ある日の夜のオカンの店 誠二編
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伯母の営んでいる飲み屋が火事で焼けてしまって、その大家さんが奇特な爺さんだったので、同じ条件で住居スペースがある店舗付住宅を貸してくれるということになったことで、オレは伯母と伯父の持ち家のあるこの街に実家から移り住むことになった。
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「おかえりー!!」
オレが店の戸を開けて入ると、伯母はオレについて来た疫病神や貧乏神を追い払ってしまうような明るい声と笑顔で、店のカウンターの中からオレを迎えてくれていた。
「ただいま。陽子さんはほんまにいつも元気ですね。うちのオカンもそやけど。その底抜けな明るさはどこから来るんやろね。ククク」
「あ! せいちゃん! 今のん。少し私を馬鹿にしてるやろ?」
「ちゃうちゃう! そんなんちゃうで! ほら、オレって今の仕事って……朝から晩まで客の苦情処理ばっかりやから、フロア内はもう色で例えると灰色やねん! それで、帰る頃にはいっつも肩が重いんやわ。そやから、陽子さんのその「おかえりー!!」で浄化されてる気がするねん」
膨れっ面をしている伯母にオレが弁解していると同じカウンターで座って飲んでいた拓海もこの話に加わって来た。
「せいちゃんの話はほんまやと思うわ。オレもここへ来ると気持ちが明るくなるもん。きっと、この店には福の神さんがおるんやで!」
「前の店でもみんなにそない言われてたんやけど。ほんまにおるなら、前の店からちゃんとついて来れたんやろか?」
「大丈夫やって! 何かに紛れてきっとついてきてるよ! だって、店は変わったけど。なんか、前と店の雰囲気は変わってないもん」
オレと拓海の話しに乗っかって、美花ちゃんも福の神さんはおると断言して笑っていた。
「福の神さんって前の店にマジでおったん?」
「どやろなぁー。姿を見たわけでは、ないしね。でも、うちの店に来ると、仕事が上手くいってなかったお客さんが急に営業の成績が右肩上がりに良くなったとか、全然ええ仕事が見つからん言うてヤケ酒飲みに来た人が、翌日の面接で採用されたとか。そういうことが良くあるから、みんなはここに福の神さんがおるって信じてるみたいやわ」
伯母はオレの疑問に嬉しそうに答えるとケラケラと笑いながら、店の神棚へ炊き立ての白いご飯を供えて手をあわせていた。
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「ただいまー!!」
「おかえりー!! 宗ちゃんお疲れ様~!」
店の戸を開けて帰って来たのは、美花ちゃんの旦那の宗ちゃんやった。伯母は宗ちゃんの背広の上着を預かっておしぼりを広げて手渡していた。
「なんか、今日は蒸し暑いよね。もうすでにクールビズで良いような気がするんやけど。僕の会社は来月からやねん」
「外回りはさすがにこの蒸し暑さじゃ、つらいよな!」
「五月で、すでにこの暑さやからね。また、熱中症とかで倒れる人が今年も多いんちゃう? 宗ちゃんも気をつけてね!」
五月もまだ初旬やというのに、すでに昼間は真夏のような日差しで気温も30度近くまで上がっていた。
「そや! 桜絵ちゃんどうなん? そろそろやんな?」
「ありがとう。予定日はもう三日も過ぎてるねんけど、なかなか出てこんみたいやねん。初産やし、一週間くらいずれることもあるらしいから、気長に待ってるんやけど」
「拓海も、もうすぐパパやねんなぁー♪ なんか、信じられへんわ! フフフ」
「ほら、比奈ちゃんはそうやって。またオレを笑うんや! なんぼ小さいときから知ってるにしても、そないに笑わんでもええやん!」
中坊の頃から美花ちゃんとちょこちょこ店に遊びに来ていた拓海のことを比奈はこうやっていつもからかっているようやった。
「せいちゃんら、話盛り上がってるんやったら座敷で座ったら? そろそろ比奈も絵美里とご飯食べるし」
「あ。じゃ~そうしよか?」
「そうしよ! みんなで一緒に飲んだほうが楽しいしね!」
多分やけど。伯母はこのあとのお客さんのことを考えて、オレらを座敷へ移動させたんやと思う。平日のこの時間にまず、団体さんは無いやろし。一人客の方が多いやろしね。あとは、拓海のことを思いやってということも考えられる。自分の嫁さんが臨月で、しかも予定日を過ぎているとなると家で一人で落ち着いてなんておれんやろしな。さっきから聞いていた拓海と美花ちゃんの話では、桜絵ちゃんは少し貧血持ちやから一週間程前に病院へ入院して産気付くのを待っているらしい。
