最終話 24th Summer Breeze
ノースショアへ向かうフリーウェイを下りて、道なりにまっすぐ走っていくと、海へと続く道に出る。その脇にはずっと、だだっ広いパイナップル畑が広がっていた。
丘の頂上まで行くと、遥か向こうに海が見える。空と海の色が溶け合うような青が広がり、太陽の光りが波に反射する・・・ノースショアの海だ。
昔観たサーフィン映画の場面を思い出させた。
憲二の白いアメ車が、もうすぐ40歳だというのに、日焼けして、ビキニの上にタンクトップ一枚という格好の私を乗せて、パイナップル畑の真ん中の道を通り過ぎる。
「ケンジ、私も来ちゃった。」
私は、声に出して言ってみた。
10年ぶりに、ケンジに話かけた。それが、なんだかとってもうれしくなったけれど、余計に話しかけた相手がいないことが私を必要以上に虚しくさせて、泣きたくなった。
ケンジが帰ってこなくなってから1ヶ月。
ノースショアの風は、私の震える唇をさらに揺さぶるように、私の顔をめがけて吹いていた。
ハレイワで右に曲がって、憲二の車はそのまま海沿いへと入っていった。
秋のノースショアは、日本の波とは比べものにならないくらいの大きさだった。
ざっと、人が三人、縦に積み上げられたくらいの高さはあるだろう。
「ケンジ、どうしてもここに来たかったんだぁ。」私は、また相手のいない会話を声に出した。横で憲二が聞いているとか、そんなことはどうでもよかった。
さんざん、ケンジに話しかけていたあと、私はここへ来てはじめて憲二に話かけた。
「ねぇ〜、演歌っぽいけど、なんだか漁師や船乗りの奥さんの気持ちがわかった感じ。」
「何それ?おもしろいこと言うねぇ〜。」
「憲二は波乗りしているときって何を考えてる?」
「波のことだよ・・・なんで?」
「そうだよね。私もそうだった。でも、今は違う。淋しかったり、余計な悪い心配しちゃいそうな気がする。ホントは、最初からこんな気持ちだったらよかったのにね。」
「そうか・・・サーファーの彼氏を持った女の子ってそんな気持ちだったのか。」
「私にもわからなかったけど。自分も一緒になって海に入っていたから。でもさぁ、漁師なら
まだいいよね。魚を獲ってくるでしょう?ケンジなんか、何も獲って帰ってこなかった。憲二も同じか!でも、ケンジなんか何も獲ってこないどころか、ケンジが帰ってこなくなっちゃったんだから、本当に最悪。」
「ケンジがなんで波乗りをやめたか知ってる?」
「知るわけないじゃない!」
「言ってたよ。やっと大人になれるって。自分は波をおりることでしか大人になれないって。だから、RIEばかり大人になって自分はずっと停滞してたって。それをRIEが気づかせてくれたって。」
「ケンジにも、私に言えなかったことがあったんだ。お互いそんなことだらけだったんだね。」
私は、そんな気持ちでさえも、ケンジと分かち合えなかったことがとてもくやしかった。
「ねぇ、RIEさぁ、オシドリ夫婦って言葉知ってるよね。」
「知ってるけど、どういう意味なのか本当のところはよくわからない。」
「オシドリって、オスがものすごく派手で、メスがものすごく地味なんだよ。なんでだかわかる?」
「さぁ・・・」
「オスがね、敵からメスを守るために、先に自分が目立つように派手にできているんだって。」
「それがどうかしたの?」
「ケンジが言ってた。彼女派手派手しくて嫌になるって。目立ってしょうがないって。きっとRIEを守りたかったんだね。ケンジからその話を聞いて、すぐにオシドリを思い出したよ。」
ケンジは、私に「言わなくてもわかるだろ」が口癖だった。
私は、言わなきゃわからないよっていつも言っていたけど、ケンジが本当に言いたいことを汲み取ってあげられなかったんだなぁと、いまさらわかった。
「ねぇ、ケンジ帰ってくるかなぁ。私、観光で来ているから長くても3ヶ月しかいられないよ。それまでに、帰ってくるかなぁ。」
こんなことを言いながら、私は悪い予感を頭の中から拭えずにいた。
渋谷のモツ鍋屋で憲二から初めて話を聞いてからというもの、ずっと心の中では悪い予感が、水面に石を投げたときにできる波紋のように、ずっと広がったままだった。
「じゃあ、俺の仕事手伝う?」
「なんの仕事?」
「世界中どこにいてもできる仕事。それでいて人に喜ばれる仕事。これがあるから、俺も世界中の海で波乗りができる。」
「そんな仕事、やらない人っているの?」
「そりゃあ、いるよ。やるやらないじゃなくて、わかるかわからないかっていう仕事だから。」
「私はやりそう?じゃなかった。わかりそう?」
「どうだろうね。でも、おもしろいかもよ。」
「でも、まだ3ヶ月あるし。それまでにケンジが帰ってこなかったら、考える。」
「いつでもいいよ。やりたくなったときに始めればいいから。」
それから、1週間もたたないうちに、ポイントから何キロも離れた岩場に、ケンジのサーフボードが、リーシュコードだけが切れて打ち上げられた。
持ち主のいなくなったサーフボードに、憲二の知り合いのハレイワのショップのオーナーが、赤いアンセリウムの花を供えてくれた。
私は、その一部始終をまるで他人ごとのようにながめていた。
