元悪役令嬢からの零れ話
季節は巡る。
花が咲き、葉は繁り枯れ落ち、やがて白い雪が舞い降りた。
彼と再会してから一巡りした季節は今年も変わることなく雪を降らせている。
この雪が融ければ水は地を巡り、再び花を咲かせるだろう。
質素な一軒家の台所では暖炉に炎が燃え盛り、台所では火にかけられたポットが楽しげに踊っていた。
その先にある小さな窓から、降り積もる雪を飽くことなく眺める。
…あの国にいたときは、雪を見たことがなかったから。
ここで迎えた初めての冬、寒さの加減が分からなくてひどい風邪を引いてしまったことは今となっては懐かしい思い出の一つだ。
三年前までは頻繁に思い出していた故郷のことも、四年目を過ぎた頃から思い出す回数もぐっと減った。
このままいけば思い出すことすら稀なことになるかもしれない。
「何を考えているの?」
柔らかく空気が揺れて頬に手が伸びてくる。
彼が私に触れる手付きはどこまでも優しい。
触れた髪が跳ねた。
くすぐったくて、ふわりと口許が緩む。
「随分と記憶が遠くなってきたなと思って。」
「…そうだね、前ほど話さなくなったかな。」
主語がなくとも通じるのは二人の脳裏に浮かぶ場所は同じだから。
寒さのせいなのか、記憶のせいなのか。
凍えそうな体をずらし、わずかに彼の方へと寄せる。
そのせいだろうか。
最近は砕けた言葉で話すことの増えた彼が、珍しく改まった口調で尋ねてきたのは。
「…一度聞きたいと思っていました。」
「何かしら?」
「ヨシュア様のことです。」
「あの方の何について、かしら?」
「…ずっと愛しておられたのですか?」
そして今も変わらず愛しているのか、と。
最後の問いは声にはならなかったけれど、強く私を見つめる視線から思いは読める。
その問いは、かつて悪役令嬢を務めた私へ向けられたものだ。
…さて、なんと答えるのが正しく伝わるかしら。
黙り込む二人の間を水を沸かす音だけが通り過ぎる。
「義務感のようなものはあったと思うわ。」
貴族にとって、愛のない政治的な婚姻は当たり前のこと。
そう繰り返し、擦り切れるほど何度も自身に言い聞かせたあの頃の気持ちを言葉にするのは難しい。
鮮明に思い出す、当時抱いた虚しさと悲しみ。
心を満たす苦い味に少し顔を顰めた。
「申し訳ありません、辛いことを思い出させて。」
「いいえ、違うのよ。」
むしろ気付かされたのだ。
傷は思っていたよりも深くて、本当は忘れてはいないということを。
こうして切っ掛けさえあれば、今もこれほど鮮明に思い出せる。
頭で描く思い出が遠くなる事はあっても、心にに残った傷跡はそうでもないらしい。
「貴方もご存じでしょう?幼い頃のあの方は聡明で優しい方だった。そして優しさ故に悩まれることも多い方で…だから私も、愛情の有無など関係なく、心から支えて差し上げたいと思っていたの。」
あれは間違いなく、初恋だった。
何度目かの面会で、初めてヨシュア様の手を握った時。
彼の指先は緊張のためか冷えきっていて、とても冷たかった。
心配そうな表情をした私に、彼は困ったような笑みを向ける。
『これは二人だけの秘密にしよう。』
繊細で、可愛らしい人。
それを知った瞬間に私は恋に落ちたのだ。
「でもあの方は、社交界にデビューされた途端に変わってしまった。王太子として、一人前の大人としての自覚を持とうとするあまり、持ち味である繊細な心配りや、弱者への優しさを不要のものと切り捨てた。そして、すり減っていく心を癒すために、貴族の甘言や女性達の誘惑に流されるようになっていったのよ。一度、容易い方に傾いた心を持ち直すのはとても難しいわ。あれだけ日々研鑽のために努力をされていた方が、困難に負け、投げ出すことが多くなったのは貴方もご存じでしょう?」
「あの当時は、本当に荒れておられた。」
「苦言を呈せば遠ざけられ、手紙を出せば読まずに捨てるか、送り返されてくる。やがて婚約者としての私の存在を疎むような言動が増え…挙げ句の果てには堂々と浮き名を流すようになった。」
心配するが故の行動を咎められれば、後に残るのは虚しさだけ。
そして最終的に彼が伴侶と望んだのは、あろうことか浅薄な姉のクレアだった。
あの時は、なんとも言えない複雑な気持ちになったものだ。
甘えるだけの人間の面倒をみるのは、もうたくさん。
許すにも限界があるというもの。
人は与えられたものを返す生き物だ。
愛には愛を、憎しみには憎しみを。
