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魔女と歩く日々  作者: 太夫 有
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第1章

 もう半日ほど森を歩いている。

 規則正しい歩調と歩幅のおかげでどの程度の距離を歩いたのかは大まかにはわかるのだが、いかんせん全行程が不明なせいで疲労感は実際以上だ。

 というわけでガーネット・LLリリー・リン・サニーデイズは、茜色の空に僅かばかりの紺色が混じり始めたところで今日の行程を終えることにした。獣道とほとんど区別のつかないさびれた道を外れ、僅かに森に踏み入ったところに巨大なうろを抱えた巨木を見つけたので、今夜はそれを寝床にすることにした。

 ザックから取り出した簡易用コンロで湯を沸かし、レーションの缶詰の中から比較的ましな味付けの煮豆の缶詰を選んでナイフでこじ開け、ビスケットとコーヒーを用意したところでアルコール式ランプに灯を入れた。

 頭上の空は夕焼けの残滓も僅かばかりで、ランプの明かりの届く範囲の外は既に夜の闇に呑まれている。

「ぎりぎりセーフ……かな。にしも、もうちょっとましなのはないもんかな。極東の国じゃ、糧食にも工夫を凝らしているとは聞くけど、うちの国じゃこれが精いっぱいだもんな」

 大木の根元に腰かけて食事をとることにした。腰にさげていた騎士剣は、念のためにすぐそばに立てかけたままだ。

 フォークでつっついた煮豆はお世辞にもうまいとはいえない。こんなもん街の定食屋で出された日には店主の首に剣を突き付けて罵倒の嵐を浴びせかけてやるだろう。それでも、数あるレーションの中では「まだ食える」と騎士団員の間では比較的好評を博しているものだ。

 豆の味でビスケットを押しこむようにして飲み込み、コーヒーの味で何とか後味をごまかすだけの食事だったが、たっぷり半日歩き通し、さらに言うならその前の二日に及ぶ鉄道での移動にくたびれていた体は素直にエネルギーの供給に歓喜した。

「もうちょっとましなもん開発しろよな。戦争なんて結局最終的には美味いもん食ってる方が勝つんだってのに」

 こぼした愚痴に反して、満足感が胃の底から湧きあがってくる。あっという間に缶の中身を平らげ、最後のビスケットを流し込むころには腹の虫もすっかり大人しくなっていた。

 そうなると、今度は別の欲求が鎌首をもたげるのが人情というもので、まどろむような疲労感が全身にゆっくりとのしかかってくる。思えば、昨夜は列車の椅子に座ったまま一晩を過ごしたので、あまり熟睡できなかった。そのせいもあってか、瞼の重さはあっという間に耐えがたいほどになっていた。

「さっさと寝ちゃおう。で、明日は朝から移動しよう」

 芋虫が這うようにもぞもぞと木の根を乗り越えてぽっかりと口を開けたうろに潜り込む。

 遠目に見た印象よりもずっと広大な空間がその中には広がっており、ガーネットぐらいの体格であれば足を延ばして横になってもまだ余裕があるほどだった。雨風がしのげれば御の字だと思っていただけに、これはありがたかった。

「さすがに三日連ちゃんで座って寝るのは、ね……」

 ここまでの移動の行程がほぼ列車だったため、二晩ほどを直角の座席で座って過ごしていた。実戦に投入されたときにはもっとえげつない環境で、ろくすっぽ眠れないどころか横にもなれない夜を何日も過ごすこともあったが、あくまでもそれは非常時の話だ。

 年頃の女の子とは思えない動きで体をくねらせて器用にザックとランプをうろの中に引きずり込むと、ザックの中から寝袋を取り出してすっぽりとその中に体をねじ込んだ。

 準備万端。あとはランプを消してしまえばあっという間に夢の中に旅立つ、

「……ちっ」

 はずだったのだが、見つけてしまった。

 それまでの眠気にとろけたような表情を一転させ、眉間にしわを寄せて舌打ちをしたガーネットが睨みつけていたのは、一通の封筒だった。

 王宮でしか使われていない上質紙の使われた封筒には、王の勅令であることを示す立派な紋章が押印されている。ご丁寧に封蝋にも王家の紋章が刻印されていた。

 中身は命令書で、これまた立派な羊皮紙が使われているあたりにガーネットは悪意すら感じていた。もちろん、それが逆恨み以外の何でもないことは自覚しているが、それでも、

「嫌がらせにもほどがあるっての」

 吐き捨てるように言ったガーネットは、年頃の女の子が絶対にしてはいけないじっとりとした視線を手紙に叩きつけ、

「何が、王国千年の平安を盤石たるものにするため、だ。何が鎮護国家政策の根底だ。何が末代まで語り継がれる栄誉だ。こちとらあたしの代でお家断絶確定だっての」

 そして、吐き捨てた。

「何が、魔女の封印、だ」

 命令書を受領して最初に考えたのは、自分が思いっきりからかわれている可能性だったが、すぐに違うらしいことには気がついた。さすがに下士官一人をからかうのに、本物の王家の紋章入り封筒やら封緘を持ち出すなどあり得ない。そんなことをすれば、それこそ命令した側にどんな厳罰が下されるか知れたものではない。

 だからといってその中に書かれた内容をすべて鵜呑みにして、はいそうですかと復唱できるかというと、それはまた別問題。

「魔女なんてお伽噺だろ。それも千年前って」

 伝承によれば今より千年の昔、魔法の力で破壊と蹂躙の限りを尽くす悪の魔女を相手に世界中の国々が大きな戦争をやらかしたとされている。その戦争は『人魔大戦』の名で語り継がれており、一説によれば魔女一人に滅ぼされた国も少なくないらしい。

 真偽のほどは定かではなく、歴史というよりはガーネットの言った通りお伽噺のような民間伝承的な色合いが強いのが実際だが、おおよそそんな内容が世界中のどこの国にも残されている。昨今の歴史観では、大規模な災害や疫病といった天変地異を魔女になぞらえ、後世に伝えたのだろうとするものが主流だ。ガーネットもそこに異論はない。

 そして、どの物語も最後には人々が手を取り合ったおかげで悪い魔女をやっつけることに成功した、と結ばれるのがお約束だった。それ以降、歴史の表裏を問わず魔女と呼ばれる存在が現れた記録は残されてはいない。だから、

「蒸気と鉄とガスが歯車を回して社会を回すこのご時世に、魔女?」

 ガーネットがそう思うのも無理からぬ話だった。

 ランプに照らされる命令書をそのまま火にくべてやりたくなる衝動にかられるが、そんなことをしたところでこの、真偽のほども意図も何も分からない命令がなくなるわけではない。そんなことは百も承知している。

 そして、導き出した結論はこうだ。。

「厄介払いにしちゃあやり方が陰険すぎだろ。その分、覿面に効いてるけどさ」

 よくある話だ。

 できもしない命令をでっちあげて、それを完遂するまで帰ってくるなと指示する。ただそれだけで、軍人というのはいとも簡単に組織から抹殺される。もちろん、命令を遂行している以上は軍籍は消えないし、帳簿の上では確かにそこに存在している。けれど、それだけだ。いることにはなっているが実際にはいない。そんなやつを、ガーネットは何人か知っている。

「まさか、自分がそうなるなんてね」

 これが奴隷上がりの下級兵士や民間出身の志願兵であればもっと簡単で、生存率の低い最前線にばかり送り続ければいくらもたたないうちに軍どころかこの世からいなくなる。遺族がいても僅かばかりの恩給で始末がつく。なんなら、直接手を下すという選択肢も一昔前までは横行していたとさえ言われている。

 ただ厄介なことに、ガーネットは貴族であり、味噌っかすとはいえ皇位継承権まで持っている家柄の出だったりする。いくら没落して傾いて終焉が見えているとはいえ、貴族の子女が無謀な作戦で戦死したとなれば、どうやっても誰かがその詰め腹を切らされることになってしまう。というわけで、

「あたしが音をあげてバックレるかケツまくって逃げ帰るか、どっちにせよ軍から追い出すには十分な言い訳、ってわけだ」

 加えて言うなら、たぶん理想は前者なのだろうということも察しはつく。つくのだが、

「もうちょっと他になかったのかよ。魔女って……嘘でっちあげるにしてももうちょっと他にあっただろうに」

 考える労力すら割く価値なしと言われている気がしてさすがにしょぼくれそうになる。

「ご丁寧に封印の……なに? 結界? を張る方法まで書いてる暇があれば、もうちょっとましな作戦でっちあげればいいのに。子供かよ」

 直接バカにされるよりも随分と堪えた。

「よっぽどあたしを地の果てにぶっ飛ばしたかったんだろうけどさ……ま、そういう意味では大成功か」

 何せ、国土の端っこも端っこ、このプリズンバレーの森の向こう側はどこの国でもない、誰も住んでいない土地が延々と広がっているとされ、地図さえ作られていないのだ。ある意味で世界の果てと言えなくもない。

「もう、誰に怒ればいいのかもわかんないわ」

 何やらめんどくさい儀式の手順が書かれた、古く色あせた羊皮紙を大雑把に畳み直して立派な封筒に入れ直すと、今度こそガーネットはランプの明かりを消した。

 星明かりの届かないうろの中は夜の黒を濃縮したように暗い。自分の掌さえ見えない闇の中でじっとしていると、改めて自分の置かれた境遇が救いのないものであることを実感した。

「給料、絶対に出ないよな」

 呟いた一言は、どこまでも現実的に自分を追い詰めた。

 無職。

 貴族でも騎士でも、軍人でもない。いや、貴族の身分は剥奪されない限りは失うことはないのだが、さすがにこの期に及んでそんな上辺にすがる気にはなれなかった。むしろ、そうすることでますます自分が惨めになるようにさえ思えた。

 だったらこんな下らない命令なんて無視して、さっさと別の人生を歩むというのも一つの決断だし、それが賢い選択だということは頭では理解している。

 それでもそうしないのは、ただただ悔しかったからだ。このままおめおめと、この命令をでっちあげたやつの目論見通りに潰れてやるのは、どうしても癪に障る。

「何がどう転んでも結局は負けるんだけどな」

 ため息とともに寝袋に深く潜り込み、

「むかつく!」

 やり場のない怒りを込めて、後頭部で木の幹に頭突きを喰らわせる。

 熱を持った鈍い痛みが頭の芯まで痺れさせたが、やがてそれも眠気に呑みこまれるようにして消え、とろけるように眠りに落ちてゆく。眉間のしわもこのときだけは綺麗に消え、年相応のツルンとしたおでこが闇の中で小さく上下する。

 現実逃避のため、瞼を閉じて思い返すのはこの三日ほどの行程のことだった。

「列車は終点の駅に突っ込んで事故るし、馬車は谷底に落っこちそうになるし、そう言えば出発の時は王都でわけわからんデモのメンツと間違えられて思いっきり足止めもくったな……」

 たった二日と少しの行程の中で起きた出来事とは思えないボリュームのトラブルを口にしながら、しかしガーネットの口調と表情は、何事もない日常を思い返すのと変わらぬ穏やかささえ湛えている。見る人によっては、彼女が物事をおおげさに騙っているだけに見えなくもない。

「あれ、めっちゃ怪我人も死人も出たんだろうな」

 翌日の地方紙一面をでかでかと飾った記事によると、この列車事故の被害者は死者四名、重軽傷者に至っては二百余名という、片田舎の話題を総浚いにするに十分な大事故であったらしい。原因はブレーキの故障と線路の老朽化と乗務員の居眠りが重なったせいらしいが、それでもこの程度の規模に収まったのは、終着駅付近の地形が緩やかな登りであったことと、前日までの低気圧が原因で発生した霧のために運行速度が抑えられていたことが幸いしたのだろうということだった。

 それでもホームや線路の復旧、大破した機関車や客車の撤去、修理にはそれなりに時間も費用もかかるらしく、鉄道が物流の主でありそのインフラにぶら下がるようにして発展してきた田舎町にとっては、そのダメージは計り知れないとして締めくくられていた。

 そんな極めて重大な、普通であれば一生に一度出会うかどうかというトラブルなのだが、それを思い返すガーネットには驚きどころか、僅かばかりの動揺も浮かんではいない。

 まるで、今朝の朝食のメニューを思い出す年頃の少女のような顔つきで、ぽつりとこぼした。

「まあ、この程度で済んでよかった」

 そう。彼女にとってはこれが“日常”であり、変わらぬ背景雑音でしかないというのだ。

 『絶対不幸』

 そう名付けられたそいつの正体は呪いだといわれているが、ガーネットも詳しいところは知らされていない。何せ、一族代々にかけられたこの呪いはその名の通りに、ガーネットの先祖たち全員に一人の例外もなく不幸を運び、その悉くを死に追いやってきた。

 どうやらそれが世迷言でも躾のための喩え話でもないらしいというのは、自らの祖父母や父母に至るまでもが、不幸の一言で片づけるのもはばかられる目にあってその命を落としたことが裏付けていた。

「あほか」

 ぼんやりとこぼし、ガーネットは寝ころんだままシャツの襟首を人差指で引っ掛けて引っ張り、顎を引いて年の割にはささやかに過ぎる胸元を覗き込んだ。谷間ができていないのは仰向けだからだと自分に言い聞かせる。両の二の腕とポージングを駆使して寄せてあげても谷間どころか傾斜すら生まれないとは言ってはならない、言えばその場で首を撥ねられる。

 しかし、本人が注視したのはそのささやかに過ぎる膨らみではなく、ほぼ平坦な双丘の間、胸の真ん中にある物体だった。

「何がラッキーラッキーラッキーだ、何回見ても忌々しい」

 そこには親指の先ほどの小さな宝石が透き通った輝きを湛えていた。

 一見するとペンダントトップのようにも見えるが、『ラッキーラッキーラッキー』と呼ばれたその石はガーネットの胸元、両の乳房の中央に埋め込まれていた。予備知識も何もなく見ると痛々しく見える姿だが、物心ついたころからそこにある石に本人は違和感を覚えることはない。

