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悪役役者は退場しない

作者: 秕 かなえ

「それでよく役者なんて名乗れたな」


 その時、葛原ヨタカの口からいつものような暴言が出なかったのは、唐突に前世の記憶が戻った衝撃のせいだった。



 撮影現場である古びた洋館は、水を打ったように静まり返っていた。三十人近いスタッフの視線の先には、十代後半の青年が三人いる。一人は憑依型役者として人気を博している九重シュウ。隣でぎょっと目を見開いているのは、最近売り出し中の若手アイドルの藤代伊織。

 そして、大手プロダクション社長の父親のコネで仕事を得ている葛原だった。


 三人は来春公開される映画の撮影を行っていた。

 筆を折った若き天才作曲家が、ピアニストを目指す青年と出会ったことで再び歩み出す物語である。作曲家は九重、ピアニスト志望の青年は藤代が演じ、葛原は作曲家が筆を折る原因となった故人の役だった。

 国内外で評価を得ている九重と、オーディションで役を掴み取った藤代は、リテイクも少なく演技をこなしていった。しかし、葛原は何度も演技を間違えては、何度もリテイクを重ねていた。それも、わざと下手に演技していることが分かるような出来だった。


 昨日言い争った藤代への嫌がらせだと、現場にいる誰もが理解していた。それでも今回の映画のスポンサーは、葛原の父親が親しくしている社長の会社だ。少し演技指示を出すだけでも機嫌を害する葛原に、「真面目に演じてくれ」などと言える者はいなかった。

 藤代が昨日の出来事を謝罪しても知らんぷり、その癖わざとセリフを間違えては「藤代が変な演技するから」と笑いながら言う始末。

 ついに葛原の演技に我慢できなくなった九重が、普段の飄々とした表情から感情だけを削ぎ落した顔で、葛原に本音をぶつけたのだ。



 現場は痛いほどの静寂に包まれていた。目を瞠ったまま硬直している葛原がいつ罵声を上げるのかと、スタッフたちは息を潜めたまま三人を見つめている。

 藤代は可愛らしい顔立ちを青褪めさせ、慌てて九重の袖を引いた。


「ちょっと、九重さ」

「いくらコネで仕事を取ってるからって、よくそのレベルで映画に出演しようと思えたな。それとも自分が下手だって自覚もないのか?」

「待ってください、それ以上はダメですってば九重さん!」

「君が演じるくらいなら、君の役はいらない。オレの演技とカメラワークで名坂がいるように見せられる。声はあとで他の役者に入れてもらえばいい。監督もそれでいいだろ?」


 九重の問いは、指示と変わらない語気の強さだった。

 誰にでも良い顔をすると有名の若手男性監督は、九重と葛原の間に視線を行き来させるばかりで、決定を出せないまま。九重は黙り込んでいる葛原を笑顔で睨みつけ、吐き捨てるように言う。


「だから、もう帰ってくれるか?」


 強風が吹きつけた木製の窓枠が、震えるように音を立てる。

 葛原が小さく息を吸ったのを見て、慌ててイスから飛び上がった監督が葛原に駆け寄り、猫なで声で話しかける。


「く、葛原くん、九重くんは憑依型でね、今は役に引っ張られているからあんなことを言ってるだけなんだよ! 東崎は口が悪いキャラだ、実際にいたらちょっと怖いくらいに! だからお父様には、」

「監督」

「はい!」

「もう一度お願いします」


 「え?」と漏らしたのが誰か区別がつかないほど、その場にいた全員が目を丸くした。葛原は監督が持っていた台本を手に取り、撮影していたシーンのページをじっと読み込んでいく。

 九重と藤代は顔を見合わせ、再び葛原の異様な姿へと目を向けた。


 ヘアメイクの女性が、おそるおそる葛原の髪を整え終えると、葛原も台本を置いて立ち位置へと戻った。表情はどこかぼうっとしてさえ見えたが、雰囲気は先ほどまでとはまるで違った。演じる名坂のように、静謐で淡い存在感が漂っていた。

 そんな葛原を数秒瞠った目で見つめたあと、九重は深呼吸を重ねて気持ちを切り替えていった。まだフレーム外にいる藤代も、困惑した雰囲気を滲ませつつも表情を整えていく。


 そして、現場は再び静けさに包まれた。

 副監督がカチンコを鳴らすと、葛原の双眸が向かい合っている九重をとらえる。その動きはけぶるような情緒を孕んでいた。


「『僕は、君の曲が何より嫌いだった』」


 静かな声だった。それでいて、奇妙な奥行きの深さを感じさせる声だった。

 葛原の演じる元ピアニストの名坂はすでに死んでおり、九重が演じる作曲家の東崎にのみ見える亡霊という設定だ。東崎は名坂が自分のせいで自殺したと思っているため、名坂の描写にも罪悪感から生み出されたセリフが多い。


