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魔女と歩く日々  作者: 太夫 有
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第2章

「まさか、あんたのおかげで宿にありつけるなんて、皮肉なもんだ」

 朝食のトーストに齧りつきながら、目の前でスープをすする美少女を眺める。

 宿を去ろうとしたガーネットに声をかけてきたのは、この宿の女将だった。

 手を引かれるアリスベルの姿に、こんな幼い子を、それも女の子を野宿させるのは忍びないと、空っぽになった倉庫でよければどうかと持ちかけてくれたというわけだ。

「ま、それでも普通の部屋代をとるあたりは商魂たくましいけどね」

 皮肉ってはいるが、本音の部分では感謝しきりだった。

「世の中、美人ばっか得すんのな」

「それは自画自賛かい?」

 本気ではったおしてやろうかと思ったが、そこに微塵も他意がないことは目を見ればすぐに理解できた。

 これ以上話をしていると自分の惨めさに押し潰されると思ったガーネットは、無理やりトーストを口にねじ込み、若干ぬるくなったコーヒーを流し込んだ。

「お譲ちゃん、明るいとこで見てもやっぱり美人さんだねー。おばちゃん、朝から感動だよ」

 ビア樽のごとき立派な体躯を揺らして歩み寄ってきたおかみが、満面の笑みを浮かべている。

「ああ、おかみ。昨日は助かった。おかげで」

 いきなりの乱入に慌てて立ち上がって礼を言おうとしたガーネットを、グローブのごとき分厚い手手の平で制すると、

「いいっていいって。こんな美人のお譲ちゃんに野宿させたとあっちゃ女がすたるってもんさ。それに、もらうもんもらってるしね」

 さすがにここで皮肉を言うわけにもいかず、若干ひきつった笑みを浮かべるにとどまった。

「そういやあんたら、王都に行くんだって?」

 そう言えばチェックインの時にちらりとそんな会話をしたのを思い出した。

「ええ、まあ。でも鉄道があのざまじゃ……」

 「あのざま」でフラッシュバックした記憶は、地獄絵図そのもの。たったの一日二日で復旧するとは思えない。復旧にはおそらくは数カ月年単位での時間が必要だ。 と思っていたら、

「それがさ、今朝一番についたお客さんに聞いたんだけど、隣町に臨時の停車場ができて、そこに行けば王都行きのに乗れるみたいなんだよ」

「マ!」

 思わぬ情報に声のボリュームが上がってしまい、

「ジ、で?」

 慌てて肩をすくめる。周囲の視線が痛い。

「マジだよ、マジマジ。でね、この情報もあっという間に広がるだろうから、出るんなら早い方がいいと思ってね。子供連れだと何かと苦労するだろう?」

 ぱっちりとウィンクする仕草は、若いころは美人だったんだろうなと思わせる程度にはチャーミングだったが、残念ながら今はその数十年後だ。

 ともあれ、どうやら次に向かうべき場所は決まったらしい。

 黙々とソーセージの消費に勤めるアリスベルに視線だけで問うと、その小さな頭がこっくりと縦に動いた。

「ありがとう。何から何まで」

「いいってことさ。こんなに可愛い天使の役に立てるなんて、女冥利に尽きるってもんよ」

 そがははと笑いながら歩き去るおかみの背中に、ガーネットは引きつった恵美とともに、心の底から詫びずにはいられなかった。

 ごめん。こいつ、魔女なんだ、と。


 そこからは時間との勝負だった。泊った部屋は早々に引き払う必要があったために、部屋を出る時点で荷物をまとめてあったのも幸いした。

 名残惜しそうにアリスベルに別れを告げるおかみに再度の礼を告げ、さっさと宿をあとにして隣町へと続く街道に脚を向けると、そこにはどうやら同じ情報を聞きつけたらしい旅人の姿がちらほらと見受けられた。

 まだ朝もやも消えきらない早朝であることを考えれば、相当の人数だと言えた。

「あのおかみの情報はほんとみたいだな……にしても、おかみ、別れ際泣きそうになってたぞ。あんた、どんだけ気に入られてるんだよ」

「ふむ……特に何をしたでもないのだが、やはり人間の心理への興味は尽きないね」

 おかみが聞けば膝から崩れ落ちそうな淡白な返答は聞き流し、ガーネットは背嚢のサイドポケットから一枚の地図を引っ張り出す。

「とりあえず、隣町までは……歩いて三、四刻ってとこかな。うまくいけば昼までには辿り着けるだろうし、おかみの言う通りなら昼一番の汽車の切符も買えそうだな」

「切符、かい?」

「ああ。汽車に乗るのには切符を買うんだよ。出遅れてりゃ切符買うだけでもいくら待たされるかわかったもんじゃないだろうから、そういう意味でもおかみには感謝だな」

 そこからはひたすらに無言で歩く時間が続いた。

 元々一人での旅になれていたガーネットは街道に沿って一定の歩幅、歩調で歩く。軍隊で鍛えられたそれは実に正確で、しかも一般人のそれと比べて随分と早い。ガーネットと同世代の女性であれば、小走りしなければついていくことはできないだろう。

 なのに、

(ふうん……ついてくるんだ)

 意外だった。

 年齢こそ不明とはいえ外見上は子供のアリスベルは、全く遅れることなくガーネットにぴったりと並んで歩いていた。体格でいえば二回りほど小柄なのだが、急ぐでもなく、走るでもなく、まるで紐で結わえているかのごとく同じ距離を保って。

 あまりじっと見るのも気がひけたので、ちらちらと視界の隅に捉える程度に観察していたのだが不思議なところは何一つない。

(あの歩幅と歩数で何であたしについてくるんだ? あれも、魔法か?)

 まるでだまし絵でも見せられているような不思議な光景だったが、敢えて突っ込みはしなかった。聞いたところで、わかるとも思えない。

 そのおかげもあって、当初の想定よりもずいぶん早く隣街に着くことができた。街、とはいっても昨晩宿泊した市街区とは比べモノにならない小規模な集落で、宿はおろか商店すらも整ってはいない。

 にも関わらず、その小規模集落は人に溢れていた。通りは荷物を抱えた旅人に溢れ、そこかしこで旅人相手にひと儲けしてやろうと企んだ住民が机ひとつの簡易商店を開いており、さながら定期市のような賑わいを見せていた。

「もうこんなに集まってきてたのか。こりゃ、ちょっと遅れてたら今日中に切符買えたかどうかも怪しいな」

 雑踏を見渡したしながら言う間にも続々と旅人が到着し、刻一刻と人口密度は増している。

「って、暢気なこと言ってられないな。あたしはさっさと切符確保してくるわ。あんたは……そうだね、子供料金でいいだろ。切符代はつけといてあげるから、報酬貰うときにまとめて請求するね」

 切符売り場と思しき列に向かって歩きだし、

「もちろん、色つけてね」

 冗談半分本気半分に付け足すと、アリスベルはふわりと肩の力を抜き、顔の右側半分だけを歪めて、困ったような呆れたような表情を見せた。

「君のそういうしたたかなところには頭が下がるね」

「守銭奴だって言いたいんなら好きにすればいいよ」

「まさか。私は経済観念というものに乏しいので、尊敬しているのだよ」

 皮肉られているのかとも思ったが、今は一分一秒を争う。

 「さいで」とだけ相槌を打っておいて、ガーネットは小走りに切符購入の列に向かった。

「なんか調子狂うな」

 ぽつりとひとりごちたその表情が心なしか穏やかだったのは、本人の預かり知らぬことだ。


 購入には予想以上の時間を要したが、幸いにも今日の昼の列車を確保することができた。

 これを逃せば明日の朝一番まで待たなければいけなかっただけに、これもおかみのおかげと改めて感謝の気持ちをかみしめた。

 さすがに先頭車両の席までは確保できなかったが、二人並んで座れる指定席をとれたことも大きかった。たとえ列車に乗れたとしても、アリスベルと別々になるとなれば、それはそれで問題だった。

「同じ列車とはいえ、魔女を放置するわけにはいかないからな……なん、だ、け、ど……」

 思わず握りしめた拳の中で、二枚の切符が歪んでくしゃりと音をたてた。

「あんのバカ魔女、どこ行ったぁ!?」

 戻ってみるとそこにアリスベルの姿はなかった、という笑い話にもならないオチが待っていた。周囲を見渡してみるが、先ほどよりも人口密度の増した往来は肩をぶつけなければ進めないほどになっていておいそれとは見つかりそうもない。確かに、動かずに待っていろと言わなかったのは自分の落ち度だが、さすがにこの状況は想定外だった。

「あいつ、もしかして賢くないのか? それか人攫い……」

 空恐ろしい可能性が脳裏をよぎり、

「ないな」

 即座に否定する。仮にそうだったとしても、わざわざ保護してやる義務も義理もない。ないのだが、

「それはそれで厄介なんだよなも~、何なんだよ~」

 もちろん、心配しているのはアリスベルのことではない。彼女をさらった人攫いや、攫われた先にいる気の毒な巻き添えたちのことだ。

「わざわざ自分から死にに行くことはないと思うんだけどな」

 今さらながら、アリスベルの髪の毛に「こいつは魔女だ」とでかでかと書いたタグでもくくりつけておくべきだったと冗談交じりに後悔してみる。

「って、あほなこと考えてる場合じゃないか」

 とりあえず立ち止まっていてもらちが明かないと踏んだガーネットは、手にしたチケットを落とさないように背嚢のポケットにねじ込み、人込みをかき分けるようにして街の中心目指して歩くことにした。

 特に理由はないが、最悪の場合は自分だけでも列車に乗るつもりだったので、そのための移動も兼ねて駅のある方を目指すことにした、というわけだ。 

「子供料金とはいえ切符一枚無駄になるのは痛手だけど、しゃーないよな。だっていなくなったんだもんあたしは悪くない」

 誰にするでもなく言い訳しながら、きょろきょろと視線を周囲に巡らせて、美しいストロベリーブロンドを探す。探しながら、

「でもたぶん、このまますんなりは行かないんだよな……」

 無意識に左手の人差指をシャツの胸元にひっかけて引っ張ると、悲しいほどにささやかな胸のふくらみの間にその先端をちょんと触れさせる。

 冷たく硬質な感触は、親指の先ほどの大きさの宝石。

 橙色に輝くその石はペンダントトップなどではなく、胸の真ん中に埋め込まれてきらりと輝いている。

「なんてったって、あたしだもんな……」

 悲観的なため息をこぼす割にはどこまでも無表情で、遠い目線には枯れ果てた老人のような諦観の色がはっきりと浮かんでいた。

 果たしてそれは必然のような顔をして、ガーネットの元に現れた。

 それまでは祭りのようだった賑わいが、突如として不安と焦燥にまみれた喧噪へと姿を変え始めていた。

 最初はさざ波のように、しかし確実に雑踏を伝わって街中に伝播し、気付いたときには街中の誰もが興奮とともにそのうねりに呑みこまれていた。

 誰からともなく『何か』があったことが伝わり、けれどまだここには『何があったのか』は伝わってきてはいない。ただ、その喧噪のなかにちらほらと「駅」「乗客」「被害」と言ったような単語が入り混じり始めたあたりでガーネットは緊張に頬をこわばらせ、「警官隊」という単語を耳にしたところで脚を動かし始めていた。

 人ごみを縫うようにしてすり抜け、肩をぶつけるたびに煙たそうな顔をされては小さく詫びを入れていたのもつかの間のことだった。

 「人質」「美人」の単語を耳にした瞬間に、目の前の全員を突き飛ばさんばかりに大股に走りだしていた。何人かは実際に突飛ばされて怒声を上げていたが、知ったことじゃない。

 人垣を掻き分け、突き飛ばされ、転びそうになりながらとうとう騒ぎの中心と思しき場所に飛び出したガーネットは、その光景を目の当たりにすると同時にたまらず膝をついて打ちひしがれた。

 だって、だって、

「やっぱ最悪なことになってんじゃん」

 ここからは一瞬として油断できない、たった一手間違えるだけで想像もできないような最悪の災厄が引き起こされるのだから。

「来るんじゃねえ! この列車は俺達が乗っ取った!」

 今から自分が乗る予定の列車が強盗団にジャックされたことも、その連中が既に機関車の乗っ取りを済ませて今まさに出発しようとしていることも、

「荷物も乗客も全部俺達のもんだ!」

 気の早い乗客が既に客車に乗り込んでいて強盗団につかまっていることも、瑣末なことだ。道端の石ころほどにも問題ではない。

 ただ一点だけ、どうしても見逃すことのできない最凶最悪の問題点がそこにあった。

「そっから一歩でも近づきゃ、この餓鬼の首掻き切ってやるからな」

 アリスベルが、覆面強盗につかまっていた。

 客車の出入り口に立った強盗が、アリスベルの襟首を捕まえてこれ見よがしに首筋に大振りな刃物を当てて、駆け付けた警官隊を威嚇していた。

「マジで何やってんだ!!」

 絶叫よりは悲鳴に近いガーネットの声が届いたのか、アリスベルはちらりとこちらに視線を向けて何かを言ったようだったが、覆面男のだみ声と蒸気機関の駆動音にかき消されてしまう。

 対する警官隊はと言えば、数名程度の制服が腰のサーベルを抜刀して、あるいは拳銃を構えて客車を取り囲んではいるが、惨めなほどに狼狽しているので抑止力にもなりはしない。むしろ、その様を見た強盗たちが余裕の笑みすら浮かべ始めている始末だ。

 よくもこの短時間でこれほどの悪条件を詰め込んだもんだと、感動すら覚えるほどだ。

 そうこうする間にも機関車の出発準備は整ったらしく、先頭車両が景気よく煙と汽笛の音を空に向かって吐き出すと、当初のダイヤなんて全く無視して列車がジワリと動き始めた。

 慌てるだけで何もできなず茫然と見送るばかりの警官隊をしり目に、列車は見る見る速度を上げてゆく。慌てふためく警官隊の中には「検問を!」「次にあれに接触できる場所は!?」「近隣に応援要請を!」「先行して線路上に展開して」などと次の手を打とうとする者もいるが、

(無理だろうな)

 ガーネットは鼻で笑う。

 列車強盗が難しいのは列車をジャックするまでだ。ジャックに成功し、走りだしてしまえば圧倒的に強盗側に有利になる。

 おそらく連中は途中の適当なところで列車を止めてそこから野を超え山を越え逃げるだろう。

 そうなれば捜索範囲はべらぼうに広くなる。おそらくは見つかることはないだろうし、当然乗客は口封じのために皆殺しだ。

 そうならないためにも駅には軍施設もかくやという厳重な警備態勢が敷かれるのが常なのだが、今回は急きょ臨時の停車場が設定されたせいでその手配が間に合わなかったのだろう。

 何もかもが嫌がらせのような悪条件にまみれていたが、そんなものをすべて吹き飛ばして余りある懸案事項があの列車の中で息をひそめているのを知るのは、ガーネットただ一人だ。

「あれがむざむざ殺されるたまじゃないのはわかってるけど、いや、殺されてくれればそれはそれで世界は平和になるんかもしれないけど……」

 無理だろうな、と思った。

 それどころか、手加減なしの反撃にでも出た日にはその被害は想像もつかない。そもそも魔法というものがどのようなものかもまだ実感できていないのだ。

 何もかもが想像の範疇にないことだらけだが、ただ一つだけ確実に言えることがある。

「あれにどっか行かれたら、あたしの飯の種がなくなる」

 ガーネットを突き動かしたのは、世界のピンチなんかよりもずっと身近な危機感だった。俗物だと笑ってやるな。

 おろおろとうろたえる警官隊を尻目に、ガーネットは線路脇に飛び出すとそのまま最後尾の車両めがけて全力で地面を蹴った。

 わき目もふらずに全力のストライドで駆け抜けるガーネットの姿は、さながら二足で疾駆する獣のごとく逞しく、その体は風の神の加護を受けたかのように加速する。

 が、さすがに文明の利器は伊達ではない。蒸気機関は見る間に出力を上げ、列車は速度を増し、轟音と震動をまきちらしながら鉄路の上を走り去ってゆく。初期加速を終え、人の力では決して追い付けなくなるまでもはやいくらも猶予はなさそうだ。