「こんなしょーもないお守りがないせいで父さんも母さんも死んだなんて、バカにしすぎだろ」

 サニーデイズ家に代々受け継がれてきたという、呪いから逃れる唯一の手段とされるこの石をガーネットに引き継いだ翌日、父親は死んだ。

 老朽化したバルコニーの補修のため、業者が来るまで他の人間が立ち入らないようにとロープを張っていたさなかに、全く関係のない、それまで何の問題もなかった手すりと床が崩れ落ちて階下に落下。その先にあった鉄柵に体中を貫かれて穴だらけになって死んだ。即死だった。何よりも不幸だった点を挙げるとするならば、父親を貫いた鉄柵というのが、本来はそこにあるものではなく、たまたまその日に限って建築資材を一時的に移動させていただけだというのだから、言葉もない。ズタズタになった父の亡骸に向かって母が一言「少しだけ待っていてくださいね」と言った表情は、今でも忘れられない。

 余談だが、もしも先の列車事故の際にガーネットが最後尾の車両に乗っていれば、列車はその客車車両を残して大破炎上するまで激しく突っ込み、駅舎も列車も残らず瓦礫の山と化していたのだが、それを見越して敢えて先頭車両に乗ったというのは、彼女と神のみぞ知るところだったりする。

「んで、今あたしはそのあほな呪いのせいで無職になるかどうかの瀬戸際に立たされてる、と」

 父親の死については今さらだし、本当に後を追うようにして母が事故死した時には、むしろ自分はこの石があれば死なないんだと妙に達観したのを覚えている。

 ただし、それはそれ。不運だの不幸だのという預かり知らない何かに人生を翻弄されるのを甘んじて受け入れるというには、ガーネット・LL・サニーデイズ十七歳、まだまだ若すぎた。

「寝る!」

 まるでふてくされた子供のように鼻息を噴き出すと、無理矢理に寝返りを打って目を閉じ、意識をシャットアウトする。さすがにここ数日の移動しっぱなしは堪えたのか、まどろむ間もそこそこにガーネットの意識は夢の中にとろけ出して行った。


「っ!」

 気配、と言うにはあまりにもかすかな揺らぎだが、目を覚ますには十分だった。

 それでも、確かにガーネットは感じた。

 ほんの一瞬の、小動物が活動する程度の音、気配。しかし、ガーネットの感覚は鋭敏にそれを察知した。違和感程度だが、何故かそこに薄気味悪さを感じて背筋がゾワゾワする。

(魔女? まさかね?)

 さすがにそれは飛躍しすぎだが、それでも正体のわからない気配は、確かにそこにいる。

 自分を殺しに来た間者の線が一番濃厚だが、それにしては中途半端だ。気配を消しきれないのは百歩譲ったとして、その動きがどうにも一貫しない。

(探している、のか? 私を?)

 ガーネットを狙っているのであればこのうろにいることぐらいは把握していそうなものだし、そうでないとしても察知してくれと言わんばかりの無防備さだ。気配の主はまるで何かを探しているかのように、あっちへふらふらこっちへふらふらと足取りが定まらだない。

 となると、全く自分に関係がない可能性もあるが、さすがにそう断じてもう一度眠れるほどの図太さは持ち合わせていない。

 ゆっくり寝袋から這い出し、すぐ傍に置いてある剣に手を伸ばす。

 枝葉の隙間に見える頭上の空にほんのかすかに朝の青が混じり始めている。夜明けはそう遠くはないようだが、それでもまだ正面切って迎え撃つには視界は不十分だ。

 こちらが気付いていることを相手に気づかれないように、最小限の動きで地面を這ってうろの外を覗き込む。

 そこには薄ぼんやりと人の形をしたシルエットが見えたが、月明かりもほとんどない闇の中ではそいつが何であるのかまでは判別できない。

 一瞬は幽霊や物の怪とった可能性も脳裏をよぎったが、さすがにそんなオカルトで片づけるにはあまりにもはっきりとそいつはそこを歩いている。下草を踏む足の感触がしっかりとこちらにまで伝わってきている。

 問答無用で切り捨ててしまうにしてはあまりにも判断材料に乏しく、何より敵が目の前のそいつだけではなかった場合の危険度が全く計り知れない。

 焦れながらも次の一手を打てずにただ見守る間にも、そいつはおぼつかない足取りで木々の間を行ったり来たりしていたかと思うと、おもむろにふとその足を止めた。その瞬間だった。

「しまっ! 囮か!」

 首根っこに背後から掴みかかられた。

 氷を押しあてられたような冷たさもさることながら、何よりガーネットを突き動かしたのは嫌悪感だった。肌の感触そのものよりも、まるで体の中を直接撫でまわされたような、皮膚の下を虫がはいずりまわるような不快感に、思わず悲鳴を上げそうになって、

「うわあああああああああああああ! 何だお前!」

 あられもない絶叫が腹の底から噴き出した。考える余裕なんてなかった。

 剣を抜いて、確認するよりも迅く背後を薙ぎ払って、

「うそ?」

 そこには何もなく、夜の闇を湛えた空間があるばかり。

 ただ、それにもかかわらず剣を握る手には確かな感触が残されていた。

 水やゼリーを切った時のような不確かな感触ではあるが、確かに自分はそこにある「何か」を切ったらしい。

(いや……斬った、のか?)

そして、

「……なにか、いる? いる、よな?」

 目には見えないし全く確信は持てないが、それでもまだそこに「何か」がいるというという事だけははっきりと感じられた。

 息苦しいほどの圧迫感だけが伝わる、見えない何か。ただ一つだけわかることは、

「めっちゃやばくね?」

 見えてさえいればいくらでもやりようはある。それこそ、自分の剣の腕ならば、よほどの達人か人知を超えた化け物でもない限りは斬り伏せられる自信はある。が、相手は見えないうえにどうやら斬ることもできないとなれば、今のガーネットになすすべはない。

「こりゃ逃げるが勝ち、かな。お化け退治はやったことないしな」

 騎士道に照らせば逃げるというのは最低の行為だが、そこはあくまでも人間相手の場合だけだと自分の中で折り合いをつけ、じりじりと洞の出口に向かってすり足で移動して、

「うわっ!」

 飛び込んできたそいつと、目があった。

 いや、正確には相手に目がないので目はあっていないのだが、それでもその時のガーネットははっきりと、そいつがこちらを見ていたことが分かった。

 そう。ちらりとこちらに向けられた頭部には、目がなかった。目だけではない、鼻も口も耳も、そこには顔にあるべきパーツが何一つなく、それどころか凹凸の全くない剥き卵のようなツルンとした頭部だった。だから、

「あ」

 斬った。

 思わず、何の考えもなしに、躊躇いなく斬った。

 斬った後に気がついたのだが、そいつはひどく大雑把に人型を模して造られた人形だったようで、斬り落とされた腕(らしき部分)が乾いた音を立ててうろの中を転がった。

 もしかして斬っちゃいけなかったのだろうか、と思った時には人形は斬り落とされた腕を追うようにガーネットの脇をすり抜け、見た目に似合わない機敏な動作でうろの中を縦横に飛びまわっている。

「あれ? これ、何が起きて……?」

 呆気にとられて人形の動きを眺めていたガーネットは、最初こそ一体何が起こっているのか見当もつかなかったが、徐々にそこで起きていることに寝ぼけたアマが追いつき始めた。

「戦って、る?」

 よくよく見れば、人形は短い脚でフットワークを駆使して、器用に左右に動きの軸をずらし、時には残った片方だけの腕を攻撃を仕掛けるように振るっている。

 何もない虚空に向かって跳び、腕を振りまわす人形だったが、果たしてその動きには感触が感じられた。それは、傍で見ているガーネットにさえ伝わるほどで、時には見えない何かが繰り出す攻撃をよけきれず、人形がもんどりうって転がる様子には鬼気迫るものがあった。

「なに、これ?」

 突如勃発した謎の存在同士の争いに茫然とするガーネットだったが、それも長くは続かなかった。

 人形が攻撃を繰り出すたびに見えない何ものかが壁際に追い詰められていくのが、目ではなく肌に感じる圧迫感で感じ取れた。どうやら人形の方が優勢らしい。

 片や人形の方も決して一方的ではないようで、転がされては泥に汚れ、よく見れば細かい傷を表面に負いながら、それでも懸命に立ち向かっているようだった。

 そんな、一方だけしか見えない争いも徐々に見えない何かの気配が薄れて行き、ついには完全に消失してしまったところで唐突に終焉を迎えた。

 人形が勝利したのか、そもそも争いすら発生していないのかさえもわからないが、とにかくほらの中は元通りの静寂を取り戻していた。僅かに鼻腔を突く腐臭のようなものが残されていたが、それも間をおかずに森の香りに呑まれて搔き消えた。

「助かった、のか?」

 そもそも自分が何に遭遇していたのか、それこそ本当に「見えない何か」なんてものがいたのかすらもわからないので、何をもって危機が去ったとするか判断ができない。なんなら、今現在も絶賛大ピンチの真っただ中という可能性も大いにある。

「さすがにまだ、死にたくないからね」

 軍からお払い箱を喰らった身とはいえ、命までくれてやる気はさらさらない。

 とはいえ、相手は命があるのかどうかすら怪しい人形だ。剣一本で何とかできるかどうかは限りなく怪しい。それでもないよりマシとばかりに柄を握り直す。掌が汗でじっとりと濡れていて気持ち悪い。

(頭を落としても殺せるかどうかわかんないし、やっぱり)

 狙うなら脚だ。そう結論付けて腰を落とし、踏み込みのためを膝に作ったまさにその瞬間、

狙い澄ましたかのように人形が膝を曲げて腰を落とし、

「ゔえっ!」

 何の前ぶれもなく、さきほど感じた見えない不快感が背中全体に押しつけられた。

 ヘドロを背骨に流し込まれ、内臓全てを直接鷲掴みにされたような不快感は、問答無用でガーネットに命の危機を感じさせた。全身に鳥肌が立ち、胃が吐き気にひっくり返った。

(死ぬ)

 これほどダイレクトに死を感じたことはなかった。最後の抵抗とばかりに剣を握る手に力を込めるが、落とさずにいるのが精いっぱいという有様だ。

 と同時に、

(あいつだ。さっきの、見えないあいつ。あいつが、そこに、いる)

 目には見えない、そいつが何者なのか見当もつかない「ソレ」がそこにいることをはっきりと感じた。自分の背中に張りつくような距離で、自分の生殺与奪を握る存在が。

 まさかの、あまりにも脈絡のなさすぎる己が最後の瞬間に、思考のほとんどが停止するが、その中で僅かな希望にすがる視線が見たのは、あの木偶人形だった。

 助けを求めてみようか、そんな逡巡すら脳裏を巡るよりも速く、木偶人形は動いていた。

 小さくて関節のない足でどうやって、と思うほどに力強く地面を蹴ると、片方しかない腕を力いっぱい振りかぶってとびかかかってくるも、たたき落とされでもしたのか、あえなく目の前の地面に転がってしまう。どうやら片手になったことでバランスがとりづらいらしい。立ち上がった足取りもどこかおぼつかない。

 そのさ中もガーネットの体を締め付ける不快感は弱まることはなく、ただただ木偶人形が戦ってくれている間は辛うじて生きながらえていると言った有様だった。

(一太刀、振り返って剣をふるうことさえできれば……や、それでも意味はないかもだけど)

 何もせずにこのまま殺されるのだけは受け入れ難い。

 そうする間にも木偶人形は何度目かの突進をはじきとばされ、ついには起き上がるだけでもせい一杯と言った有様だ。そこで気付いたのだが、どうやら自分が盾にされてるせいで木偶人形の動きが制限されているらしかった。

 自分で何もできないだけならまだしも、他人(?)のお荷物になって死ぬなどまっぴらだ。

「相打ち上等!」

 背骨を引き裂かれるか、内臓を握りつぶされるか。どの道そうなるのなら、せめて一太刀ぐらいは浴びせてやる。そんな覚悟で柄を握り、振り返りざまの一閃のために最速のターンを切ろうと軸足のかかとに全体重を乗せたところで、

「油断したかい?」

 何の前触れもなく響いた一言に、その場の空気が一気に書き換えらた。

 例えるなら、嵐のような暴力性と清流のような静けさ、その相反する二極を併せ持った声音に、ガーネットだけではなく背後にいた何者かさえもが呑みこまれ、支配される。

 空気が静謐さを帯びた。と同時に、ガーネットの背後に張りついていた嫌な気配の束縛が、ほんの一瞬とかれて注意が、新たに現れた何者かに注がれた。そうせざるを得なかったのだろうし、事実、ガーネットの注意力も声の主にすべて持っていかれた。

 しかし、その瞬間が絶好の隙であることもまた、ガーネットは逃さなかった。

「なめんなっ!」

 唐突な横槍に若干バランスを崩してはいたが、それでも重心を崩さないのはイジメのようなしごきの賜物。改めて踵に全体重を乗せて最速のターン。体重に遠心力を乗せた一閃で背後を薙ぎ払い、同時に重心が乗ったままの踵で跳躍して脱出、さらには謎の声の主を探して視線を泳がせる。

 脳みそが偏るような挙動の中、ガーネットはみた。そして、

「マジかよ」

 声に出さずにいられないほどの絶世の美女。いや、女と呼ぶにはまだ幼すぎる、少女。

 瞬き一回分にも満たない僅かな時間の記憶なのに、あまりにも鮮烈な印象は少女の特徴の全てを深々とガーネットの意識に刻み込んだ。

 夜の森の漆黒をそこだけ切り抜いたかのような、真っ白な肌。ストロベリーブロンドのロングヘアはそれ自体が輝いているかのような絹の艶やかさ。それは燃え盛る黄金を想起させた

 切れ長で少しだけいたずらっぽく垂れた特徴的な目じりに、薄桃色の艶やかな唇が絶妙なバランスで収まった小さな顔は、神が何かの手違いで生み出してしまったかのような至高の造形。

