シングルマザー
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この街を飛び出してから、もうすぐ十八年になる。妻子あるあの人と恋に落ちてしまった私は、後先のことなど何も考えずに家を飛び出していた。
結局。家を飛び出して一年余りで、あの人は奥さんも子供も捨てきれず、私と別れて元の鞘に納まった。そして、別れた直後にユイを妊娠していることに気付いた私は、産むか中絶するかを散々なやんだ末に。私はあの人に連絡を入れて、結婚は諦める代わりにユイを産むことを了承して欲しいと泣いて頼んだ。お人好しのあの人は産むことを了承してくれて、奥さんをどうにか説得してユイが生まれると認知もちゃんとしてくれた。しかも、ユイが高校を卒業するまでは、養育費も送ってくれると約束してくれたので、私はユイを一人で育てることに不安を感じずに済んだ。それに私は小さな建設会社の経理事務の仕事を商業高校を卒業してから続けていたので、優しい社長の計らいもあって、産後も気兼ねなく職場に復帰することが出来た。
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「それで? 帰って来る決心はついたんか? 姉ちゃん」
「うん。お父さんも許してくれるって言うてくれてるし、ユイもここからの方が学校も近くなるから、来週には荷物まとめてそこのマンションに引っ越して来ようと思ってる。そこのマンション、うちの社長がオーナーで家賃安くしてくれるねん」
「ほんまに? やった! 良かったわ」
弟の一郎に呼び出されて、仕事の帰りに一郎の行きつけの飲み屋の『オカンの店』のカウンターに座って私は久しぶりにお酒を飲んでいた。
「理緒ちゃん。やっと、こっちに帰って来るんや!」
「そうやねん。お父ちゃんが具合悪いし、うちの社長がオーナーやってるマンションがすぐそこにあるんやけど、社員割引で家賃安くしてくれるっていう話が出てた所やったから、決心したんよ」
高校の陸上部の後輩の比奈が店の戸を開けて入ったら、カウンターの中から「おかえり~!」って言ったのには驚いたけど、そのおかげで久しぶりに一郎と気兼ねせずにお酒を飲みながら色々な話をすることが出来た。
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翌週の週末に会社の若い社員の男の子たちが手伝ってくれて、無事に新しいマンションへ引越しを済ませた私は、社長が引っ越し祝いの飲み会を『オカンの店』でしてくれることになっていたので、ユイも一緒に二十人程の男性社員と事務の亜紀ちゃんと座敷でワイワイ大騒ぎになっていた。
「比奈ちゃんごめんな! なんか週末に店を貸し切ってしもて」
「大丈夫! 大丈夫! 理緒ちゃんの引越し祝いやもん。気にせんとようさん食べて飲んで帰ってや!」
店の座敷をほとんど占領してしまって、なんか申し訳なくて私が比奈に謝ってると、比奈のオカンがユイにイチゴのシャーベットを持って来てくれた。
「これは、私からのお祝いやで! 理緒ちゃんもそんなこと気にせんでええんよ。社長さんには、いつもお世話になってるしね」
「ママ! このシャーベットめっちゃ美味しい♪ 手作りやで!」
「ありがとう。比奈のオカンのお店がこんなに近くにあって、私も心強いわ。これからもよろしくお願いします」
私が改めてお礼を言って頭を下げると、オカンはニッコリ笑っていつでも、何かあったら相談してやと言ってくれていた。
「ただいまー!! あれ? 今日は貸し切り?」
「ただいまー!! ほんまや! ようさん客おるやん!」
「おかえりー!! あれや! ほら、若先生とこの理緒ちゃんの引っ越し祝いやねん!」
この店の常連客の男女が勢い良く店の戸を開けて入って来て、目をパチクリさせていたので、オカンが笑いながら私の引っ越し祝いやと説明していた。
「若先生のお姉さんなんや! 初めまして~! 美花です。これから、よろしくお願いします」
「夫の宗次郎です。今日はおめでとうございます。僕らのことは気にせんといて下さいね」
天真爛漫な奥さんの美花ちゃんと真面目を絵に描いたような宗次郎くんに挨拶されて、私もかなりお酒に酔ってご機嫌だったので挨拶を返して美花ちゃんと意気投合してしまって、宗次郎くんを放ったらかしにして一緒に飲んでいた。