 高らかに鳴り響く汽笛に、いよいよ手が届かなくなると踏んだガーネットは最後の力を振り絞ってさらに大股に、力強く脚を蹴り出し、脚よもげろとばかりに駆け抜ける。

「っと! こ、の」

 が、それでも届かない。むしろ車両の尻は徐々に視界の中で小さくなり始めている。

 これ以上はもう無理だ。諦めよう。ここまでやったんだから、誰も文句は言わないだろう。

 そう思った、その瞬間だった。

「!」

 それまでスムーズに加速していた車両が大きく音を立てて揺れ、その一瞬だけ車両の速度が落ちたのがはっきりと見て取れた。

 それは、まだ十分に加熱加圧しきれていない機関車を無理やり動かしたせいで、出力が不安定だったためだと知ったのはあとになってからのことだが、理由なんてどうでもよかった。

 せっかく頑張らなくてもいい言い訳が見つかったのに、と舌打ちしたのはここだけの話だ。

 もう動かないと思った足を無理やりに踏み出し、最後の跳躍に全てを賭けて手を伸ばす。

「と、ど……けっ!」

 タラップの端っこに辛うじて指先がかかったところで、再び車両全体を小さな揺れに音を立てる。今度こそ蒸気機関車の本格的な加速が始まる。そうなれば、もはや次のチャンスはない。

「ぬぇあ!」

 年頃の女の口から絶対に出てはいけない音とともに、引っかかっている関節一つ分の指に渾身の力を込め、体を引き寄せる。

 危うく列車の加速においていかれそうになるぎりぎりで靴底が浮き、指先の腕力だけで体を引き寄せてよじ登ると、背中を叩きつけるようにして外壁にへばりついた。

「ああぁぁあああああっはぁ、はぁ、はぁ、っあ! 死ぬかと思った!」

 ぜえぜえと肩で息をしながら呼吸を整えるが、一向に心臓が落ち着く気配はない。うなじには滝のように汗が伝い、目の前にはいくつもの星が瞬いている。ゲロを吐かないようにしたのは年頃の乙女としての意地以外の何物でもない。

「ちっくしょ、何で、こんな、ことに、げっほ」

 むせ返り、微かに口の中に血の味が広がるのに顔をしかめ、とにかく呼吸を整えることに専念しながらもガーネットはゆっくりと立ち上がる。

 覗き窓から車両の中を覗き込むと、幸いにも自分のとりついた最後尾は牛馬を運搬するための家畜車らしく、列車強盗の姿は見当たらない。

「とりあえずはセーフだけど、確かあいつがいたのって……」

 未だ荒い息を整えながらも冷静に記憶をさかのぼる。

「二両ぐらい前か」

 となると、取れる選択肢は限られている。

 迷ったのは一瞬だった。

 屋根の上まで伸びているタラップに再び手をかけ、屋根の上に鼻から上だけをのぞかせて見張りがいないことを確認すると、一気に屋根に駆け上がる。

 それなりの速度に達していたせいで、吹き付ける風はうっかりすると吹き飛ばされそうなほどの強さだが、這うように進めばなんとか耐えられそうだった。

「あたし、切符買ったんだけどな。指定席」

 背嚢にねじ込んである決して安くはない紙きれのことを思うと、風に混じって吹き付ける煙の臭いさえも腹立たしかったが、今はその怒りを別のものに向けることにする。

「早くしなきゃ鼻の中が煤だらけになる」

 後部二両は家畜車と貨物者だったので足取りに気を遣うこともなかったが、最後の一両はそういうわけにはいかない。

「うっかり足音立てて下からブスっ、とか笑えないし」

 可能な限り足音殺し、車両間を移動するときも列車の振動に合わせて屋根から屋根に飛び移る。気付かれていないことには絶対の自信があったが、それでもガーネットは屋根に這いつくばって息をひそめ、ゆっくりと屋根の縁から頭をのぞかせて窓から中の様子をうかがう。

「人質がいて、強盗が……二人……三人か。うわっ、鉄砲持ってる」

 覆面をしているせいで顔はわからなかったが、体つきと風体から若い兄ちゃんもしくはおっさんだとわかる連中が車両前方の二人と後方の一人にわかれて人質を威嚇している。

「おいおいおい、威嚇するだけなのに引き金に指掛けるなよな」

 車両前方に目隠しをしてまとめられた数名の人質に拳銃を向ける男は、何が嬉しいのか口元をにやにやとほころばせながら、時折銃口で人質の肩口をつついている。悪趣味な笑みが、ガーネットの生理的嫌悪感を刺激しまくる。

「とりあえず最初に斬るのはあいつだな……んで、肝心のアレは……うわぁ」

 目的の人物は、探さなくても嫌でも視線が追ってしまった。

 何故かほかの人質から離れて一人だけ車両後方で床に座らされているストロベリーブロンドは、目隠しの上からでもその美貌がにじみ出しているようにさえ思えた。手首を縛られているのは他の乗客と同じなのに、何故かその姿には禁忌的な淫靡さが漂っている。

「何であいつだけ……って、聞くのも野暮か」

 その外見は、強盗をやらかすような愚か者の劣情を刺激するには十分すぎる。

 これがよくある人質事件であれば、迷うことなく今まさにその花を散らさんとする乙女の救出を最優先するのだが、

「ま、あいつはたぶんだいじょぶだろ。それより問題はほかの”人間の”人質だ。これで全部ってことはなさそうだし、時間かけてらんないな」

 見る限り、この車両にまとめられているのは十人にも満たない。まだ出発まで時間があったとはいえ、ほぼ満席の列車の乗客がこの程度しか乗り込んでいないとは考えられない。つまり、

「車両ごとに纏めてんのかめんどくせー。もたついたら他の車両から応援が来ちゃうじゃん」

 強盗団の人数がどの程度かは想像もつかないが、少なくとも列車強盗をやってのける人数となれば、さすがに一人で相手にしきれるとは思えない。加えて向こうには人質までいる。

「どんだけ嫌がらせのフルコースだよ……って、ぼやいてもしゃーないか」

 再度状況の確認のために、ほぼ逆さづりになりながら窓から車内をのぞき込む。

 強盗三人の配置と人質までの距離、そして、一応とばかりにアリスベルの位置を再確認したところで、ばっちりアリスベルと目があった。目隠しをされているにもかかわらず、何故かこちらを見たというのがはっきりとわかった。かと思うと、

「わ、ばか! 何で喋ってんだよ!」

 窓ガラス越しなので声こそ聞こえなかったが、明らかにこちらに向かって呼びかけている。

 当然、そんな奇行に出れば強盗たちの注意はもれなくそちらに向けられ、そのままアリスベルの視線を追うように三組六本の視線がガーネットに向けられる。

 もはや迷う余地はない。

 ヤモリのように壁に張り付いていたガーネットは、屋根のヘリをつかむ両手を支点にして飛び出すとそのまま器用に体を捻って勢いをつけて反転。

「ざけんな!」

 ガラスを思い切り蹴り破って車内に飛び込み、その勢いのままに手近な一人の顔面に靴底をねじ込んでやる。

 足の裏に伝わる、鼻の骨が折れて肉のひしゃげる感触。まず一人。

 既にその時点で右手は腰の騎士剣を引き抜いており、慌てて銃口をこちらに向けるもう一人に向かって容赦なく遠心力の乗った斬撃。斬り上げる刃の後を追って、二つの手首がくるくると宙に舞った。二人目。

 が、準備不足の不意打ちではこれが限度だった。一人目の顔面を踏みつけながら着地し、剣を振った遠心力で体をコマのように回して座席を飛び越えて三人目に向かったが、

「何だてめえは」

 剣の間合いまであと半歩と言うところで、一人離れていた強盗の銃口がガーネットの眉間をしっかりと捉えていた。

「さあ、なんだろね?」

 強がってはいるが、圧倒的不利は覆らない。こちらはどうあがいても間合いに飛び込むまでにいくらかのモーションが必要な距離だ。

「一応言っとくけど、そっちに転がってるの、さっさと止血しないと死ぬよ」

 顎だけをしゃくって背後に転がっている別の強盗に注意を向けるよう促す。もしもこれで相手が仲間を助けるために動くか、最悪注意を逸らしてくれれば次の手も打てたのだが、

「それはお前を殺してからじっくりとやればいい。死んだら、分け前が増えるだけだ」

 甘かった。どうやらただのゴロツキではないらしい。それが証拠に、こちらが飛びこんでからのこいつの動きは訓練を受けたもの特有の洗練されたものだった。そうでなければ拳銃と一緒にもう一組の手首が床に転がっていたはずだ。

「どこの差し金だ? 何故お前はここにいる? 仲間は? 正直に言わなければ殺す」

 言っても殺すくせに、とは思ったがガーネットは敢えて会話を続けることにした。少しでも打開策を練る時間が欲しい。

(何とかこいつらに、自分が不利だって思わせなきゃだから……あたしは軍の斥候ってことにしてこの先で検問張ってるってことにすれば、よし、この線で行こう)

 我ながら安っぽいはったりだとわかってはいるが、じゃんけんに勝つぐらいの勝率ぐらいはあるはずだと自分をごまかして覚悟を決めた。

「残念なお知らせだけど、あんたらの計画は」

「ときにガーネット君、この目隠しをとってはくれまいか?」

 出鼻をくじいたのはまさかのアリスベルだった。強盗の背後にちょこんと座りながら、いやいやをするように首を振っているのだが、目隠しが外れる気配はない。

「いや、今そんなこと言ってる場合じゃなくて」

「しかしだな、ガーネット君。どうにも気持ちが悪くてね」

 もぞもぞと身をよじる仕草そのものは可愛らしいのだが、いかんせん場の空気を全く読まない発言はガーネットのみならず強盗の神経も逆なでする。

「人質が勝手にしゃべるな黙ってろ!」

 案の定怒鳴りつける強盗に隙が生まれるかと思ったが、残念なことに銃口はぴたりとガーネットの眉間をとらえたままだ。

 そして、アリスベルがそんなものを意に介するはずは、これっぽっちもない。

「ガーネット君、聞いているのかね?」

 無視を決め込むことにした。今はそれどころじゃない。今はとにかく、軍が動いているのだということを目の前の男に知らしめて少しでも時間を稼いで、こちらの有利になるように、

「ガーネット・サニーデイズ君」

 無視。とにかく、軍が動いているのだと目の前の強盗に思わせないことには、

「ガーネット・LL・サニーデイズ君」

「何であたしのフルネーム知ってんだよ!」

 名乗っていないはずだった。少なくとも、声に出してはいない。それが確認できるものも、肌身離さず持ち歩いているので見られたということも考えられない。なのに、なのに、

「そんなことはどうでもよいのだが、早く目隠しを」

「そんなこと、じゃねえよ! 目隠しぐらい自分でとれよ」

「しかし、そのようなところを他者に見られるのはまずいのではないかね?」

「今なら他の乗客も目隠しされてて誰も見てねえし」

 思わず声を荒らげたが、もちろん強盗が暢気にそんな茶番を眺めているはずもない。

「てめえら何勝手に話してんだ! あんまり騒ぐようならまとめて二人とも」

 怒りに震える指が今にも引き金を引きそうになっているが、

「おお、それは好都合だね。ではそうするとしよう」

 言い終えたときには、アリスベルの目隠しはするりとほどけ落ち、ついでに手首を縛っていたロープも蛇の様に蠢いてその戒めから解放される。

「ふう、これなら最初からこうしておけばよかったよ」

 さすがにこれには強盗も驚きを隠せないらしく、わなわなと唇が震えている。

「いとも簡単にやってのけんのな」

 もはやこの程度では驚きもしなくなっていたガーネットだが、ピンチなのには変わりない。目の前では絶賛銃口がこちらを縫いとめている。

「な、なん、な」

 事態を呑みこめずに慌てる強盗を尻目に、ガーネットは一計を案じる。

「なあ、アリスベル。あたしピンチなんだけどさ、助けてくんない?」

 もちろんこれだけでは芸がない。加えて、ただお願いするだけで自分の思う通りに動いてもらえるとも思えなかったガーネットは、一言だけ付け加える。

「人助けだと思ってさ」

 バカにしている、と思う反面でアリスベルであればこうした状況でも自分に求めるのはこうした不遜な態度であるように思えた。そしてそれ以上に、

「ふむ、人助け、か。悪くない響きだね」

 この魔女が、本気で社会復帰しようとしているのではないかと思えたから。ただ、一つだけガーネットの見込み違いがあったとすれば、

「でしょ? ってわけだからさ、そいつの自由をちょこっと奪ってくれるだけで」

「では、こうしよう」

 魔女であるということがどういうことなのかを、きちんと理解していなかったことだ。

 強盗の存在など完璧に無視して立ち上がったアリスベルは、目隠しのせいで乱れた髪を手の甲で一撫でして整えると、そのまま流れるようなしぐさでフィンガースナップを鳴らす。

 強盗は慌てて制止しようと声を上げるが、さすがにがーネットへのけん制を解いてまで引き留めることはしなかった。年端もいかない子どもと目の前の騎士とでは、その脅威は比べるまでもないと思うのも無理からぬことだ。

 全く別の立ち位置から、一体何が起きるのかと息をのんで事態を見守るガーネットと強盗。

 片やさっさと何とかしろと焦れる思いを殺しながら、片や万が一にもとんでもないことが起こるのではと気が気でもないのを噛み殺しながら。

 が、何かが起きる気配はない。ただただ走行音と、風の流れる音だけが客車内に響いている。

 もしかして、もう何かが起こったあとのなのだろうかと覆面越しに強盗の目を覗き込んで見ると、全く同じ目がこちらを見つめ返していた。

「へ、へへ、何かと思えば、ハッタリか。まあ、縄抜けとは恐れ入ったがな」

 安堵のため息を漏らした強盗は、再びガーネットに向き直る。どうやらこの時点で、アリスベルは警戒対象ではなくなったらしい。

 肩すかしでは済まない落胆に肩をふるわせるガーネットは、怒り任せに悪態の限りを尽くしてやろうかとアリスベルを睨みつけたところで、

「!」

 ゾクリと、心臓が止まるほどの寒気に襲われた。

 それほどにアリスベルの微笑みは美しく、禍々しいものだった。その笑みの意味するところを理解して、自分の認識がどれほど甘かったのかを思い知らされるには十分すぎるほどに。

 その時ガーネットの脳裏に浮かんだがのは、考えうる限りで最悪の想像だった。

 目の前の強盗が更に余裕たっぷりに下卑た笑みを浮かべたのも、ガーネットにとっては憐れみの対象でしかない。背後でもぞもぞと何かが蠢く音が聞こえたときには、最悪の想像が想像で終わらなかったことにため息すら漏れた。

「残念だったな。さすがにいくらお前が強かろうと、三人、いや、二人がかりじゃ分が悪いだろうな。おい、お前はその女を抑えつけろ。んでお前はこっち来い。止血してやるから」

 何を言おうとも滑稽でしかない。かといって挑発する気にもなれないのは、この後に男を襲う悲劇を思えばこそだ。むしろ哀れみさえ感じてしまう。

 先ほどガーネットにぶちのめされた二人が立ち上がってガーネットの背後に迫り、

「お前、何やってんだ? 後ろからそいつを押さえろって、お前も何してんだ! 早く止血しないとその出血じゃ、おい、お前ら! なにを、おいっ、おいって!!」

 男の怒声にも全くの無反応で、二人の強盗はガーネットの両サイドをのっそりとすりぬけると、まっすぐに声の主に向かって歩み寄る。一人などは、先ほど斬り落とされた手首からおびただしい量の血を垂れ流したままだというのに、痛がる様子を全く見せない。

 それどころか、二人に自分の意思などというものがないのは背後から見ても明白だった。

 魔法で操られている、と理解してなお生理的な嫌悪感を禁じ得ない。

(えげつな……仲間同士でやり合わせるかぁ?)