 美の暴力。

 その手に、先ほどと同じく水か泥でも斬りつけたかのような不確かな感触を感じながら、しかし意識のほとんどはいきなり現れた美少女に持っていかれてしまった。

(誰? 何でこんなところに? こども? 何だこのくっそ美少女? こいつも化けもんか? 美少女の化け物? 次はどいつをぶった斬る? 敵はどれ? 着地しなきゃ)

 視覚情報があまりにも衝撃的すぎて思考は散り散りばらばら。辛うじて最後に浮かんだ着地に専念するため下半身の制御を優先する。

 そのせいで剣の構えがおろそかになったことに気付いた時には、自分以外の全員が次の行動を起こしていた。

 木偶人形は体を起すやガーネットの脇をすり抜けて飛び出し、正体不明の何物かは斬撃の影響から瞬く間に復活して体制を立て直し、美少女はその艶やかな口角を不敵に釣り上げた。

 最初に行動を起こしたのは、美少女だった。そして、それですべてが決した。

「あるべき姿に還りたまえ」

 一言そう唱えたかと思うと、目に見え中たそいつが周囲の気配もろとも消え去ったではないか。周囲の空気が孕んでいた怖気も、吐き気を催すような腐臭とともに、圧迫感を纏ったヘドロとも空気ともつかないそいつが、あっけなくいなくなった。

 が、元々目に見えないもの相手にいなくなったというのは何とももやっとするし、何よりガーネットにはその確信が持てずにいた。何なら一度、油断からがっつり死にかけているのだ。

 未だ胃のあたりに残る怪しい痙攣に必死に耐えながら、剣を構えて周囲を警戒する。

 見えるのは、自分の前に立ちはだかるようにしてこちらに背(だと思う)を向ける木偶人形と、何事もなかったかのように涼しげにこちらを見据える絶世の美少女。

「魔女に、会いに来たのだろう?」

 それだけを言うとくるりと回れ右をして夜の森に向かって歩き始めた。振り返る動作に追従するように流れたロングヘアが、金色の風を思わせる。

 現実に追いつかないガーネットの思考は、そんな美少女の姿を眺めながら思った。神様というのはどこまでも不公平でいい加減で、残酷だ、と。

 深呼吸一回分だけ迷ったガーネットは剣を鞘におさめ、出しっぱなしだった僅かばかりの荷物をザックに詰めて背負い直し、一度だけ剣を抜いてその刀身を確かめた。もしかしたら先ほど聞いたアレの一部でもこびりついているかと思ったがそんなことはなく、寝不足と疲労でくたびれきった、目つきの悪い自分が映るだけだった。

 最後に忘れ物の確認に振り返ったうろの中に転がる、小さな木片に気がついて、

「一応、持ってくか」

 自分が切りおとした罪悪感を誤魔化すかのようにそう呟くと、拾い上げてポケットにしまい込んだ。


 少女と付かず離れずの距離を歩くこと小半刻。

 頭上の空は既に朝の青に染まり始め、森の中にもじわじわと朝の気配が芽吹き始めていた。

 うっすらと広がる朝もや、気の早い小鳥のさえずり、夜明け独特のひやりとした水分を孕んだ空気に濃厚な緑の匂いが混じっている。

 数歩前を歩く少女の背中はこの半刻の間、一度も立ち止まりもしなければこちらを振り返ることもなかった。途中で一度だけ、傍らを歩く木偶人形に何かを尋ねたようだったが、それも絶妙な距離のせいで会話の内容までは聞きとれなかった。

(っていうか、あたし何であの娘に付いてきてんだ?)

 半刻ほど歩いたところで、ようやく湧いた疑問だった。

 確かに少女は『魔女』と口にしたし、自分がそいつに会いに来たことも言い当てた。

 疲れ果てた脳は何となく少女の雰囲気や正体不明の木偶人形の存在と魔女という謎の存在を結びつけてしまったが、

(どう考えてもアウトじゃん)

 自分が何故こんなところに飛ばされたのかを考えれば、直接手を下すという選択肢はやはり最も有効で簡単にそのコンセプトを達成する手段なのだ。むしろそう考えた方が、少女の口から『魔女』なる単語が出てきたこと、自分の目的を知っていることの辻褄が合う。

 朝日とともに戻ってきた正常な思考能力に、ようやく自分がとんでもなく間抜けな行動をとっていたことに気がつけた。と同時に、自分が次にとるべき行動は決まった。

 歩くペースは変えず、腰から上の動きだけで剣の柄に手をかけながらタイミングをはかる。あとは目の前を歩く背中にその剣を突きたてればすべては終わる。刺客相手にはヤルかヤラレルかの二つに一つ。仮にここで脱兎のごとく逃げ出したとしても、生きていることを知られれば同じような刺客が自分が死ぬまで送り続けられるだけだ。

(そっちがそのつもりなら、その喧嘩買ってやるよ)

 ゆっくりと、歩調も足音も変えずに重心だけを移しながら腰を捻り、音もなく剣を引き抜いて最後の一歩のために地面を蹴りつけようとしたその瞬間、こちらの行動を見透かしていたかのような絶妙のタイミングで少女は足を止め、首から上だけでこちらを振り返って告げた。

「おつかれさま。ようこそ、魔女の森へ」

 うなじ越しの横顔は、やっぱり腹立たしいほどに美しかったが、その美貌を更に際立たせたのは、少女の肩越しに見えた光景だった。

 それまでは密集して鬱蒼と生い茂っていた背の高い樹木たちが唐突に開け、一足先に夜が明けたかのようなそこは、朝日の輝き湛えた光の泉のようでさえあった。

 森の中に忽然と現れた開けた空間は、それまでの暗く深い森と地続きとは思えない別世界だった。開墾したかのようにその一角には樹木はなく、無秩序に繁茂している雑草も姿はない。それどころかどこぞの貴族宅の庭園の様に多種多様な花々が咲き乱れ、ざっと眺めるだけでも手入れが行き届いているのが見て取れた。森、というよりは魔女の庭という趣だ。

「おや? どうしたね?」

 年齢の割には少々大仰な少女の物言いに引っかかりはするが、そんなことよりもはるかに怪しいのは、間違いなく自分の挙動だ。

 腰を落としてはいないものの、剣の柄に手をかけて今にも飛びかからん姿にどう言い訳をしたものか、はたまたこのまま勢いに任せて斬りつけるか。そんな一瞬の迷いにガーネットは、

「ああ、ちょっとな。ところで、魔女の森……って、魔女ってホントにいるのか? ここに?」

 誤魔化すでも言い訳するでもなく、何事もなかったように振る舞うことにした。

 こちらの態度を見て気付いていないのならそれに越したことはないし、気付いたうえでこの態度だとすればそれに乗っておくほうが自分も安全だ。正面から殺し合いをするには、主に相手の能力に関して不確定要素が多すぎる。

(特に、あの見えないやつを消した術だか魔法だかわかんないやつ。あれは何かやばそうだし)

 歩みを通常の歩調に戻し、招き入れるように花畑に立つ少女に歩み寄りながらガーネットは最低限の警戒の視線を少女に向ける。

「本人にその自覚があるかは怪しいがね、おそらくは魔女と呼ばれる存在だよ」

 持って回った物言いに年寄りくささを感じずにいられないが、

「その辺りは本人に会えばわかる、ってことか」

「話が早いね」

 少女に促されるままにぽっかりと開けた広場の様な場所に足を踏み入れると、靴底に感じる柔らかな下草の感触に、きちんと手入れが行き届いていることが改めてわかった。

 周囲を見渡せばやはりそれまでと同じ背の高い木が生い茂って入るのだが、それも何故か、この空間を避けるようにして綺麗に整列しているのがどうにも不思議な光景だった。

 自然にできたとは考えづらい光景だったが、かといって人の手が入るにしてはあまりにも人里から離れている。少なくとも、この規模の庭を人の手で作り出し、このクオリティで維持するのであれば一流の庭師数人を定期的に働かせる必要がある。

「確かに、魔女の森の名前にはふさわしいかな」

 改めて向き直った空間は、そうとしか例えようがなかった。

「で、君は……」

「そうだね、助けてもらったのに名乗ってなかったね。ガーネット……LL・サニーデイズだ」

 ここで手を差し出さないのは無礼かとも思ったが、相手がこちらの命を狙っている可能性があるのにそこまで無防備に離れない。

「ガーネット君、だね。君は何故、魔女に会いに?」

 「きみ」とはまた時代がかった二人称もあったものだと思いながら、ガーネットはふと自分の行動が目的からずれ始めていることに気がついた。

「あ~、いや、目的は魔女に会うことじゃないんだけど、まあ魔女がらみではあるからさ、本当にいるんならせっかくだし顔だけでも拝んでおこうかと思ってね」

 これは本当だった。最初こそ全く信じてはいなかったものの先ほどの謎の襲撃者(?)や動き回る木偶人形、そしてこの少女の謎の術? 魔法? そんなものを目にして興味が湧いたといったところだ。

「目的は別に?」

 それまでとは違ったゆったりとした足取りの少女に、付き添うように歩くガーネットは会話をしながらも周囲の景気を続ける。

「そ。まあ、なんていうか、最初は嘘八百のありもしない作業を押しつけられたと思ってたんだけどさ、色々あってもしかしたら嘘じゃないかも、って思い始めてるとこ」

 さすがに「魔女を封印する結界を張り直しに来た」とは言うわけにはいかない。馬鹿げた内容とはいえ仮にも軍の命令であるからには機密事項だ。加えて、相手がどこからの資格なのかわからない。何ならもしかしたら魔女の関係者かもしれないとなればなおさらだ。

「君は騎士、軍人かい?」

「当たり、ってまあこんなのぶら下げてこんな装備してりゃ嫌でもわかるか。ついでに言うなら貴族だよ。没落しきってるけどね」

 腰の剣をわざとらしく揺らしてみせると、少女は「ふむ」とこれまた年寄りくさい反応。

「なかなかに興味深いね。良ければ向こうに我々の住む家があるので、そこで色々と世間話を聞かせてもらえないかい? 恥ずかしながら、しばらく外との行き来がなかったものでね」

 確かにこんな森で暮らしているのであれば、世間の流行についていくのは難しかろう。

「いいけど、あたしもそんなにはやりとかには詳しくないよ」

 なんなら訓練漬けの毎日やらハズレ任務に割り当てられて死線を駆けずり回る日々のせいで二周も三周も遅れた話しかできないかもしれない。

 しかし、そんなことお構いなしとばかりに少女は緩やかに口角を緩ませて微笑むと、無言のまま歩みを進めた。

(なんちゅうガキだ。あたしよりいくつか下だろうに、何だあの可愛さは。いや、違うな、ありゃ造形が良すぎんだ。末恐ろしい)

 少女の持つ魅力はあまりにも強烈だった。それこそ、異性であるガーネットをしてどぎまぎさせるほどの美貌を、たかだか唇の動き一つで、あの年齢で見せつけるのだから、反則としか言いようがない。魔女かどうかは別として、神のバカ野郎とは思った。

 そんな見知らぬ少女の人知を超えた美貌に感心しきりのところに、声を掛けられた。

「そこで足をお止めください」

 見事に不意打ちだった、みっともないほどに慌てて声の出所を探すと、驚くほど近くに声の主はいた。

 ロングスカートのワンピースドレスに身を包んだ女性だった。手にはブリキのジョウロを持っているので、おそらくこの庭園の花に水をやていたのだろう。

 首の後ろで一つに束ねられたロングヘアは銀糸を思わせる白髪で、それだけを見ればかなりの高齢であるように見えた。しかし、立ち居振る舞いからはさほど年齢を感じさせない、不思議な物腰の女だった。

 先ほどまではそこにいなかったように思えるが、恥ずかしいことに少女の美貌に見とれていたので記憶は当てにならない。

「魔女って、もっとシワシワのばあさんだと思ってた」

 警告されたからではなく、構えを取るために足をとめた。それに合わせて、流れるような動作で剣を抜き放ち、構える。切っ先に老女の首元をとらえて。

「あなたのお国では初対面の挨拶では剣を突き合わせるのですか?」

 それは皮肉か、はたまた本気疑問に思っているのか、老女の不思議な雰囲気と穏やかな物腰からは判断がつきかねたが、ガーネットは前者であると決め込んだ。ひねてるとか言うな。

「そうだね、四百年生きてその見た目の若さの化け物相手には、それが正しい流儀だ」

「そうした流儀は足元をご覧になってからにしていただけますか?」

 言われて、ちらりと視線だけを足元に向けて、

「鳥の、巣か?」

 僅かに地面がほじくられており、その中には草や葉が敷き詰められて真ん中に小さな球体が転がっていた。

「卵……それで」

 教えられなければ踏みつぶすところだった。改めて老女に視線を向けると、素を踏みつぶされなかったことに安堵したようにゆるりと微笑んでいる。凄まじくばつが悪い。 

 何とも言えない居心地の悪さにおずおずと剣を鞘に納め、言葉を探しあぐねていると、不意に視界の上の方が影に覆われた。

 慌てて再び剣の柄に手をかけながら腰を落とし、影の正体を確かめるべく振り仰ぐと、目の前をす様地勢いで何かが横切って行った。老女の言葉に足を止め、とっさに腰を落としていなければおそらくそいつは完璧な不意打ちでガーネットの顔面を直撃していたことだろう。

 翼を広げたそいつの大きさは優に人の子供の身長を超えるサイズの、立派な猛禽だった。

「フクロウ……あ、この巣の主が?」

 足元の巣穴と卵、そして頭上の影を交互に見やる間にも上空を旋回するフクロウは気付かれたことを意にも介さず、次の攻撃の姿勢に移行している。

「ちょ、ごかいごかい! あんたの巣にちょっかい掛けたりなんかしないから!」

 果たして超獣に言葉が通じるとは到底思えなかったが、急いで巣から距離を取るように後ずさり、敵意がないことを示すために両手をあげて手の平を見せる。これで駄目なら、まさかの魔女の前に梟と一戦交えることになるわけだが、

