第三話 盟約の接吻(4)
突き刺さった牙のせいで、上にも下にも前にも後ろにも動かせない沙耶の舌は新鮮な血を壱月に提供していた。
ピリピリと舌先が痺れ始めたのは、壱月の牙のせいではない。
受けつけなくなった血の味でも、しがみついている腕のせいでも、不慣れな体制のせいでもない。
原因は、正直言って、わかるものではなかった。それなのに体の異変ははっきりと感じている。
「はぁ…っ…はぁ…っはぁ」
乾いたノドの隙間から、風が出ていくように沙耶の吐息がこぼれていく。
見開かれた瞳には、いつの頃からか壱月の顔しかもう見えていない。
「はぁ…っ…はぁ…っはぁ」
沙耶の吐息に少しずつ熱がこもり始めていた。
「はぁ…っ…はぁ…っアァア───」
突き刺さったものが止血する役目も果たしていたに違いない。突然引き抜かれた壱月の牙のせいで、沙耶の口の中は穴の開いた舌で真っ赤に染まっていく。
痛いというより、熱い。
やけどしそうなほど舌の先にピリピリと感じる熱さは、呼吸の音でさえ沙耶の耳には届かなくさせる。
とくとくと可愛らしく流れていく血が、飲み込めないまま唇を伝い口から溢れていくのがわかった。
「舌、出しな。」
ニヤリと勝ち誇ったような表情で壱月が沙耶のホホを包むこむ。
「───っンぁ…い…つき…さ」
上を向かせるように包み込まれた頬の端を涙がつたっていくのが見えた。
それは唇の端から流れていく血と一緒に、あごで混ざり合いながら沙耶の首筋に赤い線を描いていく。
見つめ合ったままの男女。
霧矢が面白くないといった風にため息を吐きかけたところで、沙耶の口の中央で裂けた舌の実が姿をあらわした。
「っ~~んっふ…っ…ぁアッぅ」
声なんか出したくないのに、条件反射なのか何なのか、血で潤った声帯から勝手に音が漏れていってしまう。
熱くて熱くてたまらない舌先が、もう一度壱月に吸われ始めたと思ったときには、意識が飛びそうなほどの快楽が沙耶を襲っていた。
ピリピリとした痛みと引き換えに、ぞくぞくとしたものが体の奥に舞い込んでくる。
それがまた引き上げられるように舌先から壱月の口内に吸い込まれ、また何かわからない媚薬のようなものが体内に戻ってくる。何度も何度も繰り返されるその投薬に、沙耶の声は色気を増して壱月にしがみついていた。
「ッン…っ…はぁ…~んくっ」
このまま永遠に止めないでほしい。
甘い痺れをくれる口づけがなくなるくらいなら、この体の血を全て捧げてもいいと思えるほどの快感が沙耶に与えられていく。
「ヤッ?!」
ヤメナイデ
沙耶は自分の意志とは無関係に、壱月を求める本能のままにその体を抱き寄せた。
少し驚いた壱月の顔が間近で優しく微笑んでいる。
「俺のは霧矢と違って気持ちイイだろ?」
ソファーの上で見つめ合う体制のまま、沙耶は壱月にうんうんとうなずき返す。
同じ血を吸われるなら断然壱月のほうがいいと、沙耶は素直にその質問へと答えていた。誰だって今の状況とタイミングでその質問をされれば、沙耶と同じ回答を口にするだろう。
「気持ちいいです。」と。
「沙耶ちゃん、騙されたらアカンで?」
「ッえ?」
「得意分野はひとそれぞれや。」
それは一体どういう意味だろうと霧矢に向いた沙耶の視線が、グイっと壱月に元の位置へと戻される。
騙されるも何も、先ほど体感したものを疑う余地はない。
霧矢に血を吸われた時は全身が切り裂かれたのではないかと思えるほど痛かった。痛くて痛くて死んでしまうかと思ったほど怖かったけれど、それに比べれば壱月の血の取り方はなんと素敵なことだろう。
「痛いのは嫌いか?」
頬を両手で包み込んだまま見下ろしてくる壱月の問いかけに、沙耶は再度首を縦に振った。
痛いことは誰だって嫌いだと思う。
好きだという人を聞いたことがないが、まあ世の中には実際そういう人もいるかもしれないが、沙耶の知っている限りでそれを好む人は知らない。たとえ人鬼であっても痛いものは痛いし、致命傷を負えば死ぬのだから、それは当然の感覚だろう。
そのうえ、沙耶は人間。
痛みを感じる感覚は、人鬼の比ではない。
「だろうな。」
わかったうえで聞いていたのか、壱月はふいにクックっと意地悪な笑みを浮かべる。
「っ?!」
ぞっと、悪寒が背中を駆け抜けた。
この感覚は知っている。
「え?」
沙耶は霧矢のときのように、一瞬で喉元に食らいつかれることを想像していたのだが、現実は全然違った。
壱月は微動だにせずに、ただじっと沙耶を見下ろしている。