「おい、お前ら! なに、おい!」

 そんな、抜けがらになり果てた同胞に襲われては、さすがの男も取り乱さずにはいられなかったのだろう。

 それまでガーネットを狙っていた銃口は得体の知れぬ何かになり果てた同胞に向けられ、しかしどちらを狙うべきか決められずに宙を泳いだ。

 その一瞬で事足りた。

 操られて足取りのおぼつかない二人の間をダッシュですりぬけ、一気に間合いを詰めると拳銃を奪い取る。誤射しないようにしっかりとリボルバーのシリンダーを捕まえ、男の手首をねじ切るように捻り上げるとそのまま後ろ脚を蹴り上げ、踵を顎にぶち込んだ。

 悲鳴どころか、うめき声一つ上げられずに崩れ落ちた男の顔は、目を背けたくなるほどに狼狽していた。

「凄いね。まるで演舞のようだ」

 ガーネットの一連の動きに掛け値なしの簡単を漏らすアリスベル。言われて悪い気はしないでもないが、

「そりゃどうも」

 意識が飛ぶ瞬間の、あの驚愕とも絶望ともつかない男の表情を思い出してしまうと返す言葉が見つからず、ガーネットはとりあえず一番優先順位の高そうな作業に手をつけることにした。何故だかちょっと後ろめたさすら感じる。

(人として……なんておためごかし言うつもりはないけど、でも……あれは、どうなんだ?)

 そんな考えを振り切るように、先ほど自分が手首を切りおとした男の前にひざまずく。

「止血してやるのかい?」

「でなきゃ死ぬからね。今からやったって間に合うかどうかわかんないけどね」

 手際は見事なものだった。アリスベルの魔法の支配下にあるせいで棒立ちで立ち尽くす男の手首の直前を、アリスベルの手首を縛っていたロープできつく縛りあげる。傷口は男のシャツを切った歯切れで覆って応急処置は完了、というわけだ。さらに、

「んで、こうやって」

 無造作に男に足払いを喰らわせて床に引き倒し、

「傷口を上げときゃ、まあ、多少ましでしょ。運が良けりゃ死なない」

 腕だけを近くの座席にくくりつける。傷口を心臓よりも高い位置にすることで血流そのものを抑えようと言うわけだ。

「見事な手際だね」

 興味深そうにのぞきこんでいたアリスベルは、感嘆のため息すら漏らしている。

「戦場じゃもっととんでもないのの処置もさせられたし。ってか、あんたでもそんな顔すんだ」

 こちらをのぞき込む表情を見上げとそこには魔女らしさは欠片もなく、そこには年相応に好奇心に瞳を輝かせる少女がいるばかりだった。

 何だか不思議なものを見せられた気分になったのもつかの間、

「っと、んなことやってる場合じゃない。こいつは縛り上げとかなきゃ」

 慌てて車両前方でひとまとめに押し込められている人質のところに向かうと、手首を縛りあげていたロープをほどいて駆けもどり、瞬く間に先ほど蹴り倒した強盗の両手足を縛りあげ、猿轡までかまして床に転がした。

「とりあえずこれで大丈夫だけど……こいつも縛った方がいい?」

 残った最後の一人も同じように縛り上げるべく向き直るが、

「なんか、完全にイっちゃってるんだけど?」

 そこにはもはや人としての意思の感じられない表情があった。それどころか、知性や理性といったものが欠落したような、呆け切った顔は完全に白痴のそれだった。

「そのままでも大丈夫だよ。しばらくはマリオネイトの効果で意のままだよ。なんなら、そこに立たせておけば丁度いい門番にもなる」

「魔法、何でもありだな」

「何でも、ではないよ。なに、難しいことではないさ。今行使しているのは、思考と判断を停止させている魔法だけだ。それだけで、人はいとも容易く命令に従うものだよ。お望みとあらば、意思に関係なく肉体の制御を乗っ取って懸糸傀儡のごとく小指の一本まで意のままに操ることも可能だが」

「ふうん……今はいいや。こっちで十分」

 相槌こそ打つものの、これが一体どういう状態なのか皆目見当もつかないので、ただただガーネットは訝しがるばかりだ。やっぱり、どうしても生理的に受け入れられない。

 受け入れられなくても、やらなければならないことはあるわけで、

「なあ」

 落っこちてきたのは、魔女というよりは悪魔的な発想だと思った。

「こいつから話聞いたりできるのか?」

 だから、尋ねながらもで倫理的、人道的な何かが引っかかって、心の底では無理だと言われることを望んでいたのだが、

「彼の知ることであれば、全てを嘘偽りなく語ってくれるよ」

 どうやら最後の最後で道徳を貫くかどうかは自分で判断しなくてはならないらしい。

 というわけで、

「んじゃ、洗いざらい放してもらおっか。最初は……」

 毒食わば皿まで、とはよく言ったものだとガーネットは、日ごろは特に敬虔でもないくせにこのときばかりは心中で神に祈りをささげておいた。

(あたしは悪くない……よな)


「意外だった、と言うと君は怒るのかな?」

「黙って歩け。落っこちるよ」

 ただでさえ客車の屋根は左右に緩やかに弧を描いているせいでバランスがとりづらいというのに、吹き付ける風と突き上げるような振動のおかげで三歩ごとに命の危機にさらされる。

 加えて足音を立てれば足元の客車にいる強盗連中に感づかれてしまう。それだけは絶対に避けなければいけない。とにかく今やるべきは、絶対にこちらの存在を悟られずに、先頭車両に行くことだ。

 だから余計な話に注意を割いているわけにはいかないのだが、聞かずにはいられなかった。というか、

「意外って何が? あたしには、風も揺れも関係なくふわふわ歩くあんたの方が意外だけどね」

 悪態の一つもつかなければやっていられなかった。だって、自分は風に煽られるたびに死にそうになって這いつくばっているというのに、隣を行く魔女はそんなもの意にも介さず、それどころかそんなものは存在しないとばかりに優雅に歩を進めているのだ。何故髪が乱れないのかは、「魔法なんだろう」で片づけることにしている。

「私が意外と言ったのは、この列車を強盗から解放すると言ったことだよ」

「そう? 別に普通だけど。こいつを取り戻さなきゃ、あたしらも王都に行けない。王都に行けなきゃ来月の給料ももらえない。何もおかしくないと思うけど?」

「王都に行くだけであれば、他に手段はいくらでもあるのではないかね? それこそ、時間さえかければ」

「時間かけたくないんだよ。何が悲しくて魔女と楽しく珍道中しなきゃなんないんだよ」

「私はむしろ、その方が」

「うっさい。黙って歩け、っとぉ! 今のはやばかったな。なんだ? まともな揺れじゃなかったぞ?」

 あわや脱線かというほどに大きく横に揺れた車両は、すんでのところでレールに引っかかって元通りに走り始めるが、これには中にいる連中も肝を冷やしたようであちこちから悲鳴が上がったのが屋根越しにも聞こえてきた。

 トカゲのごとく無様に屋根にへばりついて事なきを得たガーネットだが、前方を見れば全く何事もなかったかのように涼しい顔のアリスベルが、涼しい顔ですたすたと歩いている。

「すげえな、魔法」

「何のことはないよ。ただ、私の周りの風の流れを操作して、不要な慣性を逆向きの力で相殺しているだけだよ。さすがに、先ほどの地揺れは少々イレギュラーだったので慣性操作に手間取ったがね」

 とはいうものの、ガーネットには表情一つ変えずに普通に歩いていたようにしか見えない。

「やっぱさっきのは地揺れだったんだな。まあ、無事なら何でもいいや。っと」

「地揺れはさほど珍しいことではないのかい?」

 アリスベルの素朴な問いにガーネットはそっけなく答える。

「規模によりけりかな? 小さいものには時々出くわす程度。歴史に残るような大災害規模となれば話は別だけどさ」

 さほど大きな被害の出ない自然現象のことなどつぶさに覚えてはいない、というガーネットの態度にアリスベルもそれなりに納得したらしい。

 車両の間をジャンプ一番飛び越えて、さらに前の車両にの屋根に移る。

 目指すは先頭車両。どうやらそこに、列車強盗の首謀者が陣取っているらしい。

 マリオネイトで強盗に全てを自白させたところ、どうやらこの列車強盗のそもそもの目的は先頭車両に直結された貨物車の積み荷だということだった。そこに何が積まれているのかは強盗団の頭領しか知らないが、何でもその荷物さえ手に入れば他の積み荷から乗客やら奪った金品やらは全て他の団員で山分けにしてもいいとまで言われていたらしい。

「で、何だっけ? ああ、あたしがこんなことすんのが意外だって話か」

 一呼吸分だけ、足元の車両に自分達の存在がばれていないことを確認すると、抜き足差し足歩みを進める。先頭車両が近付いているせいで息に混じる煙の味が濃くなって息苦しい。

「半分は今言ったとおり、とっととあんたとお別れしたいから」

「つれないね」

「はいはい。んでもう一つが……まあ、あんたは薄々感じてたみたいだから言うけど」

 立ち止まり、少しだけ逡巡する。ここまで言っておいてと思いながらも、やはり躊躇われるのか視線が泳いでいる。

 それを見たアリスベルは、まるで自分が代わりに言っていやるとばかりにさらり告げた。

「その呪いのせいかね?」

 驚かなかった。むしろ、やっぱりなとガーネットは呆れ半分感心半分のため息を漏らした。

「やっぱあんた、ほんとに魔女なんだな。そ。あたしは呪われてんの。正確にはあたしの一族ね。それもすっげー強力なやつ」

「のようだね」

「どんくらいい強力かっていうと、この呪いをかけられた奴は絶対に死ぬ。その名も『絶対不幸』って馬鹿にしてんのかって感じだけど、これが効果覿面。何せあたしよりも前の代の人間はきっちりあり得ない不幸な目に遭って死んでる。全員漏れなく。あたしの父親もね」

「しかし君は生きている」

 その瞳にはっきりと「何故だ?」と書いてあるのが、何故だかこの時のガーネットには嬉しかった。何でも知っているような魔女にも知らないことがあるとわかったからだろうか。もしかしたら、それが自分にまつわることでちょっとだけ得意になったのかもしれない。

 この時のガーネットの気分は、自慢の武器を見せびらかす兵士のようでもあり、宝物を友達に披露する子供のようでもあった。

 人差指をシャツの胸元に当てたガーネットは、指先を襟首にひっかけてと少しだけ引っ張ると、その先端でささやかなふくらみの中間を差した。

「歳の割にはささやかだ、とか言ったらここでぶった斬る」

 もちろんそんなことは先刻承知だ。男みたいな体、とバカにしたくそ野郎の耳や鼻を切りおとした数は両手に余るのだが、それに関しては自分は全く悪くないと信じて疑わない。強いて言うなら、たわわな二物を与えなかった神が悪いのだ、と。

 もちろんそんな過去など知る由もないアリスベルは、興味深そうにシャツの襟元から緩やかな双丘をのぞき込み、ふむ、と唸りながら納得いったとばかりに大きくうなずいた。

 と同時、ガーネットの胸の真ん中にそろりと指先を触れさせる。

「なるほど。これのおかげで君だけは呪いの中でも死ぬことがないわけだね」

 指に伝わるのは少女の胸の柔らかさ、滑らかさとは程遠い硬質で冷たい感触。

「そ。アホでしょ。絶対不幸に対抗するためにうちの先祖がやったのが、この」

 更に襟元を引っ張って胸を半分ほど露出させると、そこにははちみつ色の宝石が日の光を浴びてキラリと輝いた。

 ペンダントトップなどではなく、石はガーネットの胸元に埋め込まれている。

「絶対幸運の石ってんだからもう、アホすぎてね、あたしが先祖を呪いたくなる。何がラッキー・ラッキー・スターだ。あほか」

「確かに、不幸に対するなら幸運、というのはあながち間違いではないだろうが」

「呪いを打ち消すんじゃなくて、お互いがそれぞれで不幸と幸運を呼び込むもんだから、あたしらの一族は嵐のように襲いかかる不幸やら事故のただなかで、幸運にも生き延びるっていう最低のマッチポンプな人生を運命づけられてるってわけ」

 呆れたように笑う表情は、時折見せるあの諦観を含んだ老人のような笑みだ。この笑みの正体は、常人にはおよそ想像もつかない壮絶な人生経験のたまもの、ということなのだろう。

 いつまでも立ち止まっているわけにもいかず、ゆっくりと歩きなが続ける。

「ってわけだから、まあ言っちゃえばこの列車強盗もたぶんあたしのせい。あたしが乗る予定の列車だから強盗に遭った。何なら、こうなるために列車事故も起こるべくして起こった、ってんなら納得できる」

 こんなことを本気で語る人間がいれば、自意識過剰をこじらせているか、さもなくば誇大妄想狂の狂人としてあざ笑われるだろう。下手をすれば神への冒涜として教会に逮捕されるかもしれない。

 それでもガーネットの顔はどこまでも真摯で、それを受け止めるアリスベルはどこまでもいつも通りだった。それどころか、

「だから、君は、君の起こしたこのトラブルに責任を感じて解決させようとしている、と?」

 そのすべてが真実である前提で話を続ける。

「だとしたら、それこそ誇大妄想。思いあがりもはなはだしい、って? まあ、そう言われちゃったら身も蓋もないけど、ちょっと違うかな」

「というと?」

「たしかに、あたしのせいだとは思うけど、あたしの責任だとは思ってない。そんなこと考えてたら自責の念で三日と生きてらんないよ」

「では、何故?」

「癪に障るからよ」

 そう言ったガーネットの目は、笑っていた。

「呪いだか運命だか知らないけど、あたしのまわりに迷惑振りまいて、それであたしを困らせようってんなら、上等よ。どうせ死なないんだったらありったけ抗ってやろうってそれだけよ」

 見る者によってはただの強がりややけくそにも見えるが、その瞳の奥にははっきりと意思の光が灯っている。それを裏付けるかのように、口の端を釣り上げ、目を三日月形に歪めて形作ったのは、どこまでも凄絶な笑みだった。

「絶対に、不幸だなんて思ってやらない」

 まかり間違っても、十代の乙女の浮かべて良い笑みではない。

 が、アリスベルはそんなガーネットの狂気じみた告白を受けてなお泰然として「実に君らしい」と納得するばかりだ。それどころか、

「何笑ってんのよ?」

 くつくつと、堪え切れないとばかりに声に出して笑っているではないか。

「いや失敬。今までやけに大人しいと思っていたが、それほどのものを内に秘めていたとはね。いや、私もまだあおい。いやはや、やはり世界は広い」

 その表情だけを見れば年頃の、それも美しい少女の笑みなのだが、何故か笑い方だけは年経た老人のようで、そのちぐはぐさに見ていてむずがゆくなる。

「何だよ? バカにしてんのか?

