍観しているのがクソむかつく。

 そんなぐちゃぐちゃの思考に頭を塗りつぶされながら少女に向かって走るが、どうあがいても間に合わない。手を伸ばして飛びついてもタッチの差で間に合わない、それでも、それでも、そう思ってちぎれよとばかりに手を伸ばして床を蹴ったその目の前に、少女は落下した。

 ドスン、という決して軽くない音とともに、少女はほっそりとした両足でこともなげに着地していた。そう、無事に、こともなげに、まくれ上がるスカートを押さえる余裕まで見せて。

「お?」

「ん? 待っていてくれてればよかったのに」

 あまりの事態に、スライディング気味に前に飛び出したガーネットは、そのままふっかふかの絨毯にダイブ。図らずも少女の目の前に滑り込む形になってしまった。揺れるスカートの裾が鼻っ面に触れそうな距離にあるのが、どうしようもなく間抜けだった。

「ああ、そうか。ごめんごめん、いきなり落っこちてきたらびっくりするよな。そうか、助けようとしてくれたのか。ありがとうね」

 ようやく、ガーネットの行動の真意を理解した少女は、独特の深みのある金色の瞳でゆっくりとこちらを覗き込みながら、小さな手を差し出してきた。

「私はマズナグ・スーブ。この娼館街の亜人種側の顔役をやっているもので、ドラゴンだ」

 そう言って微笑んだ口角には形の良い牙がのぞき、見つめる瞳には縦に割れる瞳孔に加えて、瞳を保護するための瞬膜が瞼のようにまばたいた。

 ただでさえ予想外の出来事に面食らったところへの情報量の大洪水に、ガーネットの思考はいともたやすく崩壊した。

 差し出された小さな手を掴むこともできず、べしゃりと床に腹ばいになったままのガーネットはただただ茫然と少女の整った顔立ちを見上げるばかりだ。

「ん? ドラゴンって、知らない?」

 いや、知ってるけどさ。


 応接室に通されたガーネットは、出された茶に手を付けることもせずにじっと相手の出方を待った。というか、何もできずにただ座っていた、という方が正しいだろうか。

 テーブルを挟んだ向かいには、先ほどとんでもない高さからのダイブを決めた自称ドラゴンの少女。その傍らに立つのはマントを脱いだシャツの上からでも筋骨隆々の上半身がわかるトカゲ亜人種の十九号。そして、さきほど茶を運んできてくれた小柄な老翁が、反対隣りにちょこんと腰かけている。

 この状況で、いったい自分に何かできるとは思えなかった。

「っていうか、なんだこれ」

 思わずそう言わずにはいられなかった。もちろんこれは誰に対するものでもない、極限状態への愚痴のようなものだったのだが、皮肉なことにそれが呼び水となったようだった。

「そうだね、改めてちゃんと説明しないとだよね。ごめんごめん。この街にいる連中はみんな僕がドラゴンだってことを知ってるからさ」

 そう言って気さくな語り口で話すのは目の前の金目の少女。子供らしくピコピコと動く体に合わせて、ウェーブのかかったエメラルドグリーンの髪が揺れる。遠目に見たときは日の光を照り返して金緑色に輝いているのかとも思ったが、室内で間近で見てみると、その髪自体が光を帯びているような不思議な明るさをたたえている。これもドラゴンだから、なのだろうか。というか、

「ドラゴン?」

どう見ても普通の少女でしかない外見は、たしかにそう言われればこまごまとしたところが人間離れしている。しかし、それでもガーネットの知るドラゴンとは似ても似つかない。

文化圏によって細かな違いこそあれど、ドラゴンの世界共通の認識といえばトカゲの親玉のような巨体が巨大な翼で空を飛ぶ姿だろう。火を吐いたり雷を操ったり、時には神のごとき力で世界を蹂躙する禍々しくも神々しい、それがきっとドラゴンの共通イメージだ。

 何もかもが頭の中で一つになってくれない。そんなガーネットの心中を察してか、助け舟を出すように口を開いたのは隣の老翁だった。

「それにしても、初対面の方の前であれは少々度が過ぎましたよ」

 こちらはどこにでもいるような穏やかな好々爺といった老人で、しわがれた声とゆっくりとした口ぶりで自称ドラゴンの少女を諭している。

「それと、誰の前であろうとなかろうと、ちゃんと階段は使ってください。あなたの体重を受け止められずに床が壊れた場合、修理費用はあなた持ちですよ」

 話の内容は常軌を逸しているが、この際そこはスルーすることにした。

「まあジンゴちゃんの言いたいこともわかるけどさ、今はとっとと本題に入らないとでしょ」

 どうやらこの老人の名はジンゴというらしいが、世代を三つ、下手すれば四つは離れているであろう外見の相手に、自称ドラゴンの少女マズナグは、大人が子供にするようにあしらってソファにふんぞり返った。その態度に、どちらかというとジンゴ老のほうが恐縮している様子なのは違和感でしかない。