その日は11月のノースにしては珍しく波の音が静かだった。
「もう、ここにいる意味なくなっちゃったね。」
私は憲二に言った。
「そうかなぁ?世界中どこにいてもできる仕事の話、まだ返事もらってないよ。あと、まだ、RIEの波乗りの腕も見せてもらってない。」
「そんなたいしたものじゃないよ。下手の横好きってやつ。」
「それと・・・いい加減泣いちゃえば?泣かないとね、浄化されないんだよ。涙はね、心の中の嫌なことをすべて流してくれるから。」
私は、サンセットビーチに向かった。
ブルーのようなエメラルドのような、こういうブルーをなんと呼ぶのだろう。
どこまでも続いている海岸線。いたるところで波が白くブレイクしている。
ケンジは、この波にもまれながら、何を思っていたのだろう。最後に誰の名前を呼びたかったのだろう。そんなことを考えながら、私はひとりで砂浜に座り込んで泣いた。砂をつかみながら大声で泣いた。もっと、やさしくすればよかった。もしも、今、ケンジがこの海で大ケガをして、起きることさえできなくなったとしても、私はケンジとずっと一緒にいただろう。
「今日は波が静かだよ」とか「今日はいつもより太陽がまぶしいよ」なんて言いながら、毎日をケンジと一緒に生きただろう。
一生波乗りができなくなってもいい。季節がずっと冬でもいい。それでもケンジがいれば私はこの人生を楽しみながら生きていけただろう。
「お願いします。誰か私に生きていくための力をください。お願いします。」
私はそう言って力の限り祈った。自分のなかに、まだこんなパワーが残っていたなんてびっくりするくらい。
ケンジとサーフボードを結んでいたリーシュコードは、どこからも出てくることはなかった。
けれど、私とケンジが一緒にいたという事実は、決して消えることがない。時がたって色あせることはあっても、思い出は永遠だ。いくら季節が過ぎていっても、ふたりが一緒にいた時間は永遠に残る。
「また来るね、ケンジ」
私はそういって、またパイナップル畑の道を、今度は街に向かって戻って行った。
「いろいろお世話になりました。」
憲二にお礼を言って、私は日本へ帰るための荷造りをした。
「いたいだけいていいよ。次にタヒチに行くけど、一緒に行く?」
私に気づかってか、憲二はいつもやさしい言葉をかけてくれる。
「大丈夫だよ。ここは、あまりにケンジに近すぎて寂しすぎるから・・・」
本当にそうだった。あんなに憧れていたノースショアを見るのも、今の私には苦しさが伴う。
また、つらくなったら、ここへ来ればいい。ケンジは、もうずっとここにいるのだから。淋しくなったら、ケンジのいる海に抱かれに来る。そして、これから人生を頑張って、私も最後はケンジの海に帰ってこようと思う。
「ケンジが言ってた。いなくなる日の前の晩。この先、自分に何かあったときには、RIEのことを探してくれって。それで、RIEの力になってやって欲しいって。自分もずっと俺に世話になりっぱなしだったけどって。だから、探したんだけどな・・・」
そう言って憲二は笑った。久しぶりに見たプロサーファー岡庭憲二のさわやかな笑顔だった。
「ケンジは自分がもしかしたらいなくなるかもって、わかっていたのかな?」
「そんなことは、ないだろうけどね。」
「そっか。じゃあ、迷惑じゃなければ、いられる間だけ、ここにいさせてもらおうかな。」
「まだ時間がたっぷりあるから、ゆっくり考えな。」
「ありがとう。そうする・・・」
「日本に帰る日、もし、ダブルレインボーが空に架かったら、人生を俺に甘えてみるってのはどう?」
「それって、どのくらいの確率の賭け?」
「自然相手だからねぇ・・・0か100ってとこじゃない?」
「そんなんで、人生決めちゃっていいの?」
「その虹、きっとケンジが架けるよ。架からなかったら、RIEは大丈夫。一人で生きていける。もし、架かったら、ケンジがRIEをよろしくってことだと俺は思う。」
そして、日本へ帰る日。
ホノルル空港へ向かう車の中から、私と憲二はダブルレインボーを見た。
これから、どうやって生きていこう。
憲二は別に何も考えずにただ毎日を楽しく過ごせればいいんじゃないと、またさわやかな笑顔で言っている。
そして、憲二と一緒なら、本当に毎日をただ楽しく過ごせそうな気がしてくるから不思議だ。
このダブルレインボーはケンジが架けたの?
私がどうやって生きていけばいいかの答えをケンジが出してくれたの?
ケンジのことをなくしてしまったから、いいことだけを思い出すのかな?
こんなことをしていると、また本当に大切なものを見逃してしまうかな?
「さて、ダブルレインボーだね。決まったね。ケンジが架けたんだね。ケンジがRIEを、ここに残したがっているね。」
「そうかな?私はただ憲二に迷惑かけたくないだけなんだけれど・・・」
「俺は、ケンジが落としたものを拾う役割みたいなものかもね。」
「落としたものを拾う?私、ケンジに落とされたわけ?」
そう言って、二人は久しぶりに笑った。
もうすぐまた夏が来る。
駅のホームで憲二にキーホルダーを拾ってもらってから、24回目の夏が来るのだった。