 九重はショックを受けたような、しかしすでに分かり切っていたような表情で、名坂の亡霊を見つめる。


「『出会った時から疎ましく思っていたよ。僕がどれだけ心血を注いでも、君のお遊びにピアノにすら手が届かない。努力が足りたいのか、練習方法が悪いのか、指の関節の硬さが問題なのか。君と何が違うのか毎夜考えた』」

「『名坂……』」

「『答えは明白だ。僕は、君じゃない。東崎豊じゃない』」

「『っ! そんなもの、』」

「『君のピアノは海のように青々しかった。……僕を飲み込む深い青色。僕が追い求めた、奇跡の音』」


 ゆっくりと瞬きをした葛原の横顔は、名坂が深淵から蘇ったような暗さを纏わせていた。元々色白である東崎の顔からは血の気が引き、唇がかすかに震えている。


「『だから僕は、生きてなんていけなかった』」


 名坂の唇から吐き出された言葉は、東崎の胸へ突き刺さるナイフのようだった。まるで時が止まっているかのように空気が凍てつき、音が消えた。ふらりと右足を後ずらせた東崎の瞳は、衝撃のあまり青褪めているように感じさせた。

 空気はまさしく二人の世界であり、一切の雑音も許されないような光景だった。それに怯まない藤代が、廊下から駆けてきたように装いつつ一人で立っている東崎に声をかけ、シーンは終わる。


 唖然としていた監督が一瞬遅れてカットの声をかけた。葛原がふーっと深い息を吐き出し、表情を緩めると、ようやく周囲のスタッフたちが「すごい!」「本当に名坂がいるみたいでしたよ!」と口々に称賛していく。

 突然九重に抱き疲れた葛原が、「ぐえっ」とカエルのような声を漏らした。


「最高だな、君! そんな演技ができるのに何で隠してたんだ? ああ、オレの実力を試したのか。御眼鏡に適ったようで何よりだ。さっきは悪かった、撮影を続けよう!」


 葛原の背中を陽気に叩きながら言う九重に、藤代はまだ戸惑った様子で「九重さん、叩きすぎですよ」と苦笑した。若手監督も「いやぁ二人とも最高の演技だったよ!」と、安堵を溢れさせた満面の笑みを浮かべている。


 感動も冷めやらぬ空気のまま、次のシーンの撮影準備のためスタッフたちが動き出し始める。撮影が開始された昨日とはまるで違い、明るい雰囲気に変わった撮影現場の中、葛原は緑茶の紙コップを受け取りながら思った。


(……で、ここどこだ?)




 『スポットライト・アクターズ』は、芸能界を舞台としたブロマンスゲームである。

 主人公である藤代伊織は、友人の頼みで一緒にエキストラ参加した撮影で才能を見出され、アイドル俳優としてデビューすることになった高校生だ。彼を中心に様々なアイドルや役者が登場し、数々のトラブルに立ち向かいながら友情を深めていくストーリーである。

 葛原ヨタカは、『スポットライト・アクターズ』――通称『スポアク』の初期に登場し、すぐに退場する悪役キャラだった。


(何であのタイミングでそれを思い出すんだよ! もっと早くに思い出していたら、あのままゲーム通りに嫌がらせして退場して、いおりんのファンとして二度目の人生を謳歌できたのに!)


 力いっぱい握りしめられた拳が音を立てる。葛原はあえて不機嫌さを露わにしたまま、テレビ局の廊下を歩いていた。すれ違う局員たちは、葛原のストレス発散のターゲットに選ばれぬよう視線を落とし、そそくさと廊下の端を通っていく。後ろを歩いているマネージャーは、いつも通り眉尻と肩を落としている。

 デビューしてからまだ二ヶ月も経っていないとは思えない有様に、葛原は内心「退場するときのネットリンチが凄まじそうだな……」と虚ろに笑った。


 葛原ヨタカは、ストーリーの初期に登場した小者の悪役だ。

 猫目の可愛らしい顔立ちをしており、細身で画面映えするバランスよいスタイルをしている。外見の愛らしさだけなら『スポアク』でも上位に入るだろう。しかし、善悪よりも自身の気分を優先する幼い性格の持ち主だった。

