第三話 盟約の接吻(6)
せっかく最上の一服を楽しんでいるところなのにと、壱月は霧矢の文句にふわふわと白煙をゆするだけで応えた。それを霧矢は目を細めるだけで受け止める。
つかの間の静寂。
どうやら勝利は余裕のある壱月が敗北を認め、不服の残る霧矢のほうに軍配が上がったらしい。
「飯、つくってくらぁ。」
よっこいしょと、壱月は重たい腰をソファーからあげる。
「目に毒やから、全裸のまんま作らんとってな。」
「あいよ。」
均整の取れた裸体を惜しげもなく披露する壱月に、霧矢は鼻にこめた深い息でそれを見送った。
肩から背中にまで描かれた爪痕は男の勲章。
血に飢えた野獣たちに連続で血を抜かれた沙耶につけられたその傷は、霧矢の肩にも昨夜、刻まれたばかりだった。
「やっぱ、治るん遅いなぁ。」
霧矢は自分の体ではなく、沙耶の体中のいたるところに残る牙の後をそっと指でなぞる。
「壱月くんのは太いから、余計目立つわ。」
ピクリと条件反射で動いた沙耶の体に、クスリと笑いながら霧矢はぺろりと唇を舌で舐めた。
沙耶の味がよみがえってくる。
甘くてドロリとした濃密な血の味。
千年ぶりに口にした魅惑の液体は、過去の記憶の中でも味わったことのないほど巧妙で繊細な味がした。
「めっちゃ好きな味なんがタチ悪い。」
沙耶のせいではないのに、まるでこの状況を招いているのは沙耶のせいだとでも言いたそうに、霧矢は泣きぬれた沙耶の瞳に唇を寄せる。んっと、沙耶が体の軋みを訴えるように眉をしかめた。
「男の痛みは、男で消すんが一番やて知ってる?」
「っ…ん…ッぅ…ぁ」
力が入らないのか、人形のように脱力した沙耶の様子に霧矢の口角が三日月形に歪んでいく。
「可愛い、可愛い、お人形さんみたいやな。」
血を提供するだけの哀れな傀儡。それでもその器の中に入っている血が極上の代物であれば、誰にも秘密にしておきたいと思うのが人の性というもの。
始祖も人鬼も関係なく、求めるものは欲望という名の本能を満たすものだけ。
人鬼は二百年余り。始祖に至っては気の遠くなるような年月を共に過ごすだけではなく、互いにその血を飲んで生きていかなければならない。それがどれほどのものか、血を提供するだけの人間にはわからないだろう。
いつまで続くかもわからない絶望と、置き去りにしようと流れていく時代への執着。
「手に入れたからには、簡単には終わらせへんよ。」
気が狂いそうな千年を生きて出会った極上の人形を簡単に殺すことなどするはずもない。
「女はひと時、友は一生。」
霧矢は沙耶のまぶたから唇を話すと、歌うように今度は沙耶の腕を持ち上げる。
「人間は最高のスパイスみたいなもんや。」
くすりと、その唇を霧矢は沙耶の傷跡へと口づけた。
穴の開いた可哀想な肌はなぜか次の瞬間、何もなかったころのように綺麗な肌に生まれ変わる。次々と、捕食された箇所を埋めるように、霧矢の唇は沙耶の傷跡を治していった。
この程度のことは、始祖であれば造作もないこと。
傷跡のひとつやふたつ治すばかりか、人間であれば死んでいてもおかしくない状態でも生きていける。
不老不死。それが、始祖。
見つめるだけで操作することも、幻覚をみせることも、自分たちの体を煙のように一瞬して別の場所へ移動させることも不可能ではない。人外の生き物。それが始祖。
「はい、綺麗に治ったで。」
霧矢は今だに意識の戻らない沙耶をソファーに寝かせながらニコリと笑う。
何がそんなに彼を有頂天にさせるのか、それは当の本人もわかってはいなかった。
そのとき、ふと気配を感じて霧矢は顔を上げる。
「霧矢、てめぇも遊んでねぇで手伝えよ。」
仁王立ちもいいところで、壱月が霧矢と沙耶を見下ろすようにそこに立っていた。だが、いくら骨格がいいからとはいえ、男の裸エプロンだけはいただけない。
「んだよ。いいじゃねぇか、べつに。」
視線で訴える青い瞳に気づいた壱月は、減るもんじゃないしと、たばこを灰皿に押し付けながら霧矢をあごで先へ促す。安易に食事の用意を手伝えとその睨みが告げていた。
はぁ~と、何とも言えない霧矢のため息がわずかに流れてきた煙の匂いを誤魔化すように流れていく。
「そりゃ壱月くんは何も減るとこないかもしれへんけど、僕は確実に何か減ったで。」
「何が減るんだよ、なにが。」
「なんやろ。夢とか希望とか、」
ぶつくさと指折り数え始めた霧矢に壱月の顔が引きつっていくも無理はない。この肉体美に溢れる裸体を見て、夢や希望が減るとは何事かと、霧矢を眺める壱月の目が物語っていた。