「まさか、好意に値すると言っているのだよ」

「こうい?」

「好き、ということだよ」

「は? おま、何言って」

 予想のはるか斜め上を行く発言にその真意を測りかねたガーネットが思考停止していると、

「話しているうちに噂の貨物車に到着したが、ここの中には人はいないようだね」

 気付けばいつの間にか、先頭の機関車までは件の貨物車を残すのみとなっていた。どうやらお話をしながらいくつかの車両を超えていたらしい。

 さすがに無駄話に興じ過ぎたと反省はするが結果オーライ。

「ってことは、あたしらが乗り込むのは機関車だけでオッケーってことか」

 言いながら最後の貨物車に飛び移り、身を伏せる。幸い機関車後部、炭水車には石炭がたっぷり積まれているので、運転室からこちらが見つかる恐れはない。

 遅れて飛び移ってきたアリスベルも、同じように身をかがめる。

 それを確認したガーネットは、すぐ隣で真正面を見据えている瞳をのぞきこむ。

「問題はこっから運転室までを一気に制圧しなきゃってことなん、だけど……どしたの? どこ見てんの?」

 その宝石のような瞳は、目前の機関車ではないどこか遠くを見つめているように思えた。

「少々気になることがあってね。いや、今は目の前の問題に集中するとしよう」

「何だよ気になるな……ま、とりあえず手っ取り早く機関車制圧して、列車を止めてしまえばあとは前の方から車両を制圧していくだけだ。親玉を押さえられて、列車も止められたとなれば連中も強盗どころじゃなくなるしな」

 この期に及んで乗客を殺してはした金でも握って逃げよう、などと考えるものもいないとは限らないが、その時はその時だ。それに、後部車両で遭遇した男の、あの訓練された動きには、そこいらの野盗連中とは違う何かがあると思えたので、敢えてガーネットはこの策をとった。

 ルートは一つ。炭水車のに満載された石炭の上を駆け抜け、運転室の窓から室内に飛びこむ他に道はない。となれば、あとはスピード勝負だ。

「あとは出たとこ勝負……ってわけで、あんたはあとから来てフォローに回って。あたしが失敗したときは、あんたの魔法だけが頼りになる」

「嬉しいことを言ってくれるね。私の魔法が君の期待を背負うとは」

「やむを得ず、ってやつだよ」

 皮肉たっぷりに行ったところでアリスベルの笑みは僅かばかりも曇ることはなかった。

「調子狂うな……って、くっちゃべってる時間は」

 ない。そう言って走りだそうとしたその瞬間を狙い打ったかのように、車両が大きく揺れた。

「ちょ!」

 足元から突き上げるようにして車両を揺るがした地揺れは、左右にも先ほどよりもずっと大きく揺れ、ついには左側の車輪が線路から浮きあがったのをはっきりと靴底に感じた。

 あわや脱線かと身を固くしたが、石炭満載の重量のおかげか幸いにも車輪は再び鉄路をにしっかりと噛みあった。それでも機関車そのものが浮き上がるほどの衝撃は凄まじく、着地の際の火花がはっきりとガーネットの目にも映った。

「やっべ。今のはやばかった」

 どっと噴き出した冷や汗を手の甲で拭い、改めて運転室への突撃を決行しようと前方を睨みつけたところで、

「あ」

 運転室からひょっこりと覗いた顔と、思いっきり目があった。向こうも同じく「あ」の形に口を開いているのが間抜けだった。

 頭が見えた瞬間は運転士かとも思ったが、目出し帽をかぶっていることに気がついたと同時に、ガーネットは思いっきり駆け出していた。

「最悪!」

 悪態を吐く間に石炭の上を器用に走り、駆け抜けざまに拳大の石炭を一欠片拾っておく。

 煙突から吐き出される煙のせいでろくに目も開けていられない中、何とか運転室の屋根を視界にとらえると、その縁に手をかけて思い切り前方にジャンプ。

 覗きこんだ向こうには、案の定こちらに向けて拳銃を構える先ほどの覆面男の姿のほかに、運転士と思しき男二人がせっせと罐に石炭をくべて列車を走らせていた。さらに奥に一人、覆面こそしていないが、明らかに正規の乗員ではないとわかる、腰にサーベルをぶら下げたジャケット姿の男が一人、壁際にどっかりと陣取っていた。

 そいつが親玉だと辺りをつけたガーネットは、手にした石炭を覆面男に向けて投げつける。

 当たればラッキー、当たらなくても拳銃の照準さえ狂わせられればそれで十分だったのだが、石炭の塊は運よく男の拳銃を直撃。発射された銃弾はあさっての方向に向かって飛んで行った。

 その隙に縁をつかんだ腕を力いっぱい引き寄せて室内に飛び込むと、石炭のせいで真っ黒になった手で腰の騎士剣を引き抜き、着地するよりも先に横薙ぎに一線。切っ先で拳銃を払い落すことに成功すると、もうこの男に必要以上にかまっている必要はない。

 第一射を外しただけで動揺していた男の顔面に思い切り軍靴の底をぶちこむ。技術も減ったくれもない力わざで昏倒させると、剣を返す勢いを利用して再び思い切り床を蹴った。

 視界にとらえた親玉(仮)は、故v平を睨みつけながら懐に手を突っ込んでいる。

 一瞬でも止まれば鉛玉をぶちこまれるらしい。となれば、

「とにかく、間合いを詰める!」

 狭い室内で唯一自分に有利な点があるとすれば、拳銃の射程と騎士剣の間合いを、容易に相殺できることだ。

 とはいえ、相手の有利には変わりはない。あとは自分がどれだけ動けるかだ。

 床を蹴って跳躍したガーネットは、今度は壁を這う配管を蹴って進路を変え、天井付近のフレームを掴んで更に体を振り回す。サーカスの軽業師もかくやという動きでトリッキーに、しかし確実に、後方でじっとこちらを見据えている男との間合いを詰める。ジャケットの内側に納められている右手の動きに全神経を集中し、最後の一歩を詰めるために顎が床に擦れるほどの超低空を跳躍し、剣の間合いよりもさらに一歩向こう、拳銃を抜く動作を封じられるぎりぎりの距離にまで踏み込んだところで、

「残念」

「な、いふ」

 当てが外れた。

 懐から引き抜かれた男の右手には刃渡りの短い、しかし人の命を奪うには十分な短剣が逆手に握られていた。男の獲物が拳銃だとばかり思っていたガーネットは、見事にその虚をつかれたというわけだ。狭い運転室内、動きが限られる中での手練れのナイフさばきの脅威は拳銃のそれとは比較にならない。

 とはいえ、宙を疾駆するガーネットには銃弾のごとく加速した自身の体を止める術はない。むしろ、すでにナイフの間合いに入り込んだ今、中途半端な動きは命とりでしかない。近すぎる間合いのせいで、でかい騎士剣ではナイフ相手に圧倒的に不利だ。

 とにかく今は防御の一手有るのみ。そう思って体を反らせ、突きのために引いていた剣の構えを変えて前方を薙ぎ払うために手首を返したところで、今度は男の左腕がひらめいた。

「ちっ」

 目の前には、完璧にこちらの眉間をとらえた銃口。

「こちらが待ちでなければ危なかったな」

「癪に障んなー」

 とはいうものの、男の動きは並ならぬて手練れのそれだし、懐の武器を拳銃だと思わせる駆け引きも、素人ではありえなかった。どうやら最初のブラフにに引っかかった時点で勝負は決していたらしい。

「見たところ王国騎士、軍の犬か」

「王国騎士だけど犬になり下がったつもりはない。あんたは差し詰め軍人崩れか叩き上げの傭兵、ってとこ?」

「俺の素生などどうでもいい」

 言いながら右手のナイフを懐にしまいこみ、降伏するようにと顎をしゃくって促す。

「確かにね。あんたがどこの誰かなんて、あたしにはどうでもいいわ」

 さすがにここで逆らったところで、鉛玉が脳天を貫通して脳味噌をぶちまけるだけだ。さしもの幸運も、こればかりは何ともならないだろうとガーネットは剣を床に置く。

「言っとくけど、あたしはただの時間稼ぎ。あたしを殺したところでもう検問が」

「検問などは張られていないだろうな。むしろ、まだその手配すら間に合っていないのだろう。さもなくば、斥候に不向きな騎士剣一つでバックアップもなしに飛び込んでくるなど、愚の骨頂だ。たまたま居合わせたので首を突っ込んだだけ、というところか」

 ぐうの音も出ないとはこのことだった。

「ただの野良犬の親玉にしちゃ頭が回るじゃない」

「軍の犬にしては大した正義感だな」

 駆け引きも向こうのほうが何枚も上手、加えて挑発合戦でも勝ち目はないらしい。

 ガーネットの知る限り、この手合いは交渉相手にするには一番厄介なタイプだ。こちらの手が読まれるどころか、交渉そのものを受け付けず、挑発にも乗らず、打つ手打つ手すべての裏を呼んでくる。中途半端なブラフは通じないどころか相手を優位に立たせるだけだ。

 というわけで、何とか時間稼ぎをしようとするガーネットの手も読まれているわけで、

「残念だが、死んでもらう」

 トリガーにかかった指が容赦なく引き絞られ、

「残念だが、死んでもらうわけにはいかないのだよ」

 間に合った。

 機関車内の騒音の中にあって、似つかわしくない凛とした涼やかな声はそこにいる全員の意表を突いた。

 が、そんなことよりもさらに度胆をぬく事態が巻き起こされた。

「ぐぇあっ!」

 何が起こったのかは、その場にいた全員が理解できなかった。

 ガーネットに拳銃を突きつけていた男が、何の前触れもなく後方にはじけ飛んで壁にたたきつけられたのだ。何かがぶつかったわけでもないのに、まるで見えない何者かが男の襟首を巨大な力で引っ張ったかのように唐突に後ろ向きに吹き飛んだ男は、きょとんと眼を丸くしたままなす術なく壁にたたきつけられて、ぐるりと白目を向いてしまった。

 響き渡った「がごっ」という鈍い音は聞くだに顔をしかめてしまう痛そうな音だった。

「殺してないよな?」

 騎士剣を拾い上げ、腰の鞘に収めながらガーネットは窓の方に目をやる。

 ふわりと、ローブの裾を風にまくられながら侵入してきたアリスベルは、落下の余韻を一切感じさせない緩やかな足取りで着地すると、自分がふっ飛ばした男には一瞥もくれることなく、

「運が良ければね」

 乱れたローブの隙間から、膝小僧がちらりと見える。。

「運がって……一体何したんだよ? 死んでてもおかしくない音だったぞ」

 さすがに先ほどの衝突音は尋常ではなかったので、ガーネットは心配になって男に歩み寄って安否確認することにした。

「なに、彼にかかっている慣性を殺しただけだよ。移動する箱の中にあって、彼だけが慣性を失ったので相対的に後ろ向きに移動したように見えた、というわけだ」

「それって、突っ立ってるところに列車と同じ速度の壁が突っ込んできた、ってことだろ?」

「理解が早くて助かる」

 最低限の教育課程は経ているとはいえ、学者ではないガーネットにはその非常識具合こそ計り知れなかったが、とにかく無茶苦茶であることだけは容易に想像できた。

 もし今アリスベルの言ったようなことが可能なら、この世の乗り物のすべては今この瞬間から殺人兵器に早変わりだ。

「とことんえげつないな……あ、よかった、生きてる」

いろんな意味で納得できない何かを噛み殺しながら男に歩み寄り、呼吸と脈を確認してほっとする。どうやら気を失っているだけのようだ。

「ときにガーネット君、何か忘れてはいないかね?」

 安堵のため息をつきながら肩の力を抜き、これからどうしたものかと立ち上がったガーネットのすぐ脇に歩み寄ってきたアリスベルが、こちらを見上げながら瞳を輝かせている。

 その表情はそれまで見せていた涼しげなものに比べて、いくらか得意げにも見えたし、頬も心なしか上気しているように思えた。何より気になったのは、顔の周りにキラキラと星のような光が瞬いていることだった。

「それも魔法?」

「内緒だよ。それよりも、ほら、何か忘れてはいないかね?」

 どういう理屈か星がその数も瞬く強さも増し、今やアリスベルの全身を覆うまでになっていてまぶしい。

 何を言いたいのかよりもそのキラキラのことが気になって仕方がないガーネットだったが、

(ああ)

 ようやくそのことに気がついた。

「たすかったよ。ありがと」

 その瞬間、にやりとアリスベルの口元がつり上げられた。

 満面の笑み、と言うにはやや無垢さや無邪気さというものに乏しい気がしたが、そんなものを補って余りある蠱惑的な笑みだった。

 魔性の笑み、とはこういうのをいうのだろう。

 アリスベルはそんな、見るものすべての魂を蕩けさせるような笑顔を浮かべながら答えた。

「どういたしまして」

 どこまでも得意げな姿に、ふん、と鼻息一発皮肉交じりに言い放つ。

「かわいげない笑い方」

 もちろん悔しかったからだ。だって、同性に見惚れてしまったから。

 対するアリスベルは、そんなガーネットを見てさらににたりと口端を釣りあげるだけだった。

「性格悪っ」

 そんな悪態もアリスベルはどこ吹く風だ。それどころか、先ほどのガーネットからの言葉がよほどうれしかったのか、いまだ 得意げに微笑んだままだ。

 嬉しそうなアリスベルをよそに、ガーネットは即座に次の行動に移った。

 男が吹き飛ぶ時に取り落とした拳銃を拾い上げると、斬劇を想起させるキレのある動きでターンを切り、背後で腰を抜かしているもう一人の男に銃口を向けた。

「それ、捨てて。でないと撃つよ」

 覆面のせいで顔こそ見えないが、その狼狽ぶりは見るも無残なものだった。

 おそらくずっと年下であろうガーネットの迫力に気圧されて、まったく無抵抗に拳銃を床に置くと、尻もちをついたままずるずると後ずさっている。

 そちらは放っておいても害はなさそうだと判断したガーネットは、今度はおもむろにそばに置いてあった防火用のバケツを手にすると、壁にもたれかかるようにして意識を失っている男の顔面めがけて、問答無用に中の水をぶっかける。

「ぶぇっへ! ごはっ!」

 荒療治にもほどがあるが、どうやら意識が戻ったらしいびしょ濡れの男は、最初の一瞬こそ自分に何が起こったのかを理解できていないようだったが、バケツ片手に傲然と自分を見下ろす少女騎士の姿に全てを悟ったらしい。

 何を言うでもなく、じっとこちらの反応を待つあたり実に賢明な判断だ。下手に動けば、自分が斬られるというのをしっかりと理解している。

「大人しく投降すんなら軍警察に情状酌量の渡りつけたげるよ、色男」

 これはブラフでも何でもなく、本当にそのつもりだった。

 ただ、それで懐柔できる相手ではないのも何となく察していた。それが証拠に、

「要らん世話だ。俺はこのまま死ぬ」

 そう返した男の目はすでに正気を取り戻していて、どこまでも本気なのがわかる。

 本来ならこのやり取りはここで終了。残された手は男を強盗、それも列車強盗という極めて重い罪の咎人としてこの場で切り捨てるか、縛り上げて問答無用で警察に突き出すかだ。もちろん、突き出された先に待っているのは死刑かそれに類する極刑であることに変わりはない。

 男にもその覚悟ができているのは、いまだ消えぬ瞳の奥のぎらつきを見れば言わずもがなだ。

 が、ここでガーネットの中に一つの疑問がわき上がった。もしかしたらそれは、好奇心だったのかもしれない。

「あんたみたいなのが金品のためでもないのに列車強盗なんて大それたことするなんて、この列車の積み荷ってそんなに価値があんの?」

 聞いてはみたものの、男がそれに応える様子はない。ただ黙って目の前の床をじっと見つめているだけだった。後から思えば、男はこのとき最後の賭けに出るべきかどうかを迷っていたのだろうが、傍目にはただ覚悟を決めただけにしか見えなかった。