 ゲームでは、経験もないのに気まぐれでデビューして、父親のコネで映画の助演をもぎ取る。しかし、同時期にデビューしたのにまるで実力の異なる藤代に嫉妬し、嫌がらせを重ねていく。ついには藤代を騙して山奥へ置き去りにしたことで大騒ぎになり、父親でも庇い切れずに退場する。

 藤代が、芸能界の権力や悪意と初めて戦うキャラクターだ。


 前世の記憶が戻る前の葛原は、ゲーム通りの人間だった。

 父親の権力を振りかざして言うことを聞かせ、ストレス発散で目についた相手をこき使ったり、嫌がらせをしたりして笑う。まだ連ドラのゲスト出演を数回しかしていないが、演技力もネットで高評価を見たことがないレベルの酷さだった。

 車に轢かれたと思った次の瞬間、突然ゲームキャラに転生した混乱からいまだに抜け出せていない葛原は、何とも言えない気持ちで足早にエレベーターへ乗り込んだ。


 葛原は、前世の記憶が戻った際の負荷で熱を出して寝込んでいたため、退場フラグを逃したまま、すでに一週間が経過している。次のストーリーイベントに突入する前に退場したかったが、次に藤代と会うのは一週間後の予定だった。

 葛原はしかめっ面を作り直してエレベーターを降り、撮影が行われるスタジオへと向かった。その途中で、通りがかったドアの三センチ開いている隙間から、二人の男の会話が漏れ聞こえてきた。


「あのクズ原の息子、また親のコネで何かやってるらしいぜ」

「ああ、実は天才だったってやつ? 演技見りゃ一発で作り話だってバレんのに、よくやるよな。ネットでボロクソに叩かれてんの知って焦ってるとか? あの性格と実力じゃ何やったって無駄なんだから、さっさと引退させろっての。問題起こされてお蔵入りとかマジ勘弁だわ」

「今日で引退になんじゃねぇ?」

「何で? ……ああ、そういうことか。確かにあの性格じゃ炎上待ったなしだろうな。番組側が多少甘い編集すれば、」


 「ヨタカ!」と廊下に響いた声で、男たちの会話がピタッと止んだ。葛原は、走ってくる九重を見て露骨に顔をしかめる。

 九重と会うのは一週間ぶりだった。しかし、前世を思い出した日にラインを交換させられてからと言うもの、毎日何度もラインが送られてきているため、葛原はうんざりとした気分でつっけんどんに返した。


「またマネージャーからオレのスケジュールを聞いたわけ」

「いや、偶然だ! インタビューの収録に来たら、君も他の収録で来ると聞いたから会いたくて探していた。広い局内で偶然会えるなんて運命的だな」

「それ偶然じゃないし、後ろでマネージャーが青褪めてるけど?」

「体調不良じゃないか? 近頃は気温が安定しないから風邪を引いたんだろう。ところで浮かない顔をしているが、何があったんだ?」


 いまだ開いているドアの隙間から、固唾を呑んでいる気配が漂っていた。九重は飄々とした笑顔を浮かべてこそいるが、漂っている雰囲気はヒリついている。男たちの話し声が聞こえていたのだろう。葛原の後ろで青褪めていたマネージャーは、この後の怒りを恐れるように身を硬直させている。

 葛原は、わざとらしく溜息をついた。


「どこかの誰かさんがしつこくライン送ってくるから、そろそろストーカーで訴えようかと思ってただけ」

「それは大変だ! オレが相談に乗ろう」

「ストーカー本人にストーカーの相談って、世にも奇妙な物語じゃないんだからしないよ。あんたがライン爆撃やめれば解決すんの!」

「はは。拒否すればいいだろうに、優しいな」


 嬉しそうに笑う九重に、葛原は眉間へしわを寄せて再び歩き出した。背後では、九重がマネージャーから「もう時間が!」と急かされている声が聞こえた。葛原のマネージャーは、現実が信じられないと言うような表情で葛原の後に続いていた。


 前世で小学校から高校まで演劇部だった葛原は、ゲーム内でも屈指の演技力と評されていた九重も、好きなキャラクターの一人だった。しかし、実際に接するとなると、ゲームキャラクターであるため性格の癖が強い。

 それに加えて、中途半端な演技をしていると違和感を持たれてしまうことから、九重の前では気が抜けなかった。まだ朝だと言うのに、スタジオに向かう葛原の足取りは重かった。



 スタッフたちが準備で動き回っている中、打ち合わせを終えた葛原は控室に戻っていた。一人用とは思えない広々とした室内には、葛原がマネージャーに要望している加湿器、高級な菓子や飲み物が並べられていた。