「大丈夫ですよ、あなたに害意がないことは向こうにも伝わりました」

 老女は穏やかな動作で頭上のフクロウに視線を向けると、ガーネットの方を見やりもせずに言い切った。そして、どうやらそれは本当らしく、フクロウは急降下のための姿勢制御から一転して、翼を広げて速度を落とし、大きく旋回していた。

 どうやら突如として訪れた危機は唐突に去ったらしい。

「しかしそうですか、四百年ですか。道理で……」

 ぽとりとジョウロの先から滴り落ちる滴を眺めながら、老女は遠い目をする。

「らしいよ。お伽噺ではそゆことになってる。で、残念なお知らせだけど、もう四百年ここにいてもらう」

 そう言って本来の目的、結界の張り直しの方法が書かれた書簡を背嚢から引っ張り出す。まさか本当に必要になるとは思ってもみなかったが、目の前に魔女の実物がいるとなれば、手紙に書かれた儀式めいた手順にも信憑性が感じられる。

「それはつまり、この森にかけられた結界の効果を延長する、ということで?」

 老女は慌てるでもなくジョウロの口を上げ、しずくが落ちるのを止めながら問う。どうやらおおむねの見当はついていたらしい。当然と言えば当然か。

「そゆこと。話が早くて助かる。あと邪魔せずにおとなしくもっかい閉じ込められてくれるとあたしも楽で助かる。んで、なに? まずは結界の要である霊樹を探し出して……そこに聖水……あ、出がけに教会で渡されたあれか、を振りかけて……タリスマンをその木の根元に埋めて……けっこうめんどくさいな」

 箇条書きにされている項目だけでもざっと十以上の手順があるうえに、その都度特定の作法を抑えないといけないという注意書きが細かく記されている。全部を忠実に実行するとなるとそれなりの時間は必要になりそうだったが、実現は難しくなさそうだ。ただ、

「うん。物は揃ってる……あとはこの霊樹ってのを探さなきゃなんだけど……」

「霊樹をお探し、ですか?」

いつの間に移動したのか、老女がすぐ隣に立って同じように手順書を覗きこんでいた。

「うわっ! びっくりした。いつの間に……じゃなくて、見るな!」

 自分が封印する対象に、今から自分がやろうとしていることを知られてしまうとは、まさかの大失態だった。なんならここで魔女を相手に一戦交えるしかないかという緊張感が胸中に張り詰めたが、手順書から視線を上げた老女はただただ穏やかな口調で、

「見てしまいました」

 と告げるだけだった。口調はどこかいたずらっ子の様で、親近感を覚えてしまいそうになる

 ひったくるようにして手順書を背中に隠しはしたが、今さらだ。

「言っても無駄かもしれないけど、抵抗するなよ。これは王の勅令だ。私の仕事が終わるまでは大人しくしていろよ。そうすれば私からお前たちに危害を加えはしない。それに、結界の張り直しさえ終われば私は大人しくここを去る。だから

「ですが、その手順では多分だめですよ」

「邪魔はせずに大人しく作業が終わるまでにゃに?」

 噛んだ。が、問題はそこではない。

 今こいつは何と言ったか? この手順では、ダメ? ダメということはつまり、結界を張り直せないといことで、だったらどうやって自分は作戦をこなして……と思考が廻ったところで、

「っと、あっぶな。うっかり口車に乗るとこだった。騙そうったってそうはいかないからね。そうやってまんまとあたしに結界を張らせないつもりなんでしょ?」

「いえ、そのようなことは」

 老女が少し困ったように小首を傾げるが、そこには本当にこちらを魔出してやろうというような隊はないように思えた。そこにさらに、

「ふむ。確かにそれではだめだね」

 これまた隣に歩み寄ってきて手順書を覗き込んでいたらしい少女が顎元に手を当てながら老女の意見に同調して唸っている。見た目の美貌に反して何とも仕草がオヤジ臭い。

「ダメ、って。あんたまで何言ってんの?」

 そういえばこの少女は先ほど見えない化け物を相手に不思議な力を行使していたし、こうして魔女の住処まで自分を案内していた。となれば、魔女から何がしかの不思議な力を与えられていると見てよいだろう。

 そんな色々が頭を巡るガーネットに向かって、少女は淡々と言い放つ。

「その手順は結界の張り直しと言うよりは延長のための手順で、既に失われてしまった結界の場合は、またゼロから張り直す必要がある」

 何だかそれらしい理屈に聞こえるが、真偽のほどが定かではないので無視することにした。真に受けて、まんまと魔女にはめられましたでは笑い話にもならないし、少なくとも給料はもらえない

 件の霊樹とやらを探すために歩を進めることにした。鳥の巣を踏んでしまわないように気をつけて。その背中に向けて、さらに少女は続ける。

「霊樹も既に失われているしね」

 無視。全ては自分の目で確かめてからだ。霊樹というからにはそれなりの雰囲気を持った立派な気なのだろうと、勝手に決め付けて歩く。

「それが証拠に君はここに入ってこられている」

 無視……できなかった。くるりと回れ右をし、老女と少女を交互に見やりながら尋ねた。

「結界、四百年間もつんじゃなかったの?」

「それは私の知るところではありませんが……ただ一つ気になったのは、先ほど拝見した手順書、あれは閏年を計算に入れておられないように見受けられましたが」

 そう言われてのらくらと手順書を再度覗きこんでみると、隅っこに落書きのように日付を算出したらしい計算の跡が残されているのが分かった。

「ここだ。三度ほどの例外閏年を計算に入れていない。初歩的なミスだ」

 ご丁寧に人差指で間違いの箇所まで指摘してくれている。

「そうなの?」

 算術は貴族のたしなみとして身につけてはいるが、歴学や天文学といった専門的な学術知識を必要とする分野はさっぱりなので、その真偽のほどを見極めることはできない。

 こっくりと老女が首を縦に振る。

 ガーネットは、自分の中で何かが切れる音をはっきりと聞いた。

「しょーもな! あのボケナスども……こんないい加減な仕事押し付けやがって」

 魔女の戯言に騙されるものかとは思うものの、この庭に踏み入れることができたという自身の体験まで疑う気にはなれない。

 と同時に、自分が置かれた状況が凄まじくやばいものなのではないかと思い至った。

 未だ手順書を眺めては何事かを呟き、時折隣の少女と確かめあうように言葉を交わしている老人の背中は、四百年を生きているとは到底思えないほどにまっすぐで、肌つやもガーネットの知る「老人」とは比較にならないほどに艶やかだ。

 そこにある何もかもが、彼女が魔女であることを裏付けていた。

「あのさ……四百年前にさ、魔女と人間の戦争があったって……」

 恐る恐る訊ねると、老女は何事もなかったかのようにガーネットの手元から視線を上げ、

「戦争、とはそちらの主観ですが、はい。ございましたね」

「その時に、いくつか国が滅ぼされたってのは」

「そのようなことも、あったようですね」

 何故かすぐ隣の少女と視線を交わしながら肯定する。どうやら、伝承は本当らしい。

 となると今ここにいるのはその時に封じ込められた伝承の当事者と、そこにのこのこ結界を張り直すためにやってきた愚かな人間だけ。

 もし自分が逆の立場であれば、と想像してみた。

 四百年の長きにわたって自分を閉じ込めた人間たち。その封印がようやく解かれて自由の身となった。そこに、その手先が結界の期限を見積もり損ねてのこのこ結界を張り直しにやってきた。

「え……と、じゃあ、あたしは帰ろうかな。仕事も無くなっちゃったことだし。うん。ちゃんと、報告、しなきゃだしな」

 もはや自分の帰る場所などなくなっているというのに、どこに、何を、どの面下げて報告すると言うのか。

 もちろん、この時点で失敗の責任はガーネットではなく指示を下した人間にあるというのは明白だったのだが、残念なことに極限状態の精神はそんな冷静な思考すら奪ってしまうらしい。

 よしんばそのことに気がついたとしても、それをどうこう言えるかどうかは別問題だ。

 そのためにはまず、生きて帰る必要があるのだから。

 できるだけ穏やかに、あっさりと、何事もなかったかのようにこの場を去るべく動き出したところで、背中に老女の声が掛けられた。

「おやめなさい。このままでは無事には帰れませんよ」

「やっぱりーーーー!」

 さすがに四百年もの長きにわたる封印の仕返しとなれば、それはそれは身の毛もよだつ恐ろしいものなのだろう。何せ相手は魔女なのだ。人の想像しうる拷問などどれだけ積み重ねても生ぬるい報復が待っていることは、想像に難くない。

 そして自分はその魔女の鬱憤晴らしの対象候補第一号というわけだ。

「あたしだって騎士のはしくれだ! 黙ってやられてやるつもりはないからね!」

 せめて抗って抗って、最後の最後まで抵抗してやる腹積もりだった。

「こっちだって鬱憤溜まってんだ。どうせはなっから貧乏くじなのはわかりきってたんだ。こうなりゃ魔女だろうと何だろうと相手してやるよ」

 魔女なんてものを相手にどれほど役に立つかは疑問だったが、剣の柄に手をかける。大抵の危機をこいつで乗り越えてきたし、昨晩正体不明の見えないお化けを相手にしたときもこいつの存在に少しは心を救われりした。

 そのまま足首がバカになるほどの踏み込みで一気に間合いを詰め、不意打ち気味の一撃で老女の首を切り落とし、返す一閃で小さい方の胴体を真っ二つに……と思ったのだが、

「あらあら、不躾ですこと」

 老女は到底自分が剣を向けられているとは思えない落ち着き払った口ぶりでそう言うだけだった。魔女だから、魔法を使えば剣など怖くはないということなのだろうとガーネットは勝手に答えを出した。

 不躾上等。これからぶった斬る相手に礼儀もへったくれもあるもんか、そう思って腰を落としながら、その違和感に気がついた。

 老女が見ているのは自分ではない。老女だけではない、少女もその傍らの木偶人形もそろって自分の方を向いてはいるが、視線は僅か脇を通ってその背後に向けられていた。

 ブラフ、にしては三者の動向が一致しすぎている。というわけで、ゆっくりとガーネットは背後を振り返る。

「もうこんなにも集まっていたのか。もう少し時間がかかると思ったのだがね」

 大仰な少女の言葉の通り、『それ』は集まっていた。

 そいつが何なのかは皆目見当もつかないし、何ならそいつの姿はガーネットの目には映ってはいない。目の前には、変わらず降り注ぐ陽光と風に揺れる草花、そして四方を森に囲まれた庭園のごとき空間があるだけだ。

 が、それで十分だった。そいつの正体がが何であるのかはわからずとも、昨夜の「あいつ」であることは、うなじに蘇った不快きわまる感触で確信した。

 ただし、今目の前にいるらしいやつは、あの夜の奴とは比べ物にならないほどの存在感をしっかりと放っていた。感じる圧迫感から、サイズも全く違うのではないかと思われた。

「あれ、何?」

 必要最低限で済ませた質問に、老女の代わりには答えたのは少女の方だった。

「数日前まで結界だったもの、だね」

 わからなかった。

 思いっきり顔に出ていたらしく、少女は僅かに口を噤んでしばし黙考。言葉を選び直して、

「精霊だ」

 やっぱりわからなかった。なので、表情だけでもうちょっと説明してくれるように訴えてみたところ、少女は嫌な顔一つせずに説明を追加してくれた。

「ここに張られていた結界は、精霊結界だ」

「そう言えばそんなこと、手順書に書いてあったな。そいつが何なのかわかんないけど」

「精霊結界とは、世に遍く存在する精霊を術式を用いて律することで結界とするものだね」

 ここでようやく、漠然としたイメージをつかむことができた気がした。

「要は、そこいらじゅうに精霊ってのがいて、そいつをうまいこと言いくるめて一つ所にとどめて壁にする、ってこと?」

 自分なりに言葉にしてみたのはいいが、我ながら雑な理解もあったものだ。それでも、

「それでおおよそ間違ってはいないよ。その直感の鋭さはなかなかだよ、君は魔女の才能があるのじゃないか?」

「んな才能いらない」

 引きつった口元で履き捨てるガーネットだが、少女は特に取り合うことなく言葉を続ける。

「ただ、君の言う通りに精霊たちを言いくるめているのであればよかったのだが」

 どうやら大きな間違いはないらしいのが救いだった。ただ、自分の粗野な物言いが少女の儚い花弁のような唇から出てくると何ともむずがゆい。

「残念ながらこの結界に関しては、どちらかと言うと強制力で使役しているという類だ」

「無理やり言うこと聞かせてる、と」

 こくりと、少女の首が小さく縦に動いた。

 ここにきて、ようやく目の前で起きていることの全貌がぼんやりと見えてきた。

「つまり、今そこにいる……って、あたしには見えないんだけど、そいつは四百年いやいや言うこと聞かされて壁をやらされて、たまりにたまった鬱憤満載の精霊、ってこと?」

「それも、結界を張るときにかなり大規模な術式を用いたようで、この森はおろか、周辺地域の精霊たちもその影響を受けて集まっているようなのだよ」

「おもっきし恨み骨髄じゃないか」

 向けられた敵意は寒気がするほどに濃厚だ。それは、精霊だの人間だのという枠を超えて、本能に直接突き刺さる嫌悪感が物語っていた。

 どうやら自分の敵は四百年にわたって閉じ込められていた魔女の方ではなく、閉じ込めていた結界の方だったらしい。

「四百年という時間は、精霊にとっても決して短い時間ではなかったようですね」

「いや、あっさり言うけどさ、やばくないかこれ?」

 淡々と語る老女に対して、ガーネットは見たことも聞いたこともない大ピンチに、今にもヒステリーを起こしそうなほどだ。

「ええ、やばいですね。これほどの密度ともなれば森一つ腐り果てさせても恨みが消えることはないでしょう」

 もはや想像の範疇をはるかに超える規模だ。

「あいつが森を腐らせて森がどうにかなった後、どうなるんだ?」

 もはや聞くまでもないような気もしたが、それでも万が一ということもある。その万が一にすがるようにガーネットは老女の済んだ瞳を見つめ、

「どう、とおっしゃられても、どうにもなりません」

 ほっと胸をなでおろし、

「恨みが晴れるまで何もかもを腐らせ続けるでしょう。精霊とはその土地を司り守る、いわば土地の守護者であり土地の生命そのものです。それが淀み、恨み、呪うということはそういうことです。そうならないためにこの者に細かい精霊を駆除、封印させていたのですが」