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「でも、びっくりやわ! 菜々美ちゃんと同じやねんもん。十八でユイちゃん産んだんやろ? しかも、シングルマザーやん! 尊敬するわ! なんか、菜々美ちゃんよりたくましく見えるし」
「母親が若いってどうやった? 美花ちゃん。なんか抵抗あった?」
「特に無いよ! 色々と気兼ねなく話せたし、今も話せるし」
カウンターに座って美花ちゃんと比奈と三人で話してるうちに酔いが冷めてきて、美花ちゃんの母親も十八で美花ちゃんを産んだと聞かされた私は益々、美花ちゃんに親近感を感じていた。ユイは亜紀ちゃんと気があったみたいで座敷で猫と比奈の娘の絵美里ちゃんと遊びながらキャッキャと楽しそうに笑っていた。
「ユイは父親がおらんかったから、小学校でも中学校でもいじめられたみたいで可愛そうな思いさせてしまってん。それでも、母親だけやからって言われたくないって、ユイは勉強も部活も頑張ってくれてん」
「ええ子やな! ユイちゃんは強い子やわ!」
「ありがとう。そやから、なんか美花ちゃんと話せて気持ちが軽くなったわ。ユイも私に気兼ね無く話してくれてるし、これでええんやってなんか、やっと思えた」
あんまり、こんな話は誰ともしたことが無かったので二人と話しているうちに感極まって目頭が熱くなっていた。
「理緒ちゃんもずっとずっと一人で頑張って来たんやね。よう頑張った! 偉いで! ええお母さんやわ」
「若いうちに苦労したら、あとが楽なんやで! きっと、ここへ戻って来れたんも、理緒ちゃんが一生懸命頑張ったからやわ」
「そうそう! これからは、いつでもここへ来てなんかあったらうちらや、オカンに話してくれたらええからな!」
比奈も美花ちゃんもオカンも私に優しい言葉をかけてくれて、やっぱり地元はええなぁーって改めて私は感じていた。もしかしたら、小学生の時に病気で死んでしまった母が上手いこと神様か仏様にお願いして、私をここへ戻してくれたんかもね。母は凄く私に甘かったから(笑)
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「ユイちゃんって高校二年? 進学するの? それとも就職?」
「多分、就職か専門学校へ行きたいって。この前、一郎に聞かれて話してたわ。動物病院の看護師AHTになりたいらしいねん」
「凄い! 若先生喜んでるんちゃう?」
「そら、めっちゃ喜んどったけど。そんな簡単じゃないし、そやから、これから週末は一郎の病院を手伝わせることにしてん。大変やってことを先に知っておいて欲しいから」
ユイのことを比奈に聞かれて私が比奈と美花ちゃんに話してると、店の戸がガラガラッと開いて今度は八百屋の浩二が入って来た。
「あ。理緒!」
「ちょっと! 呼び捨てやめて! 理緒さんとお呼び!」
「ほんまや! 理緒姉ちゃん。今日が引越しやったん?」
昔から生意気な浩二は相変わらず私を見て呼び捨てにするから、私が浩二の頭を叩いて怒ってたら、その後ろで麻由美がクスクスと笑っていた。
「そうや! あんたら! やっぱり結婚してんな! しかも、もう子供おるし、娘かいな。いやーん♪ 可愛いなぁー」
「ありがとう。桃香っていうねん。三月で一歳になった所やねん。比奈ちゃんと同じでひな祭りの日やねんで!」
「私のおらんまに……。浩二も生意気に一人前になったんやね」
浩二は宗次郎くんとカウンターの端っこで男二人でさみしく飲み始めたので、麻由美ちゃんも交えて女四人で話に花を咲かせていた。
「ちいちゃいなぁー♪ めっちゃ懐かしいわ」
「うちらは、これから育児やもんなぁー! 理緒姉ちゃんなんかユイちゃんが十八とかで子供産んだらお祖母ちゃんやで?」
「ほんまや! ユイが十八で結婚して子供産んだら、私は三十代にして、すでにお祖母ちゃんやん。それも、面白いかもね。フフフ」
今はまだ、全く男っ気の無いユイの結婚のことを麻由美ちゃんに突っ込まれた私は、若くしてお祖母ちゃんになるのも悪くないかもなんて本気でその時は考えていた。
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こうして、私とユイの新しい生活が始まって、この一年後にユイにとって一生を左右するような運命の出会いが待っているなんて、この時は私もユイも他の誰もが想像することなんて出来ませんでした。