 マネージャーはいつものように、スタッフや共演者への挨拶――もとい、葛原の言動への事前謝罪に回っているのか姿が見えない。それが気楽でもあり、気まずくもあった。

 一つのチョコレートをつまみながら、葛原は自分の今後を考える。


(退場したあとも、いおりんのファンイベントには行けないよな。復讐を疑われそうだ。それにいおりんと会うまでの仕事を、葛原として振る舞わなきゃいけないのがキツイな。演技力は大丈夫だろうけど、周囲からの関わりたくないオーラが……)


 葛原は漏れそうになった溜息を飲み込む。

 葛原として生きていた今までの記憶はあるが、高二で死んだ前世の記憶を思い出したことで、人格は前世のものに変わっている。そう考えると、記憶を思い出したと言うよりも、葛原の体に憑依したと考えるべきだろう。

 演技へのこだわりから他者とぶつかることはあれど、人並みに周囲との関係性を気遣う性格をしているため、周囲から向けられる視線だけでもすでに気が重たかった。


 父親のコネでほとんど毎日仕事を与えられているため、次の映画の撮影までは周囲から向けられる視線に耐えなければならない。

 前世のバイトで先輩から「とにかくバイト仲間に迷惑をかけないように働け!」と言われ続けた経験から、これ以上仕事を休んではいけないとダルさの残っている体でテレビ局に来た葛原は、頭を抱えて「ああー……」と呻き声を漏らす。

 退場するまでの我慢だと自分に言い聞かせている内に、戻ってきたマネージャーが「もうそろそろスタジオ入りの時間になります」と声をかけてきた。



 葛原が撮影に備えてトイレへ向かう道中、鋭い声が廊下の先から聞こえた。葛原がこっそり角から頭を出して覗くと、藤代と、藤代のライバルとしてゲームに登場する八景山拓斗がいた。

 クールな性格である八景山は、男性的な整った顔に険しい表情を浮かべており、藤代は暗い表情で肩を落としている。


「くそ、またあのコネ息子か! 伊織の演技に敵わないからって……!」

「ううん、葛原さんじゃないと思う。それに、本当は実力のある人だよ。どうしてわざと下手に演じてたのかは分からないけど、息を呑むほどの演技だった。その後も、九重さんに付き纏われても怒ってるのは口だけだったし、九重さんの言葉で心境の変化があったのかも」

「……どうだか。それより、今はこの状況をどうするか考えよう」

「そうだね。まさか、僕を貶めるために仕組まれている番組だなんて……」


 葛原は息を呑んだ口をとっさに手で覆った。

 その間にも、二人の話は進んでいく。スタッフの話を偶然聞いたことで、この後出演するバラエティー番組が、藤代への嫌がらせを目的としたものであること。番組プロデューサーと司会者と芸歴五十年になるベテラン俳優が主犯であるため、嫌がらせを回避するのは困難であるということ。

 葛原は眉間にしわを浮かべ、口を押さえたまま唖然とする。それは、ゲームのストーリーには登場しないトラブルだった。


(ゲームだと、葛原が退場した後は連ドラの企画で小説家から指名が来たはずだ。オレが前世を思い出すまでは、完全にゲーム通りに進んできた記憶がオレの中にもある。オレが退場しなかったせいで代わりのトラブルが起きたのか?)

 強く噛んだ奥歯が軋んだ音を立てる。葛原の今までの我儘っぷりを考えれば、番組自体を潰すことも不可能ではないだろう。頭の中で計画を立て始めていた葛原の耳に、二人の会話が届く。


「出演を取りやめれば、そこを週刊誌に売られるだろうな。売れて天狗になってる傲慢な若手だ、って。でも伊織がやり返せば、今度はそっちを炎上の火種にされる。共演者に頼りになる人は?」

「ううん、若手と向こうに加担してる人たちで固められてるみたい。多分、企画段階から僕をターゲットにするって決まってたんだ。随分早いスケジュールで撮影するんだなとは思ってたけど……」

「新人潰しの噂がある人だ、相手の意図した通りにしたところで無事じゃ済まされないだろう。くそ、どうすれば……!」


 二人の表情が焦りと恐れに染まっていく中、葛原とは反対方向から現れたスタッフから「藤代さん、そろそろ撮影の時間ですよ」と声がかけられる。スタッフは仕掛けを話していた人物なのか、八景山はスタッフを睨みつけた。