「もし愛していたかと問われたら、愛せるわけがないと答えるわ。あの方が愛したのは自分だけ。姉を愛したのは、見目麗しく、社交界で人気のある彼女を自身の隣に並べたかったから。私に対する悪意に満ちた噂を否定することなく受け入れた時点で、私達二人の未来は決まったのよ。」
きらびやかでありながら、裏側では互いに気遣うこともない、枯れ果てた荒野のような未来。
そんなものに、誰が憧れを抱くものか。
私の初恋は砕け散った。
恋が愛に変わる前に、彼自らの手で幕は降ろされたのだ。
「そして浮き名を流す彼が彼の父親である王からも上層部の誰からも咎められない事から理解したわ。幼くして婚約者に定められた私達の関係は、義務として国が与えたものだった。つまり、初めから私に求められたのは後ろ盾となる権力をヨシュア様に与えることと、彼の政を支えるための能力だけだったのよ。彼への愛など求められていなかったことに今更ながら気がついたのよね。だから私が愛されなくても当然だし、私が彼を愛さなくてはならない義務もない。だから浮名を流すあの方を責めなかったわ。彼の愛情の在り処など、私にはもうどうでも良かったから。」
長い年月を共に過ごしながら、二人には愛の欠片すら残らなかった。
そして婚約破棄を躊躇う理由も何一つない。
だから悪役を務めた令嬢は役目を終えた後、粛々と退場したのだ。
…それに、あの頃は婚約破棄されることを前提に行動していたからね。
孤児院へ慰問を行うのは、怪しまれぬように子供達から市井の暮らしを教えてもらうため。
純粋な善意だけではなかった。
そう考えると、私はどこまでも貴族らしい貴族であったのかもしれない。
そういえば彼らの働きに見合った対価となるよう、孤児院の補修に関する報告書を公爵家の図書室の本に紛れ込ませておいたけど、あれはどうなったかしら?
図書室に忍ばせた報告書や政策に対する改善案の走り書きを、クレアがヨシュア様に取り入るため、"活用"していることは気づいていた。
だけど婚約破棄へむけて邁進していたあの時点では、むしろ都合がいいと思っていたのよね。
クレア経由であってもヨシュア様の耳に入れば、将来的に彼らを救う手立てとなるかもしれないから。
私がいなくても、誰かが踊ってくれればいい。
悪役として培った伝や能力を活用して結果的にはそうなるように仕組んだ。
「結局、皆揃って貴女の価値を正しく知らなかったのですね。だから最後は失う羽目になった。」
「そうなのかしら?それでも王は最後まで婚約破棄に反対されていたようだけど。」
「どうやら貴女の価値を正しく知っていたのはあの方だけのようでしたね。ご存知でしたか?水面下では貴女を他の王子と婚姻させ、王室に取り込もうとされていたことを。」
ヨシュア様の理想とする綺麗事だけで国を運営するのは危うい。
彼の望みどおり、表向きは清廉潔白であるとしても、裏側では闇を制御する存在が必要とされる。
つまり私に泥をかぶれということなのよね。
王に必要とされるその役目を私に求めたのかも知れないが、王自身や国の上層部が後継者たる彼を甘やかし、咎めないからこそ、こんなにもひ弱な後継者が育ったのだ。
その尻拭いまで私にさせようというのは虫が良すぎるとは思わないのかしら。
「ええ、気づいていたわ。だから根も葉もない悪い噂を否定しなかったの。婚約破棄される予定の私を別の王子の新たな婚約者に据えることは国の政治を支える貴族達が許さない。悪と謗られる私より自分達の娘が劣ると評される行為だもの、当然よね。」
もちろん噂を否定はしないが、やっていないことだし噂を肯定もしなかったけれど。
否定しないことが憶測を呼び、さらに広まっていくのを放っておいたのも事実。
「その王も、最後まで私が抗う気配をみせないから、利用できないならば追放も致し方なしと諦めてくださってよかったわ。」
だって悪役令嬢として裁かれなければ、同盟に参加することもできないのだもの。
そして新たな身分を得て、他国で穏やかに暮らすことなどできなかった。
国の闇を知る人間を他国に出すのは危険でしかない。
言い渡された罰が国外追放であれば他国へたどり着く前に命を奪われる危険があった。
それがわかっていたから、国内の修道院への追放が最善で最良。
悪評の先に求める未来があるから、あえて否定しなかったのよ。
あの婚約破棄に至るまでの流れで、私が自ら率先して加担した事といえば、それだけだ。
「だからヨシュア様を愛していたことは、間違いなく一度もないわね。」
「…ならばあれは誰のことですか?」
「誰のこととは?」