 「ま、いっか」と興をそがれて鼻息を漏らすガーネットをよそに、おもむろに男は視線だけをアリスベルに向けると、慎重な口ぶりで尋ねた。

「今のは、魔法か?」

 驚いたのは、質問そのものよりも男が口を開いたことだった。

 俄かに緊張感が増したが、まだ自分が圧倒的優位なことに変わりはない。

「聞いてんのはあたしなんだけど。それとも、今のはぶった切ってくれっていう意思表示で」

 半ば挑発気味のガーネットの言葉にも男は眉一つ動かさず、質問を繰り返した。

「今のは、魔法か? それによっては今回の件はあんたらも無関係じゃない」

 その口調は質問というよりは、魔法であることを確信したうえでこちらの出方を窺っているようだった。「無関係じゃない」という持って回ったような物言いはいかにもブラフに思えたが、それ以上に男が魔法に対して何か思うところがあるらしいと察したガーネットは

「仮にそうだったとして、なに?」

 男の呼び水に敢えて乗ってみることにした。、好奇心が警戒心を上回った、と言われてもガーネットには返す言葉もない。圧倒的優位に立った余裕もあったが、それ以上にガーネットの好奇心を煽ったのは他ならぬアリスベルの存在だった。あの魔女の事を知る人間がいるのであれば、そこから何か情報を得られないかと考えたからだ。

 もちろん、そんな腹のうちはおくびにも出さずに挑発的に男を見下ろす。

「ということは、あの娘は魔女か……魔女連れの、騎士?」

「そこは触れんな。あたしとあの女の関係はさておき、あんたをぶっとばしたのが魔法だったら、なんだっての?」

 魔女連れの騎士、という単語が思いのほか心に突き刺さるが、何故かアリスベルは隣では嬉しそうに「そうだ彼女は私のつれだよ」と男に囁いている。妙に嬉しそうに。

「だったら、お前たちも見ておくべきだろう」

 そう言うと、男はガーネットが拳銃を手にしていることも気にせずに無造作に立ち上がると、のろくさとした足取りで歩き始めたではないか。

「ちょ、何勝手に歩いてんのよ! 大人しくしてなさいよね、さもないと」

 脅しでも何でもなく、本気で引き金を引く覚悟を決めたガーネットだったが、

「もう逃げも隠れもしない。今さらそんなこともできんしな。ただ、お前は見ておくべきだから見せるだけだ。魔女の存在を知るお前はな」

 そう言った男の声に、自分が撃たれるかどうかなどを意に介する様子はない。

「そのうえで、どうするかを考えろ」

 考える余地などあるはずもなった。 

 どう考えてもただ自分が逃げ出すための狂言だし、のこのこと付いていけば下手をすれば返り討ちにあってみすみす一度捕まえた強盗を取り逃がすだけた。

 だと言うのに、

「なにを、見せようってのよ」

 ガーネットは銃口を男の後頭部にポイントしたまま、同じ速度で男の後に続いた。

 と、そこでシャツの背中を引っ張られて振り返ると、ぴったりとくっついてついてくるアリスベルが、人差指と親指だけでシャツをつまんでいじらしくも自分を呼んでいた。

「何よ、いきなりかわいげ見せても今さらなんだけど」

「ひどい言われようだ。それよりも少々気になることを伝えておこうと思ったのだが」

「あとでいい? ちょっと、それどこじゃなさそうだし」

 再び振り返ると、男は運転室の扉を開け放つと走行中の列車の外にひらりと飛び出し、器用に手すりやらを利用して後続の石炭者の脇にへばりつく。

「はやくしろ」

 これではどちらが主導権を握っているのかわからなかったが、男の真意を測りかねるガーネットは、同じく石炭者の脇にへばりつくと後続の貨物を目指して壁を這って進む。拳銃は相変わらず男に狙いをつけてはいるが、もはや男には反逆の意思は残されてはいないようだった。

 一度もこちらを振り返ることなく貨物車まで辿り着くと、その扉が貨車にしてはやけに重厚なことに気がついた。元は厳重すぎるほどに幾重にも施錠されていたようだが、今はその錠も全てが外されている。どうやらこの男が外したらしいが、今となってはどうでもいい。

 中は全ての窓がふさがれて外の光が入らないにもかかわらず、薄らとした明かりに包まれていた。ただその光はガス灯のオレンジではなく、室内は淡い青緑色をに照らされている。

 最初こそ明暗の差にはっきりと見えなかったが、目が慣れてきたところで車内を確認すると、積み荷らしいものはフロアのど真ん中に置かれた大きめの箱が一あるきりだった。

「これがあんたがご執心の宝物? って、これ……棺桶?」

 どうしても疑問符を付けざるを得なかったのは、それがガーネットの知る棺桶からはあまりにもかけ離れたものだったからだ。

 仮にも貴族であるガーネットは、庶民が入る簡素なものから王族が容れられるような贅を尽くしたものまでそこそこに多様な棺桶を見たことはあったが、目の前にあるそれはそのどれとも似通ってはいなかった。

 要所要所をボルトで留められ、鎖で壁や天井に繋がれた鋼鉄の箱は、一見すればそうは見えないのだが、天面上部にあつらえられた覗き窓がガーネットに棺桶という言葉を選ばせた。

 ただそれでも、何となくしっくりこないガーネットは男に続いて車内に足を踏み入れる。

「いや、でもな、何か違う気も……そう、棺桶って言うか」

 とはいうものの、それ以上にしっくりくる言葉がどうしても出てここず、恐る恐る近づいて覗き窓を覗き込んでみる。

「封印、だね」

 同じようにとなりを歩いていたアリスベルの言葉に、驚くほど納得した。

 外観の印象もさることながら、その厳重なまでの拘束は中に納められているものが外に出ることを、あるいはその逆を拒むための、まさしく封印というのがふさわしいように思えた。

 そんな言い知れない不気味さに怖気づきながら、端に立つ男に促されるままにのぞき窓をのぞき込む。

 中に納められているのは、絶世の美女だった。が、そのあまりにも目を奪われる美貌に、ガーネットはそれを単純に美しいと評することはできなかった。

 それでも見惚れてしまうほどの美しさに不謹慎だとは思いながら、閉じた瞼やスラリと通った鼻筋、薄い唇と準に視線を移して、

「ああ」

という感嘆とともに、その違和感の正体に気がついた。

「人間じゃ、ない?」

 それまでに見たことのない大きなとがった耳と、肩口にうっすらと見える蝶のような翼に、ガーネットはとっさにそう口にした。

 それに呼応したアリスベルが回答を口にする

「エルフ族、かな」

 聞き覚えがないというわけではないが、実生活においてはほとんど聞くことのない、おとぎ話の存在の名前にガーネットは何とも無防備な表情をさらす。当然、そんな間抜け面をさらした先にもおとぎ話の中の存在が傲然と立ちはだかっているのだが。

「エルフ? エルフって、あの……エルフ?」

 思い描いたのは幼いころに呼んだ絵本や、物語小説の挿絵に登場する妖精の姿だった。

 尖った耳と整った顔立ちを持ち、小さな翼で空を飛びながらいたずらをしたり、時として人を惑わせたりする想像上の存在。

「君の言う『あの』がどれかは知らないが、彼女はエルフ族だね。外見もさることながら、森の加護を受けている、のだが……」

 処す豊富に落ちないとばかりに珍しく表情を曇らせたアリスベルだったが、ガーネットの顔はそれ以上にはてなマークまみれだ。

「だが?」

「いくつかの疑問点はさしはさむが、そうだね、彼女はエルフだ。私の知るそれとは処すほう異なっているし、生きてるというにはあまりにもその存在が弱々しいが、ね。おそらくこの鋼鉄の箱に封じられているせいもあるだろうが、それでも尚生きているのは、森の加護のおかげだろう。しかし、それも随分と弱まっているようだ」

 加護だ何だの真偽のほどはさておいて、確かにこんなところに閉じ込められていては衰弱もするだろう。ともあれ、

「とりあえず、あたしにこれを見せて、どうしようっての?」

 今自分が向き合うべきは物語から飛び出してきたような存在ではなく、目の前に厳然と居座る現実だと自分に言い聞かせるように、男に視線を向けて言い放つ。

「この時代に魔女を連れるお前なら理解できるだろうが、エルフは想像上の生物でも何でもなく、こうして生きて存在ている。それどころか、かつては人間と交流さえしていた」

「一応言っとくけど、こいつはあたしの連れってわけじゃないし、あたしはがこいつといるんはただの成り行き。だからそんな話をされてもわかんない」

 そこで一区切りして、さらに続ける。

「だから、あんたが一体どこのどいつかも知らなきゃエルフが実在するなんて夢にも思ってなかった。ついでに言うと今この瞬間もはっきり言うと疑ってる」

 姿の見えない何ものかと戦っているかのように、ガーネットはかたくなに言い放ったのだが、

「あんた、名前は? 俺の名前はガレット・ヌーク。元傭兵だ」

 男はきれいさっぱり無視して話し始めた。

「勝手に話し進めないでくれる? 話したいなら壁に向かって勝手に話して」

「こいつは、幼馴染のミオレイア」

「マジで聞いてないのに語りだしたし」

 ガーネットが茶化すも、男は気にも留めずにそのエルフと自身の過去を語った。

 それによると、子供時代にこのエルフと出会ったころには、すでにエルフという種はコミュニティとしての体裁を保てないほどに衰退していたのだという。元来エルフ種には男性が生まれることは極めてまれな上に、子孫を残しづらい生態なのだという。それでも過去には森に迷い込んだ人間の男をかどわかし、時には里から男をさらってきて里の女との子を成させることで種を存続させていたらしい。

「しかし、いつの頃からか人は森から距離をとるようになり、文明化の道を歩み始めたことでエルフの存在そのものが架空のものになり始め、かどわかされるものも減っていったらしい」

 そうして、ただでさえ子を成しにくいうえにその機会まで奪われたエルフは、見る間にその数を減らし、ついには集落としての体裁を保てないまでになったのだという。

「それでも、俺が子供の頃にはまだ森の中にはエルフがいくらかいたんだが、最近ではそれも全く見かけない」

 男の語る内容に、おとぎ話を聞かされているような実感のなさを覚えるガーネットに代わって、アリスベルが言葉をつなぐ。

「人の世に下ってその中でひっそりと生きて行くことを選んだ、ということはないのかい?」

 アリスベルの推察に、男は思い詰めたように息をのんで言葉を詰まらせた。

「だったらいいんだがな」

「あり得ない話ではないよ。これだけ人に似た姿形をしていれば、そう難しいことでもあるまい」

「仮にそうだとして、それはもうエルフとは呼べないんじゃないのか?」

「それは当人たちの心の問題だろうから私にはわからんよ。ただ、現実的に問題なのは、その長寿だろうね」

 言いながらアリスベルは覗き窓からエルフの寝顔をのぞき見る。

「これでおそらくは数十年から百年近くは生きているだろう」

「うそ! あたしとほとんど変わんないか、ちょっと年下ぐらいじゃないの?」

 改めてのぞき込んだガーネットだが、やはりその顔立ちは女というよりも少女のそれだ。

「何を言うのだね? エルフの寿命は人の数倍から十倍は優にあると言われている。それに、若い期間が長いのもエルフの特徴だよ。おそらくは繁殖機会が少ないうえに成功率が低いが故の、苦肉の策だろうね」

「は、はんしょ、く、て」

 唐突に直面した予想外の言葉に、ガーネットは思わず上気する。ぼっ、と顔に血が上る音さえ聞こえた気がしたが、それはどうやら自分で思った以上の赤面ぶりだったらしいい。

「ああ、ちなみに先ほどそこの男が言った通り、エルフの繁殖方法は人とおなじ」

「いい、いい、いい! そこはいいから! そこ、掘り下げんな!」

「そうかい? ならよいのだが……どうしたね? 突然取り乱して……らしくないね」

「うっさい! んなことどうでもいいから、さっさと続けなさいよね! こ、これだから魔女は……ったく。そっちはどうせこんな話しても気にしないようなシワシワのばーさんなんでしょうけど、こっちはまだ」

「まだ、何だね?」

「いーーーーーーーからこの話はおしまい!」

 しょうもない洞察力は鋭いくせに、肝心なところで察してくれないのは、もしかしてわざとやってるんじゃないかとさえ思うが、本当にアリスベルには悪意はないらしい。ちょっと不思議そうに小首をかしげると、「では」と小さく咳払いし、続けた。

「ちなにみ、君がこのエルフと出会ったというのはいくつの時のことだね?」

 明らかに年下どころか、親子以上に年が離れているような小娘から『君』呼ばわりを受けた男は、最初こそ訝しがったが、やがてぽつりと答えを口にした。

「俺が五つの時だから、もう、三十年以上前だ」

「さん、じゅ」

 さすがにその数字には驚かざるを得なかった。

「でも、さすがにエルフだな。あのときとまったく見た目は変わらない」

 驚愕の事実は王都のご婦人が聞きつければ鬼の形相で殺到するだろうこと請け合いだが、まだ十代のガーネットにとってはさほど重要なことではない。アンチエイジングの重要性は、若さという再生不可能な財産を失って初めて気がつくものなのだ。

「で、さっさと本題に入れば? これを見せて、なにを語りたいの?」

 そろそろ与太話に付き合うのも飽きてきたガーネットが身も蓋もなく尋ねたのは、この会話をとっとと終わらせるためだ。下手に話を聞かされて、余計な情でも湧いたらたまらない。

 男もそれを察したらしく、それらしい話を切り出した。ただ、若干落胆した様子だったのは、今の話で某かのシンパシーを得られることを期待していたからだ。ガーネットに見た目通りの、年頃の少女としての反応を期待した男の不運と言えよう。

「こいつを王都に連れてゆけば、もう二度と会えない。それどころか……エルフという種そのものが、この世から消される」

 いきなり話しの規模に大きくなったのでガーネットは途端に身構える。こういう陰謀論的な話は往々にして胡散臭い結果をひきつれているものだ。

 しかし、アリスベルがそこに食いついた。

「ふむ。興味深い話だね。根拠は?」

 単純な好奇心以上の何かがあるらしく、いつものひょうひょうとした表情のまま視線は鋭さを増している。

「はっきりとはわからんが、何でも『神話の時代の終わり』だとかいう目的のために、王国は数百年にわたってエルフを連れ去ってたらしい。いや、エルフだけじゃない。それ以外にもいろいろと捜索しては王都に引き込んでいるって話だ」

 案の定、とばかりに誇大妄想前回の単語の羅列にガーネットは露骨に眉をひそめる。

「すーひゃく年ときた。そりゃ気の長い話で。それに何? 神話の時代のなんとかってこれまた大袈裟な? まあ、エルフがいるってことそのものがあたしにしてみれば驚天動地だけどさ」

 眉唾くさいとは思いながら、露骨に否定すれば男がどんな反応を見せるかわからないので、ガーネットは慎重に言葉を選ぶ。逆上してやけくそになられればそれこそ他の乗客の命にもかかわりかねない。

「それに『それ以外』ってのもピンとこないっていうか、具体的には何のこと?」

 問いはしたが、男もそれ以上の情報は持っていないらしく「そこまでは」と言葉尻を濁すばかりだった。

 ただ、そこで更に表情の鋭さを増したのはアリスベルだった。

「いや、大げさではないかもしれないよ」

「あんたまで」

 もう付き合いきれんとばかりに会話を放棄してその場を立ち去ろうとするガーネットの背中に、アリスベルが語りか掛ける。

「今聞いたエルフの話がそうだとするならば得心がゆく。精霊も随分とその存在がないがしろにされ、実際にその趨勢は……」

 と話を掘りさげにかかったところで、唐突に何かを思い出したように顔をあげ、目をまん丸くした。こんなちょっとした動作なのにどきりとするようなかわいらしさを振りまく器量の良さに、もはやガーネットは嫉妬も覚えない。

