第一話 卑しい体(6)
パシンと乾いた音すら響かないのは、ふっと笑った壱月の姿がもう店の中にあるからに違いない。
「くそっ。」
超人的な力を持つ不思議な存在を前に、義治は無力さを感じて舌打ちをした。
自分はこんなにも痛みを感じ、貧血で頭も朦朧としているというのに、彼らは片手で異常者を灰に変え、瞬間的に他人も自分も移動させることができる。
不公平だ。
ただ単純にそんな思いだけが義治の心を立ち上がらせていた。
「ちょっと、俺がいるのにまだ襲わないでよ。」
ふらふらと傷ついた足を引きずって店内に足を踏み入れた義治は、店のソファーに寝かせた沙耶の首元に顔を寄せようとしていた霧矢を見つけて溜息をつく。
殺気のような視線が飛んできたが、霧矢は両手を上げてにっこりと義治の言葉を聞き入れた。
「えらい血ぃ、抜かれてもうたなぁ。」
何がそんなに面白いのか、霧矢は足を引きずって近づいてきた義治が沙耶の寝かせるソファーと対極にある席に腰かけるのをみて、柔らかな含み笑いをこぼす。
「ほら、足出せ。」
いつの間にそこにいたのか、真横に腰かけた壱月の手が義治の足を簡単に持ち上げた。
「やだよ。」
今度はパシンと乾いた音が店内に響く。
力で勝てるとは思っていないが、義治は反射的に自分の足をつかんで持ち上げた壱月の腕をつかんでいた。
「男になおしてもらうなんて、絶対やだ。」
中年男性に噛まれた傷跡は、牙の形に二か所の穴を義治の足に残している。
血が流れてこないところをみると確かにひどい貧血を物語っているが、この程度ならば舐めるだけで治せるといわんばかりに口を寄せてきた壱月を義治は全力で拒否していた。
「せやかて、痛いやろ?」
傍観を決め込んだ霧矢が眠る沙耶の足付近に腰かけて首を傾ける。
ぱっと見は何を考えているかわからない表情も、霧矢がすると何か裏があるんじゃないかと妙に勘繰らせるから不気味だった。現に霧矢の手が置かれた場所は、噛み跡がある義治の足の位置と同じ箇所を示す沙耶の左足首付近。すっと形のいい指先が、何も知らない沙耶の足をなぞっていた。
「~~くそっ。わかったよ。」
たとえ自分が人鬼だったとしても目の前の二人に敵うことはない。
先ほどの狂ったような異常者とはまた違う「異能者」ともいえる存在。
「終わったぜ。」
一瞬にして傷跡を治せる力と移動できる力だけでなく、通常は不可能と思われることを当たり前のようにこなせる特異な生き物。
「ありがとう。」
それが始祖。
彼らは人鬼の中にあって人鬼ではない。彼らは三百年しか生きられない人鬼でもまして人間でもなく、今もなお二千年の時を生きるエヌマ王と同じ血が通う特別な存在。全人類の憧れとして、その力も命も際限なく与えられた神の産物が、義治の目の前にいる。
「何か食べて、ちゃんと寝て、早く血を作らんとアカンで。」
すべてを見透かしたような霧矢の言葉に、義治はふてくされたような顔でうなずいた。
見た目は年が変わらないようでいて、自分の何百倍も生きている人外な存在に勝てる方法は残念ながら見つからない。逆らえば死が待っていることは明白で、沙耶という何も知らない少女を人質にとられている以上、義治の中に抵抗の二文字はありえなかった。
咄嗟に浮かんだこの場所に連れてきてしまったのは自分の無力さに他ならない。
もっと自分に力があれば、たった一人の少女を守ることくらい造作もないことなのに、結果としてみれば義治はけがを負い、少女を危険な目にあわせ、目の前の始祖たちに救われている。
「んで、義治くんはこの子と知り合いなん?」
安易に気絶している沙耶を指した霧矢の問いに、義治は首を横に振って否定する。
「知らない。」
いつの間に用意したのか、壱月が目の前に温かなサンドイッチとコーヒーを置くのを横目に、義治は霧矢の疑問をじっと見つめていた。
知り合いではない。
その答えに嘘はないとわかったのだろう。霧矢はにこりと唇を動かしただけで、安易に義治に食事をすすめてきた。
「いただきます。」
義治は手を合わせてから、そのサンドイッチを遠慮なく食べることにした。
壱月の作る料理は見た目の粗暴さからは想像できないほど繊細な味がして、正直どの料理よりもおいしい。貧血なうえに断る理由も見つからなかった義治は、何の疑問も持たずに、ただ差し出されたものを素直に口にしていた。
「せやけど、バーサーカーに狙われるなんてついてへんかったなぁ。」
バクバクと壱月の作ったサンドイッチをほうばる義治に、しみじみとした霧矢の感想が吹きかかる。
「あぁうんっわ、はひへっはら、ほのほをへらっへは。」
何を言いたいのかが、わかるようでわからない。
「食いながら喋んな。」
たばこの煙を口から吐きながら、あきれたように壱月も義治の言葉に横やりを入れた。