 廊下に軋むような空気が漂っていた中、ゆっくりと顔を上げた藤代は、真っすぐに前を見据えて明るく笑った。


「大丈夫、僕は自分を信じてる。どんなに辛いことでも、必ず立ち向かえるって。僕が俳優になったのは偶然だったけど、今はここが僕の居場所だって思ってる。だから、拓斗も最高の仕事をして待ってて。必ず帰ってくるよ」


 藤代の揺るぎない瞳に、一瞬目を見開いた八景山は、信頼を返すように笑って頷いた。そうして二人が去った廊下で、葛原は拳を握りしめたまま佇んでいた。

 頭の中で反響しているのは、藤代の力強い声。


(いおりんは自分で道を切り開いていく勇気を持ってる。悪役を踏み台にして売れたわけでも、誰かに手を引っ張ってもらい続けたわけでもない。真っすぐに前を向いて、仲間たちと切磋琢磨しながら、自分の力で生きてた。だから好きになったんだ。……オレは、)

 俯いていた葛原は顔を上げ、藤代が向かった先を見る。藤代がこれから立ち向かう敵は、ゲーム中の葛原のように権力を振りかざし、自分の気に入らないものを潰そうとする悪党だ。


「オレは父親の権力を振りかざして、周囲を踏みつける葛原ヨタカじゃない。ここからはオレの人生だ。――……でも、推しを応援するのはファンとして当然だよな」


 ニッと笑った葛原の表情にはもう、先ほどまで浮かんでいた迷いの色はなかった。


 葛原がスタジオ入りすると、スタッフや共演者たちが次々に「おはようございます」と声をかけてくる。白髪が頭に交じり始めているプロデューサーは、スタッフの間をすり抜けるように足早で葛原のもとまで駆けつけて、「今日はお願いします」とペコペコ頭を下げた。


「今日の撮影って、ドッキリだったよね」

「はい、葛原さんには前列の中央に座っていただいて、」

「実は、さっき面白い話を聞いたんだ。それを番組に組み込んだら、もっと面白くなると思うんだよね」


 ニィッと口角を上げた葛原に、プロデューサーが頬を引きつらせて「そ、それはどういう……」と返した。葛原が内緒話をするように小声で囁くと、プロデューサーの表情はみるみる変わっていく。

 そして、視線を合わせた二人はにんまりと笑った。



 藤代は、膝の上で握りしめた拳にますます力を込めた。スタジオ内を照らしているライトが、まるで藤代を貫く閃光のようだった。しかし、普段ならライトの熱に暖められる体は、いまや凍えるほどに冷たい。


「みんな撮影中のドラマや映画があるっちゅうことやけど、」


 声をニヤつかせた司会者の中堅芸人が、わざと藤代の存在を無視して右隣の若手俳優に話を振る。藤代が俯きかけた顔を途中で戻すと、ベテラン俳優と視線がぶつかった。わざとらしく鼻で笑ってから視線を逸らしたベテラン俳優に、藤代の拳に籠っていた力は余計に強まっていく。


 撮影が始まってからすでに四十分以上が経過しているが、藤代は一言もまともなコメントを残せていない。司会者から話題を振られず、タイミングを見計らって口を開こうとすれば、司会者かその後輩芸人が大声で話を被せてくるからだ。

 共演者は、司会者の振る舞いに気づいて戸惑っているものが半数、同じようにニヤついているものが半数。スタッフたちも同様の様子であり、スタジオ内は奇妙な雰囲気が漂っていた。


(このまま終わったら、僕に非があるように言われるかもしれない。何とかコメントを残さないと……)

 藤代がタイミングを探している間も、後輩芸人が口を挟んで流れを持って行ってしまう。そもそもが、そのための人選なのだろう。藤代の声に被せるための後輩芸人、藤代との対比にするための若手俳優たち、それらをコントロールする司会者。

 ここは、藤代の首を真綿で絞めていくためのステージなのだ。それを分かっている若手俳優たちも、強張った顔で話している。


「キミ、ホンマに話すの上手いなぁ」

「そんな……緊張でもう、口が回らないです」

「いやいや、そういうとこも取っつきやすくてええわ。売れると芸人なんぞとは話もしてくれへんやつもおるやろ、誰とは言わへんけど」


 司会者側の共演者たちがドッと沸く。

 藤代の左隣に座っている十代半ばの女優は、引きつった口元を隠すように俯いていた。開始前に「初めてのバラエティー番組なんです!」と頬を紅潮させていた姿が嘘のように、司会者から話を振られるたび、居心地悪げに体を縮こませていた。


