第二話 恐怖の洗礼(3)
殺すつもりなどなかった。
まれに聞く言葉だが、今の沙耶の心境にはそれが一番しっくりあてはまる。
「あ…っ…だって」
誰も助けてくれなかったのだから仕方がない。
はぁはぁと落ち着かない息を繰り返しながら、沙耶ははだけた服で胸元を隠すように霧矢を見つめ返した。霧矢の瞳に血の気の引いた青白い顔の少女がうつっている。
首から赤い血を流し、今にも倒れてしまいそうな顔で、その少女は殺してしまったかもしれない金髪の男へと視線を流そうとしていた。
「霧矢ぁぁぁ!!」
心臓が止まるとはきっとこういう時のことをいうのだろう。
「てっめぇ、こら。よくも邪魔しやがったな。」
自分の体の上で息絶えたと思った男が、突然大声で怒鳴り散らしながら起きるとは誰が予想できたのか。沙耶は自分の口から飛び出す前に止まってしまったんじゃないかと思った心臓が、混乱するように暴れているのを確信して、必死に落ち着けようと無意識に深い息を繰り返す。
怖いとか、よかっただとか、もう色々な感情が複雑に入り混じりすぎて、どういう反応をすればいいのかわからなかった。
「血ぃ飲んで元気やなぁ。」
「それとこれとは関係ねぇだろ。」
とりあえず、よかったと思おう。
どういう経緯であれ、人殺しにはなりたくない。
ただ、そうは言ってもこのままココにもいたくはない。
無抵抗の女の血を求めるどころか、乙女の貞操まで奪うような野蛮人がいる場所で長居は禁物。関西の地に降り立ってからというものろくなことが起こらないと、沙耶は揉め合う男たちのそばを静かに通り抜けようとした。
「あれ?」
静かに、気づかれないように、ひとつしかないと思われる部屋の入口にたどり着いたと思ったのに、沙耶の体はなぜかソファーの上に座っている。
「ちょっと待って、もう一度。」
意味が分からないが、まだ男たちが乱闘しあっている間にこの場所から逃げ出したいと沙耶は再度脱走を試みた。
「え?」
また入り口に近づいたと思ったとたん、沙耶の体は同じ場所に舞い戻っている。
戻ってきた感覚はない。
自分は確かに入り口の取っ手に手をかけて逃げようと思ったはずなのに、気づけば部屋のソファーの上にいる。
「意味、わからへんやろ?」
「ヒッ?!」
どさっと横に腰かけてきた霧矢に沙耶の顔が恐怖に引きつっていた。
「あぁ、そういや。」
もう反対側に先ほどの死にぞこないが座ってくる。
「ッア…ぁ」
壱月と呼ばれていた男のほうにむけるはずの首が、まるで油の刺し忘れたブリキの人形のように嫌な音をたてていた。
「ッ?!」
実際ここで泣き叫ぶことができたらまだ、どれほど幸せなのだろう。
「鈍器で殴られたお礼がまだだったな。」
沙耶は不可解なこの世の恐怖を両端に携えながら、助けを求めるようにその視線をさまよわせる。
はぁはぁと過呼吸になりそうなほど早くなっていく息にめまいがしてきた。酸素が薄くなってしまったのか、繰り返される息がどんどん苦しくなっていく。
まるで幻想をみているのか、水のない海の中にいるんじゃないかと思えるほど、沙耶の肺は酸素を求めて荒い息を繰り返していた。
「ッキャ!」
ボーンボーンと夜中の三時を表す時計の音が空間を切り裂く。
「お、お邪魔しました。」
沙耶は振り返りもせずに、二人の間から部屋の扉に向かって一目散に走りだす。
ここで逃げ切れなければ永遠に出られない。そう本能で確信した瞬間、沙耶の体はソファーの上で二人の男に抱きしめられていた。
まるで永久の迷路のようだと思う。
「誰もまだ帰ってええて言うてへんやろ?」
恐怖心にかきたてられた涙が、再び沙耶の視界を染めていく。
「俺のお礼を拒んでんじゃねぇよ。」
カタカタと可哀想なほど震え始めた沙耶の体は、綺麗な二人の男の横顔の中で荒い息を吐き出していた。
確かに取っ手に触れた感触が右手の指先に残っている。それなのに通常では説明しがたいような現象が、沙耶の身に起きていた。
犯人は確かめなくても確信している。
両脇から鋭い牙をのぞかせた、この部屋の番人たち。
「ほら、やっぱり怯える顔のほうが可愛いやん。」
ぬいぐるみの気持ちが今なら代弁できるかもしれない。
「無抵抗に絶望した顔のほうが燃えるだろうが。」
食材に選ばれた生き物の声も今ならわかるかもしれない。
「あーあ、泣いてしもたやんか。」
「てめぇが変態だからだろ。」
感情の行き場がなくなった沙耶の瞳から、ぽたぽたと悲しみと恐怖に染まった涙が零れ落ちていった。
泣いても何も変わらないと、過去の人間たちは思ったことがあるだろうか。それでも泣いてしまうほどの恐怖に出会ったことがあるだろうか。あるならぜひ聞いてみたい。無力な人間が、未知なる力を持つ吸血鬼相手にどういう風に戦ったのかを。
「ほら、こっち向き。」
グイっと強制的に向けられた視界の中に、青い瞳がうつる。
彼らの本性を知らなければ純粋にきれいだと思えた瞳は、今ではもう恐怖の象徴でしかない。