「子爵家のご令嬢がヨシュア様に促され、貴女について語っていました。その時、貴女は好きになってはいけない人を愛してしまった彼女の心に寄り添いながら言ったと。」
"愛する者の心が自分になくとも、愛することはできます"。
彼は…アーロンは途方にくれたような表情を浮かべる。
子爵家令嬢…ああ、彼女のことか。
とても可愛らしい声で話す、純粋で可憐な容姿の女性だった。
だが純粋過ぎて、自身が愛した件の男性に利用されそうになっていることにも気が付かない愚かな一面も持つ人。
恋は盲目とはよく言ったものだ。
婚約者がありながら、他所の女性に甘い言葉をかける男性が清廉な人物なわけはないのに。
あの時一応釘を指したから、誠実な別の男性と幸せになってくれていればいいけれど。
過去の記憶が蘇り黙ると、場に一瞬の沈黙が落ちる。
やがてアーロンが、その沈黙を破った。
「ヨシュア様は貴女の言葉に、二人の境遇を重ねた。」
そして心を動かされ、私を取り戻そうと決意した、と。
あの時、ヨシュア様が修道院まで強引に迎えに来たのはそのためなのね。
そんな事情が裏にあったことを知り、驚きのあまり目を見張る。
アーロンは普段見せない苦々しい表情を浮かべる。
あれだけ蔑ろにしておきながら今更何を、とでも言いたげな表情だ。
本当に今更よね、確かにそのとおりだわ。
私は口元を歪めた。
「それはヨシュア様の勘違いだわ。あの言葉はあの方へ向けたものではないのよ。」
きょとんとした彼の表情が可愛らしくて、くすりと笑う。
ああ本当に、恋は盲目とはよく言ったもの。
色恋の駆け引きになれたヨシュア様を惑わせ、聡明なこの人すら迷わせるなんて。
「私が婚約破棄をされるその瞬間まで、あの方の隣を誰にも譲らなかったのは、なぜだと思う?」
ヨシュア様の傍らには常に貴方がいたから。
それがクレアの悪行の身代わりに罪を擦り付けられヨシュア様の信頼を失っても、彼と関係を持った女性達の嘲笑や、無様と蔑みを受けながらも私が婚約者の地位に留まり続けた理由。
「あれは貴方のことなのよ、アーロン。」
私の言葉に、アーロンは驚いた様子で目を見開く。
そしてほんのり緩んだ口元を手で覆い隠し、視線を泳がせた。
親しくなってから知ったのだが、本当は素直で気持ちが顔に出やすい人なのよね。
「私はヨシュア様を諌めるために悪役を選んだ。そして同時に愛する人は自分で選ぼうと決めたの。」
婚約者に愛されなくても構わない。
私が愛する人は私が決める。
その結果、私はアーロンを好きになった。
…いいえ、違うわね。
愛するために人を好きになるのではない。
気がついたら、すでに彼を愛していたのだから。
「だけどヨシュア様の命令で私の素行を調べていた貴方が私を愛するなんて想像できなかった。」
お伽噺では、いつもそう。
悪い魔女を愛する王子様はいない。
だから『愛する者の心が自分になくとも』と言ったのだ。
証拠はなくとも、クレアがせっせと噂を拵えていたから状況証拠だけなら当時の私は真っ黒だ。
彼女はその一面においては非常に優秀だった。
あの優秀さが、勉学など前向きな方向に活かされていたら互いに違う未来を選べただろうに。
「それと同時に、もし疑いだけで罰せられた私の疑惑が晴れたら、皆がどう思うか考えたの。」
クレアの能力では、私という罪を擦り付ける相手がいない以上、化けの皮が剥がれる未来は想像がつく。
あとは早いか遅いかだけの違い。
そうなったとき、断罪した側の人達はどうするか。
まず家族は…私の現在の様子など気にするどころではないだろう。
私の疑いが晴れるということは、クレアの素行不良が暴かれるということを意味する。
おそらく、あらゆる手を尽くして彼女の悪行をもみ消し、表沙汰にはしないだろう。
つまり表沙汰にはしない以上、疑いが晴れたとして私を修道院から連れ戻すわけにはいかない。
なんだかんだ言いつつ、愛嬌のあるクレアには甘い両親のことだ。
きっと全てなかったことにして、当初の予定どおり、彼女に婿を取って家を継がせるのだろう。
家を追い出された時に見せた両親の蔑むような視線を思い出し、ため息をつく。
…体面を気にする二人ならば十分にありえるし、捨てた出来の悪い方の娘を思い出すかも疑わしいわね。
そしてヨシュア様は自分の犯した罪を恥じ、落ち込むかもしれないが、根は自分に甘い人だ。
程なくして痛みを忘れるだろう。
「だけど最後まで私を気遣ってくれた貴方なら…。」
彼は最後まで私を蔑むことはなかった。
断罪の場から出ていく私を扉が閉まるその瞬間まで令嬢として扱ってくれたのも彼だけ。
