第4話 永遠に言えない・・・
私は、岡庭憲二に土曜日の昼間なら空いていると返事をしたのは、日曜日に海に行くために
土曜日はなるべく出かけないようにと、波乗りを始めてから過ごしていたからだった。
結局、憲二が予約を取った店が夕方からだったということもあって、私は土曜の夕方という
いちばん混んでいるであろう時間に、渋谷のハチ公前で憲二と待ち合わせをすることになった。
「RIEさんですよね。」
そう言って声をかけてきた憲二は、DVDやサーフィン雑誌で見たとおりのさわやかな感じ
のする人だった。
「はじめまして。あの、こんなに人が多い場所に出没したりして大丈夫なんですか?」
私は、憲二を、岡庭憲二という一人の有名なプロサーファーとして気づかった。
「大丈夫ですよ。サーフィンの世界では顔が売れているかもしれないですけど、そうじゃない
人たちにとっては、ただのオッサン・・・いや、お兄さんですから。」
「そんなもんなんですかね。」
この笑顔。そして声のトーン。そして、人なつっこい雰囲気。この人のことを第一印象で、感じ悪いと思う人はいないだろう。
自分から、あまり人に話しかけていかないケンジが、きっとこの人には気を使わないで話かけ
られたのかもしれないと確信した。
「あの、敬語はやめません?って言いながら、こんな聞き方したらおかしいですよね。」
「そうですね。・・・なんてお返事してもおかしいですよね。」
そう言いながら、二人は憲二が予約したモツ鍋屋へと向かった。
憲二が予約したお店は、若くてイキのいいお兄ちゃんたちが元気よく楽しそうに接客をして
いる店だった。どの従業員も仕事が楽しくて仕方のない様子。居心地もいい。そして、私たちは個室へと案内された。
「早速だけど、いちばん聞きたいことはメールアドレスのことだよね。」
いきなり真面目な顔をして本題に入った憲二に、私は少し驚きながらも、憲二の誠実さを感じずにはいられなかった。
「はい。あっ!でも、今はどうでもいいって言ったら嘘になるけど、私のメールアドレスだと
知っててメールをくれたんでしょ?」
「もちろんそうだけど。」
「それより、ケンジとは、最近も会っているんですか?ケンジが波乗りをやめたということを
知っていたから・・・」
「今は、もう会ってないよ・・・」
そう言って、憲二は少し顔を曇らせた。そして、
「何から話さなければいけないかな・・・」と言って憲二はしばらく黙っていた。
私は、なんとかしてこの沈黙を破らないといけないという気持ちになった。
私が聞きたいことを言うために、憲二はわざわざ時間を作ってくれたのだから。
「なんでもいいです。っていうか、何を言われてもいいって言ったほうが正しいかな。」
「それなら、高校生のころから今までの話をしようか・・・」
そう言って、憲二はゆっくりと話はじめた。
「まず、下北のホームに落としたキーホルダーのことだけど・・・」
「そこまでさかのぼるんだぁ!」
あの時、一瞬のあいだにホームに降りてキーホルダーを拾ってくれた人が今、目の前にいる。
きっと、こういう運命だったのだ。あの男子学生ともいつか出会える運命。
「あれはね、俺がケンジにハワイのおみやげに買ってきたものなんだよ。」
「ふたつですよね。ケンジからおそろいでって渡されたから。」
「そう。ひとつあげたら、彼女ができたって言うから、じゃあ俺のもあげるよってふたつ渡した。だから、あのとき下北の駅のホームで君を見つけたというより、俺は学生カバンについて
いるキーホルダーを見つけたんだ。そしたら、誰かとぶつかってキーホルダーが落ちたじゃない。自分のものが落ちたような気分になって、気がついたらホームに降りて拾ってた。」
「そうだったんだぁ。」
「それで、拾ったあと、これがケンジの彼女だってわかったわけ。」
「でも、キーホルダーなんていくらでもあるでしょ?」
「普通はね。でもあれは特別。ハワイのハレイワのショップで特別に作ってもらったものだから・・・ALWAYS WIDE OPENって書いてあったの気づいてた?」
「全然気づかなかった。」