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座敷へ座ると。なんでか知らんけど、がんもがオレの膝へ上がって来て丸くなっていた。確かに実家で猫は何匹か飼ってるけど、オレは特別な愛猫家でもなんでもない。なんでもないんやけど、何故かこのがんもはオレがここへ座ると、オレの膝で丸くなってオレが立ち上がるまで動かなくなる。
「がんもはせいちゃんのことが気に入ったらしいね」
「そやろ? せいちゃんが越して来たあの夜からずっとやねん。せいちゃんが座敷へ座ると、どこにおっても飛んで来て膝で丸くなってしまうんよね」
「オレ、別になんもこいつに好かれるようなことしてないんやけど」
「きっと、せいちゃんはがんもの好みの男性なんやわ♪」
オレは酒を飲みながら猫にもてても仕方ないねんけど。と、心の中でつぶやきながらもがんもの頭をそっと撫でてやっていた。
「えーーー!? 嘘やん。マジか?」
「どないしたん? 拓海ちゃん?」
「あ。あの、桜絵ちゃんが陣痛始まったって!」
「え!? ほんまに? どうするん? 病院へ行くんか?」
突然、スマホのメールを確認して大声を上げて叫んだ拓海にみんな驚いて注目していた。そんな中で、伯母は至って冷静に拓海に声をかけて話を聞いていた。
「そやけどあれやで! 陣痛始まってすぐには産まれへんし、今すぐに行っても朝までは絶対待たされるで?」
「いや、それでもやっぱり病院へ行ってあげたほうがええんちゃうかな? 僕ならそうする」
「うちも、辛いお産の後ですぐに宗ちゃんが側におってくれたらうれしいと思う。そやから、桜絵ちゃんも拓海ちゃんにおって欲しいと思うわ」
宗ちゃんと美花ちゃんの助言で決心がついたのか、拓海は立ち上がっていた。それにつられてみんな立ち上がってなんでかわからんけど、代わる代わる拓海をハグして励ましていた。
「ちょっと待ってな! おにぎり握るから持って行って!」
伯母は拓海を引き止めると、急いで美味しそうな握り飯を何個か握ってタッパに詰めて紙袋へ入れて手渡していた。
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「こんなこと言うたらあれやけど、自分の子供でなくても産まれるって聞かされると気になるもんやな。無事に生まれて欲しいな!」
「うんうん。だって、桜絵ちゃんは飲み友達やん。友達の赤ちゃんやもん! 絶対元気に生まれてきて欲しい」
拓海が店を出てからも、オレらは産まれて来る拓海の赤ん坊の話で盛り上がっていた。
「それで? 男かな? 女かな?」
「あ。男の子って聞いたで! お祝いのベビー服の色を何色がええ? って聞いたら、男の子やから薄い水色とかがええって笑ってたもん」
「なんか……。親になるって、どんな感じなんやろ?」
オレはついつい。心の中で思ったことを口に出してつぶやいてしまって、その場の明るい雰囲気を台無しにしてしまった。
「どんな感じて。男と女じゃ全然違うと思うわ!」
「そらそうやろ! 女は産んで実感するんやからな!」
「男はいきなり目の前に産まれてくるわけやから、やっぱ戸惑うかもな……。拓海、大丈夫かな?」
「ちょっと、ちょっと!! 何をしんみりしてるん? 子供が産まれるっちゅうんは、幸せなことやねんで! 拓海ちゃんも大丈夫に決まってる! 少しずつ親になったらええんやから」
それでも、この店の常連たちは気のええ人間ばかりやからこんなオレの疑問にも真剣に考えて答えてくれて、最後には伯母にそんなオレの不安も一喝されて、笑い飛ばされてしまっていた。
「さすが人生の先輩ですね。陽子さんはやっぱり凄いです」
「何がやのん? ちょっとせいちゃんよりも長く生きてるだけやん。あれこれ考え過ぎてると前に進めんようになるいうことを知ってるだけや」
「オカンも色々と苦労してるもんね♪ フフフ」
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その後は、オレもモヤモヤしていた気持ちがスッキリとして、週末やったこともあって、閉店まで伯母や宗ちゃんたちと調子に乗ってかなり飲んでしまったので、翌朝起きたら酷い二日酔いに襲われていた。そして、オレのスマホに無事に拓海と桜絵ちゃんの子供が誕生したと伯母からメールが届いていた。
「こんなオレでもいつか、親になれるんやろか?」
オレはソファーに仰向けになって一人で天井に向かってつぶやいていた。まさか、この約一年後にオレの人生を一転させる出会いがあるなんてこの時は全く想像もしてなかった。