「どしたの、いきなり? エルフの次はゴブリンでも出た? まさか天使や悪魔にドラゴンまで出てくるなんて言わないでよ」

「それはないよ。このあたりにはいないようだし、よしんばいたとしても天使連中はわざわざ出張ってきて自分の手を汚すような真似はしないさ。彼らは姑息だからね」

 『このあたりには』というのも引っかかったし、なんなら天使の存在を当然のように語る口ぶりにどこまでが本当でどこからが冗談なのかを確認する気にもなれない。だって、全部が本当だったら怖いから、。

 半ば呆れ、半ばその底知れなさにビビるガーネットをよそに、アリスベルは本題を続ける。

「それはさておいて、そういえば先ほど言おうとしたことなのだが、今よいかな?」

 そういえばこの車両に移る前に言いたいことがあると言っていたことを思い出す。

「今じゃなきゃだめなのか?」

「そうだね、早いに越したことはないね。そろそろ時間も迫っているようだ」

 アリスベルの言いようもさることながら、今の状況を整理するために少しだけ時間が欲しかったガーネットは、話半分に聞けばいいかと首を縦に振った。

「時間も? じゃ、なんかわかんないけど手短に」

 口がそう動いた時にはすでに思考の八割はエルフの存在や、男の語った陰謀論くさい話の真偽について割り振られていた。

 そして残りの二割のうち半分弱をアリスベルの言葉に傾けて、

「この列車が、山崩れに呑まれる」

 全ての思考が一瞬で蒸発した。

「……え?」

 ひどく間抜けな顔をしているのは自分でもわかっていたが、残念なことに二割しか残していなかった思考領域ではそんなことに気を配ることはできない。

「手短に、と言われたので端的に伝えたのだが、これで良かったかね?」

 コトリと首をかしげる仕草の可愛さに一緒になって頭を傾けてみたが、自分ではこれほどの可愛らしさを醸し出せないのが、このときは何故か腹立たしかった。

「もうちょい、説明、プリーズ」

 さすがに唐突過ぎて話の根幹も枝葉も見えない。

「ふむ。とはいえ、大した説明はないよ。このあたりの精霊がやけに騒がしいと思って様子をうかがっていたのだが、どうやらこの先に近隣の精霊たちが集まっているようなのだよ。先ほど精霊の話になったので思い出した」

 精霊、という言葉にガーネットは俄かに表情をゆがめる。

「ってことは、こないだみたいのが?」

 ガーネットの知る限りで精霊と言えば、プリズンバレーの森の奥、アリスベルの庭で遭遇したあの不定形のヘドロのような化け物だ。よもやあれともう一度遭遇するなんて、冗談でもいい気はしない。

「いや、それほどの濃度ではないよ。あれだけの存在を得るとなれば、それこそ長い時間をかけた熟成が必要だ」

 それを聞いて少しほっとしたものの、問題は何一つ解決していない。

「じゃあ、あんたがさっき言った山崩れって」

「先ほどから頻発している地揺れ、あれだよ。あれは、彼らの力の余波によるものだったようなのだよ。あまりに微弱な力だったので気付かなかったが、力の中心に近づいてようやく感知することができた」

「つまり、この先には今までどころじゃない、でっかい揺れを引き起こすようなでっかい力が集まってる、ってこと?」

「ご明察。ちなみにそいつは、この列車に悪意てんこ盛りだよ」

 軽いめまいを覚えたが、このまま目を閉じたら二度と目覚めないような気がしたので、必死に目を見開いたら眉間にしわが寄った。そうして己の生まれの不幸の凄まじさを改めて実感し、それでもさすがに今回は納得することができずに「何で?」と問おうとしたその瞬間、

「うわっ!」

 それまでとは比べ物にならない規模の揺れが、車両の床を突き上げるように襲ってきた。

 強く、大きく、そして長く続く揺れ。

 床越しににもはっきりと、車輪が線路から浮いてしまっているのが体感できた。

 あまりの大きな揺れにまっすぐ立っていることも危うかったが、それでもガーネットは状況を把握すべく車両を飛び出した。

 連結部の手すりに手をかけ、腰を落として周囲の景色を眺めると、動く列車に乗っていてさえわかるほどに周囲の景色が揺れていた。浮き上がった車輪が落ちるたびに、車内に不穏な金属音とともに叩きつけるような衝撃が伝わっている。

 このままでは山崩れどころか、その前に脱線もありうる。そうなればアリスベルの言う山崩れを待たずして大惨事だ。しかも、

「うわ……もう山が崩れ始めてる」

 進行方向左手にそびえる山の山肌が、不穏に波打っているのが遠目にもはっきりと分かった。

 もはや一刻の猶予もないらしい。

 ただ、それはあくまでもこのまま列車を走らせ続ければ、という話だ。そのことにそうそうに気付いたガーネットは、崩れ始めた山のふもとまでまだいくらかの距離があることを鑑みて、至極当然の案を口に押する。

「列車、止めればいいじゃん。そうすりゃ山崩れに巻き込まれもしないし、脱線も」

 そう言って振り返った眉間に、銃口が突きつけられていた。

 どうやら男が隠し持っていたらしい。びしょびしょに濡れた男の顔が、まっすぐにこちらを睨みつけていた。

「ちっ、やっぱバカな話に耳貸さないで、縛り上げるかぶった斬るかしとくべきだったわ」

「この列車を止めるのだけは、許さない」

 抑揚に乏しい口調は、明確な意思の表れだった。

「止めなきゃ脱線か山崩れのどっちかは確実だってのに、この期におよんで」

「止めさせない」

 怒気をはらんだガーネットの言葉だが、それ以上の圧を込めた言葉でそれを遮る。

 説得には耳を貸す気もないらしい。

 こうなればガーネットのとるべき選択肢は限られてくる。

 ゆっくりと腰の剣に手をやり、男との間合いを注意深く図る。幸い密着しているわけではないので、ランダムな動きでかく乱することができれば十分に勝機はある。

 ただ、男の腕前を考えれば分の悪い賭けであることには変わりはない。さらには、どこから取り出したのか、片手には新たなナイフまで握られていた。

(手品かっつーの。にしても、っこれじゃ一か八か以下になるな……)

 死にはしないだろうが、もしかしたら体のどこかに風穴ぐらいは空くかもしれない。そんなことを思いながら、重心をゆっくりと前に傾けてゆく。

 最速の踏み込みを切るべく利き足に体重を乗せ、親指にありったけの力を込めたところで、

「残念なことに、事はそう簡単でもないらしい」

 割って入ってきたのはアリスベルだった。 

 二人の間の張り詰めた空気なんてどこ吹く風。先ほどよりもましになったとはいえ、未だ揺れ続ける車両を飄々と歩いて横切ると、ガーネットのすぐ隣からひょっこりと顔をのぞかせて車両右側を指差した。

「仮に車両を止められたとしても、あの規模の力であればここの足元を根こそぎ崩してしまうだろうね。そうなればあそこにドボン、だよ」

 細く華奢な人差指の先には、深い紺碧を湛えた巨大な湖が地揺れに大きく波立っている。どうやら列車が今走っている場所は、湖畔に続く山の斜面を削って線路が敷設された場所らしい。

 湖面は大時化の海のように荒れ狂っており、あそこに放り込まれれば、よほど泳ぎの得意なものでもない限りは波に呑まれて湖底に引きずり込まれるだろう。ましてや列車と一緒となれば、その大質量の生み出す波や渦に引きずり込まれるのは避けられそうにない。

 この世の悪意をすべて詰め込んだかのような、弱い者いじめのような悪条件のフルコース。

 ただこの時のガーネットが油断していたのは間違いないだろう。

 もうこれ以上の悪条件は降ってこないはずだ、と。

 甘かった。

 諦めのため息もそこそこに、揺れが収まりを見せたところでガーネットの耳に届いたのは、一発の銃声。

 とっさに男の手元に視線を向けたときには、やけに発砲音が遠いことに気づいていたし、その瞬間に最悪の底をさらに掘り下げたようなぞっとする想像が頭の中を塗りつぶしていた。

 男の手の中に拳銃がないことを確認するまでもなく、

「ド畜生が!」

 聞くに堪えない悪態とともにガーネットは狭い石炭車脇のステップを全力で駆け抜けた。

 機関車に飛び込んだガーネットが見たのは、これ以上はないと思っていた最悪の底を更に掘り下げたような最悪の中の最悪の状況だった。この時のガーネットは自らの語彙の貧困さに打ちひしがれたのだが、誰だって最悪をさらに上回る最悪を言い表す言葉なんて知るはずがない。だって、そんな言葉を使う機会は訪れないのだから。

 ふつうは。

「うっそだろ」

 魂を吐き出すように落胆したガーネットの目の前には、一つの死体が転がっていた。

 額に銃弾を喰らったらしく、後頭部からの出血で血だまりを作っているのは機関車の運転士だった。煤にまみれたオーバーオールが、血を吸って黒く染まり始めている。

「ち、ちがうんだ、俺は悪くない」

 悪くないわけがない。

「お、俺は悪くない。ゆ、揺れて、そしたらそいつが掴みかかってきて、だから俺は」

 だから何だというのだ。機関士が勇敢にも強盗に挑んだ、それを蛮勇と言うのであればそれまでだが、少なくとも強盗するようなやつにそれを撃ち殺すだけの理由などあるはずもない。

 こいつは斬ろう。そして捨てよう。

 そう思ってガーネットが腰の剣に手をやり、躊躇いのない一歩を踏み出したところで、

「お、俺は、俺じゃない、俺はあああああああああああああうぐっ」

「あ」

 男はまるでそうすることで強盗ではなくなるとばかりにマスクを脱ぎ捨てると、勢い良く車外に飛び出してしまった。しかも間の悪いことに、飛び出した先が立木のすぐ脇を通過する場所だったものだから、男は強かに体を木の幹にうちつけてしまった。

 くの字にへし折れた男の体はすぐに流れる景色の中に切り取られて後方に消えて行ったが、後方の車両からの悲鳴がその後の顛末を物語っていた。

 それはいい。悪人に悪人なりの幕が引かれることには抵抗はないし、むしろ自らの手を汚さずに済んだのは幸運だった。

 が、そんなちっぽけな幸運ではすすぎきれない不幸が目の前に、さらに上積みされているのはいかんともしがたい事実だった。

「ど~すんだよこれ!」

 鉄の床に転がる機関士の男は瞳孔も開ききって、どう見ても命の火が消えきっている。しかも、その隣では副操縦士がこの世の終わりを見るような眼で同僚の死体を眺めていた。

「ちなみに、あんたは運転は?」

 一縷の望みにすがるようにガーネットは尋ねてはみたものの、

「炉に、石炭入れるのと、汽笛鳴らすのが、俺の仕事」

「マ~ジかよ~」

 この機関車を、人の意思をもって止めることがかなわなくなった瞬間だった。

 あまりにも無慈悲な現実に打ちのめされているところ、副操縦士の男が唐突に口を開いた。

「あ」

 万に一つのの希望が灯るかと期待の目を向けたガーネットだったが、

「汽笛は、親方にならせって言われた時に鳴らすだけ」

 とっさに副操縦士の顔面にぐーを叩き込まなかった忍耐力だけはほめてやってほしい。

「ほう、これはまた複雑怪奇なことになっているね」

 遅れてやってきたアリスベルは状況を見るなり、まるで野次馬のような事を言う。

「複雑でも怪奇でも何でもねえよ。最悪だと思ってた状況がもっと悪くなっただけで、結果は変わんないよ」

「そのようだね。山も順調に崩れ始めているし、このままでは」

 アリスベルの視線に合わせるように前方に目をやると、割れ目の入った山肌が先ほどよりも大きく崩れてずり落ち始めている。足元に伝わる不安な振動も、小刻みながら絶えず列車を不規則に揺らしている。

「どんぴしゃのタイミングだな、これ」

 はっきりと崩れ落ちる瞬間が予知できるわけではないが、これだけおぜん立てされてしまってはそう思わずにいられない。というか、

「なんつっても、あたしが乗ってんだからな」

 そのことには悲しいほどに自信があった。行くも地獄、戻るも地獄。

「どうせなら停まって巻き込まれるのを待つより、全速力で駆け抜ければちょっとは可能性があるかも、なんて思ったところでにこれだもんな~」

 『これ』の部分で運転士の死体を見下ろしはするが、もちろん彼に罪はない。むしろ、自分がそんな余計なことを考えたがために彼に不幸が降りかかったのかもしれないと思うといたたまれない。

 今度こそ本当に万策尽き果てた。そう思って乾いた笑いに頬を歪めていると、

「それは妙案だね。さすがはガーネット君だ」

 アリスベルが感心したとばかりにポンと手を打った。

「なに、おちょくってんの?」

「まさか。この状況に希望を見出す君の胆力に心から感動をおぼえているのだよ」

「全然嬉しくない。むしろおちょくられる方がまし。っていっても、どうせあたしは死なないから。湖に転げ落ちてびしょびしょになって風邪ひくより、地べたの上の方がいいかもって思っただけだよ」

 でも、と足元の勇敢だった運転士を指差す。

「悉く運命ってやつの仕事の周到さに恐れ入ってるとこだよ」

 ため息も出ないとばかりに眉を歯の字に垂れさせるガーネットに対して、

「何かと思えば。要は、彼に仕事をさせればよいのだろう?」

 同じく運転士の死体を見つめるアリスベルが事もなげにそう告げるす。そして次の瞬間、

「あぁ~」

 その手があったか、とガーネットは自らの未熟さとこの世の不条理を同時に噛みしめた。

「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

 副操縦士の自尊心をかなぐり捨てたような悲鳴を上げるのも無理からぬことだ。なにせ、動くはずのない運転士がむくりとその身を起こしたのだ。うるさいほどの悲鳴を背景雑音程度にも感じなくなっていることに、ガーネットはもはや驚きもない。

「一応確認だけど、生き返った……んじゃ、ないな」

 焦点の定まらない眼球と開き切った瞳孔は、紛れもなく死人のそれだ。意思の全く感じられない呆けた表情も、生者のそれとは一線を画している。

「さすがにそれは不可能だよ。失われた魂を再び肉体に戻すには極めて限定的な条件が必要になるのだよ」

「逆に、条件次第でできるのが恐ろしい。すげーな、魔法」

「もっと褒め称えてもよいのだよ」

 ふふん、とわざとらしく鼻息荒く胸を張るアリスベル。

「半ズボンの裾からぴかぴかの膝小僧晒しながら言っても迫力ないけどな」

 もっと女の子らしい格好をすれば可愛らしいのだろうが、絶対にそんなことを言ってやるつもりはない。むしろ、

(かわいいこいつなんか、見たくないし)

 嫉妬とは違う感情に思考が脇道に逸れながらも、口はきちんと仕事をする。

「そいつ、列車走らせられるんだよね?」

「もちろんだよ。指示さえすれば生きていたころの記憶に従って作業はさせられる。ただし、生前できていたことに限られるがね。彼自身に思考や判断をさせることはできない」

 どうやら舞台は整ってしまったらしい。

 「じゃあ」とけだるげに踵を返すと、窓の外からこちらを覗き込む窃盗団首領の男に向かってふてぶてしくも指示を飛ばした。

「あんた、この列車に乗ってる連中全部、あんたの子分も乗客も全部、一番前の車両に詰め込んで。でなきゃ死ぬ、言うこと聞かなきゃぶっ殺す、とでも言えばいうこと聞くでしょ」

