必然の出逢い(2)
気絶したくてしたのではない。
いきなり目の前にゾンビのような怖いおじさんが現れて、しかもそのおじさんが襲い掛かってくれば、誰だって驚いてしまうに違いない。意識を失ってしまったのはきっと、痴漢だとか強姦だとかの比で無く、本当に殺そうと爪と牙をむき出しにした異常さについていけなかったからだと思う。
ぼんやりと薄れた意識の中でそんなことを考えていた沙耶は、ふいに聞きなれない男の呼びかけに気づいた。
「おじょうちゃーん。起きやぁ。」
ぺちぺちと可愛らしい音が夢見心地の沙耶のホホを何度もたたく。
「起きひんかったらこのまま連れて帰ってまうでぇ。」
冗談なのか本気なのか、歌うような軽い声で男は沙耶の顎をもちあげて、その首筋に舌を這わせる。
その違和感にピクリと沙耶の意識は現実へと帰ってきた。
「おっと、声出したらアカンよ。」
顎をつかんでいた男の手が、沙耶の口をふさぐ。
首筋から聞こえてくる声の主が誰かは知らないが、突然、背の高い男に抱きしめられ、腰を引き寄せられて口までふさがれた身としては抵抗以外の何もできない。
「ンンッ?!」
誰なのかはわからない。
先ほど襲ってきた男とは違うようだが、あきらかに普通とは思えない雰囲気に沙耶は混乱の声を上げて暴れていた。
「だから、声出したらあかんやろ?」
「ンッ?!」
驚いたとか、もうそういうレベルの話ではない。
顔を上げて、見下ろしてくるように覗き込んできたその人物には見覚えがあった。
有名な都市伝説。
西を支配する夜の帝王と名高い、青の麗人。
「はむっんンンんや!」
冴鬼 霧矢と口にしたかったが、その本人に口をふさがれているのだから仕方がない。
沙耶は見開いた目の中でその端正な顔がにこりと笑うのを見た。
「女の子がこんな時間にあるいとったら危ないやろ?」
ゆるく首を傾けて、霧矢は沙耶を解放する。
「あ、えっと。」
思いがけず解放された体についていけず、沙耶は混乱気味にお礼を口にした。
「ん、ええよ。」
本当はどう思っているのか、いまいちつかみどころのない雰囲気に圧倒されそうになるが、彼の向こうに見える男性の死骸を見る限りではどうやら助けてくれたことに間違いはないだろう。
どうしてこのような状況になっているのかはもちろんわからない。
運がいいのか悪いのか、沙耶は今朝、大学の友人から教えてもらったばかりの有名人と夜の路上で見つめあっている。
「助けていただいたみたいで、ありがとうございます。」
小さな声でぺこりと沙耶はお礼を口にした。
今度はさっきとは違い、目的を持ったお礼として口にしたのだが、霧矢は反応しない。不思議に思って顔を上げてみると、沙耶はじっと霧矢が見下ろしていることに気づいてまた慌てて頭を下げた。
そして同時に、沙耶のおなかは盛大な音をたてて空腹を響かせた。
「あ、あの、違うんです。これは───」
もっとタイミングを選んでくれればよかったのにと心から思う。
人がおなかをすかせるなど聞いたことがない現代で、きっとこの生理現象とも呼べる未知なる音は変に思われたに違いない。
「おなかすいてるんやろ。」
「───え?」
今度こそ沙耶は自分の顔をはっきりとあげて、霧矢を見つめ返した。
今のは聞き間違いじゃないだろうかと、自分の耳さえ疑えてくる。
「いっ今、なんて?」
聞き返すのは正直怖かった。
おなかがすいていることを受け入れてくれる存在などいないと思っていた沙耶にとって、今聞いた言葉の意味は常識を覆すかもしれないほど重要な意味を持っていた。それを知ってか知らずか、霧矢は少し意外そうな表情を見せた後でやんわりとほほ笑む。
「はよ帰って、なにか食べ。」
ポンポンっと頭を撫でる手がなぜか涙が出るほどやさしかった。
実際、目頭が熱くなったが沙耶は気づかないふりをしてじっと地面を見つめることにした。数回の往復ごとに感じる霧矢の手の重力が心地いい。誰かに認めてもらうことが、こんなにも心まで軽くしてもらえることだとは思ってもいなかった。
そしてふと頭が軽くなる。
「あ!」
次に顔をあげたとき、そこに彼の姿はなかった。
あるのは静かな夜の脆弱さだけ。どこか遠くでワンワンと犬の鳴き声が聞こえてきたが、霧矢は闇に溶けていったらしい。そのときまた、沙耶のおなかは空腹を訴えるように低い音を吐き出した。
「もう、やだ。」
恥ずかしくてたまらない。
今ここが夜の路上だということを忘れかけていた沙耶は、間近に見えるマンションに向かってその視線の先を変える。そうして足を進めるころには、霧矢によって殺されたらしい男性の死骸はチリとなって風に流されれていく。
誰も不思議に思わない。
死ねばそう、灰と化して自然に返るだけ。