 と、そこでふとその戸惑いに気づいたようにマズナグはガーネットに視線を向け、

「まだなんか腑に落ちないって感じ? 魔女なんかと一緒にいたんだからてっきりこういうのは慣れっこかと思ったんだけど、違った?」

 意外と鋭い指摘に驚きはしたが、この程度で取り乱さない程度には免疫ができていたらしい。

「全く知らないってわけじゃないけど、慣れっこって感じじゃないかな。あと、まだ疑ってるかと言われればそれもある。いきなりいろんなものすっ飛ばしてドラゴンとくれば、ね」

 隠し立てすることでもないので素直にそう告げた。実際、その隣のトカゲの獣人の時にはほとんど疑わずに受け入れられたのだから。そのことを伝えるべく、十九号に一瞥暮れてから、

「見た目通りかどうか、ってのもあるかもだけどね」

 嫌味というわけではなかったがものには限度がある、というのがこの時のガーネットの包み隠さぬ本音ではあった。

 なかなかに歯に衣着せぬ物言いと態度のガーネットに、しかしマズナグの方もひるむでも、かといって気を悪くするでもなく、ただ一度だけ「むぅ」と思案するように唸ったかと思うと、

「じゃさ、手っ取り早く信用してもらった方がこっちとしても話が早いし、これでどう?」

 言うと、おもむろにマズナグは幼い子供特有のぷにぷにした掌を差し出し、指を開く。

「一部だけ戻すのはそんなに得意じゃないんだけどね」

 そう告げた瞬間、目の前で開かれていた掌が何倍にも膨らんだ。しかもただ大きくなっただけではない。その形は禍々しく歪み、ごつごつとした巨木を思わせる姿に変わっていくではないか。爪は大ぶりのナイフように鋭く伸び、表面は重い金属を思わせる光沢を放つウロコに覆われていった。それは紛れもなく、ドラゴンの手そのものだった。

「というわけだ」

 掌の大きさがガーネットの頭を超えたところでマズナグはそう告げると、少しだけ安堵したように鼻息を一つ漏らし、アンバランスに大きくなりすぎた手首から先をテーブルの上に下ろした。その時の「ごとっ」という音は、まるで巨石でも置いたかのような重々しい、大質量を感じさせるものだった。

「とりあえず、これで実際のサイズの十分の一ってとこだけど、やっぱ実寸じゃないとダメ?」

 できればやりたくないというのが聞こえてきそうなマズナグの声音もそうだったが、どちらかというとその隣でいやそうに眉をひそめているジンゴ老の表情の方にいろいろと察したガーネットは、

「いや、もういい、っていうか、十分かな」

 とだけ。本当はこれ以上なんて見せられたところで受け入れのキャパをオーバーしてまたパンクするのが目に見えていたからなのだが。

「そうか、助かった。いやな、一部だけの変身って意外と神経使うからさ。わかってもらえてよかったよ」

 言うが早いか、見る間にマズナグの手のサイズは元の子供サイズに戻り、形状や肌も人のそれに代わっていた。

(いや、この場合正しくは元に戻ってたのはさっきのドラゴンの手の方なんだろうけど)

 そんな葛藤に、改めて自分がドラゴンという存在、ひいては亜人種をはじめとした異形の存在を抵抗なく受け入れているという事実をかみしめてしまった。

 決め手はドラゴンの手そのものよりも、ドラゴンの手が置かれていたテーブルが、その大質量に負けてへこんでいたことというのは、何とも生々しい気がした。

「で、本題なんだけどさ」

 唐突にマズナグの口を突いて出た言葉に、少々現実から離れていたガーネットの意識が引き戻される。ドラゴンだ何だということで忘れかけていたが、十九号の弁によれば、自分が魔女の同行者であることを見抜いて連れてくるように指示したものがいるということだった。どうやらそれがこのドラゴン、マズナグのことだというのは間違いなさそうだ。

