第三話 盟約の接吻(7)
「裸エプロン見て、喜べるんは女の子限定やわ。」
「ほっとけ。熱ぃんだから、別にいぃだろ。」
パタパタと手であおぐ構えを見せた壱月の仕草を霧矢は見上げる。
「そりゃ、好き放題食べたら熱くもなるやろ。」
おかげでこちらは後始末に変な体力をつかった。
沙耶の傷跡がなくなっていることに霧矢の思考を察知したのだろう。壱月はクスリと笑って霧矢に顔を寄せる。
「なんなん?」
不思議そうな表情も見せずに、霧矢は至近距離に迫る壱月の視線を受け止めていた。
見つめ合う男性二人。唇の隙間から除く牙がその喉元をえぐりたいと願っているのか、お互いに吐息がかかる距離から一向に動こうとしない。
「いや、別に。」
「きしょくわる。」
ふいっと顔をそむけた壱月に、霧矢が冷めた視線を送る。
その視線の先はふたりそろって沙耶の寝顔を見つめていた。
「なぁ、霧矢。」
「なに?」
沙耶を見つめたまま壱月が疑問を口にする。
「こいつの血、飲んでどう思った?」
裸エプロンでなければ真剣に聞こえたかもしれないその質問に、霧矢はくすりと笑って沙耶から壱月に視線を変えた。野生の光が宿る端正な横顔。煙草を吸っていない壱月の横顔には、独特の危険さが漂って見える。
沙耶の血を飲んだからかそうかはわからない。
けれど、自分が感じた感触を壱月も感じたのだとすれば、その疑問を表現する答えを霧矢は持っていた。
「疼く。が、一番近い表現やろか。」
壱月の視線も沙耶から霧矢に流れる。
その振り返り方に、ぞくぞくと背筋に悪寒が流れるのは気のせいじゃないだろう。
「ああ。」
獰猛な獣の気配を隠すことなく笑った壱月に、霧矢の雰囲気もガラリと変わっていた。
普段は温厚な気配をまとう霧矢が見せる裏の顔。いや、こちらが本性ともいえるその雰囲気は色気と気品さが宿った、ただならぬ崇高な力を感じさせる。
「ただの人間ちゃうやろ?」
そこでまた霧矢と壱月はそろって沙耶に視線を戻す。
見た目はただの少女。人鬼としても人間としても十九年の時しか生きていない幼い器が、なぜこれほどまでに自分たちを魅了する血を持っているのか。胸中は謎が渦巻いている。
霧矢も壱月もその正体がわからないだけに、沙耶の存在そのものに興味がわいていた。そして同時に、これから先、沙耶がたどるであろう数奇な運命を想像して、知らずとゴクリとのどが鳴りそうになる。
「猛毒やったりしてな。」
今度は霧矢の疑問の声に、壱月がくすりと笑った。
たとえ猛毒だとわかっていても、極上の血を持つ唯一の人間を目の前にしてその血を飲む行為をやめることができただろうか。答えは、否。飲む前であれば、その体から放たれる甘美な香りを避ける方法はいくらでも思いついたかもしれないが、もうその味を知ってしまった以上、耐えることは不可能に近いだろう。
理性以前に本能が止められない。
だからもう、飲まずにはいられない。
美味しいとか、不味いとかいう問題ではない事実に、壱月も霧矢の意見に賛成を示す。
「かもしれねぇぜ?」
ぺろりと形のいい唇が、そろって沙耶の寝息に牙を見せていた。
このままその柔らかな肌にこの鋭い牙を突き刺せば、彼女はどういう反応を見せるだろうか。恐怖に染まりながら強制的に与えられる快楽をむさぼるように溺れていく若いつぼみは、大輪の花を咲かせる前に枯れてしまうのだろうか。それとも慈悲を乞い、哀れにひざまずいて悪魔に懇願するのだろうか。
生と死の狭間の中で、すがりつくように伸ばされる腕は、その指先まで震えていることだろう。
それらのすべてが他の誰でもない、自分たちの手にゆだねられているのかと思うだけで、ぞくぞくとたまらない興奮が霧矢と壱月を襲っていた。
「猛毒じゃなくても、中毒はあるなこりゃ。」
壱月が自嘲気味に笑みをこぼす。
「見てるだけでたまんねぇ。」
その低い声が感じさせる魅力に、眠る沙耶の顔がわずかに歪んだ。
伸ばされる腕、血の気を失って青白く変わった冷たい体。それでも聞こえる小さな心臓の音と、やわらかく吐き出される寝息に、意識のすべてが彼らを鬼に染めていく。そんなことなど露も知らない沙耶は、ただ体が求めるがままに今は睡眠という行為に従事ていた。
眠らなければ、確実に死んでいただろう。
一晩のうちに彼らの牙に抜かれた血液量は、人間としての許容範囲をわずかに保つ量で止まっていた。
「…っ……ん」
ここで再び牙だろうが、爪だろうが、刺されでもすれば失血死は必須。
「壱月くん?」
「んだよ。」
静かに沙耶の寝息を楽しんでいた壱月の肩に霧矢の手がポンっと軽く合図を送る。