(「デビュー間もなくのブレイクはやっかみを買うから気をつけろ」って、マネージャーさんからは言われてたけど……仕事の最中のこれがまかり通るのか……)

 一週間前、葛原から受けた嫌がらせが頭の中をよぎっていく。

 葛原は九重から叱責された直後から雰囲気が変わり、藤代への嫌がらせは一切なくなった。それどころか、休憩中にココアを手渡され、「……嫉妬してごめん」と小声で伝えられたほどだ。驚きのあまり「頭打ったんですか!?」と言ってしまったが、葛原は怒らずに済ませてくれた。


 葛原が自尊心の高い我儘な人物であることは、彼のデビュー当時から芸能界に知れ渡っていた。気まぐれで芸能界に入り、父親の権力を振りかざしてふんぞり返り、まるで王様と言わんばかりに周囲をこき使う。

 顔合わせからクランクイン翌日までの葛原は、まさに噂通りの人物だった。けれど、九重の一言を受けてからの葛原は、ぎこちなくも周囲との関係を修復しようとしていた。その姿を見て、人はきっかけ一つで変われると、葛原は藤代に教えてくれたのだと思った。


 藤代がスカウトを受けたのは、人生を変えるきっかけが欲しかったからだ。

 小学校で親友だと思っていたクラスメイトからいじめを受けた過去から、藤代はずっと周囲の人物を信じられないまま、友好的な性格を演じて生きてきた。そんな空しい日々を変えたかった。

 芸能界に入ってからは毎日が目まぐるしく、大小様々な困難に巡り合った。それを芸能界で知り合った仲間たちの手を借りつつも、懸命に乗り越えてきた。きっと映画の撮影も無事に終えられる、空しい日々から抜け出せる――そう思っていた。


 精いっぱい前を向き続けていた藤代の視線が、少しずつ落ちていく。小学校時代に受けたいじめと同じ嫌がらせに、心臓から全身へと黒いシミが広がっていく。親友だった人物の嘲笑が脳裏に蘇り、スタジオ内に響き渡る笑い声が、重圧として藤代の細い肩を押し潰していくようだった。

 司会者側でない共演者やスタッフの心配げな視線にも気づけないほど、深く俯いた藤代の拳は青褪め、瞳に滲んだ涙が睫毛に触れる。


 その時、スタジオ内の明かりが一斉に落ち、暗闇に包まれた。


「『何故だか分かるかい?』」


 ざわつく暗いスタジオ内へ、青年の静かな声は奇妙なほど響いた。

 多くの者が息を呑んで黙り込み、司会者の「何や、早う復旧せぇ!」という声が嫌に反響する。しかし、空気を支配しているのは喚く司会者ではなく、緑色の非常灯の下にぼんやりと姿を浮かび上がらせた青年だった。


「『世界はもっと広いんだよ。それを君は知らないから、音が箱の中に閉じ込められているように小さくなっている』」

「『……俺に、今さら世界の広さを思い知れって言うのか』」


 非常灯から少し離れた位置に立ち尽くしているもう一人の青年の声に、左隣から「うそっ、九重さん……!?」と小さな歓声が上がる。暗闇で表情は見えないが、その頬には高揚感が戻っているだろうと容易く想像できた。

 空気を一掃する風に吹きつけられているような気分が、藤代の中で湧き上がった。顔はいつの間にか上がっており、非常灯の下に立つ人から目が逸らせなかった。


「『そう、よりにもよって僕が言うんだよ。君を奈落の底に突き落した僕が。でも、分かるだろう? 僕がそれを言う意味が。亡霊である僕が、君を前へ進めようとする意味が』」

「『……前へ進みたがっているのは俺、か』」

「『出会いは誰しもを変える。正しい行き先なんて誰も知らないのに、足を止めたままではいられなくなって、つんのめるように一歩目を歩き出す。君もその時が来た。それだけの話だ』」

「『お前はどうなるんだ』」


 もう一人の青年の問いかけに、一度きょとんと動きを止めた青年は、穏やかな声音でくすくすと笑った。表情なんて見えないほど暗いのに、青年の穏やかな表情を誰しもが鮮明に想像できた。

 「『さぁ、時間だ』」青年の晴れやかな声とは裏腹に、もう一人の青年はまだ暗闇から抜け出せないように俯いていた。


「『今、この瞬間だけ、ステージは君たちのものだ。君と、彼の場所だ』」


 青年が藤代のほうへ向く動作に導かれるようにして、人々の視線が藤代へと集まる。藤代を敵視している者の戸惑いの目、藤代を心配していた者の期待の眼差し、そして『名坂』と『東崎』の視線。