「ああ、そういえばなんか用があるんだって? ただ、あたしはこう見えても忙しい身でさ、内容によっちゃ聞くだけで終わるかもだけど、それでいいなら」

 そう、あらかじめ断るための布石を打ったガーネットに対し、マズナグは人の形に戻した手の感触を確かめるようににぎにぎと手を動かしながら、

「それなら大丈夫、今のあなたと我々は利害が一致するから」

 なぜそんなことがわかるのか、と訝る間もあらばこそ、マズナグは一呼吸だけ間をおいて用件を切り出した。

「世間を騒がせてる連続殺人鬼、あれを解決してもらいたい」

 虚を突かれたとは思わなかった。むしろ、なんとなくこんな展開もあるかも、と思った一つではあった。ただし、だからといってそれを偶然で片づけないのがガーネットでもあった。波なたぬ不幸体質を生き残る中では、疑心暗鬼すれすれの疑り深さは必然的に身に付いた性質でもあった。だから、飛び出した質問は「なぜそれを自分に依頼するのか」ではなく、

「なんであたしがそいつを探してること、知ってる?」

 疑うべきは常に目の前の存在だ。

 場合によってはこの場を力ずくで逃げ出す必要がある。そう思って決して態度や姿勢に出ないように出口までに動線を確認しつつ、剣を抜くイメージを脳裏に描く。

「知ってるさ。君がそいつを探し出してお上に突き出さないと、相棒の魔女を牢屋から出せないこともね」

 どうやらすべてを把握したうえでの人選だったらしく、そこは納得した。ただし、

「それじゃなおのこと聞いとかないとな。なんで知ってる? あんたの口車に乗ってのこのこ出張った先で憲兵が網張ってた、なんて笑えないからね」

 もっともありうる話だ。憲兵の情報網が自分の想像を超えて亜人種にまで広がっており、それをもとに自分を捕まえようとしている。「そうであってほしくない」と思う展開ばかりの人生を送れば、必然的に予想というのは最悪の状況を想像することとイコールになる。

 が、それを鼻で笑うように軽い口調で、

「想像力豊かすぎだな。あなたは作家にでもなったほうがいいかもね」

 むしろ微笑ましいとばかりだ。ちょっと馬鹿にされたような気もしたが、どうやらそういった意図はないらしい。

「少なくとも、この話を知ってるのはあたしとあいつ、後せいぜいがあの亜人種の店の店主ぐらいだけど……じゃあ」

 亜人種同士のネットワークか? とも思ったが、それにしてはアリスベルが捕まったことなどが伝わっているのは不自然に思えた。とすれば、やっぱりあとは憲兵からの情報提供ぐらいしか想像がつかずに、さらに疑念が深まったところで、

「見てたからね。この目で。遠隔視とか言えばイメージが付きやすいかな。それとも千里眼で通じるのかな?」

 そういって、幼さの残る人差し指で自らの黄金の瞳を指さした。

「あなたたちがこの王都に入ったあたりからね」

さも当然のことを語るかのように言ってのけるが、それがどれほど無茶苦茶なことかは、考えるまでもない。けれど、それを見透かしたかのようにマズナグはさらに続ける。

「一応言っておくと、何もかもすべてを監視できるわけじゃないよ。見ようと思ったものを特定する必要はあるし、その距離や数、範囲も限定的だ」

「じゃあなんで」

「相手が魔女ともなれば、特定もたやすいといえば納得する? まあ、それも彼女がそのことに気づいていながら放置してくれたからだろうけどさ。いや……」

 そこでふと、それまでに見せたことのない表情の曇りを見せる。

「おそらく、こんなことを見越してあえて見せていたんだろうね。あれは、そういうやつだ。彼女が実際に姿を変える魔法ではなく、見た目だけを変化させる魔法にしたのも、僕らが君を探せるようにという配慮からだろうね」

「ああ」

 途端にいろんなものがガーネットの中で腑に落ちた。と同時に、

「ってことは」

「だろうな。僕は知らないけど、たぶん僕らがあなたにコンタクトを取って、あなたがどう判断するのかも、すべて彼女の掌の中ということだろう。それなら納得できる?」

 悔しいが納得するほかなかった。そしておそらく、これが自分に与えられた唯一であり最適な選択肢なのだということも。

「あほらし」

 結局何もかもがアリスベルの見立て通りに進んでいることにではなく、その中でまるで自分の石で動いているかのように一喜一憂したことが、だ。

 脱力気味にため息を漏らすとびっくりするぐらい老け込んだ気がした。

「それは承諾と取っていいんだよね?」

 どうやらアリスベルのことを知っているらしいマズナグは、彼女に負けず劣らずに含みのある笑みを浮かべて改めて問う。もちろん、この時点で選択肢なんてあるはずもない。

 その代わりとばかりに、

「あんた、あの魔女のこと知ってるみたいだけど友達かなんか?」

 あのアリスベルであればドラゴンはおろか神や悪魔と交友関係があってもおかしくはないと思ったが、予想外だったのはマズナグのリアクションだった。

「いやいやいや、まさか、そんな恐ろしいことを言わないでくれよ。たまたまちょっと面識があるだけだよ。友達だなんてそんな、あの”虚ろ泡の魔女”のともだち、なんて……」

