必然の出逢い(3)
マンションのオートロックの番号を押し、エレベーターで必要階までのぼり、廊下を足早に歩いて無事に自室へとたどり着いた瞬間、沙耶は靴を脱ぐのも忘れて冷蔵庫へと飛んで行った。
「っ~~~うっ…っ」
涙が出るほど悔しくてたまらない。
どうしてこんなにお腹がすくのか、飢えが空腹を助長させるのか、口に含んだ果物では何の足しにもならない。口の中は甘酸っぱく酸味が広がるイチゴの味も、ノドすら潤してはくれないのだから泣けてくる。
「まま。」
二十歳を間近に控えた女の子が母親を無意識に呼ぶなど、きっとほかの同じ年頃の子は経験したことがないだろう。現に沙耶の通う大学の同級生たちは、異性とのパーティーに喜んで参加を表明していた。
本来なら、沙耶もその輪の中に入って自由と青春を楽しんでいたはずだった。それがここ数日、自分の体の異変に突如として襲われた沙耶は、誰にも言えずに哀れな日々を過ごしている。
「はぁ。」
ぐるぐるとお腹が鳴るのは今日で五日目。
明日は休日。
なんとか恐怖の一週間を過ごし終えた沙耶は、脱力したように自宅の天井をみあげて溜息を吐いた。
「おなかすいた。」
イチゴの甘さで少し思考回路が落ち着いたのか、沙耶は靴を脱いで立ち上がる。
「あ。」
まだ貧血のように体はふらふらとしたが、部屋にまでたどり着けないほどではない。
我ながら情けないと思う。
大学の進学を機に一人暮らしを始めてまだ一か月もたっていないというのに、このありさまでは実家に帰るにも帰れない。心配で倒れそうだという母を説得してくれた父は、沙耶がアルバイトをしなくてもいいようにと仕送りまで用意してくれていた。勉強に専念し、友人をたくさん作り、これから生きていくための経験をたくさんしてくるといいと言ってくれたあの日の光景が脳裏に浮かぶ。
「ごめんなさい。」
最初に感じた違和感は、関西の土地に足を下したあの日から。
「いただきます。」
沙耶は、机の上に広がる大量の非常食のひとつを手に取ってその封をきった。
もぐもぐと咀嚼する音だけがむなしく部屋に響き渡る。
現代の人間は食べ物をほとんど口にしない。
それは、食べ物を口にしなくても生きていけるだけの体を持っているからだが、必要な栄養素を補うために最低限の食べ物は口にしなければならない。普段は一か月に一度ほどで事足りる行為。それも少量。昔の人間は毎日三食の食事をとっていたそうだが、今では誰もそれはしない。
食べる行為は恥辱のものとして、秘める時代。空腹は卑しいものの証。
月に一度しか口にしない食事は高級なものとして、厳選されたものでなくてはならない。
「ぱぱ。」
愚かな娘を許してほしい。
沙耶が口にするのは、高級なものでも厳選されたものでもなく、非常食として安価で売られているただの栄養素が詰まったスティック状の食べもの。
「私、病気なのかな?」
ここ数日、同じ疑問が沙耶の口から吐き出される。
病院には行っていない。
まだ馴染みのない土地で医者にかかりたくなかったし、急に変わった生活に慣れない心配を両親にさせたくはなかった。沙耶は悩んだ挙句、こうして非常食を口にしてその空腹感と戦っていた。
「おいしくない。」
自慢じゃないが、それなりに裕福な家庭で育ってきたように思う。
月に一度の食事会は、両親に連れられて豪華なホテルで食事をとるのが恒例だった。新しいドレスで着飾って、食べるものを厳選して家族三人で楽しく笑いあっていた。今となっては遠い過去のようだが、一人暮らしを始める以上、もうその豪華な食事会も毎月のように参加はできないだろう。それより、毎月そのたった一日のためにこの空腹感は耐えられそうにない。
大学の売店、コンビニ、スーパー、自販機など、大学と家の往復で少しずつ立ち寄り手に入れた非常食は、もう今月の仕送り分を使い果たす勢いで買い占められていた。
「っ?!」
鞄に入れたままだった携帯がなる。
「は、はい。」
慌てて飲み込んだ非常食の味がわからなくなるほど、沙耶の心臓はバクバクと変な鼓動を始めている。
ノドがカラカラに乾いていくが、電話越しの相手が心配そうに名前を呼ぶ声を聴いて沙耶はごくりと平静を装うことにした。
「ママ?」
「どう、そっちの生活には慣れたかしら?」
懐かしい声。たったの二週間で会いたくなるほど優しい声。
「沙耶、一人暮らしは大丈夫?」
元から心配性で、一人娘の身を案じてくれるのは嬉しいが、時々それが行き過ぎるほどの愛をくれる母。そばにいたときは鬱陶しいと思ったこともあったが、今でもそばを離れずにいれば、この空腹感の正体を一緒に解決してくれただろうか。
「沙耶?」
「あ、あ、うん。大丈夫だよ、元気にやってるから。」
「そう?」
すべて疑問で納得のいっていない母にかわるように、今度は父が電話越しから声をかけてきた。
「大事ないか?」
「ぱぱ、うん。ありがとう。」
「血が飲めそうな相手は見つかったか?」
「ッ。」
ドキリと息が止まったのは気のせいではない。