「何を言い出すかと思えば、剣呑なことだな。しかし驚いた、死体まで操れるのか……魔法っていうのは何でもありなのか?」

 何をするのかを聞いていたらしい男は、やるともやらないとも言わずにただそれだけを尋ねるとマジマジと動く死体を眺めている。

「んなことどうでもいいから、あんたはとっととやることやる。それに、剣呑もなにも死なないように考慮してやってんだから、大した慈悲だよ」

 どこまでもぶっきらぼうな口調に男もそれ以上何かを言う気は失せたようで、

「わかった。ただし、それが過ぎたらこちらの指定する場所に列車を一度止めてもらう。そこで俺達はトンズラする。それが乗客を助ける条件だ」

 この期に及んで交渉ができる立場にいると本気で思っていたわけではないが、あくまで列車強盗というスタンスは崩さないらしい。

「好きにしたらいいよ。あたしの目的はあんたらをお縄にすることじゃない。ただ、降りかかる火の粉を払うだけ。ここで乗客見捨てたら王都に戻って何言われるかわかんないから、何かしたっていう実績が欲しいだけだし」

 まあ、王都に自分を受け入れて何かを言ってくるような場所があるかというのが目下最大の問題だが、とりあえず目を背けておく。

「言う通りにしなかったせいでくたばったって、あたしは知らないからね」

 互いに選択肢がないのは暗黙だった。

 男はただ無言でうなずくと、さっさと後部の車両に向かって歩き去る。それをろくすっぽ確認もせずにガーネットは再びアリスベルと、すぐ隣で現実から取り残されている機関士たちに向き直る。

「んじゃ、よろしく。時間ないから」

「素っ気ないね。ここで心震える言葉の一つでも掛けて、互いの繋がりをより強固なものに」

「いいから早く」

 怒気すら孕んだガーネットの言葉にも、アリスベルはほくそ笑むだけだ。この事態のやばさを分かっているのかいないのか。

 そう思ったのは、一瞬。

 アリスベルが何をしたのか、果たして何かしたのかすらガーネットには見当もつかなかったが、それまで茫然と立ち尽くしているだけだった機関士の死体が、のっそりと動きだし、その身ぶりで副操縦士に指示を飛ばす。

 そこからの変化は劇的だった。

 驚きの表情を見せた副操縦士だったが、死んだはずの同僚が再び動いていることに問いまどったのは一瞬で、次の瞬間には彼の出した指示の苛烈さに慌てふためいていた。

「いやいやいやいや、そんなことしたら、いやいやいや」

 それがどのような内容なのかはガーネットにはさっぱりだったが、必死になって「無理無理無理」を繰り返す副操縦士の姿から、よほど無茶な支持なのは間違いなさそうだ。

 そんな風にしばらくはたじろぎ、身動きせずに首を振っていた副操縦士だが、やがて事の重大さを理解したのか、それとも死体となった同僚の押しの強さに負けたのか、死体と変わらないげっそりとした表情で立ち上がると、傍らのスコップに手をかけた。

「どうなっても、知らないからな」

 それが彼が口にした最後の言葉だった。

 そこからは、ただひたすら炉の中に石炭を放り込む機械と化したのだったが、その勢いは凄まじいものがあった。

 弱まり始めていた炎が見る間に勢いを増し、鉄の炉の中が灼熱の赤に包まれたところで勢い良く汽笛が雄叫びをあげた、

 と同時、

「ぅおわっ!」

 突き飛ばされたかのような衝撃が機関車全体を大きく揺らし、思わずガーネットは腰をかがめて床に這いつくばる。それほどの凄まじい加速だった。

 見る間に、窓の外景色は溶けたように不明瞭になり、あっという間に恐怖を覚えるほどの速度に到達する。

「なに? 列車ってこんなにすごい加速するの? 蒸気機関すごい」

 さすがにちょっとビビりながら、恐ろしい勢いで炉に石炭が放り込まれるのを眺めていると、

「少々手は加えたがね」

「やっぱりあんたか」

 さすがにこの加速はどこか不自然だと思ったが、それで納得できた。

 が、それと同時に別の疑問がわき上がる。

「魔法で列車を加速させることなんて、できんの?」

 現にできているのだから疑問符をつけるのもおかしな話だが、どうしても目の前の近代的な機構と魔法という組み合わせがうまく頭の中でかみ合ってくれない。

「簡単な理屈だよ。蒸気機関の出力というのは、つまるところ炉の中の温度と圧力に集約される。となれば、魔法で燃焼の効率を上げ、熱の流れを制御することで最大限に出力を引き出すことができる、と考えたのだよ。それが想定通りにうまく行った、というだけだよ」

「へえ」

 「もうそれ科学じゃん」と言いそうになったが、それも正しいかどうかわからなかったので黙っておくことにした。

「その場を支配する法則を見出し、把握し、意のままに利用するという魔法としては基礎の基礎、初歩的なものだよ」

「うん」

 何を言っているのかさっぱり分からなかった。ただ、

「魔法、すげーな」

 とだけ。ついでに、

「あんた、ほんとに四百年前の人間?」

「紛れもなく。ちなみに親愛なる君にだから教えるのだが、魔法というのはこの世にあまねく存在する法則を、己の意のままに書き換えることをその神髄とするのだよ」

 もはや宗教の教義を語られているかのごとく理解不能な言葉の奔流の中、ただ一つだけ確かなものがあった。

「それでも、ぎり間にあわねえな、これ」

 アリスベルの魔法を利用した加速はもはや限界を迎えたらしく、炉は本来あってはならない音を上げ、車両のきしみも既に破砕音に近い。この様子では、列車のありとあらゆる場所に限界を超えた負荷がかかっていると見て間違いなさそうだ。

 だが、生き死にの瀬戸際を幾度となくくぐり抜け、嫌というほどの修羅場の中で生と死の境目をさまよい歩かされたガーネットの直感が語っていた。

 このままでは地崩れに呑まれる、と。

 現に今、大きく崩れた山の一部が、列車の進行方向を塞がんとに山肌を駆け下り始めている。

「少なくとも、このままじゃ列車の後ろの方は間違いなく呑まれるね」

「ふむ。だがにこれ以上は危険だよ。単純に温度や圧力を上げる方法ならいくらでもあるが、機関が耐えられないでは元も子もないからね。よしんば機関がもったとしても車両そのものがバラバラになる」

「ちなみに、魔法の力で機関や車両をバカ強くする、ってのは?」

 一縷の望みにすがるように尋ねるガーネットだが、

「不可能ではないが、そうなると今度は客車の強度なりがもたずに走行中に分解、ということもありうるよ。君がそれでもよいというのであれば私としては」

「うん。ないな」

 実をいうと「なし」ではない。最悪の場合それしかこの場を切り抜ける手がないとなれば、ガーネットは躊躇わずにその手を打つだろう。だが、それはあくまでも自分だけしか生き残りがいないと決まった場合の、最低の悪手だ。

 その前に、一つだけ打つ手が残されている。

 一瞬だけ迷い、いやでいやで仕方がないという表情を隠そうともせず、覚悟を決めた。

「さっきのあれ、あたしに掛けてよ」

「あれ、とは?」

「あんたがあの強盗野郎に掛けた、後ろに吹っ飛ぶの。なんだっけ? 慣性をどうのってやつ」

 敢えて「あれ」としか言わなかったのは、その内容を自分で口にするのが恐ろしかったからだ。大の男がなすすべなく吹っ飛んで鉄壁に叩きつけられたのだ。それを自分に掛けろというのに、抵抗がないはずがない。

 だが、紛れもなく有効な手段ではあった。

「あたしを、この列車の最後尾まで吹っ飛ばして」

 言いながら、とうとう自分は狂ってしまったのではないかと自問するが、むしろその方が気が楽になるように思えた。残念ながらまだ正気を保っているらしいが。

「つまり、君は死なない。ならば君のいる場所は土砂に呑まれることはない、ということだね」

 理解が早いのはさすがとしか言いようがないが、他人の口から語られると滑稽極まりない、策とも言えない策だが、もはや運否天賦以外に頼むところはないのだ。だったら、最大限そこに賭けて何が悪い。

 目下唯一にして最大の目的は、列車が土砂に呑まれずに駆け抜けることだ。だとすれば、最後尾の安全を確保することができればすべてが解決するはずだ。

「まあ、全く別の何かが突然降って湧いて、最後尾の車両を残して全滅、ってことも考えられなくはないけどね」

 皮肉混じりに言って後悔した。何せ自分の呪いの効果を最も知っているのはガーネット自身だ。その程度のことは十分に起こりうる。それこそ、何の脈絡もなく隕石が先頭車両をたたきつぶして、自分のいる最後尾以外が全滅、という可能性も決してゼロではない。というか、自分の周りではそういう喜劇まがいの悲劇がまかり通るのを、嫌というほど経験してきた。

 一方アリスベルはというと、ガーネットのとんでもない意見にくつくつと肩を震わせて笑っている。

「何笑ってんだよ?」

「やはり君を同行者に選んだのは正解だったね」

 どこまでも嬉しそうな笑みは、子供の外見には似つかわしくない妖艶さだ。

 舌打ちはしたが、それ以上はもう話をする余裕も残されてはいない。恨めしげな視線だけ残して、ガーネットは窓から首を出す。

「もう時間ないから行くよ。いい? あたしが外に飛び出したら魔法をかけて」

 線路が緩やかなカーブを描いている場所だったようで、弧を描いた列車の最後尾が視界にとらえられた。

 条件はそろった。あとは、クソ度胸を捻りだすだけだが、

「いちおう言っておくと、あれはあくまでも君にかかっている慣性を一部消滅させる魔法だ。つまり、君は窓の外でいきなり停止し、列車から見て後方に流れて行くだけだ。飛ぶわけではない」

「何だ、じゃあ」

 高速で滑空するイメージを持っていただけに、これは朗報に思えた。だったら、そんなに覚悟を決めなくても、

「というわけで、魔法がかかった瞬間の衝撃は、全く同じではないとはいえ列車に衝突するのと同じ程度だと思っておいてくれたまえ」

 いいはずがなかった。それどころか、思いっきり怖気づいた。

「え? え~……他の手は、ない、かな~」

 もちろんそんなものがあるはずはない。自分の不幸はとにかく想像をはるかに超えたところにまで自分を追い込み、もう無理だ、もう死ぬ、もうダメだもう嫌だ、そう百万回唱えたところでさらにもっと深いところに突き落とす、そういうものだと身にしみているのだ。

 それでも、嫌なものは嫌だ。

「そ、そうだ、今から魔法で崩れ落ちてくる山を逆に吹き飛ばして」

「あの質量を押し返すとなれば、それこそ周囲の山への影響は無視できない。最悪、近隣の山々に地崩れの範囲が広がり、被害が拡大しかねない。休火山なり死火山なりが近隣にあった場合はそれが火を噴くことも考えられる。まあ私としては構わないのだがね。自らの力を試すよい機会だ」

「やめとこう。そんなことになったらどんだけ死人が出るかわかんない」

 さすがにそれは良心の呵責が咎めた。

 もちろん、こうなるのはわかりきっていた上での敢えての些細な抵抗だったのだが、結局は自らの人生訓を再確認しただけだった。

「下手な希望、持つんじゃなかった」

「そう言いながら一縷の望みに賭けて希望を捨てない君の生きざまは、やはり好意に値するね」

「はいはい。んじゃ、頼むよ。天命がどう転ぶかわかんないけど、人事尽くしてくるわ」

 何だかんだと言いながら腹はとっくに座っていたのだろう。

 窓から身を乗り出すと、力む様子もなく自宅の階段を下りるように宙空に一歩を踏み出した。

「まっすぐに落下することになるので、上向きに飛ぶことをお勧めするよ。ある程度はこちらで制御するが、落下を完全には止めない。そのほうが君も動きやすいはずだからね」

「へいへい、わかりまし」

 最後まで言い切れなかった。

 外に出る際にできるだけ真上にジャンプ。風が凄まじい、感じたのは最初の一瞬だけだった。

 風に乱れる髪がうっとうしいな、と思ったその瞬間に問答無用で意識を持っていかれた。

 巨大なハンマーでぶんなぐられたような衝撃が全身を突きぬけた、とは数瞬の後に意識を回復したガーネットが、記憶のひもを手繰り寄せて残された最後の瞬間から導き出した推論だ。

 まず何が起きたのか分からず真っ白になり、次いでどれぐらい意識を失っていたのかわからないことに泣きそうなぐらいに焦り、手を伸ばせば触れるほどの距離を駆け抜ける客車を確認して叫びたくなるほど安堵した。

 その時点ですでに列車の中ほどが目の前を駆け抜けていて、最後尾そこまで迫っていた。

 混乱していないわけではなかったが、混乱している場合ではないという意識から無理やりに冷静を装い、それでもどうしても吐き出さずにはいられずに、

「っざけんな、何だあれ!? あたし、ほんとに生きてんのか?」

 もちろんそれを確かめるすべはないが、生きていようが死んでいようがやることは一つだ。

 しかし、そんなものお構いなしに列車はすぐ脇を凄まじい勢いで通過してゆく。それどころか巻き起こされる風にうっかりすると体を持っていかれそうになる。

「あっぶっね!」

 乱れた風に巻き込まれ、車両側に引き込まれたガーネットは体を捻って間一髪で接触は避けたものの、鼻っ面を掠める車両外壁に危うく悲鳴を上げそうになる。

「こんなもん、当たったらただの列車事故だ」

 戦場で悲惨な死体は数知れず見てきたが、それに負けず劣らずの最後を迎えるのは間違いなさそうだ。

 そうこうするうちにいよいよ最後尾車両が迫ってくる。

 緩やかな上向きの慣性を感じ、自分はいま落下しているのだと改めて実感し、それをもとに動きをイメージするとともに何度目ともしれない覚悟を決める。

必死に吹っ飛ぶように通り過ぎる車両の数をカウントし、着地点の目途をつける。狙うは車両前方連結部のデッキ。転落防止用の柵に手をかけ、体を引きずりこむ。

「っつったら簡単そうだけど、走ってる列車に掴まんだから、半分列車事故だよな」

 アリスベルの説明では今、自分は列車に対して静止しているらしい。その状態で走っている列車に掴みかかることが、どれだけの危険をともなうかなど想像もしたくない。

「だから、何も考えない! ここっ!」

 奇しくも、先ほど男の手首を切りおとした時に飛び散った血が窓越しに見えたのが絶妙のタイミングで視界にとらえられた。

「やっぱ善行はやっておくもんだぁぁぁぁあああいぃぎっ!」

 腕がもげたと思った。

 高速走行する列車に体は引っ張られ、その衝撃全てが肩一点に集中した。脱臼の一つや二つは負ってもおかしくない。

 が、幸いにも鍛えられた肉体は激痛に襲われただけで関節が外れるようなことはなかったようだ。力を込めると軋むような痛みとともに体が車両側に引き寄せられる。

「っらあああああああああああ!」

 男気たっぷりな雄たけびとともに何とかデッキに滑り込んだガーネットが見たのは、車両反対側のすぐそこまで迫っている土砂の流れだった。

 その膨大な量はもはや地崩れと言うよりは山一つがそのままこちらに流れ込んできているようでさえあった。

「やっば」

 もはや一刻の猶予もない。それどころか、ちょっとやそっとの奇跡ぐらいではいかんともしがたい絶望が、文字通り目と鼻の先まで押し寄せているとしか思えなかった。

「奇跡がなんぼのもんじゃ! おらぁ!」

 力任せに家畜車の扉を蹴破り、ただでさえ異常な興奮状態にあった牛馬をパニックの極致に追いやりながら、ガーネットは家畜臭さをものともせずに車両内部に突撃。

「はいはいどいてどいて! 暴れんな、舐めんな唾飛ばすな! 蹴るな馬ぁ!」

 飛び散る牛のよだれをかいくぐり、馬の蹴りをアクロバティックにかわし、飼葉の山を両手足を全て駆動させて登りきり、

「まにあえええええええええ!」

 最後尾の壁に頭突き同然に突っ込んだ。

 『ごつん』ではなく『ごりっ』というやばい感じの衝撃が首に伝わる。

 祈りはしなかった。そのかわり、

「ざまあみろ。また、あたしは、生き残るんだ!!」

 悪態をつきながら頭のてっぺん、列車の背後ほんの紙一重のところをとんでもない質量が通過しているのを髪の毛の揺れで感じ取った。

 と同時、列車が鉄橋に侵入したことが車輪の音の変化で分かった。後方の車輪の動きが怪しいので、たぶん火のついたつり橋が崩れ落ちるように、端から崩落しているのだろう。

 それでもガーネットは焦りもせず、壁に全体重を預けてへたりこみ、疲れ果てた笑みをにやりと浮かべる。相変わらずパニック状態の牛や馬の大合唱がやかましいが、ややするとそこに微かな人間の歓声が混じり始めた。