 それまでのどこか余裕しゃくしゃくといった態度から一変、狼狽して言葉を選びあぐねたかと思うと、聞こえるか聞こえないかの小声でぼそりと「命がいくつあっても……」と零し、それきりそのことには触れようともしなかった。

 そんな、ちょっとだけ気まずい沈黙が生まれてしまったが、

「と、とにかく、僕たちとしてはあの魔女の策に便乗してこの通り魔事件をうまく解決したいというわけなんだよ」

 何やらいろいろとうやむやになってしまった感は否めないが、間接的とはいえこれがアリスベルの描いた絵であるらしいというのが決め手になった

「一応聞いとくけど、あたしがあんたらを裏切って憲兵隊に売ったらどうするつもりだ? それでもアリスベルが戻ってくるならそれでよし。なんなら、憲兵隊から報酬が出れば両方まとめて裏切る、って手もあたしにはある」

 駆け引きでも脅しでもない、純粋な疑問だった。

「そうだね。僕らはお互い、信頼なんてものが成り立つ間柄じゃない。それもありだと思うよ。ただ、裏切るメリットもないっていうのが実際だと思うから、裏切らない方に賭けたんだけど、それでもまだ足りないっていうなら、そうだな……」

 そこでふと左腕を上げたのは、十九号が今にもとびかからんばかりにこちらを睨みつけていたからだ。

「うん、そうだな。その時はもう打つ手がないから、僕がこの街をすべて焼き払うよ。そして、町でひっそり暮らしてる亜人種やこの娼館街の連中をまとめて、またどこかの町で商売を始めるよ。少なくとも、僕にはそれだけの力がある」

 ぎろりと開いた黄金の瞳孔には、嘘偽りのない殺意と、それがなんの誇張でもないただの事実だと思わせるに十分な迫力が宿っていた。

 そんな満点の回答に満足したガーネットは、さすがにドラゴンの気迫に押され気味ながらも、取り乱すことなくそれを真っ向から受けて答えた。

「おーけー、中途半端に情だの正義のだのを語らないのは信用できるかな。ってかさ、最初からそうやって力ずくの方が手っ取り早かったんじゃないの?」

「それで動くようなやつが、あの魔女の友人なわけないだろ」

 冗談とも本気ともつかない軽薄な口調だが、どうやらそれなり以上に人を見る目はあるらしい。それがドラゴンだからなのか、娼館街のまとめ役だからなのかは定かではないが。

 ともあれ、話はまとまったらしい。

「じゃさ、一つ聞くけど」

 唐突に切り出したガーネットはこの会話の一番最初の、最も気になっていたところに切り込んだ。

「殺人鬼を捕まえてくれ、って言わないのが不思議だったんだけど、どういうこと?」

 これには、その場にいた三名がそろって驚きを表情に出した。次いで、十九号は何か思うところがあるようでマズナグをにらみつけるように見下ろしている。

 急激に温度が下がったように張り詰めた場の空気に、

(あれ? なんかヤバいこと聞いた?)

 と声に出せずに内心だけであわてるガーネットに対し、マズナグはおもむろに眉間にしわを刻み、沈痛な面持ちでい日度だけ天井を振り仰ぎ、

「いや、驚いた。ある程度は有能な人物だろうとは思っていはいたけど、これは本当に予想外だ。まあうれしい誤算というか……っ!」

 しみじみと呟いていたかと思うとおもむろに言葉に詰まり、慌てた様子で明後日の方向に視線を向けた。その焦点は室内のどこにも結ばれていないように思えたが、もしかしたら例の遠隔視とやらでどこかを見ているのだろうか。その隣では、はたから見てもイライラを募らせて今にも爆発しそうな十九号がらゆる負の感情がごちゃ混ぜに込められた視線を、エメラルド色のつむじに向けている。

(どうやらあちらはあちらで一枚岩ではなさそうだけど、あたしには関係ない)