 小さい木偶人形がガーネットの元を訪れたのは、どうやらそういう理由らしい。

「もちろん土地に限らず、人も、それこそ生きとし生けるものがその影響下にあるのですから、もれなく被害を受けます」

 頭上からの老女の声は変わらず穏やかで、さすがは魔女だと皮肉交じりに苦笑いを浮かべ

「っ!」

 落っこちてきた考えは、神の啓示かはたまた狂気の果ての辿り着いた悪魔の言葉か。

 どちらにせよ、今のガーネットにはその正気を疑われるような妄想以外によりどころはない。

 目の前にいるのが魔女であるという、ある意味での奇跡に。

「なあ、あんた魔女なんだろ。だったら」

 その強大な魔女の力で精霊をやっつける、そう考えたくなるのが人の常。なのだが、

「いえ、違います」

「そっすか」

 最後の一手は、打つ前に完膚なきまでに潰えた。

 ここにきてまさかの、一番肝心の、魔女の不在が確定した。

「まじ、か……は、はは、だよな。ないよな、魔女なんて……いるわきゃないよな……ははは」

 あほっぽく半開きになった口からはとめどなく力ない笑いが漏れる。自分でもだらしなく締まりのない顔をしているのがわかるほどだったが、もはやそんなこともどうでもよくなっていた。ちょっとだけ壊れたのかもしれない。けれど、おかげで何かがふっ切れたらしかった。

 下草にこすりつけんばかりだった額を持ちあげ、その勢いで体を起こして立ち上がる。

 視線の先にはもはや目をこらさずともはっきりとその存在が確認できる精霊が、壁のように立ちはだかっている。どうやら固体と液体の中間のようなドロドロとしたものが泥の山のようになっているようなのだが、そんなものが意思を持って蠢いているなんて、生理的な許容量をはるかに超えた気持ち悪さだ。先ほどまでは向こう側がうっすら透けていたというのに、今では淀んだ紫色の体色のせいで日の光を遮って影まで作り出している。

「うわぁ……帰りてー」

 だったら逃げてしまえばいいようなものだが、それでもガーネットは化け物に向かって剣を構えることを選んだ。

 彼女をそうさせたのは、騎士としての意地か人間の尊厳か、それともただのヤケクソか。

 いずれにせよ、一つだけ彼女に関して言えることがあるとするなら、ひねくれた口ぶりに反して、心根の根っこのそのまた根本は善人であるらしい。

 加えてもう一つ。

「どうせ死にゃしないし、ちょうどいいや」

 達観とも違う、諦観とは程遠い、どこか確信にも似た面持ちでガーネットは呟いた。

「あんたたちはさっさと逃げろ。ここはあたしが時間稼いでやるから」

 いつの間にか老女と少女だけではなく、木偶人形の方も人数に加えていることに気がついた。

「しかし、それではあなたが」

 腰だめに剣を構え、ジワリと移動する。老女たちから距離をとり、化け物の注意をこちらに引きつけるために。

「あたしは、なんつーか……死なないから」

 フクロウの巣からも遠ざかるように動いたのは、必死に巣を守ろうと立ち向かう小さな翼が目に入ったからだ。

「あ~あ、こんなとこに何しに来たんだよあたし」

 失笑とも苦笑ともつかない笑みが口の端から漏れたところで、最後の覚悟が決まった。

「おら化けもん! さっきはよくも乙女の寝床に夜這いかけやがったな! あたしの美肌触った代金、命で払ってけ!」

 果たしてそいつに命なんてものがあるのか、あったとしてこの鉄の棒きれでぶった切ったところで奪えるのかなんて想像もつかないが、とりあえず精霊の注意をひきつけることには成功したらしい。いつの間にか小屋ほどの大きさにまで膨れ上がったそいつは、たぶん、こっちを見ている。そいつに目はなくても、うなじに走ったどうしようもない寒気でそう確信できた。

 ズルリ、とゼリー状の巨体が裾を引きずるようにしてこちらに向いて移動する。見れば、その体の触れた場所の草花は枯れ、腐り、崩れ落ちていた。

「きっしょ!」

 こみ上げる酸っぱいものを胃の奥に押し込めて、最速の踏み込みと同時に横一閃。

 蹴りをぶちこまれたような衝撃に踏み込んだ足元の下草は舞い上がり、土はえぐれ、放たれた一撃はその軌跡に触れるだけで両断されかねない見事なものだった。だったのだが、

「くっそ。やっぱきついか」

 手の平に残った感触は先般と変わらぬ水でも切ったかのような手ごたえのなさ。

 しかも、振り返って次の一撃のために構えるガーネットの目の前で、今しがた切ったばかりの切り口がずるずると嫌な音を立てて塞がっているではないか。

「いや、そもそも斬れてないってことか。せめて真っ二つにでもできれば……」

 そう思い、先ほどよりも深く腰を落として、もう一度汚物の小山のようなそいつを睨む。

「っても、どうやっても刀身より長いもんは斬れないんだよな」

 当然の理屈である。神話伝承の中にはたったの一振りで無数の斬劇を放つだとか、刀身の何倍もの城やら山やらを真っ二つにしたなんていう達人の話も残されているが、まさかそんなお伽噺を真に受けるほど子供ではないつもりだ。

 そして残念なことに、目の前にいる化け物を両断しようと思えば、少なくとも今の四倍では効かないの長大な剣が必要になる。畢竟、

「そんなもん、もう剣じゃなくてただの鉄板だろ」

 などとうそぶいたところで、手元にあるのは王国騎士団支給のこの長剣一本だけ。神聖教会の加護を受けた剣だとはいうが、形ばかりの儀式で世俗にまみれまくった神官が祈りをささげたそいつに不思議な力が宿っているとは思えない。大抵の敵や厄介事を斬り伏せてきた馴染みの剣も、このときばかりは少々頼りない。すがるようにその柄元に視線を向けて、

「あっぶな!!」

 先ほど斬りつけたときに付着したのだろう。化け物の体液と思しき淀んだ紫色の液体が刀身を伝い、危うく柄にかかりそうになったところで慌ててぶん投げた。

「あ」

 たった一つの武器を。

 剣の落っこちた場所が見る見る腐っていくのを見ると、どうやらあの汚い汁は触れてはいけないものだったらしく、ある意味で九死に一生を得たわけだが、

「やっべ。武器なくなっちゃった」

 拾いに行くにしても剣の周囲は見事に腐り果て、その凶悪さを喧伝していた。土も草も、見たことのない醜悪な色へと変わり果てている。

「かと言って素手であれとやりあうなんてただの自殺だしな……ってか、死ななくても腐るのは嫌だ」

 これを好機ととらえたのかは定かではないが、いつの間にか紫色に着色されていた小山はじわじわとガーネットとの距離を詰めるべくまっすぐに向かってきている。

 片やこちらは相手に触れられれば一発アウトな上に何をどうすれば勝ちになるのかもさっぱり見えない、悪条件のフルコース。後ずさって距離を稼いだところで、背後の森まではもういくらもない。日の光のあるこの場所であればこそ判別できているが、森の薄暗がりではもはや視認することも難しいだろう。

「あの」

 またしても、どうやって移動してきたのかわからない老女が、いきなりすぐ隣に現れた。

「うわぁ! びっくりした!」

 意識を全て化け物に向けていただけに、これには本気でびっくりして声まで上げてしまった。

 これが人間相手の殺し合いだったら確実に自分の首は胴体と別れていただろう。幸いなことに、化け物は特に急ぐ様子もなく同じペースで距離を詰めている。

「何してんの逃げろって言ったでしょ! なのに何でこんな、わざわざ死にに来たような」

 一体何のために自分がこんな目に遭っているのかと怒りすら覚えるガーネットに、老女はまるで我関せずといった様子で告げる。

「少々お話しがございまして」

 ひっぱたいてやろうかと思った。

 が、そこは年長者相手ということでぐっとこらえ、残り少ない理性を振り絞る。

「話ならあとで聞いてやるからとっとそのガキ連れて逃げてくれ! そうすりゃあたしも」

「その、ガキがお話があると」

 ガキの戯言なんてなおのこと聞いてやる余裕はない。こうなったらひっぱたいてでも言うことを聞かせてやろうかと、少女を睨みつけて

「!?」

 背筋が凍りついたかと思った。

 そこに在る少女の瞳を見てしまったから。

 息をするのも忘れるほどの美しく、底の知れぬ深さを湛えた碧い瞳を。

「一応言っておこう。私が魔女だ」

 「あほらしい」そう一言で斬って捨てられなかったのは、その瞳を覗き込んでしまったからだ。その奥にたゆたう『何か』を見つけてしまった瞬間、ゾクリ、とガーネットの胸中に冷たい衝撃が走った。

「あんたが?」

 暴力的なまでの美貌を湛えた一人の女。確かにその美貌はある種の魔法だと言われれば信じたくもなるが、まさかそれでこんな子供を魔女だと信じる者はいないだろう。実際、ガーネットも全く信じてはいなかった。

 この時点では。

「私の名はアリスベル・レインフォール。君たちの言うところの魔女だよ」

「次につまんない冗談言ったら本気でひっぱたくからな」

 こんな状況で聞く冗談は自分でも驚くほど癇に障った。だから本気でひっぱたくつもりだったし、何ならそのために少女、アリスベルの方に向き直りさえした。

「君は面白いね」

 しかし、少女、アリスベルの方はガーネットの発言の方をこそジョークとして受け取ったようで、涼しげに口元を釣り上げると、切れ長な目じりをさらに細めてクスリとほほ笑んだ。

 腹立たしいほどの美貌だった。それこそ、この大ピンチにあってさえうっとりと眺めていたくなるほどには、アリスベルは美しかった。

 しかし、現実はそれを許してはくれない。

「あのさ、もしかしたらあんたらには実感ないかもだけど、けっこう大ピンチなのよ。言っとくけどあたしは、自分の命かけてまであんたら守るほどの立派な騎士道精神もノブレスオブリージュも持ち合わせてない。ガチのマジでやばくなったらケツまくってあんた等ほっぽって逃げるからね」

 半分脅しで半分は本気だった。ただ、この後に続けた一言は自分でもあと後になっても大人げなかったな、とちょっと後悔する。

「それとも、魔女様があのきっしょいのをやっつけてくれるって?」

 子供相手にこんなん挑発まがいの発言をした自分が恥ずかしくなって、正面から少女を見つめる気まずさに負けた。それでも強がりは口をついて出てくるもので、

「わかったらさっさと」

 「うせろ」と言いかけたところに、アリスベルが言葉を重ねた。

「先ほども言ったがあれは森を鎮守する存在でもある。いかに穢れ果てて腐り堕ちていようが、あれを消滅させることはすなわちこの森を含め、土地の命脈を絶つに等しい。さすがにそれは、私としても本意ではない」

 どうやらこちらの話を聞けない子らしい。

「あっそ。じゃああたしはこれで。縁があって命があったらどっかで会うこともあるでしょ」

「そうなのかい? さびしいことを言うじゃないか」

「そう思うならあんたがあれを何とかしなさいよ。でなきゃ森を腐り果てさせるんだろ? それどころか、森から出て街に行き、王都になんて辿り着いた日には」

「怒りや恨みというのは時とともに鎮まるものさ」

 まるで年齢にそぐわない達観した物言いもそうだが、何よりも醜悪な化け物を前にして眉一つ動かさぬ堂々とした佇まいは少女のそれではとてもありえない。

 が、それはそれ。感心しながらもガーネットは応戦する。

「それまでに国が滅んじゃうだろ! あんだけの恨み辛みそうそう消えるとは思えないし!」

「それで何か困るのかね? あれが消滅しない限りはいずれは怒りも静まり、腐った大地も時の流れの中で徐々に蘇る。それではだめなのかね?」

「あたしの帰る場所がなくなっちゃうだろ!」

 即答だった。

 まあ国が残ったところで、果たして命令をこなせなかった自分に帰る場所があるのかという問題は残るが、それはこの際さておいた。

 「ふむ」と小さく唸り、形の綺麗な顎を一度だけ指先でなぞるアリスベルの一挙一動を、ガーネットは息をのんで見守った。

 待つこと一呼吸。

「君の事情は理解した。それに、私にも思うところはある」

 苛立つガーネットを完全に無視して、アリスベルは木偶人形がどこからか持ってきた布のかたまりを受け取り、頷きながら言った。

「これを使おう」

 つぎはぎだらけで、中に綿が入っていると思しき、長さが不ぞろいな手足の生えたそれは、

「ぬい……ぐる、み?」

「クマだよ」

 言われてみればそれっぽい耳がついているが、左右で大きさもついている位置も違う。ついでに言うならボタンを縫いつけられた目の位置も若干高さがあっていない。

 裁縫の心得なんてこれっぽっちもなくて、ボタンつけ一つに四苦八苦するガーネットに言えた義理ではないが、下手くそだった。

「わかった。じゃ、またどっかで、そうね、来世で会いましょ」

 踵を返して走り出そうとしたガーネットだったが、二歩目が踏み出せなかった。

「まあ、見てゆきたまえよ。私としても研究の成果を友人に見せるのはやぶさかではないからね。なに、そんなに待たせはしないさ」

 ユウジン、の音が脳内でちゃんと言葉に変換できずに「こいつは一体何を言っているんだ?」とばかりに視線を向けた先で、ソレは起こった。

「さあ森の精霊よ。結界として使役された憐れなる存在よ。今この場に、我が名において服従という自由を与えよう」

 歌うように紡がれた言葉は、語りかけているのかはたまたその行為自体が何らかの意味を持っているのか、ガーネットには皆目見当はつかなかったが、一つだけわかることがあった。