 藤代は鼓動を耳の奥に感じていた。青褪めていた体内を血が駆け巡っていく熱、カメラマンが手探りで藤代にレンズを向けた気配、人々の目に宿る熱狂、忘れられた呼吸、思わず手に力が籠ったかすかな音。

 藤代は小さく息を吸って自分の中のスイッチを切り替え、暗闇の中で真っすぐに背筋を伸ばした。ここにはもう、恐れるものなど何一つなかった。


「『僕の音を美しいと言ってくれたのは、あなたです。美しいものは国境も、時間も、時代も越える。どんなに遠くへだって届くと、教えてくれたのはあなたです』」


 藤代の声が、静寂に包まれていたスタジオを満たす。それは、同時に藤代の心を満たしていった。こみ上げる涙で声が震えないよう手のひらを握りしめ、藤代は前を向いて言葉を続けた。


「『行きましょう。あなたが教えてくれた広い世界が、僕たちを待ってる』」


 俯いていたもう一人の青年がゆっくりと顔を上げ、藤代を見つめる。暗闇に慣れ始めた目でも、相手の顔はようやく輪郭が見える程度だった。けれど、誰もが二人の視線が深く交わっていると確信していた。

 それを見つめていた青年は、音もなく微笑んだあと、二人の前から姿を消すように非常灯の下から去った。


 そして、物語の終わりを告げるようにスタジオのライトが一斉に点き、みな眩しそうに目を細めながらざわつき始めた。その表情は、ほとんどが興奮に満ちていた。

 藤代は再び体を貫くように降り注ぐライトの光に怯えることなく、ようやく姿が照らされた九重と笑顔を交わした。そのまま葛原へ視線を向けると、葛原の背後の入り口から『ドッキリ大成功!』というプラカードを掲げた中堅芸人と、カメラマンが入ってきた。


「というわけで、突然演技が始まるドッキリでしたー!」

「ちょっと、ライトの点くタイミングが指示と違うんだけど。なんで暗いまま演技することになってるの」

「だが、良い演出になったな! ああ、藤代、もう少し芯のある声音のほうが役に合っていると思うぞ。それと、」

「宣伝の撮影中にマジの演技指導やめてくれる。そもそもなんで若手役者の特集なのに、オレが呼ばれてないの。ねぇマネージャー、オレもこっちの収録に参加したいから藤代と交代させてよ」


 葛原と九重の自由気ままな振る舞いで、不思議な高揚感の漂っていたスタジオは、あっという間に日常的な空気感へと戻った。

 さすがにこの状況で嫌がらせは続行できず、顔を引きつらせた司会者が藤代に「ええーっと、九重くんと藤代、くんのダブル主演の映画があるんやっけ……」と話を振る。先ほどまでの縮こまった気持ちが嘘のように、藤代は晴れ晴れとした笑顔でそれに答えた。


 その後、撮影が再開されたバラエティー番組の収録は、前半とはまるで空気が違っていた。葛原の参加した宣伝に水を差すことを恐れ、司会者たちが藤代へも話を振るようになったのも理由の一つではある。しかし、一番違ったのは藤代の生き生きと輝いた表情だった。

 映画の撮影で葛原たちと再会する日を心待ちにした藤代の笑顔は、放送日のトレンドを関連ワードで埋め尽くすほどの魅力に満ちていた。




「ようやく映画もクランクアップしたのに、どうして明日の早朝から九重と二人旅の収録なんて入ってるんだろう」

「運命なんだろうな!」

「いや、九重が無理やりねじ込んだの知ってるから。ラインも毎日送って来んのやめろって言ってもやめないし、オレのマネージャーの胃に穴開ける気? 宣伝でむしろ会う頻度上がるんだから、ラインの回数が一日二件超えたらブロックするからね」


 映画の打ち上げが行われている貸し切りのレストランで、漫才のような掛け合いをしている葛原と九重を見る周囲の目は、撮影初日とはまるで変っていた。

 不自然に思われないよう、少しずつ振る舞いを変えていった葛原は、いまだ世間的には『父親の権力で身勝手に振る舞う大根役者』の印象が残っている。しかし、五ヶ月にも及ぶ撮影を共にしてきた撮影関係者たちは、葛原を『成長して我儘が抜けてきた』と認識していた。


