第一話 卑しい体(2)
なぜ今、そんなことを思い出しているのか。
沙耶は歯磨き粉を絞り出せない自分の握力を信じられずに、そのチューブの先から必死に歯磨きをする分だけの量を絞り出そうと奮闘していた。はぁはぁと息が切れる。
いつもならたったの数秒で行えるはずのことが出来ない。
「ちょっと、もう、嘘でしょ。」
せっかく気合を入れて持ち直した心が重くなる。
鉛を飲み込んでしまったかと思えるほど、ずっしりと心にのしかかってくる重圧に負けそうになっていく。
「んん~~っ!」
ようやく毎回と同じ分量・・・の半分を絞り出した時点で、沙耶は観念したように歯磨き粉のチューブを定位置に戻した。仕方がない。今はこれくらいにして、次からは何か別の方法を考えよう。
しゃこしゃこと歯を磨きながら沙耶は疲れた体で茫然と思う。
歯磨きでコレなのだから、きっと今後の生活は不便だらけに違いない。
人間に会ったこともなければ、触れたこともないので、本当にどれだけの非力さになってしまったのかはわからないが、想像するとまた落ち込んでしまいそうなので、沙耶は何も考えないように頭の中から現実を排除しようとしていた。
「はぁ。」
水が当たり前に出せるのはひねるタイプのものではなく、自動センサー式の洗面だからに他ならない。
今ではどこの場所も自動センサーかボタン式だが、最近流行りのサイコパス方式だったらきっと水すら出せなかっただろう。念力なんて、元から苦手だったのに今では欠片も残っていないに違いない。
「ん?」
洗面所を出て、朝の空腹感に脱力しながら沙耶は非常食を口にすることを決める。そうしてここ数日の定番となった位置に座るなり、沙耶は数日前に買った雑誌に目がとまった。
雑誌は大学生になったのだから、大人の女性らしくなろうと初めて購入したジャンルのもの。
雑誌名は「SHISO」。人鬼たちが憧れる存在、始祖らしさを追求する大人女子のための教科書といっても過言ではないと、誰もが二十歳になるころには読み始める雑誌。
「凛音ちゃん、やっぱり可愛い。」
カリスマモデルの峰岡 凛音は、SHISOの専属モデル。来年で創刊二百年を超える長寿雑誌だが、その二百年もの間、ずっとトップモデルなのだから知らない人はいないだろう。
凛音を含め、始祖と呼ばれる人たちはそれこそ、人ではない力を操ると聞いたことがある。
人鬼ではなく、昔は伝説上の生き物とされていた吸血鬼が最初に誕生したのは今から約二千二百年前のことらしい。その最初に誕生した彼の名前はエヌマといい、人間の血を飲むことで若い姿のまま今もなお世界のどこかで永遠の時を生きているという。その彼と人間のハーフが今世に生きる「人鬼」の元になったといわれている。
人鬼は吸血鬼ではないので、人間の名残として食事をとらなれば生きていけない。けれど、始祖と呼ばれる彼ら吸血鬼は血を飲むことだけで永年の時を生きられるらしい。
「もう三百二十七歳なんだ。全然見えない。」
自然と感じたことが口をつく。
「人鬼でも三百年が寿命なのに、始祖の血ってすごい。」
そして同時に羨ましくもなる。
人鬼ですらなくなった自分が、始祖になれるなど夢のまた夢の話。
非常食を口にしながら鼻でため息をついた沙耶は、雑誌の表紙を見なくて済むように背表紙をむけて床の上に置こうとした。そして手が止まる。
「ルノック医院?」
指先が当たってめくれた背表紙のすぐ真裏が広告になっていたのか、今の沙耶にとって興味深い内容がそこには書かれていた。
「ひとりで悩まないで」
「始祖の力であなたの人生を豊かに」
いかにも怪しいキャッチコピーだが、そこに掲載されていた体験者の声が沙耶の興味を一気にかきたてる。
「元人間でしたが、この病院で治療を受けて今では始祖と同じ力を手に入れました。」
ドキドキと心臓がうるさい。
元人間ですら始祖になれるのだから、人鬼から人間へと変わってしまった体なんてあっという間に始祖にしてくれるかもしれない。期待してはいけないとわかっていても、沙耶はそのうたい文句にまんまと魅せられていた。
人間になったことをまだ受け入れるのは難しい現実で、逃げられる場所を探していたのだと後から考えてみればよくわかるのだが、今の沙耶にとってはわらをもすがる思いでその病院に希望の光を感じていた。
もちろん、宣伝の内容を信じたわけではない。
でも、幸いにも休日でもやっているらしいその病院に午後から行ってみようと、沙耶は住所を検索して一番近い診療所を探し始める。
「あ、あった。」
本院は東京だが、関西でも大きな分院が本院並みに設備を整えて開院しているのを見つけた。
病院長は残念ながら広告に載っている人ではないようだが、それでもきっとこの悩みを解決してくれる場所にはなるだろうと沙耶は期待に胸を膨らませていた。