 その、どこまでも耳に残る美しい声に、心奪われるまでに時間など必要ない。気付けばガーネットは、アリスベルの唇の動き一つも見逃すまいとじっと見入ってしまっていた。

 そのアリスベルが動く。

 手にしていたクマのぬいぐるみをゆっくりと掲げ、再び告げた。

「我が名はアリスベル・レインフォール。我にひれ伏せ。されば我が名のもとに現世の自由と服従の喜びを与えん」

 言い終えると同時にその場を覆い尽くしたのは、天を衝く炎の柱でも、空を裂く稲妻でも、全てを凍てつかせる氷の壁でもなかった。

「光……」

 溢れたのは、麦粒ほどの大きさしかない光の粒だった。それが無数に、この決して狭くはない中庭のような空間に見る間に満ちてゆき、

「化け物が、どんどん光になっていく……」

 茶色とも紫ともつかない醜悪極まる色合いだった化け物の体が、見る間に光の粒になってバラけて舞いあがり、瞬く間に周囲を埋め尽くした。全てが光に代わるのに、瞬き二度ほども時間はかからなかった。

 驚いたのはこれからだった。

「さすがに多いね。これほどの量を集積するとは、よほどの長きにわたって恨みをため込んでいたようだね。では」

 その一言を合図として、周囲を覆い尽くして無秩序に漂っていた粒子に流れが生まれた。

 リズムを合わせるように揺らいでいた粒子は徐々に寄り集まり、うねりとなり、最後には一本の流れとなってゆっくりと頭上を旋回。流れる光の帯は、やがて明確な意思を感じさせる動きで一点を目指して動き始めた。

 ガーネットの掲げ持つ、クマのぬいぐるみに向かって。

「光が……ぬいぐるみに、吸いこまれて」

 それは不思議な光景だった。

 少女の持つぬいぐるみに向かって、大量の光の粒子が流れ込んでゆき、ぬいぐるみはそのいびつに縫われた口で際限なく光の流れを呑みこんでゆく。

 やがて、庭全体を満たすほどだった光の粒子は全てがクマのぬいぐるみの中に呑みこまれ、少々腐ってヘドロになった地面を除けば、残されたのは元通りの穏やかで静かな空間だった。

 まるで始めから何事もなかったかのような静寂の中、ガーネットはただただ茫然とするしかなかった。見るともなく見つめるのは、アリスベルの掲げ持つ不細工なクマのぬいぐるみ。

「どうしたのだね? もう終わったよ」

「一個、聞いていいか?」

「一つと言わず」

「あの光は?」

「精霊を元のアストラル体に還元したので、視覚的にあのように見えたということだよ。彼らは鬱憤を晴らすために疑似的に形而下の肉を作り出していたのでね」

 何一つわからなかった。が、とりあえずあの光は化け物が姿を変えたのものだということが分かったので、今はそれで良しとした。というわけで次。今度はぬいぐるみを指差して。

「じゃさ、今はその精霊は、そん中に閉じ込めてんの?」

「端的に言うとそうなるね。正確には受肉させたので、閉じ込めたというわけではないが、どちらにせよ彼らには形而下での実態を得てもらう必要があったのでね」

「へえ、そうなん」

 「だ」の形に、口が固まった。今一つ話が呑みこめなかったので、見るとはなく件のぬいぐるみに視線を向けたのだが、そこで見てしまった。

「ねえ」

「どうしたのだね? 三つ目の質問かい?」

「じゃなくて、クマの目、やばくない? ボタン、そんな形だっけ?」

 疑問文にしてはいるが、聞くまでもなくやばかった。

 覚えている限りでは何の変哲もない丸い四つ穴のボタンだったはずが、今目の前でこちらに向けられているそれは、明らかに歪に変形していた。細められ、つり上げられたボタンは三日月形になっている。しかも、ただのボタンだと言うのに見つめられるだけで身の毛もよだつほどの悪寒が背筋を走り抜けた。

「彼の内面が表情となって表れているのだろう。早速馴染んでいるようだね」

「いやいやいやいや! その目、って言うか顔立ち、明らかにダメなやつじゃんすっごい恨んでるじゃん呪ってるじゃん!」

「だろうね。彼らの恨み辛みを解決したのではなく、単に肉体を与えただけだからね」

「解決になってねー!」

 むしろ、そんなやばい奴に肉体を与えてしまうなんて事態を悪化させることになりはしないかと気が気ではない。いつの間にかうなじにはべっとりと脂汗が伝っている。

 そんな不安をあざ笑うように、アリスベルはぬいぐるみをガーネットに放ってよこす。

「ちょっ、いきなり何すんのさ」

 さすがに油断していたとはいえ、そこは地獄の訓練をくぐり抜けた騎士だ。ゆるく放物線を描くぬいぐるみをほぼ無意識に片手でキャッチしてしまった。すると、

「うぎゃあ!」

 肺の中身をすべて絞り出すような悲鳴とともに、全力でぬいぐるみをぶん投げた。

 だって、受けっとた瞬間に目があったのだ。

 顔を見たくないからとあえて背中をつかんで向こうを向かせていたというのに、その首がぐるりと回って、あろうことか糸を縫いつけただけの口までつり上げて。

「ひどいことをするね」

「ひどいのはあんただろ! 何だあれ、何で、あんな、首、動いて。口も、口も……ひっ」

 そして次の瞬間、完璧にパニックに陥ったガーネットにとどめが刺された。

「あ、歩い、て」

「それはそうだよ。疑似的とはいえ、命を持っているのだからね」

 もはやガーネットの持つ常識は、ここでは一切通用しないらしいということがようやくながらわかってきた。わかったからといって、それを受け入れられるかどうかは別問題だが。

 もちろん、事態はガーネットの事情なんて待ってはくれない。 

「だが、この肉体であれば触れるものすべて腐らせるということはないよ。ただのぬいぐるみだからね。というわけで」

 完全に現実から置いてけぼりを食っているガーネットをよそに、アリスベルはその白く小さな手のひらをぬいぐるみに向かって突き出し、スラリとした指を開いて、告げた。

「まずは君が腐らせた庭を修復するのだ。そのあとは、この庭を含め森すべてを管理する庭師として従事したまえ。道具は向こうの納屋に一揃いあるはずだ。腐った土は……そうだね、向こうの聖樹の近くにでも撒いておけばいい。あれの浄化作用も手伝って、いくらもしないうちにただの土に戻るだろう」

 何を言ってるんだこいつは、と思った。

(斬るか? いや、しかし斬ったところで……)

 そんな僅かばかりの逡巡が仇となった。

 先に行動を起こしたのはぬいぐるみの方で、不揃いな両手足を動かし歩きだした。

 出遅れに焦りながらも、ガーネットはぬいぐるみの挙動から視線を外さずに、体は引き絞られた矢のように剣に向かってダッシュ。土くれと下草を舞いあがらせながら抜き放った剣を腰だめに構えて、

「ああ、そこもついでに補修しておいてくれるかな?」

 見ると、アリスベルの指先は今自分が剣を抜いたせいで抉れた地面を指していた。

 そしてあろうことか、同じ場所に例の恨み辛み満載の歪んだボタンを向けたぬいぐるみは、こっくりと首を縦に振った。かと思うと、腹立たしいまでの可愛らしい操作で納屋に向かって歩き始めたではないか。

「え……と……」

 その背中を見送るガーネットは、改めて自分のヤル気満載の立ち姿を見下ろして途方にくれた。ばっちり構えられた騎士剣が虚しい。

「どうしたのだね? そのような物騒なものを構えて」

「え、と……いや、もしかしてあのぬいぐるみ相手にラウンドツー、かな、と」

 いまだ構えを解かないのは警戒からではない。単に思考が停止しているせいで固まっているだけだ。

「君は面白いね。だが、だからこそいい」

「私は面白くない。何が起きたのかわかんないし」

「単純な話だよ。肉体を持つ存在というのは必ずその制約を受ける。よって、私はあの精霊たちを受肉させ、その肉体を私のマリオネイトの魔法で操ったというわけだ。肉体は魂の牢獄、とはよくいったものだね。ん? 魂は肉体の奴隷、だったかな? まあ、どちらでもよいが」

「まりおねいと? それ、魔法?」

「わかりやすく言うなら傀儡、対象を意のままに操ることができる魔法と思ってくれていい」

 反則も甚だしい、とは思ったがそもそも魔法なんてものが存在するなら、それ自体が反則のようなものだ。

「何でもありだな」

「何でも、ではないがそれを限りなく何でもに近付けるのが魔道師、君たちの言うところの魔女の役割であり、宿命であり、願望だ」

 何やら大層な物言いだが、今はそこはどうでもいい。ガーネットが気にかけているのは、あくまでもあのぬいぐるみのことだ。

「って……でも、あいつの本性は変わってないんだろ?」

「そうだね。私が操ったのはあくまでも肉体だけだ」

「だったら」

「まあ、どれだけ不満があろうと体を動かして健全に暮らしていれば、いずれ忘れる日も来るだろう」

 あっけらかんとした物言いは、楽観的と言うよりも興味がないだけに見えた。

「四百年分の恨み辛みがそう簡単に晴れるかねえ……」

 とはいってもそれを確かめる術はないし、仮にそうではなかたっとしても、今のガーネットにそれに対抗する術はない。ただただアリスベルの言うこと本当であるのを祈るばかりだ

 「ところで」と切り出したアリスベルは早々にぬいぐるみの背から視線を外してガーネットに向き直った。改めて見ると、幼いながらその美貌は常軌を逸したものだった。

 奇跡的なバランスで配置された顔のパーツはそのことごとくが完璧な造形。紅蓮の炎をはらんだ黄金のようなストロベリーブロンドがそのすべてに幻想的な雰囲気を与えている。

 だから、声をかけられるたびに気後れしてしまうのだが、本人が全くそんなことを意に介さないのでやりにくいことこの上ない。

「先ほど、四百年と言ったね」

「言ったな。さっきあのばあさんにも言ったけど、真偽のほどはあたしにはわからないからな。そう伝わってるってだけだ」

 とは言うものの、

「ま、それも今じゃ怪しいけどな。肝心の魔女がこんな子供なんだから」

 四百年どころか、四年前というのも怪しい。尋常ならざる美貌はさておいて、なにせ目の前の子どもはどう見繕っても十台前半だ。四百歳オーバーのばばあがこの美貌と若さを保っていられるとしたら、世界中の女が狂ったようにこの魔女の元に押し寄せて、アンチエイジングの秘訣を根掘り葉掘り聞きまくるだろう。

「いや、四百年と言うのはおおむね間違ってはいないだろう。それが証拠に、君の衣服や持ち物は私の知るものとは大きくかけ離れている。技術的な発展がめまぐるしいようだね。何より、私の研究も随分と捗った」

「でも、あんた子供じゃん」

「あの結界は時の流れをも封じる程度には強力なものだったようだ。私にとっては好都合だったので体よく利用させてもらったがね。時の流れを気にせずに魔道の研究に没頭できるというのはなかなかに快適だったよ。期限付きだったとは実に惜しかったね」

 どこから突っ込めばいいのか見当もつかなければ、突っ込んだら負けのような気もした。

 でも、どうしてもこれだけは言わなければ気が済まない。

「あんた、歳いくつ?」

「十八で数えるのをやめたよ」

「ウィットにとんだジョークは嫌いじゃないけど、そのなりで十八は無理があるでしょ」

「これは世を忍ぶかりそめの姿だよ。本来の姿では何かと不便が多かったのでね」

 だからといってこれほどの美貌を持った姿に化けるあたり、魔女の思考はわからない。

(わかりたくもないけどね)

「それはいいとして、世界を相手に喧嘩をやらかしていくつもの国を滅ぼしたってほんと?」

「結果的にそうなるね」

 悪びれる様子もなく、さらりと言ってのける。半刻前の自分であれば一笑に伏すどころか、鼻で笑って冗談だと斬って捨てていただろうが、今はその半刻後だ。

 もしこのアリスベルなる人物が、本当に四百年の時を生きた魔女であり、本当に四百年前に世界中の国々と戦争をしたのであれば、おそらく人間側はひとたまりもなかっただろう。

 肉体を操る魔法を使うと言った。そして現に、あの化け物の意思に関係なく言うことをきかせた。それが戦場でどれほど恐ろしいことかは想像するまでもない。

 背中を預けたものに背後から切りつけられ、隣にいる友軍を疑い、上官の命令をすら信じられない。

 軍隊は軍隊としての形を失い、ただただ身内同士で殺し合う。それは、この世界に無数にあるどんな戦場よりも凄惨な場所だったはずだ。

 そう思うと、今自分がやるべきは軍の命令もへったくれもなく、目の前の魔女を切り捨てることではないかという気がする。

 のだが、

(ま、いっか。今さらどうしようもないし)

 抜き放ったままだった剣を、腰の鞘に納めることにした。

「何やら色々と思うところがあるようだが、話を続けてもよいかな?」

「ああ。悪い悪い。話の途中だったな。で、何だっけ? 四百年たったって話だっけ」

 その真偽についてはさておくことにした。色々な前提を疑い出したらきりがない。

「ああ。さすがにそれだけの時がたてば世界も大きく様変わりしている思うのだよ」

「だろうね。たまに昔の資料とか見ることがあるけど、百年前でも別世界って感じだもん」

「そこでだ、そろそろ社会復帰しようと思うのだが、案内を頼めるかな?」

 最初の感想は、「ばっかじゃない?」だった。だって、社会復帰も何も、

「あんた、最初っから社会に所属してないでしょ」

「これはまた痛いところをつかれたね。だが、私はこう思ったのだよ。四百年の長きにわたって魔法を研究した。これに関してはまだまだ余地を残したもので、その鉱脈を掘り尽くしたと思ってはいない」