 テーブルを埋め尽くしている料理に手を伸ばしつつ、葛原は前世を思い出してからの五ヶ月に思いを馳せる。

 演技の方向性を九重と夜通し口論、もとい話し合った日。藤代に頼まれて一緒にオーケストラのコンサートを聴きに行き、なぜか九重から「なぜオレを誘わないんだ!?」と問い詰めるような電話が来た日。刑事ドラマで共演した八景山とトラブルでエレベーターに閉じ込められ、距離が縮まったことで交わすようになったライン。

 前世を思い出す前の葛原の言動は、死ぬまで葛原の肩に圧し掛かり続けるだろう。しかし、前世では就職するために諦めた役者の道を歩めているのは、過去の葛原が気まぐれで「テレビに出たい」と言ったからだ。


(元の葛原の魂はどうなったとか、もう少しで俺が前世で知っている最後のストーリーに入るとか、色々考えることはあるけど……それでもここにいられるのは奇跡なんだ。死ぬ気で役者の座に齧りついてやる)

 コーラを飲みつつ、葛原は改めて決意を固めた。そんなことを知らない藤代は、嬉しそうな笑顔を浮かべて葛原に話しかけてくる。


「葛原さん、また一緒に出掛けませんか。僕、来週の月曜はスケジュールが空いてるんです、葛原さんも空いてましたよね?」

「何で藤代がそれを知ってるかは、分かり切ってるから聞かないであげるけど。その日は父さんを締め上げる予定だから無理」

「ああ……その、お父様は……」

「別にあの人は心配する必要なんてないから。前から酒控えろって言ってたのに飲み続けてたんだから、すっ転んで足折ろうが自業自得。もう十分蓄えてるし、このまま引退すりゃいいんだよ。時代に合った考えもできないみたいだしね」


 にべもなく言い切った葛原に、藤代はオレンジジュースのグラスを持ったまま苦笑する。

 大手プロダクションの社長として権力を発揮していた葛原の父親は、先月、定例会見中の失言で炎上した。さらには、銀座で飲んだ帰りに転んで両足を骨折して、現在は休職中だ。

 溺愛する息子から「いい年して何やってんの!」と散々叱られたことで、今は大人しく病院のベッドで休養している。葛原が唆せば、早期リタイアして田舎でのんびり第二の人生を送りそうな雰囲気だった。

 反応しづらそうにしている藤代をよそに、九重は遠慮のない笑顔を浮かべた。


「ヨタカも十分自力で仕事を取れるようになったし、確かにもういらないかもな。父親の失態でヨタカまで道連れにされては困る」

「シ、シビアな言い方しますね、九重さん……」

「こいつは人が好さそうな顔してそういう性格だよ。藤代だって分かってるでしょ、九重が演技以外への配慮なんて欠片もない人間だって。人気役者なのにファンからの呼び方が魔王なんだよ、人間らしさを期待するほうが無理」


 葛原がチキンステーキを取り皿に運びながら言うと、藤代はますます反応しづらそうに苦笑し、九重は「さすがヨタカだ、よく分かってるな!」と上機嫌で頷く。


 公開まではまだ日があるとは言え、藤代が出演したバラエティー番組での宣伝が功を成し、前売り券は発売開始時刻から三十分と経たずに完売した。葛原の演技が様変わりしたことも、映画への関心を引いていた。何より、多くの出演者やスタッフが、良い映画を作ったという自負があった。

 酔っぱらった新人スタッフが「葛原さんサインください!」と突撃して来たり、共演する個人アイドル二人が別のアイドルユニットの曲を歌ったりと、騒々しい打ち上げは二時間にも及んだ。

 葛原は、九重や藤代と肩を並べ、その時間を味わって過ごした。



 打ち上げを終え、葛原はタクシーで自宅へと向かっていた。

 満たされた腹と丁寧な運転に、葛原は機嫌よく窓の外を眺めていた。先ほどまでの騒々しさとは打って変わって静かな車内は、少しばかりの寂しさを作り出したが、明日の撮影を考えた途端に苦笑へと変わる。

 途中の横断歩道手前で、ゆっくりとタクシーが止まる。何気なく葛原が目を向けた先では、つい先日撮影が終わったばかりの映画の大判ポスターが、ひと際目立つ位置に貼られていた。


 メインはダブル主演の藤代と九重だが、もちろん、葛原の写真と名前も載っている。前世を思い出した直後は中身と外見の違いにジレンマを抱えていたが、現在では葛原の姿を自分のものとして認識できるようになっているため、葛原は窓ガラスに顔を寄せてポスターを眺めた。

 明日も、明後日も、役者として生きられる。その喜びを噛みしめる葛原を乗せて、タクシーは緩やかに進み出した。


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