 あえて気づかないふりをして事の成り行きを見守っていると、ようやくこちらに意識を向けたマズナグが、隣の十九号を掌で制しながら一言、

「やりやがった……」

 深々と鼻筋にしわを刻み、不快さを隠そうともせずに吐き出した。

「二人とも、ついてきてくれる? どうやら思った以上のペースで話を進めなきゃいけないようだ。説明は道すがら」


 マズナグの先導で進んだ先は、娼館というよりはどこぞの貴族の城か、さもなくば要塞かといったような頑丈なつくりの地下室だった。ただの娼館に地下室? と思いもしたが、表向きにはいないことになっている亜人種の立場を考えるなら、事実上の最前線であるここは城塞のような作りになっているのも納得だった。

 地上の建物部分よりも広いんじゃないかと思われる広大な地下スペースの一角、地下室というよりは地下牢のような頑丈の扉を抜けたそこで見た光景に、誰よりも最初に声を上げたのは十九号だった。

「話が違う! お前! こいつが死んだなんて一言も!」

 そう怒気をはらんだ声とともに指さした先には、木棺におさめられた亜人種の姿があった。

 横たえられた上に服も着せられているので見えない部分はあったが、目に言える部分だけでもそれが亜人種、それも犬か狼のそれだとはっきりとわかるほどに、人とは異なる外見だった。

 全身は深い体毛に覆われ、首から上はそのままイヌ科狼の頭部を据えているかのような、二足歩行をしたであろう獣だった。

 それが、ピクリとも動かずに棺桶の中におさめられて部屋の中央に安置されていた。これを見れば、誰しもが死体だと思うだろう。そしてそれを裏付けるようにマズナグも、

「結界に閉じ込めてある。腐敗の速度を遅らせるのと、外から発見されるのを防ぐためだ」

 それなりの時間この場所にあったということを認める。

 そこに追い打ちをかけるように大きく息を数十九号を制するように、マズナグは続ける。

「ズルいとは思っているよ。だけど、こうしなければあなたはこいつを追い詰め、自分の手で殺しただろう? それでは今回の件は片付かないのは、あなたもわかっているはずだ」

 その鋭い物言いに、十九号は思わず飲んだ息を吐けずに固まってしまう。図星なのだろう。

「正当化するつもりもないが非を認めるつもりもないよ。ただ、これが最善だというのは理解してもらいたい」

 先ほどまでと変わらぬひょうひょうとした物言いではあるものの、それでも沈痛な空気は隠し切れないといった様子だ。

 そんなマズナグの心中をおもんばかってか、しかし抑えきれぬ怒気を消しきれぬ十九号はぎりぎりと音がするほどに奥歯をかみしめながら、黙って棺に歩み寄る。

 それに続く形でガーネットも棺の傍らから、静かに眠る遺体を覗き込んで、ふと気が付いた。

「この傷、もしかして」

 それは、腹部に不自然なほどにきれいに空いた、刃でつけられたと思しき大きな傷。

 不自然だったのは、その周囲には特に新しい傷などもなく、その部分だけが妙きれいに真一文字に深く切り裂かれていた。通常の戦闘ではこんな傷がつくとは考えにくいその傷に、ガーネットはほぼ確信に近いものを感じながら訪ねた。そしてそれは想像の通りだったらしい。

「察しの通り、自ら腹を切ったよ。駆けつけた時には遅かった」

 戦士としての練度が桁違いの十九号だ、この遺体を見た瞬間にそのぐらいのことには気づいていたはずだ。不快感とも悲しみともつかない十九号の表情だが、マズナグは敢えてそれを見ないようにして続ける。

「彼自身の意思ではもうどうしようもないところまで行ってしまっていたのだろう。その食人衝動と理性のはざまでの葛藤の末、だったのだと思うよ」

 推測でしかないのだが、と小さく付け加えたがおそらく確信があるのだろう。他ならぬ遠隔視の力を持つドラゴンの言葉に、反論する要素は持ち合わせていない。

 十九号もそれは同じらしく、焦点の合わぬ視線を腹部の傷、そして目を閉じてピクリともしない顔に交互に送っている。

「でだ、お察しの通り亜人種が人を殺して食ったとなれば、当然そこから発生するのはよくて民衆からの盛大なバッシング、最悪の場合は亜人種狩りが始まる」

「だろうね。公表しちゃえば、って話だけど」

「話が早くて助かる。そう、それはあくまでも表向きの話だ。ただ、そんなものはなくても裏側では結局はこれを契機とした弾圧は免れないだろう。国や聖教会にしてみれば、我々は存在そのものがタブーだが、それゆえ黙認以上の強硬策には出られなかったのがこれまでの実情だ」