「俺がいちばん大事にしている言葉。いつも全開っていう意味。」
「それを、ケンジにおみやげにくれたんだぁ。二人のケンジのものだったのにね。なんだか私がもらっちゃって悪かったかも。」
「いいよ!いいよ!俺だって、あのケンジにまさか彼女ができるなんて思っていなかったし、彼女できたんだって言ってたケンジが、あまりにもうれしそうだったしね。」
「それで、キーホルダーから私が彼女だってわかったと・・・」
「そう!それとね、君、1ヶ月くらい前に下北のハチベイっていう居酒屋にいなかった?」
ハチベイも、このモツ鍋屋と同様、店内は活気でちょっとうるさいんだけれど、従業員がすごくよくて、私がよく使っている店だった。
「最近は、飲みにいくなら、ハチベイって決まってるけど。もしかして、いたの?」
「うん。すぐそばの席で友達と飲んでた。」
「それで、どうして私がわかった?」
「だって、高校生のころから顔変わってないから。」
私は返事に困ったけれど、おかしくて笑った。顔が変わらないからすぐわかるってよく言われる言葉だった。すると、憲二は、
「そのとき、余計なこと聞いちゃったんだよね。って言うか、あんなに大きな声で話しているんだもん、俺じゃなくても聞こえちゃうよ。」
「そんなに大きな声で話してた?」
「うん。大きな声で、アドレス変えちゃったの〜!岡庭憲二のDVDのタイトルからパクって英語とハワイ語ミックスさせちゃったって言ってたよ。それで、たまにだけどケンジにメールしてるって、これ内緒ねって言ってたよ。」
そうかもしれない。いや、そうだ。間違いない。私は、ハチベイでそんなことを言いながら、友達に新しいメールアドレスを教えていた。
「それで、どうして私にメールを送ってきたの?・・・今だから言うけど、私、私だってわからないようにケンジにメールを送ってたの。」
「知ってるよ。」
どうして?それなら、ケンジも私からのメールだってわかっていたのか。私はなんということをしていたのだろう。ケンジはきっと迷惑だったにちがいない。ケンジの前から突然いなくな
った私からのメールなんて。
「なんであなたが知ってるの?ケンジも知ってるの?」
「ケンジは知らない。俺だけ。・・・はい、これ。」
憲二はそういって携帯電話をテーブルの上に置いた。
「何?これ?」
「ケンジの携帯電話。」
「どうしてあなたが持っているの?」
「・・・・・」
「なんであなたがケンジの携帯電話を持っているの?」
「・・・・・ケンジの遺留品。」
「どういうこと?」
「ケンジ・・・ハワイにいるんだ。一緒に海に入ったまま、帰ってこない・・・」
「帰ってこないって・・・」
「そういうこと・・・だから、君だけには伝えたくて俺も日本に帰ってきた。ケンジには、もう俺しかいなかったのかもしれない。突然ハワイにやって来て、10年近くブランクあるけど、やっぱり俺の人生にはサーフィンが必要だって。日本でどこかの海に入っていて君に会うのが嫌だって。何も言わずに突然いなくなった君を許せてない自分が、君を忘れられないでいるようで嫌だって。だから、もう一回、若かったころみたいに最初からサーフィン教えてくれって。」
「それなら、どうして直接言ってくれなかったんですか?どうして、わざわざ誰だかわからないメールを送ってきたりしたんですか?」
「それは、君がまだケンジに想いがあることを知っちゃったから・・・」
「私、何も言ってないじゃないですか!勝手にそんなこと言って。そんな大事な話なのに、私はずっといたずらメールだと思って気味が悪かったんですよ!」
「じゃあ、なんでケンジの携帯に波乗り情報なんて送ってたの?ケンジとの接点を作りたかったんじゃないの?ケンジを忘れられないんじゃないの?ケンジが君と別れてからどんな想いでずっと一人でいたか考えたことはあるの?」
憲二の言うとおりだった。
