第二話 恐怖の洗礼(5)
もっと血を吸われたい。
そう思っている自分がいる。
「そんな顔で見つめんとって。」
霧矢の指が血の通わない沙耶のホホを優しく包み込もうとしていた。
「っん」
血の味がする。他人の口内から直接味わう自分の血の味を初めて知ったが、予想以上にひどい味だった。
こんなものを両親も知人も飲んでいたのかと思うと、泣けるくらいに申し訳ない気持ちになる。
「ンッ~んぅっア」
真上から体重をかけられて両手でホホを包まれ、いいように口内を舌で遊ばれると変な感覚が湧き上がってくるのはどうしてだろう。
このまま霧矢に全部食べられてもいいと思えてくる。
まったく初対面だといってもいいほど、よく知らない相手でもあるのに、恋人以上に痺れる感覚を与えてくるのはなぜだろう。
「ッア?!」
重なり合う唇の隙間から霧矢の指が沙耶の口内を侵略してくる。
ノドの奥深くまで突き刺さる圧力に耐えきれず、沙耶の嗚咽が霧矢の口の中から聞こえていた。
「あぁ。」
興奮した霧矢の瞳がキラキラと輝きながら、むせかえる沙耶を見つめる。
「沙耶ちゃん、どう。苦しい?」
見てわかるくらい霧矢の手首を両手でどけようと奮闘する沙耶の姿に、霧矢の指はますます力を込めて埋まっていく。のどの奥まで少しずつ、少しずつ。沙耶が抵抗できるかできないかの、微妙な均衡を保ったまま、霧矢は沙耶の喉元までその指先に力を込めていった。
「ッカはっ?!」
沙耶の舌が霧矢の指に逆らうようにつきあがっていた。
それを唇で吸い上げるついでに、霧矢は涙を浮かべたままか細い息を繰り返す沙耶のホホをぺろりと舐める。
「このまま殺してしまいたなるわぁ。」
「ッ~~ごほっ、あ…ッ…ゴホッ」
急に入ってきた酸素にむせ返る沙耶の嗚咽が霧矢の真下でうめいていた。
沙耶は助かったノドの安否を両手で確認しながら、呼吸ができることの喜びにただせき込むことで実感する。
死ぬかと思った。
たった三本の指で殺されてしまう恐怖に、ようやく出来た呼吸でさえガタガタと震えている。
「ッア?!」
真上から両肩に置かれた霧矢の手に、沙耶の顔が恐怖に固まる。
「ぉ願ぃ…~~っ…たす…け…て」
ようやく出てきたか細い声は、沙耶の自信をすべて奪うかのように霧矢に助けを乞うていた。
情けない人間でいいから。
弱い生き物でいいから。
だからお願いします。
どうか命だけは助けてください。と。
「残念やけど、俺は神様とはちゃうんやわ。」
慈悲の心も何もない、にこりと妖艶なその悪魔は涙を浮かべる少女にむかって残酷な現実を告げてくる。
「俺が見初めたからには、簡単には殺してあげへんよ。」
「ッ?!」
もう一度、牙を突き立てようとしてくる霧矢に沙耶の顔が絶望に歪んでいく。
痛いのは嫌だ。
死にたくなるほどの激痛の恐怖を体が覚えているからか、沙耶は霧矢から逃げるように体を反転させてソファーから降りようと試みた。
「逃がさへんって言うたやろ?」
「イヤァッぁぁああァァ」
悲鳴が床に向かって叫び落ちていく。
肩に噛みつかれた牙の跡が、一生残るのではないかと思えるほど深く深く突き刺さっていくのが手に取るようにわかっていた。
「死ぬまでずっと、その可愛い鳴き声を聞かせてもらうで。」
刺さる牙の下から舐め上げる温かな舌の感触が、にじみ出てくる沙耶の赤い血を何度も何度もすくいあげる。
痛いだとか、許してだとか、何も悪いことをしていないのに「ごめんなさい」とすら沙耶は口にして叫んでいた。これほどまでの痛みと恐怖を与えてくるのは霧矢しかいないのに、この状況を救ってくれるのも霧矢しかいない。
見事に仕組まれた主従関係の確立に、沙耶は涙と血ににじむ視界の端で、吸血鬼に犯される少女の姿を鏡の向こうからじっと見つめていた。
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ボーンボーンとお決まりの重低音が夜明けの五時を訴えている。
泣き疲れた沙耶のホホを愛おしそうに撫でながら、霧矢は近づいてくる人物に向かって疲れたような息を吐き出した。
「やばい、めっちゃ眠い。」
朝日など到底入ってこない地下室で、まぶしそうに視線を細める霧矢の表情に壱月はすっと肩をすかせてみせる。
「よく言うぜ。」
まったくと、壱月は先ほどまで拷問を受けているのではないかと錯覚するような沙耶の悲鳴が聞こえていたと霧矢を責める。けれど、当の本人はまだ物足りなさそうに、沙耶のホホを何度も何度も撫でつけていた。
「相変わらず鬼畜にもほどがあんな。」
霧矢の変態行為は数百年前に拝んだきり、すっかり忘れかけていたが、やっぱり人はそう簡単に変わらないらしい。