「何か手を打つってことは、その存在を認めるってこと、か。そういうめんどくさい政治? みたいな話をされると、現実って何だろうって思うわ」

 認める認めないにかかわらず、亜人種たちはそこにいる。しかし、そのことを認めない連中にとってはそんなものは存在せず、存在しないものに対しては何もできない、という机上だけの屁理屈だ。

 しかし、それを国という組織や大多数の人間が信仰する聖教会の教えという規模でやってしまえば、それは机上だけではなく現実と置き換わるのは、ガーネット自身のこれまでの日常を振り返れば自明だ。

「まあ、そのジレンマのなかで細々と生きてるってのが僕らなんだけど、どうやら今回はその根底を突き崩そうっていう動きがあるみたいでさ。なんか、教会の中の強硬派が王国の中枢に食い込んでるらしいんだよ」

「まさか」

「そう。黙認を許さない体制づくりが進んでるようなんだよね。そこへきてこれだろう?」

 そこへ、亜人種が人を殺して食ったなどという事件が発生すれば、その強硬派にとっては最高の大義名分となる。

「絶好の口実、ってわけだ」

 強硬派にとってはおそらくそれが犬だろうがトカゲだろうがドラゴンだろうが関係ない、そこにあるのは人間と亜人種という二極の対立構造だけ。

「それでも、さすがに向こうもなんの根拠もなく動くわけにはいかず、彼の死体をこちらが押さえている限りは動きはないだろうと踏んでいたんだ」

 いくら強硬派とはいえ、教会や国を動かすとなればそれなりの根拠が必要だろう。ましてや亜人種となればそもそもその存在が否定されている社会構造なのだから、よほど決定的な何かが要求されることだろう、という理屈だ。

 こくりと頷くマズナグに、「でもさ」とガーネットは持論を展開する。

「どの程度の人間が亜人種のこと知ってるのかは知らないけどさ、それこそ議場にでもに犯人の亜人種を引っ張り出して存在を知らしめたところで、その認識をひっくり返すなんてできるかどうか……」

「その通り。実際、国政にかかわる人間でも、亜人種の存在をちゃんと認知してるのはごく一握りだ。それこそが、連中の策が連綿と受け継がれてその効果が出ている証拠なんだけどね」

 皮肉ではあるが、そのことがある種の救いとなっているのも事実だ。

「でも、それならこいつの死体がここにある限りは今まで通りで行けるんじゃないの? こいつの処遇をどうするかは別問題として」

 言いながら、不意に思考に靄のようなものがかかり、その靄が徐々にはっきりとした実体を持ち始めたところで、それを察したようにマズナグが答えを告げた。

「連中、魔女を今回の犯人に仕立て上げて幕引きをするつもりらしい」

 さきほどマズナグが会話の途中で遠い目をしたのは、それを遠隔視で知ったからだった。

 あまりに唐突で急転直下の流れにガーネッの思考が停止し、言葉を選べずにいると、さらにそこに追い打ちがかけられた。

「ギロチンでの公開処刑が告知された」


 王都中央の広場に行くと人だかりができていた。その中央には臨時の掲示板がたてられ、連続殺人鬼を見事に捕まえたこと、その残虐極まる凶行の数々、残忍さからギロチンによる公開処刑が妥当となったことがそれらしい文章でつづられていた。真実を知るガーネットにしてみれば、よくもこれだけうそ八百だけを並べ立てられるものだとあきれる気にもなれなかったが、ただ一つ重要な情報を探して文面を追っていく。そして、

「三日後!? 急すぎだろ!」

 そもそも処刑が決まるまでの期間ですらありえない短さだというのに、その執行までの期間は輪をかけて非常識な日程だ。

「確かにいつ捕まえたとは書いてないけど、ついさっき捕まえたばっかでこれはいくら何でも……いや、それだけあせってるってことか? でも、何に?」

 どちらにせよ、いきなり期限が切られて都合が悪いのはこちらも同じだ。

 唐突に降ってわいた公開処刑という娯楽に沸き立つ群衆に、吐き気を催すほどの殺意を感じながらそれを押し殺し、足早にその場を離れたガーネットは頭と体の動きを切り離して必死に思考した。

 どうする? どうする? なにをしなきゃいけないか考える。何かをしないといけないのはわかっても、しかし焦る頭は一向に「どうする」を繰り返すばかりで、現状を整理することすらままならない。