「そりゃ熱心なことで」

「だが、同時にこうも思うわけだよ。次の段階を目指すには不足はないはずだと」

「ほうほう」

 興味がないのを隠そうともしないガーネットだが、アリスベルはそれを気にするふうでもなく続ける。

「そして、次のステップはこの力を世界のために使うことではないか、とね」

「ウィットにとんだジョークは嫌いじゃないよ」

「君のそういうところは嫌いではないよ。ふむ、やはり私としては君に協力を頼みたいね。君という人間を気に入ったよ」

「笑えないジョークだ。魔女に気にいられるなんて」

 世も末だ、そう言って話を終わらせようとしたところで、

「君の持つその、数奇極まりない運命も含めて」

 息が止まった。もしかしたら、心臓も止まったかもしれない。

「今」

 はらわた全てを握りつぶされるような息苦しさの中、死体のほうがまだ健康的に見える凄惨な表情で、ガーネットは絞り出した。

「なんて」

「何という顔をしているのだね? 私はそんなにおかしなこと言ったかい?」

「や、そうじゃないけど……でも、何で、そんな」

「見ればわかるさ。仮にも私は魔道を志すものだよ。ただ、君のそれは業が深すぎて見通しきれないがね。その」

 細くすらりとした指先が、ガーネットのささやかな胸元に突きたてられる。思わずのけぞって息を呑んだが、こわばった体は驚くほどに動かなかった。

「神をも殺しきるほどの不運と、それを相殺するほどの幸運の同居する運命なんてね」

「何のことやら」

 つくづく魔女の恐ろしさが身にしみた。まさか、そのことを言い当てるなんて。


「つまり、現代において魔女という存在は魔法ともども伝説上のものになり果てている、と」

「そゆこと。わかった?」

 暖炉の炎に照らされた小屋の中は整頓が行き届いており、ここが魔女の住みかだと言われても俄かには信じられないだろう。手にしたカップから立ち上るコーヒーの香りに少しだけ頬を緩めながら、ガーネットは一段落とばかりに肩を落とした。

 アリスベルの住まう小屋に招かれてから一刻ほど。四百年という長きにわたって外界との接点を持たなかった彼女に大まかな世界情勢と歴史観を伝えたところで、ガーネットは肝心の一言を告げた。

「だから、魔法が入り込む余地なんてもうないってわけ」

 世界はエネルギー革命、産業革命と段階を踏んで技術を大きく発展させ、今や錬金術でさえ化学と名を変えて一般化されている

「今さら魔法なんてもちだせば良くて笑い物、最悪は聖教会に異端審問にかけられてこれよ」

 言いながらガーネットは右手の親指で自分の首元を掻き切るジェスチャーをする。

「それだけ科学技術が発展し、文明化しているというのに未だに聖教会が幅を利かせてギロチンでの処刑とは……何ともいびつな発展だね」

 教会信徒に聞かれれば一発で告発され、それこそギロチン直行ものの発言だが、幸いガーネットは敬虔な信徒ではない。むしろ、どちらかと言えばアリスベルの意見に肯定的ですらある。

 が、それはそれ。だからといって魔女の社会復帰に協力なんてできるはずがないしそうする義理もない。なんなら何が何でもこの女が社会に出るのを防ぐことこそが騎士として、いや、それ以前に人としての道義だとさえ思う。

「ってわけだから、今さらあんたが社会復帰なんて言い出しても無理があるってこと。少なくともあたしに手伝えることなんて何一つ」

「ならばなおのこと、興味がわいてきたよ。世界にも、君にも。というわけでバアサ、デクロー、私は少し社会復帰してくるのであとのことは任せ」

「話聞いてた!? ねえ、あたし今、無理って言ったよね?」

 呑みかけのコーヒーを噴き出しそうになりながら慌てて立ち上がると、テーブルを乗り越えて対面のアリスベルに噛みつかんばかりに身を乗り出す。ほんのりと、コーヒーとは違ういい匂いがした。

「大丈夫だよ。何せ私には四百年にわたる魔道研究の蓄積がある。それに、君の話の中にはどうにも気になるところが多々あるのでね、それを調べる必要もあるのだよ」

「今の社会にあんたという存在が必要だとは思えないけどね」

「これは手厳しいね……まあ、もし本当にそうであるなら、私も大人しく隠居生活に戻るのだがね。というわけだ。グーグマのことは頼んだよ、バアサ」

 ちなみにここで言うバアサというのは、最初にガーネットが魔女だと勘違いをした老女のことなのだが、彼女が精巧に造られた人形だと聞かされた今でも、そのことは信じられない。だって、まばたきもすれば呼吸もしているのだ。それが、疑似的な行動で実際には意味のないものだと言われても、そのあまりにも人間じみた動作は外見以上に人間らしい。これも傀儡魔法のたまものだというのだから、改めて魔法というものの底知れなさを思い知らされた。

 片や、デクローというのはガーネットに片腕を切りおとされたあの木偶人形なのだが、何故この二体にこれほどの差があるのかについてはただ一言「バリエーション」とのことだった。バリエーションに富みすぎだ。

 と言うわけで、最後のグーグマが先ほど精霊を中に詰め込んだ四肢の長さがすべてアンバランスなあのクマのぬいぐるみということになるのだが、

「ネーミングセンス、壊滅的だな」

「そうかい? 可愛らしいと思うのだがね」

 どこまで本気なのかもわからないのもあるが、それまでシュールな発言しか出てこなかった口から「かわいい」なる単語がこぼれ落ちたことが今日一番の驚きだった。

(そこを知らなきゃびっくりするほどの美少女なんだけどな)

 そんなことを考えながら、改めてその常軌を逸した美貌を眺めていると、アリスベルはアリスベルで何やらごそごそと荷物をまとめ始めている。

「何してんの?」

「君は何を聞いていたのだね? 私の目的は社会復帰だと今言ったばかりだよ」

「それは聞いた。で?」

「こんなところにいてはそれが成し遂げられないではないか」

「いや、だからさ、何回も言ってるけどいくらあんたの魔法がすごかろうと……ううん、魔法がすごければすごいほど、今の世界のどこを探しても、あんたの居場所なんて」

「それを確かめるためでもあるのだよ。先ほども言った通り、腑に落ちないところがあってね」

 もはや説得の余地などこれっぽっちもないらしい。かといって、ならどうするのが彼女にとっても世界にとっても最善なのかなんて、たかが一騎士でしかないガーネットにわかろうはずもない。

 半ば諦めながら椅子に深く腰掛けて、

「ま、そこまで言うんなら好きにすりゃいいさ。結界張り直せなかった時点であたしにはどうしようもないんだしね」

 ため息交じりにそう告げると、再びカップに手を伸ばす。少し冷めてしまってなお香りが豊潤なのは熟練の焙煎技術のたまものだろう。ゆっくりと濃密な香りを喉奥で味わい、

「あたしには関係ない」

 言い切った。

「連れないことを言うね。私としてはぜひ君に手伝ってもらいたい、なんとすれば目標達成後も君とは良好な関係でいたいのだがね」

 先ほど出会ったばかりの自分にどうしてここまで執着するのかは疑問の残るところだが、敢えてその辺は深く考えずに、ガーネットはにべもなく言い放つ。

「あたしにその義理はないよ」

 確かに結界の張り直しに失敗したが、そこはそれ。そのあとの責任まで押しつけられるなんてまっぴらだ。

「ま、あんたが魔女だってわかれば王都あたりに行けば相手してくれる人間がいやでも湧いてくるよ。ごまんとね。そしたらそいつらに頼んで」

「聞けば、君は職を失う瀬戸際にいると言うことではないか」

 表情には出さなかったと思う。口元も、カップで隠れていたので見られてはいないはずだ。

「へ、へえ。初耳だ」

 少し声が上ずったかもしれないが、これも許容範囲だ。問題なのは、カップを持つ手が小刻みに震え始めていることぐらいだろうか。

「それに、仮にあたしが無職になるとして、それがあんたの社会復帰がどう関係するのさ?」

 そう。無関係だ。

「それにまだ、無職になるって決まったわけじゃ」

「この中から路銀として使った残りを」

 ドヂャっ、という重々しい金属音にほぼ無意識に視線を吸い寄せられるとそこには、アリスベルの命令でデクローが持ってきた一抱えほどの布袋がテーブルの上に置かれていた。

「君への報酬にしてもらいたいのだが、これでは足しにもならないのだろうか?」

 袋からこぼれ出したのは、金貨だった。

「にゃ……ふぇっ?」

 金貨だけではない。袋が少し傾き、ゆるく縛られていたただけの口から次々に溢れだした中には、数え切れない宝石も混じっていた。水晶や紅玉、翠玉から金剛石とバラエティに富んでいることもさることながら、そのどれもが国宝級の大きさと見事な輝きを放っている。

 こういう金銀宝石に縁のない人生を歩んできたガーネットでさえも、目の前に広げられた財宝が人の人生を狂わせるに十分な価値を持つことぐらいは即座に理解できた。

(ここから、路銀を引いた、残り?)

 路銀など、それこそ金貨数枚もあれば王都までの列車を貸し切りにして釣りがくるというのに、その残りとなれば実質目の前のすべてということになる。どう少なく見積もってもガーネットが残りの人生を騎士として稼ぐ給料など足元にも及ばない、莫大な財産だ。

「この時代でもこのようなものが価値を持つのかどうかはわからないので、無礼であったなら謝罪はする。だが、私に支払えるもので持ち運べる範囲でとなると、この程度になってしまう」

「この、程度って……これ、って」

「ん? ああ、こうした貴石の類は魔道研究の過程で生成されたものもあれば、貢物として提供されたものも含まれててね、溜まる一方なのだよ。要らないものを押しつけられているようで不快かもしれないが、以前は時代や国を問わずそれなりに価値を認められて」

「え? 魔法ってこんなの作れるの?」

 気がつけば鼻の頭がくっつくほどの距離で、ガーネットはアリスベルに詰め寄っていた。

 さしものアリスベルもいきなりのこの距離間には面食らったのか、それまで何があっても崩さなかった余裕の笑みはなりを潜め、驚いたように目を見開いている。

「近いぞ、ガーネット君。一体どうしたのだね?」

 しかし、ガーネットはその問いには答えず、テーブルの上に身を乗り出してぐいぐいと距離を詰める。かたやアリスベルは、ガーネットの突然の豹変に戸惑いを隠せずに後ずさっている始末だ。

「一応言っとくけど。私の失職はまだ決まったわけじゃない。それに、金に目がくらんだわけでもない」

 嘘だった。

「ただ、やっぱり思うわけ。あんたが本当に四百年前に戦争をやらかした魔女だってんなら、それを野に放っちゃいけないって」

 それは嘘じゃない。

「だから、あたしがきちんと監視するべきなんじゃあ、って」

 嘘だった。

「もっかい言うけど、金に目がくらんだわけじゃないからね」

 嘘だった。思いっきりくらんだ。何なら余生を力の限り遊んで暮らすことまで想像した。

 鼻息荒く、ちょっと鼻の穴の広がったガーネットの肩を軽く押し戻し、アリスベルはそれまでと変わらぬ余裕に満ちた笑みを浮かべた。

「交渉成立、だね」

 相変わらず外見の幼さには全く似つかわしくない表情の作り方だったが、しかし彼女の態度には実にマッチしていた。おそらく彼女の本当の姿というのは、こうした表情や口ぶりが似合う人物なのだろうという想像とともに。

(だとしたら、そ~と~陰険な顔してそうだな)

 思い描いたのは、お伽噺の絵本に出てくるような鷲鼻のシワシワ老婆。多分笑い声は「い~っひっひ」だ。

 と、そんな妄想をするガーネットをよそに、さっさと準備を終えてしまったらしいアリスベルは、小さな肩掛けカバンをひょいとたすき掛けにすると、

「では早速出立するとしようか。君の荷物は、その背嚢だけで良いのかな?」

 いつの間に指示したのか、グーグマが持ってきた背嚢を指差している。

 まだ何かこのクマには慣れないけど今はそれより、

「いやいや、出発って、もう日も暮れかかってるし、出るなら明日だよ」

 窓の外の空は既に橙色を帯び始めている。もういくらもしないうちに、東の方から夜の濃紺が染み出してくるだろう。

「何故だね?」

「え? 何故?」

 何言ってんだこいつ、という顔をお互いに向けあう。

「いやいやいやいや、だって、今から出たってすぐに野営の準備しなきゃだし、そうなれば一食、ううん、明日の朝も入れて二食も余分に必要になる」

 単純計算で移動には往路と同じだけの時間が必要だ。となれば、少なくとも一泊は野宿することになるのだが、その回数を敢えて増やすのは愚の骨頂だった。持って歩けないわけではないが、極力そのような無駄は省くのが常道だ。何より、

「あたし、昨日も野宿だし」

 何を言わんとするのかを察しろ、とばかりにじっと見つめるが、アリスベルの顔立ちが整い過ぎていて、見ている方が照れくさくなる。厄介だ。

 「ふむ」としばらく考えるようなしぐさを見せたアリスベルは、やがてゆっくりと首を縦に振る。どうやら察してくれたらしい。

「では、尚のこと急がなければ」

「わかっちゃいねー!」

 まさかの展開に頭を抱えたガーネットはそのまま頭突き同然にテーブルに突っ伏した。おでこの痛みがなければ理性を保てなかったかもしれない。

「何がだね?」

「何が「何がだね?」だよ。あたしは、ふかふかのベッドで寝たいの。わかる? あたしの足でもあの森を抜けるのに一日半かかったのよ? 今から出てわざわざ一泊余分に増やすなんて、それこそバカでしょバカじゃないの何なのバカなの?」

 勢いのままに捲し立てたせいで最後に包み隠さぬ本音が飛び出してしまったが、後悔はしていない。むしろ、これで交渉が決裂すっるならそれでもいいとさえ思った。だって背中が痛い。