 しばらくは茫然と飼葉の上にへたり込んでいたガーネットだが、列車が減速を開始したことに気がついて、ようやく肩の力を抜くと驚くほど深いため息がこぼれた。

「また、勝った……いや、負けか? まあ、どっちでもいいや。生きてる」

 全身どこが痛いのかもわからないほどにボロボロだったが、どうやら今回もしに損ねたらしい。そに証拠とばかりに、牛に飼い葉を食むついでとばかりにべろりと顔をなめられて、その臭いに思いっきり顔をしかめて悪態をついた。

「牛、臭っせえ」


 通常の速度で走行すること半刻ほど。列車は緩やかに速度を落とし始めた。

 某かのトラブルなのかとも思ったが、それにしてはあまりにもマイルドな減速だったので、

「ああ」

 そのことを思い出したガーネットはのろくさと飼葉の上で身を起こす。

 落ち着きを取り戻した牛や馬を刺激しないようにそろりと家畜車を抜け、客車の中を前方に向かって歩いてゆく。

 途中、窓の外に目をやると停止しきっていないにもかかわらず、覆面をかぶったままの連中が我先にと車外に飛び出しては、這う這うの体で森の中に姿を消してゆく。

 どうやらこのあたりが、ガレットの語っていた逃走経路なのだろう。

「ま、逃げたきゃ逃げればいい。あたしは関係ないし」

 騎士であるガーネットは軍の所属であり、国の治安を守るという意味では決して無関係ではないのだが、今回に関しては無視を決め込むことにした。

 その代わりとでもいうように、

「んじゃま、せっかくだから珍しいもんでも拝みに行くか」

 散歩にでも行くような気楽な足取りで先頭車両を目指す中で見かけた乗客は、誰もが拘束を解かれてきちんと解放されていた。それどころか、危害を加えられたものもごく限られているようだった。この様子なら、強盗被害もさほどひどいものではないのかもしれない。

「ふうん、一応約束は守ったんだ。えらいえらい」

 人ごとのように呟きながら、それでも恐怖に震える老夫婦や、母親の腰にしがみついて未だ鳴き声を上げる子供を見ると、やっぱり問答無用で全員ぶった斬った方がよかったのかもしれないと僅かな後悔が鎌首をもたげる。

 ほどなくして到着した先頭の客車は、それまでとは違って閑散としていた。どうやら乗客を二両目以降に押しやり、強盗連中はまとめて逃げ出すためにこの車両にまとまっていたのだろう。周到なことだ。

 もぬけの殻となった車両をさらに通り抜けると、目の前には通常は開くはずのないもう一枚の鉄扉が、今は無防備に開け放たれていた。

「生きていたんだな」

 無造作に荷室に踏み込んだガーネットを迎えたのは、疲れきったような男の低い声だった。

「それだけが取り柄だからね。んで、あんたはまんまと目標を達成した、と」

 男の傍らにある鉄の棺桶はすでに封印を破られてふたが開かれており、中からは尖り耳の美女がけだるげに体を起こし、その肩を男に支えらていた。

 今にも手折られそうな儚い肩口を慎重に支える男の仕草は壊れ物を扱うかのような繊細さで、その姿にガーネットは言いようのない気恥ずかしさを覚えてしまった。どうやらそのあたりはちゃんと乙女だということなのだろう。

 対する男は、エルフ族の少女(とはいってもガーネットや男よりもはるかに年齢は上なのだが)を抱きかかえながら、ガーネットをにらみつけて口を開いた。

「これは善意で言っておく。命が惜しければ、軍への報告では決してエルフの存在には触れないことだ」

 どの口がそれを言うのかと失笑を漏らしそうになったガーネットだが、男の視線はどこまでもまっすぐにこちらを見据えている。その鬼気迫る迫力に、どうやら自らの保身のためだけではない何かがそこにあるらしいと思い至ったガーネットは、

「理由ぐらい聞かせなさいよね。場合によっちゃその報告とやらの中に、あんたのことも書かずにおいてやる」

 こんな取引をしたことがばれれば、それこそ今度はガーネットが裁かれる側に回ることになる重大な背信行為だが、そこには大したためらいはない。何なら自分をはめて僻地に追放しようとした連中に建てる義理なんてこれっぽっちも感じてはいない。

 自分がまきこまれた、そしていまだ現在進行形で推移している奇妙極まる出来事に対する、純粋な疑問だけがこのときのガーネットを突き動かしていた。

「言っとくけど好奇心なんて殊勝なもんじゃない。単にあたしは、あたしをもてあそぶわけわかんないもんの存在が嫌いなだけ。呪いだとか、運命だとかね。あと」

 「魔法だとか」最後にそう言いかけて、やめたことに特に理由はない。

 それはまるで自らの境遇のすべてに真っ向から喧嘩を売るような言葉だが、もちろん男にはそれを知る由もない。

「思ったより肝が据わってるんだな。普通なら見なかったことにするか、そうでなきゃこんな夢物語みたいなこと、信じること自体がばかばかしいと思うだろうに」

「あいにく、不思議だの非常識だってのに縁のある人生らしくてね」

 顎をしゃくって、男を挟んだ車両の反対側に控えているアリスベルを指した。

「そうだな。確かに、魔女なんかと一緒にいる人間に聞く話じゃなかったな」

 苦い表情の中に僅かばかりに浮かんだ笑みは皮肉か哀れみか。

「エルフだけじゃない、あんたがおとぎ話の中だけの存在たと思っている化け物や不可思議な存在は、そのほとんどが実在する」

「まあ、そうみたいだね」

 少し前の自分であれば男の言葉を途中で遮って、一笑に付していただろう。だが、今は目の前にそのおとぎ話が存在して、息をして、透き通った宝石のようなその瞳でこちらを見つめている。さらには、

「今となっちゃ認めるしかないわ。それに関しちゃ、うちにもとんでもないのがいるわけだし」

「そういうことだ。そして、この世界には、そういった存在を”なかったことに”しようとする何かがある。それも、国一つが動くほどの何かがな」

 最後のほうは隠し切れない苛立ちに言葉を震わせ、口を開いた鉄の棺桶を靴底で踏みにじっていた。

「なにその陰謀論。荒唐無稽通り越して頭の病気を疑、う……れべ、る」

 そこでふとしたことに思い当たる。

 自分がここにい来るに至った経緯に。自分がアリスベルに、魔女に出会った理由に。

 自分が受けた、魔女を封印するという命令に。

「あ」

 魔女の実在を前提とした命令に。

「心当たりは……あるらしいな。そいつが何なのかは俺には想像もつかんが、こんな御大層な仕掛けを作ってまでエルフ一人を王都に運ばせる程度には影響力のある何か、ということだ」

 たった一人を護送するための設備、といえばそれだけだがこれは明らかに異質だった。

 考えないようにしていていたわけではないが、少々鈍感になっていたことも事実だ。しかし、改めて考えてみなくても何もかもが異質で以上であることは明白だ。

 エルフのためにしつらえられた、それを封じるための設備。何なら、この列車もエルフの護送、いや、輸送が目的だったのかもしれない。そう考えれば、列車事故の調査もままならないだろう中にもかかわらず、便が用意されたこともすべての辻褄が合う気がした。

 もちろん、それも誇大妄想だと言われれば返す言葉もない。ただ、

「ない、とは言い切れないか……」

 可能性という言葉は無限定に使うべきではないとは、こういう時のことを言うのだろう。

 しかし、そこから先の見えない何かに形を与えるには、あまりにもわからないことが多すぎた。あくまでもゼロではない可能性というだけだ。

「だからどうした、って話だけどな」

 鼻からため息を漏らして脱力したガーネットは、「いずれにせよ」と添えてから、かいがいしくエルフの細い肩を支える男に向かって手の甲を差し出すと、

「とりあえず、そういう小難しいことに首突っ込むのはバカのやることだってことだけはわかったから、とっとと失せて」

 野良犬でも追い払うように「しっしっ」と振ってそっぽを向いた。

 それを彼女なりの温情、もっと言うなら優しさだと解釈した男らは、恭しく首を垂れるとそれ以上は何を言うこともなく背を向けて歩き始めた。

 と、そこで唐突に口を開いたのは意外なまでに沈黙を守り続けていたアリスベルだった。

「ときに強盗君」

 はっきりと自分のことを呼ばれてなお振り返らなかったのは、見て見ぬふりを決め込んでくれているガーネットへの義理立てではあったのだが、アリスベルはそんなことお構いなしに男の背中に向かって言葉を投げかけた。

「君らは、天使を見たことはあるかね?」

 このタイミングでこいつはいったい何を言っているんだ? と眉間にしわを寄せるガーネットだったが、それを口にできなかったのはアリスベルの表情が、自分の知るどの瞬間よりも真剣で険しいものだったからだ。

(なんだ? まさか天使や悪魔まで実在する、ってんじゃないだろうな?)

 この際それはどちらでもよいような気がしたが、問題はあのアリスベルがなんの意図もなくこんな荒唐無稽なことを質問するとは思えないことだ。場合によってはもう一度男を拘束しなければならないかと身構えかけるが、

「あいにく、俺は無宗教でな。村の神父あたりなら会ったことがあるかもな」

 それだけを言い置いて、男は車両を後にした。

 最後にちらりと視線を向けたガーネットが見たのは、男に手を引かれ、少々危うい足取りながらもちゃんと男の背中を追うエルフのロングヘアだった。

「で、最後のあれなに? まさか天使や悪魔までいるんて言わないよね。あたしにとっちゃ国生み龍の物語と同じ存在なのにな」

 二人の消えた森の闇から視線をそらし、何事かを考えているアリスベルに尋ねた。

「有名な逸話だね。まだ語り継がれていたとは」

「神話だよ。神聖協会なんかは自分らの創世の神と相反する話だから嫌うけど、まあそれでも、よっぽどじゃなければ大抵の人間が子供のころに聞かされる」

 創世の龍の物語は、時代や地域によって細部が異なるものの、大筋ではこうだ。

 この世界の始まりは、一匹の龍だった。

 世界が生まれる前、そこには何もなく、ただ一匹の龍がいるだけだった。しかし、龍とはいえ命に永遠はなく、やがては死を迎えるが死してなお高潔な龍の屍は、その肉を大地とし、その血を海とし、その骨を山とし、そしてその心臓から無数の命を生み出した、と。

「その物語は私の知るものと大きくは変わらないようだね。それにしても、よもやエルフの存在がそこまでになっていることには驚きを禁じ得ないよ。それほどに世界の在り様、認識が変質しているとは」

 そういって素直に驚きを口にするアリスベルは、らしくないように思えた。

 いや、そうではない。ただ驚いているというだけではなく、

「なんか、あんたがこういう想定外のことに出くわして、喜ばないってのが意外だわ」

 出会ってまだ二日の人間のことを何を、と思いはしたがそれでもガーネットはそのどうしようもない違和感をぶつけずにはいられなかった。そして、その言葉にアリスベルはにやりと口元をゆがめて答えた。

「うれしいね。君はそこまで私のことを見てくれていたのだね。これはもう相思相愛ということで」

 子供の見た目に浮かぶ笑みは、やっぱりおっさん臭かった。

「んなわけあるか。で、どういう意味なんだ? もうあたしは考えることを放棄した」

 実際、今回の大立ち回りで身も心もくたくた、膝も笑っているしできればこの場に大の字にひっくり返ってしまいたい。それでも、今回の顛末だけは聞いておきたかった。

「一応命張ったしね、そんぐらいは聞かせてもらってもいいでしょ。なに? 天使って」

 別に、ここで拒否されてもそれはそれでもよかったし、できればそうしてくれることも期待してはいたのが本音だ。しかしガーネットが思う以上に、アリスベルはガーネットのことを気に入っていたらしい。

 先ほど浮かべたものとは比べ物にならないうれしそうな笑みは、悔しいがまぶしいほどに美しい。

「我々の敵の名だよ、たぶんね」

 何の説明でもなかった。

「たぶん?」

 アリスベルらしからぬ言い回しだったが、突っ込むには気力も体力も足りなさ過ぎた。

「たぶんと言わざるを得ないが、しかしたったの四百年足らずでここまで変わる、いや、変えられるとなるとそのぐらいしか心当たりはないと思ってね。根拠はないよ」

「ふうん……天使、な」

「確証はないうえに推測の域すら出ないがね。ただ、これほど大規模に世界のありようを変えたとなれば候補は限られるという理屈さ」

「それであの男に聞いてみた、と」

「神や悪魔でもよかったのだがね」

「その辺はもうあたしにはわっかんねえな。でもさ、そうやって聞くってことはあんたは天使にも悪魔にも、まさか神にもあったことが……いや、いいわ。聞くの怖い」

 尋ねなかったのは、たとえ答えがどちらであったとしても救いがないからだ。

 仮に会ったことがあるのなら、神が実在する割には世界にはすくがなさすぎるし、会ったことがないと言われればこの世界に神は存在しないといわれる気がしたからだ。

 さすがにそこはグレーゾーンにしておきたかった。

「世の中知らないほうがいいこともある」

「そうかい。ただね、これだけは言っておこう。私の予想を最も大きく、そして嬉しいほうに裏切ってくれているのは紛れもなく君だよ」

 その笑みはとてもにこやかとは言えない代物だが、それでも親軸索釣りあげた口元にはうれしさがにじみ出ている。

「さいで。あたしは予想通りで何の裏切りもない、穏やかな人生を所望するけどね」

 そこでとうとう力尽きたガーネットは、その場にしりもちをついて座り込み、天井を仰いだ。

 今大事なのは数百年にも及ぶ天使だか悪魔だかの陰謀よりも、この疲労感だった。一刻も早く王都に帰り着いてゆっくりしたい。

「それはそうとさ、強盗連中もみんな逃げ出しただろうし、そろそろ列車動かしてもいいんじゃないの?」

 最後尾の家畜車両から先頭のこの貨車まで歩いてきた限りでは、居残っている奴はいなかった。おそらくは先ほど見送ったあの棟梁の男がっ最後だったはずだ。

「ふむ、そうだね。ここで議論をしても答えは出ないだろうしね。では、あの死体には最後にもう一仕事だけしてもらうとしようか」

 言われて、天井を仰いだままのガーネットは「あ~」と間抜けなうめき声を漏らし、がっくりとうなだれた。

 死体が動いているということへの違和感が限りなく薄められていることに気が付いたからだ。

「やっべえな……忘れてたことよりも、そのことに何の違和感もなくなってるのがやべえわ」

 自分の中の常識が変わりつつあることに僅かながらの危機感を覚え始めていたガーネットに、ふと思い出したようにアリスベルが声をかけた。

「一つだけ先ほどの問いに答えておくよ」

 「先ほどの」ってどれだ? とほぼ停止しかけた頭でガーネットが記憶をほじくり返すよりも先に、アリスベルが言葉を継いだ。

「神には、会ったことはないよ」

 その意味を深く考えてはいけない。そう自分に言い聞かせて、ガーネットは心を無にして、

「さいで」

 と答えるだけだ。

 床から伝わる振動と走行音にだけ意識を集中して、ガーネットは考えるのをやめた。

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