 ようやくまともに考えが言葉になり始めたのは、そうして大股に歩いて娼館街に戻ってきたあたりからだった。

 とにかく最優先はアリスベルの身柄を取り戻すこと。少なくとも、今のアリスベルにあの姿で死なれると、自分が社会的に死ぬ。それ以上に

(こんな濡れ衣で殺させるなんてあっちゃいけない)

 やすやすと殺されたりはしないだろうと思う反面、あっさりと受け入れてしまうんじゃないかという危うささえある。

(あいつ、何考えてるかわかんないしな……)

 最初こそ自らの保身にばかり頭を悩ませていたが、脳が冷静さを取り戻すにつれて考えるのはアリスベルの身の安全のことばかりが頭を悩ませた。

「ってもな……そこが一番難しいっていうか、あいつを取り戻しておしまいってわけには、行かないんだよな……」

 事態がどうしようもなく複雑つであることに直面してしまう。

 応接室に戻ったところで、同じく事態の深刻さに頭を悩ませるマズナグと十九号の沈痛な面持ちに、この局面が亜人種にとっては種としての存続の瀬戸際であることも思い知らされた。

「そう、だよな。あたしやアリスベルにとっちゃ自分の生き死にだけど……あんたらは自分だけじゃない、全体の問題なんだもんな」

 おそらく、公開処刑にあたって魔女であることは伏せられたまま刑が執行されるだろう。しかしそれはあくまでも表向きで、裏では亜人種による凶行であることを理由にこれまでの消極的な黙認ではなく、積極的な弾圧に移行するかもしれない。いや、おそらくそのための公開処刑なのだろう。でなければ、ここまで拙速に物事が進むはずがない。

(こんな強引な手段に出たのも、殺人鬼の身柄以上の何かを焦ってのことなのかもしれないし、そうなれば証拠がどうのなんて生ぬるい話は交渉のカードにもなんないだろうな)

 そんな言葉がガーネットから出たことに、一瞬驚きを見せたマズナグだったが、次の瞬間には少しだけ口元をほころばせて、告げた。

「君がそんなことを考えてくれるというのは、うれしくもある反面申し訳なくもあるな。本来ならば、これは僕らだけで解決するのが望ましいはずなんだけどね」

 そこには嘘や駆け引きなどのない、本物の心情が吐露されているように思えた。

 しかし、そんなシンパシーを感じてここで人間と亜人種が個人で手を取り合えたところで、大局が絶望的であることには変わりはない。

 自らの窮地にも笑みを浮かべられるマズナグの芯の強さに、ちょっと感傷的になったのかもしれない。

(それこそ、何もかもをしっちゃかめっちゃかにして国をひっくり返してやりたいのはこいつらなんだろうけど、それをやらない道を進もうとするのは……ん?)

 と、そこでふいに何かが落っこちてきた気がした。

 いや、それは考えや案などという明確な姿を持ったものではなかったが、ぼんやりとしたそれに、はっきりと方向性だけは見えた気がした。

「ひっくり返す、か……そうだな、そのぐらいやらなきゃいけないかもだな」

 ぼんやりと呟いた、ほとんど意味をなさないガーネットの言葉にほかの二人もおぼろげながら可能性を見出したのか、じっとガーネットに視線を送る。

 そんな期待というにはあまりにも儚い希望を向けられ、焦ったのかもしれない。

「ひっかり返すって、何を?」

 というマズナグの問いへの答えは、自分が一番驚くものだった。

「常識……とか?」

 まさか、自分がそんな誇大妄想に取りつかれたガキのような言葉を口にするとは思っていなかったが、どうやらそれこそが残された唯一の答えであるらしいことが、その瞬間に実感できてしまった。

「そうだね、もうそんな時かもしれないね」

 まさかの賛同があったことも、ガーネットの荒唐無稽な考えを後押ししたのかもしれない。

「こうなったらいっそ、もう亜人種がいることを公表して向こうが隠ぺいできないようにする、ってのもいいかもね。そうすれば、今回の連続殺人鬼の件のややこしさもなくなるわけだし、そのうえで公正にその罪を裁けばいいだけの話になるし」

 言ってしまえば、なぜここに思い至らなかったのかが不思議なほどに当たり前の気がした。

「そうだよ、そもそもいないことになってるっていう前提がなければこんなこと起きないわけだし、そもそも実在するものをいない扱いにするってのがおかしいんじゃん」

 気づいてしまえば、あとはその明確な問題の中心に切り込むだけだった。

「ちゃんと亜人種の存在を世に知らしめて、そのうえできちんと一つの事件として処理すれば主としての存続だとかにもならないし、そもそもこんな不遇な扱いともおさらばじゃん、そうだよ!」