確証はなくとも、彼は私が罪なき咎で裁かれることに気がついていたのではないか。
正しきものが本当に正しく、清らかであるものが本当に清らかであるのなら生まれようのなかった罪。
彼はその罪を清算するための"悪役"が生まれる瞬間を知った数少ない観客のうちのひとりだ、だから。
すいと指を伸ばし、彼の胸元を指す。
「貴方ならば、死ぬまで私を覚えていてくれるかなと思ったの。」
私は彼の優しさにつけ込んで、心に楔を打ち込んだ。
二度と会うことはないだろう。
それでも彼の心が欲しかった。
罪の意識につけ込んで、失った痛みを心に刻み込む。
いつか誰かのものになったとしても、彼の心の全ては渡さない。
これが名も地位も全てを捨てると決めた時に私が選んだ手段。
だけどそんな醜い思いがあったという真実は、私だけの秘密だ。
誤魔化すように視線を伏せて笑う。
「ふふ、なんてね。冗談よ、私が人の心まで操作できるわけないでしょう?」
「そうかも知れないが…だとしても貴女の行動は、ある意味正しい。」
冗談だと濁したのに、アーロンから意外な返事をもらった。
首を傾げた私を追い詰めるように、彼は更に身を寄せる。
ソファーの端に追い詰められて一気に心拍数が上がる。
「…少し、座る位置が近いのではなくて?」
「もう逃げられたくないんだ。忘れられないから貴女を探す旅に出た。納得するまで探す気だったから、それまでは貴女に囚われたままだったろうな。私の体だけでなく、心も全て。」
彼は手を伸ばし、胸元に伸ばされた私の指を掴む。
そして軽く指先を掴むと唇を寄せた。
彼に握られた手が新たな熱を孕む。
「貴女を探し出して、捕まえたのは私の方なのに、すでに捕らえられていた気がしていた理由がわかったよ。貴女を好きになったその瞬間から、私は貴女の手の内にいたのだね。」
彼は指先にあった唇を私の耳元によせた。
「噂や証言だけを聞けば、確かに貴女は残酷でふしだらな悪女だ。だがヨシュア様を諌めるために執務室を訪れた貴女の瞳には一片の曇りもなかった。ヨシュア様に入室を拒まれ、それでも挑むように執務室の扉の前に立つあの時の貴女は、間違いなく正しく清らかな存在そのものだった。確証などなくとも、あの姿に魅せられてしまった私にはどうしても貴女が噂どおりの女性であるとは思えなかったのです。」
そして私を知ることが、後に残された彼の仕事でもあると、そう思ったのだという。
だから徹底的に調べて事実を確認し、生きていると確信して私の跡を追った。
生きていると知られないように、痕跡は消したはず。
どこからそう確信したのか、そう聞いたけれど無言で首を振り濁されてしまった。
アーロンは真っ直ぐ私を見つめる。
その瞳には彼が教えてくれた、かつての私のように、一片の曇りも見つけられなかった。
確かに、こんな瞳で見つめられたら信じたくもなるわね。
「どんな役柄を持つかなど、今の私には関係ない。貴女が違う生き方を望むなら身を引こうと思ったけれど、今はただ、あの国が貴女を自由にしてくれたことを感謝するしかないな。」
気付けば彼の胸の中。
そして唇に触れる優しい温もり。
ヨシュア様は私に興味を持たなかったから、まともに触れ合う男性は彼が初めて。
人の持つ体温がこんなに温かいなんて、知らなかったわ。
なぜだかわからないけれど、一粒、涙が溢れた。
やっと報われたような、そんな気がして。
「私と結婚して欲しい、レイラ。」
現在の名でなく、レイラと呼んだのは私の過去も引き受けるということか。
想定していた結末とは全然違うけれど、私は彼を手に入れた。
『苦難を乗り越え、望むままに欲しいものを自身の力で掴み取る。これこそ正しき悪役の通る花道。』
同盟の参加者である、元悪役令嬢の言葉が蘇る。
思わず昔を思い出して眉間に皺を寄せ、注がれる視線を受け止める。
「本当に殿方は節度を保つのが苦手ですわね。」
頬が赤いのは…まあ、格好がつかないが仕方がない。
アーロンは仕方ないな、とでもいうような苦笑いを浮かべる。
「それで、貴女の返事は?」
「もちろん受けるわよ。今更手を引くなんて言わないでね。」
台詞だけ聞くと悪役そのものだ。
そのことが可笑しくて、向かい合う私達は心からの笑顔を浮かべる。
それから再び唇を寄せた。
そうよ、悪役令嬢は誰よりも賢く、強かでないといけない。
そして裁かれるその日まで、私達は高らかに笑うのだ。
いかがでしたでしょうか?
下書きのあるお話はここまで、お楽しみいただけると嬉しいです。