私がケンジの前から突然姿を消したのは、ケンジとは自然消滅に持っていきたかったけれど、できないとわかったから逃げただけだったのだ。あのときも、ハッキリと自分の気持ちを告げるべきだった。自分は何も傷つかないで逃げた。付き合ってから別れるときって、振るほうがツライというただそれだけで、私は現実から逃げた。ずるい女だ。6年間も一緒に暮らしていながら。そして、自分が寂しくなると、誰だかわからない一方的なメールを送る。別れてから何年も経っているのに。
「俺も、日本に帰ってきて、どうやって君を探そうかと思ったよ。千葉にも湘南にも茨城にも伊豆にも行った。顔を見ればわかると思った。まさか、下北でまた会うとはね。それから、ケンジの携帯に俺と同じアドレスのメールが入ったから、すぐ君からだってわかったよ。でも、ケンジに未練があるっていうことも知っていたから、どうしても、ケンジのことは会って話したかった。」
「そうだったんですか・・・でも、帰ってこないって、どこかでまだ生きているっていうことも考えられ・・・ないですよね。」
私も、サーファーだ。これがどういうことかぐらいはわかる。
私は泣かなかった。現実逃避ではなく、信じられないというのでもなく、ただ、ケンジに会わなければ、いや、ケンジがいなくなった海に行かなければ何も終わらないと思ったからだ。泣くのは、すべてが終わってからでいい。私の想いとケンジの想いが浄化されたときにきっと泣けるのだと思った。
ハワイに行こう。ケンジがいなくなった場所に。会社も辞めよう。すべてを捨ててケンジと向き合わないと何も解決されないような気がした。
私は、すぐにでも会社に退職願いを出して、荷物をまとめてハワイに行こうと決めた。
そして、ケンジの帰りを待とうと思った。たとえ、その日が永遠に来ないとしても。ケンジが帰ってくるまで私は待つ。それが、私のケンジにできるたったひとつのことのような気がした。今度、もしケンジに会えたら、ハッキリと伝えよう。別れてからもずっとケンジを想っていたこと。そして、別れたことを後悔していること。それを、永遠に言えなくても・・・
「ハワイに連れてってください。」
私は憲二にそうお願いしていた。
「いいよ。一緒にケンジが帰ってくるのを待つ?」
「そうしていただければ・・・心強いです。一人だったら耐えられないかも。」
「ケンジの前でも、そうやっていればよかったのにね。アイツはいつも一人で頑張って、俺のことを全然頼らないって言ってたから。それが、余計ケンジに男としての自信をなくさせてたかもしれないね。」
憲二の言葉は、私の胸のあたりから、すぅ〜っとお腹のあたりまで暖かいなにかが流れていくようだった。
「出発の日は君に任せるよ。俺はプロサーファーだけれど、それだけじゃ食べていけないから別の仕事もやってる。世界中どこでもできる仕事。だから、俺のことは気にしないで、君もそれまでいろいろ大変だろうから、しっかり準備して!」
「わかりました。じゃあ、ケンジが帰ってくるまで、私のこと、よろしくお願いします。」
そういって、私は頭を下げた。誰かに頼って生きていく・・・今まで考えたこともなかったけれど、そんなに悪いものでもないかもしれない。頼りきって生きていくのは、どうかと思うけれど、一人で冷たい海に入っていくより、そっと差し伸べられたボートに一緒に乗ってみるのもいいかもしれない。
私は、ケンジがなにも差し伸べてくれていないと思っていたけれど、もしかしたら、ケンジの差し伸べてくれていたボートに気づかなかっただけなのか、それとも、それを見ることができる心の眼を持ち合わせていなかったのかもしれない。
16歳のあのとき、駅のホームで憲二が拾ってくれたキーホルダー。
そして、あれから20年ほどたった今、また憲二が私の大事なものを拾い集めてきてくれた。
これから、ハワイに行くことというのは、私がいちばん聞きたくないことを聞くかもしれない。それと、いちばん見たくないものを見ることになるかもしれない。
それでも、この憲二の渇きのない溢れ出るやさしい笑顔があればなんだか乗り越えていけそうな気がする。そして、人間として少し大きくなれそうな気もしていた。
私は、次の日には海には行かず、いらないと思われる部屋の荷物を捨てて、生きていくための最小限のものだけを残した。そして、退職願いを書いた。