 まるで世界の真理にでも辿り着いたかのように声を上げるガーネットだったが、次の瞬間に見せたマズナグの怪訝そうな苦笑いに、不安がこみ上げる。

 そんなガーネットに、マズナグが幼子を諭すような口調でゆっくりと語ったのは、まさに諸悪の根源であり、全ての元凶であり、最大の敵の話だった。

「それができないこと、もっと言うなら亜人種の存在を歴史の裏に葬り去ってきた理由そのものが、一番の悩みの種なんだよね」

 深いため息のような口ぶりに、それまでの勢いが嘘のようにガーネットは身を縮こまらせて耳を傾けた。

「そもそもなぜこんなことになっているのか、っていう話になるんだけどさ、わかりやすく言うと、そうすることで恩恵を受ける連中がいるからっていう話なんだよね」

 いつの世にもそうして、他者の犠牲のもとに富を得る連中がいるというのは誰もが知るところだ。しかし、こと亜人種の件ではそれで恩恵を受ける存在というのが想像もできなかった。

「王族や、政権側の権力者……にしても、むしろデメリットの方が多くないか? いないことにするなんてそもそも無理のある話だし、そこに割く単純な労力だけじゃなくて、それが覆ったときの影響がデカすぎて見合わない気がするし……」

 至極まともな意見に思えたし、かといってほかにこれだけの規模のことをこれほどに長きにわたって続けるメリットがどこにあるのか、想像もできなかった。

 そんな答えのきっかけすらつかめないガーネットに、マズナグは早々に答え合わせをする。

「聖教会だよ」

「聖教会? それこそなんでだ? 広く神の下の平等やらを解くんなら、亜人種がいたほうが今よりももっと信徒も増やせるし、何なら種の枠を超えた平等ってんなら教義の説得力も増すだろうに……」

 ますますわからんとばかりに首をひねるガーネットだが、不意に一つだけ、のど元に何かが引っ掛かる。それは、アリスベルとの会話。あの列車強盗との一件が片付いたところでの、何気ない会話の中。

 

『それはないよ。このあたりにはいないようだし、よしんばいたとしても天使連中はわざわざ出張ってきて自分の手を汚すような真似はしないさ。彼らは姑息で周到だからね』


「まさか」

 あの時はアリスベルの言葉の真意を確かめなかった。それは、亜人種の存在がまだ夢うつつのような曖昧なものだったからだ。しかし今は違う。その存在が確固たるものとなった今、あの一言の意味するところのすべてに現実感が付加された。

 そして、そのことに気づいた。

「そういうことだよ。実在しないからこその神秘性こそが、信仰の対象としてのみ存在することに意味を与え、その地位を確固たるものにする」

 ようやく輪郭を与えられたその存在にげんなりしつつ、改めて自らの踏み込んだ道の険しさと己の運のなさを嘆きまくるしかなかった。

「天使、だよ」

 もはや天使が実在することに疑いすら持たなくなっていたが、その分相手の強大さを実感できてしまったことにため息も出なかった。

 しかし、たとえそうであったとしてもやらなければいけないことに変わりはない。

(ただ、難度がクソ上がったけどな)

やらなきゃいけないことが多すぎるのに準備期間もそもそもどうすればいいかもわからん。せめて時間があるか、切り札になる何かが……今さら死体を持って行って「こいつが真犯人だ」といったところでもみ消されるだけだろう。

民衆に晒せばそれなりのインパクトはあるかもしれないが、結局は「真犯人」である証明もできず、できたとしてもただただ亜人種の存在をちょっとアピールして終わりだろう。それこそ亜人種への弾圧のきっかけになるだけになりかねない。

 やはり決定的に欠けているのは「切り札」だった。そう、切り札。

「……あいつしか、ないよな」

 こうして様々な紆余曲折、何なら天使なんていう反則のような存在まで飛び出したというのに、最後の最後にたどり着いた場所に”ソイツ”がいたことには、もはや笑うしかなかった。

「とりあえず、最初にやることは決まったね」

「というと?」

 地震の告げた重大さに、にここで一抜けたを言い出しても仕方がないとさえ思っていたマズナグの声はどこか不安げですらあったが、対するガーネットの声はどこまでも淡々と、何なら達観しているようにさえ聞こえた。

「アリスベルを脱走させる」

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