 嵐のような剣幕から一変、静まり返った小屋の中には暖炉で炎が爆ぜる音だけが響き渡る。

 きょとんとこちらを見つめるアリスベルはどこまでも無表情で、果たしてこちらの言葉が通じたのかどうかは怪しかったが、石のような沈黙を勝手に承諾と解釈して話を進める。こういうのは押し切った者勝ちだ。

「わかってくれたみたいで良かったわ。ってわけだから、今日はとっとと休んで明日は早めに」

「と、君の話を聞いている間に準備が整ったようだよ。さあ、行こう」

 ぶち殺してやろうかと思った。

 思わず腰に手をやったが、剣は外して背嚢と一緒に置いてあったのを思い出した。多分、手元にあれば間違いなく抜き放っていただろう。大人げないとは言ってやるな。

「だからあのさ、何をどうすれば今の話を聞いてすぐに出発なんてことに」

 怒りにこめかみを引くつかせるガーネットをよそに、アリスベルはぴょこんと椅子から飛び降りるとさっさと歩きだし、扉をあけて出て行ってしまった。

 もはや交渉の余地なしとあきれ果てたガーネットは、盛大なため息とともにその小さな背中を追って戸口に向かって歩きだす。

(まあ、莫大な財産が手に入るんだと思えば、一泊余分に野宿するぐらいはやむなしか)

 などと、自分に言い聞かせながら、頭の中で行程と食糧の配分を考え始めていた。人生において肝心なのは妥協と諦めだと、何度となく肝に銘じてきたことを今一度、深く刻みつける。

「言っとくけど、あんたの分の荷物は自分で持っ、てきな……さ、い……」

 刻み付けた瞬間にその金言が消し飛ぶなんて経験をするとは、思ってもみなかったが

「何をしているのだね?」

 遙か頭上から降り注ぐアリスベルの声に、ガーネットは改めて理解した。自分の浅はかさ、常識というものが決して盤石ではないこともさることながら、それ以上に強烈に、

「早く君も自分の荷物を持ってきたまえ」

 アリスベル・レインフォールが魔女であることを。

 そこにいたのは、巨大な鳥だった。

 大型の馬よりもさらに二回りほど巨大なそいつは、翼を広げれば小さな家ほどの大きさはあるだろう。

 ちゃんと見ればそれが精巧に作られた木製の模型であることは一目瞭然だったのだが、今のガーネットにはそんな余裕はなかったし、そんなことはどうでもよかった。

 鳥の背にまたがったアリスベルが、小屋の中の下僕に向かって指示をとばす。

「急がねば日が暮れてしまうよ。グーグマ、彼女の荷物を」

 もはや議論の余地はなかった。

 ガーネットが背嚢と剣を受け取ったのを確認すると、アリスベルはにたりとほくそ笑むように口端を釣り上げる。

「では行こうか」

 アリスベルの言葉を合図に模型の鳥はゆったりと翼を広げ、本物の鳥さながらに羽ばたいた。

「まじか」

 かと思うと、嵐のごとき爆風を引き起こしながらその巨体が舞い上がり、

「うぇあ!」

「生憎、背には一人しか乗れないので少々辛抱してくれたまえ。なに、すぐだ」

 ガーネットの頭上にまで浮き上がったかと思うと、肩口をがっちりつかまれた。けっこうな力なのだが痛みは気にならなかった。

「と、と、とんでるううううう!」

 茜色に染まった空に、絶叫がこだまする。


「生きてる」

 未だぼやけた頭とほとんど開かない瞼の向こうに、辛うじて朝日の輝きを感じる。

 ただそれだけのことなのに、まさか目覚め一発、開口一番でこんな一言が口をついて出るとは思ってもみなかった。

 でも、それ以外の言葉が見つからないのも事実だった。なにせ、

「おはよう。昨夜はよく眠れたかね?」

 こいつがいるから。

「夢も見てないぐらいだから、よく寝たと思うよ。っていうか、全部夢だったらよかったのに」

 眠る直前に途切れた意識はそのまま目覚めの瞬間に直結している。まどろんだ記憶すらない。

「それはよかった」

 すぐ隣でこちらを覗きこむ顔がほころぶと、いつもなら半刻はぐずっていないと開かない目が一気に見開かれた。それどころか、直視していられずに思わず寝返りを打ってそっぽを向いてしまう。

 それほどの美貌だった。起きぬけだというのに動悸までする始末だ。

「ってか、あんたも眠るんだね。魔女なのに」

 同性の、それも自分よりもずっと年下の子供相手にどぎまぎしてしまったのを隠すように、ガーネットはぶっきらぼうに言い放つ。

「魔女とて人間だよ。睡眠もとれば食事もとればトイレにもいくし風呂にも入る」

「あっそ」

「もちろん恋もする」

「それは嘘だ」

 自信を持って言い切った。そうであるはずがない。そんなことはあってはならない、とまでは思わなかったが、目の前のこの超然とした存在がそんな俗事にかかずらうのがどうしても想像できなかった。

「ひどいことを言うね」

「知らん。それより、なに? あたし、朝弱いんだけど」

「それはわかるのだが、おかみができるだけ早めに出て欲しいとわざわざ告げに来たのでね、それを伝えておこうと思っただけだよ」

 「あ~」と間抜けな声をもらしながら、それまで全く現状を把握できなかったガーネットはようやく自分の置かれた状況を思い出した。

「そか。ここ、物置だって言ってたな」

 横になったままぐるりと首と目玉だけを動かして周囲を見回すと、そこは大の大人なら二人横になるだけで手狭になるようなちっぽけな空間だった。明かりとりには小さすぎる窓と、いささか埃っぽい空気は、確かに人の住まう部屋のそれではない。

 それでも、とガーネットは自分がくるまっている毛布と、お世辞にもふかふかとは言い難いマットレスの感触を確かめながら思った。

「まあ、ほんとに寝るだけだったし、十分だったな」

「食堂も兼ねているので、朝食が要り用なら使うといい、とも言っていたよ」

「そういや、チェックインしたときにそんなことも言ってたな」

 あのときはそれどころではなかったので適当に聞き流していたが、きちんとした睡眠をとった今、改めて昨晩の出来事を思い返し、再びぼそりと呟いた。 

「あたし、よく生きてたな」


 鼻水をたらして凍えながら、見上げた空は辛うじて夕暮れの余韻を残していた。

「では宿を探そうか」

 生きていることが不思議なほどの体験。まだふわふわと、三半規管があやしい。

「本気で死ぬかと思った。ってか、死んでないよね?」

 ガーネットは、自分が生きているという自覚がどうしても持てないでいた。

 それはそうだろう。まさか、自分がほぼ二日間かけて歩いた道程をたったの半刻ほどで、それも空を飛んで移動したとなれば現実味なんて地平線の彼方だ。この世界が実は球体なのだと、まさか自らの目で確認する日が来るとは思ってもみなかった。

 と同時に、

「鳥に捕食される虫の気分も同時に味わうなんて、悪夢だ」

「現実だよ」

 最も現実から遠いところにいる奴に言われても説得力はない。

 とはいえ、視線を落とせば石畳の道路はガス灯に照らされ、紛れもなく街まで帰ってきたのだと実感させられる。家々の窓から漏れる暖かな明かりには、その中で交わされる談笑の声までが感じられそうだ。。

「ふむ……これは確かに、君の助言通りに少し離れたところに降りておいて正解だったね」

 街の発展ぶりに、アリスベルは感嘆の声を漏らして、三歩歩いては物珍しそうにきょろきょろして、五歩歩いては立ち止まってどうでもいいものをじっくりと眺めている。

「技術の進歩は想像以上だが……やけに騒がしいね。あの大きな建物は?」

 抜け殻のように怪しい足取りだったガーネットだが、アリスベルのその質問にようやく意識が現実に帰ってきた。それもそのはずで、

「ああ、駅よ。一昨日の朝、汽車が駅舎に突っ込んで……ああ、汽車ってのは一度にたくさんの人や物を運べる長ーい馬車見たいのものよ。馬が引くわけじゃないけど」

 その視線の先には、先の列車事故の影響で未だ混乱の渦中にある駅舎があった。規制線が引かれ、人の出入りが制限されたおかげで混乱こそ収まっているようだが、その余波は未だ街に異様な雰囲気を垂れ流していた。

「ま、おっきな事故があって、そのせいでまだ混乱してるってこと」

 とりあえず自分がその生還者であることは伏せておいた。

(わざわざ言わなくてもどうせすぐばれるし。それに……)

 と、そこで敢えて思考を断ち切った。厄介事というのはいつの時代、どこであっても棚上げ策送りしたいのが人情というものだ。

「ほう。大量輸送の手段としてそのようなものが発明されるにいたったというわけだね。ちなみに馬が引かないと言ったが、動力は何なんだい?」

 どうやら興味は事故そのものよりも列車の方に有るらしい。

「石炭らしい。あたしもちゃんと知らないけど」

 本当はもう少し詳しく知ってはいるのだが、きちんと人に説明できるほどの知識があるわけではないので敢えて有耶無耶にしておいた。ましてや相手はこの四百年も俗世間に触れていない存在だ。そもそもベースになる常識が違いすぎる。

 なのに、

「ふむ……ということは、蒸気機関の実用レベルはかなりの水準というわけだね」

 驚愕の回答だった。

「わかんの?」

「推測だがね」

 ぞっと、背筋に冷たいものが走った。単純に知っているということよりも、今の少ない会話から限りなく正解に近い理論に辿り着いたというその思考速度には、恐怖すら覚える。

「あんた、ほんとに四百年あの中にいたの?」

 不毛だとわかっていたとしても、聞かずにはいられない。

「基本的にはね。何度か森外れの集落まで出向くことはあったが」

「ほんっと、自分の仕事があほらしくなるわ。結界、マジで無意味じゃん」

「そんなことはないよ。私にとっては実に有意義だったよ。結界内の時を止めてくれるなんてね。また時が来れば、あの結界を再構築して中にこもりたいものだよ」

「あーそうしてくれ。できれば今すぐそうしてくれ、んで今度は四百年と言わず何千年でも何万年でも引きこもってくれ」

「生憎、今の私は社会復帰に俄然意欲的なのだよ。それに、新たなステージに進むにはこの四百年の蓄積を実践し、その結果を得ることが何より重要なのでね」

「へーへー。それよか宿探し手伝いなさいよね。街まできても宿がなきゃ結局野宿なんだから」

 もはやアリスベルの社会復帰に関しては議論するのもあほらしくなったのか、持ち前の妥協と諦めの精神でスルーしたガーネットは、当面の問題に向き合うことにした。

「私は一向に構わないが。それよりも興味深いのは」

「言ったと思うけど、あたしがいやなの。いい、宿の確保が最優先事項。それさえ済めばあんたの疑問でも好奇心でも実験助手でも何でも受け付けてあげるから」

 返事は待たなかった。

 そこからはひたすら宿を探し歩くことに徹した。アリスベルもガーネットの意図を汲んだのか、特に脚を止めることもなく黙って隣を歩いていた。時折物珍しげに何かに視線を奪われることもあったが、質問が飛んでくることはなかった。

 そうして練り歩くことしばらく。

「嘘だろ」

 ガーネットの乾いた声には、絶望のため息すら混じっていた。

 本来であれば少ない宿泊客を相手に呼び込みをしてまで確保しなければならない程度の街だというのに、今に限っては列車事故で足止めを食らった連中が寝床を求めて宿という宿に殺到し、街中の宿が満室という有様だった。

 もはや野宿もやむなしかと半ば諦め気味に、それでも諦めきれずに街の隅々を歩きまわったガーネットは、とうとう最後の一軒を前にグッと拳を握っていた。、

「これがラストチャンス」

 思い詰めた表情は命を賭けた決闘に向かう武道家のごとし。

 眉間にしわを寄せ、祈るように一度だけ天を仰ぐと既に夕焼けの橙は空の端に追いやられ、紫から夜の黒に向かう鮮やかなグラデーションが映し出されていた。

 スイング式のドアを押し開け、

「泊り? 食事? 泊りなら悪いけど今日はもう満室なんだよ」

 瞬殺だった。

 従業員と思しき若い男は、日ごろであれば絶対に見せないぶっきらぼうな物言いで言い放つと、両手に持ったジョッキを近場のテーブルに提供し、あわただしく厨房の奥に消えて行った。

 清々しいまでの敗北に、しばらくは何をすることもできずにただ茫然と立ち尽くしていたのもつかの間。目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んで、同じぐらいゆっくりと吐き出してようやく冷静さを取り戻す。

「まあ、しゃーないか。アリスベル」

「わかっているよ。この場にいる他の宿泊客を私の魔法で」

「するんじゃない! 絶対にするな! しようと思うのもダメだ!」

 思わず声を荒らげてしまったせいで、食堂にいた客の視線全てがガーネットに向けられた。

 と思ったのは一瞬で、次の瞬間にはその視線はもれなくすぐ隣の存在に、半ば無条件に吸い寄せられていた。

 祭りのようなざわめきに溢れていた空間が、水を打ったような静寂に包まれた。

「あ~」

 何が起きたのかは、考えるまでもなかった。理解していないのは、その異常事態の中心であるアリスベル本人のみ。

「ん? どうしたというのだね?」

 コトリ、と小首をかしげる仕草は嫉妬を覚えるほどにコケティッシュだ。

「激しい嫉妬と自己嫌悪にまみれてる、ってとこだね」

「ふむ……言っておくが、私はまだ何の魔法も使ってはいないよ」

「わかってるからモヤモヤしてんのよ」

 わかってはいたことだが、ここまで目立ってしまうのは本意ではない。しかもそれが魔女であるというアイデンティティではなく、その美貌でとくれば、同じ女としてどろりとした感情も芽生えようというもの。しかしそれはそれ。万が一にもアリスベルが魔女であることが知れれば、それこそ身の破滅だ。今はあらゆる可能性を排除しなければならない。というわけで、

「行くよ、アリスベル。長居は無用だ。これ以上時間食ってたら野宿する場所も」

 小さな手を引いて踵を返したその背中に、野太い声がかけられた。

「あんたら、泊るとこ探してんのかい?」


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