笑顔の中身
”虎が獲物を探す声に恐れを抱いた兎は耳を塞いでで穴に頭を入れた。何も聞こえない見えない中で、兎は安らぎを得た。後ろから忍び寄る虎が牙をむき出している事も知らず。
かつての繁栄は希望を与え絶望を呼んだ。国民は自らの責任を放棄し、国は国民を裏切った。
時間の経過は危機感の怠慢を呼び、それを嘆く小さな声達が我々を地上に産み落とした”
五月十三日。警視庁公安部 部長室。
スーツ姿の中野は黒く艶やかな良く使われた革のソファーに座って到着を待っていた。
鼻歌を歌いながら出された珈琲の香りを楽しみ飲む。そこに「またせてすまん」と扉を開け、
中に入って来たのは佐々好古公安部長。中野とは防衛大学校時代の同期である。足を悪くしている様で、
杖を突いていた。自分の名前が書かれた机の椅子に腰を下ろし、中野らの活動について話すのだった。
「お前たちの活動に公安部としても助かっている。危険と分かっていながら野放しの輩が多いからな」
「芽が出てからではこの国は遅いからな。なに、楽しくやっているさ」
「まぁ今回のテロは防ぎ様も無かった訳だが……」
「新しい情報は入っているのか?」
「それがいまだ進展無しって所だな」
彼等の監視の目を逃れ活動する者達。彼らの足音は確実な一歩を踏みながら近づいて来る。
公安部は全力を挙げ犯人の情報収集に乗り出し、しかしその努力の種はいまだ花を咲かせずにいた。
犯行声明も無ければ要求も無い。個人なのか団体か。ただ確実に言える事は、
訓練を積まれた狼だと言う事。ハッキングを掛け周囲の監視カメラを無力化し、
手際良くその計画を実行することが果たして一般人、少しの知識を得ただけの人間に出来るのだろうか。
その答えは否。新たな脅威のは公安の目をくぐり芽を咲かせた。目黒事件はそのあいさつ代わりだと、
中野と佐々は考えた。狼は必ず次の手を打つ。そして中野は大いに笑い苛立ちを見せた。
そんな彼を少しだけ畏れを含ませた目で見つめながら、また悪い事でも考えていると手のひらに汗をかく。
「そいつ見つけたら逮捕するのか?」
「出来ればそれがベストだろう」
「他を蝕む雑草はその根ごと焼き尽くすのが最適だよ」
窓を少し開け空気を入れ替える。だが窓の外からやってくる風は新鮮と言う言葉とはかけ離れた、
都会的な苦みを含んだ少し欝々とさせる生温かな風。懐から取り出したパーラメントに火を点けて、
煙を肺に送る。煙は細胞を破壊しその代償に安らぎを与えた。
外から聞こえてくるのは車の行き交う音、上空を飛ぶ警察のヘリコプターの羽音。
どれも機械的で小鳥の囀りに思わせるには無理があった。この場所も一世紀を遡れば囀りを聞けるのか。
口から副流煙を履きながらそんなことを言い合う。かつて世界に不満を抱いていた二人は、
今ではその法と秩序を守る番人になっていた。佐々が灰皿に吸いかけの煙草を置く。
中野は別に行く所があると言ってソファーから腰を上げるソファーに付いた、
中野が座っていたと言う確かな証拠がゆっくりとその形を消していく。また寄れと佐々が声を掛けた。
「そう言えば、お前が引き取った楽園組はどうだ」
「今の所異常無く育っているよ」
「あれは特に貴重なんだ。大事にしろよ」
扉を開けて待つ佐々の部下にありがとうと笑みを浮かべ部屋を後にする。
すれ違いざまの中野の表情に違和感を感じ彼が去った後で佐々に尋ねた。彼は何者なのかと。佐々は、
灰皿の上の煙草を掴んで吸うと、窓の外を見て下にある中野が乗り込んだ車に手を上げながら、
「知りたくもねぇな」と笑って煙を吐くのだった。それ以上は聞かないでおこうと部下は心に決めた。
十七時十三分。
副班長の谷丘は全員を集め今日の作戦内容についての説明を始めた。
「男の名前はハオ・シェン。中国公安の工作員。表向きに中華料理屋を営んでいる。
店の閉店時刻は十九時。事前の調べで奴が店の鍵を閉め、二階の部屋に戻るのは十九時五十分頃。
お前達の任務は速やかを持って奴の身柄を捕縛し、指定された場所まで輸送する事。
今回武器の使用は最低限、拳銃のみの携行とし、基本的には必要以上の危害を加えないものとするが、
標的が抵抗して武器を所持した場合、死なない程度の反撃を許可する。
班編成は前回の作戦と同じで行く。現着予定一九四五。作戦開始は二〇三○とする。」
「了解」
任務についての説明時、彼らにはその者の詳細は知らされない。今回も何故この男を捕まえるのか、
この男にどんな容疑が掛かっているのか、班長及び副班長以外その事は知らされない。
知る必要がないのだ。彼らはただ与えられた任務を遂行する。
その任務の背景にどんな政治的事情等があろうとも、遂行する彼らにとってその情報は、
何の意味も持たない。繰り返すが彼等には警察の様に、犯人逮捕に必要な書類も大義名分も存在しない。
あるのは任務完遂その一つ。それはまさにプログラムされた機械と変わらない。
機械が指示通り動く事に対して、何故それをしないといけないのか、誰が何の目的でするのかなど、
問いはせずましてや疑問に思う思考すら持たない。
「何度も言うが今回は殺すなよ。特に竹田」
「りょーかい」
作戦の概要の説明が終わる頃、ニコニコクリーンの社員の一人が夕食の弁当を運んでくる。
各自時間内までに食事を済ませ、出動の声が掛かるまで時間を潰す。太一は武器庫に行き拳銃を取る。
引き金を二、三度引きその感触と音を確かめる。丁寧な手入れの施しが音に現れる。
「良い音だ」拳銃を戻し鍵を掛けてその場を去る。それからはイヤホンを耳に差し込み本を読む。
イヤホンから漏れ聞こえてくる音は流行りのアイドルの歌やロックでも無く、
往年の歌謡曲や洋楽でも無い、無限に続く砂嵐の音。
余計な考えが音の中に消えより無感情な自分を作り上げる。感情を持たない事が任務の成功率を上げ、
相手に確実な死を与えると、太一の心の深くにまでそれが沁み込まれていた。
そんな太一に來の記憶の底に沈められた過去が一瞬蘇り、どこか悲しげな表情を向けていた。
出動の時間がやって来た。防弾ベストにフェイスマスク。防弾ベストは二型を着用する。
ベストに付けられたアクセサリー類を確認して予備弾倉を二つ入れる。拳銃を肩ホルスターに差し込み、
落下防止のカバーを掛ける。ベルトに付けたカランビットナイフを取り出して蛍光灯の光にかざすと、
刃の部分を上から下にその光がなぞり均一の反射を見せる。準備は整った。
武器庫の鍵を仕舞い込んで階段を上がり車に乗り込む。ライトを付け正面を照らした車を
目標地点まで車を走らせた。筋トレ終わりの竹田の体が蒸されて車内は今日も暑苦しかった。
外はすっかり太陽が姿を隠し、細く尖った三日月が、怪しげに銀色の光を放っていて、
その光を塞ぐように雲が月を隠す。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
普段笑っている人が実は一番怖いと最近実感しました。
次回も是非読んで頂けたらと思います。