第一章 人格破綻者と笑えない僕 -6-
始業時刻より20分早めに出社(こういう組織だと出所のほうがいいのかもしれないが、出所だと刑務所だよね)した僕よりも先に、一人の男が出社していた。いや、せざるを得なかったというべきだろうか。
「おはようございます」
「ん?あぁ、おはよう」
歯磨きをしている水島の頭はぼさぼさである。髭だって伸びているじゃないか、と思うと彼は段ボールからシェーバーを取り出した。
「ちょっと、これ…」
「みなまでいうな。必要最低限なものだけ送ってもらった。…しかしだ」
「なんです」
水島はこれまでになく、憂鬱な顔をしながら窓の外の太陽を見ている。
「俺の部屋、まだ工事中ってどういうことだよ」
「はぁ?」
自業自得といえなくもないが、そりゃ憂鬱な顔にもなるというものだろう。聞けば、昨日はソファの上に毛布を敷いて寝たと言っている。それでは目の下にクマができても仕方がない。…数ヵ月後に、自分も同様になるとはこの時点では思っていなかった。
「それは災難というかなんというか…」
「幸い近くにコンビニがあるのは助かるな。朝飯抜きとか勘弁だ」
本組織に所属して数日、僕と水島はそれなりに打ち解けていたといっていいだろう。…さすがに、今朝見た夢の話までするほどには打ち解けてはいなかったが。
「で、今日はどうします?」
「例の豊胸の会社の調査、あれどうなってる?」
立場としては僕の方が上だが、年齢、経験ともに上の水島がメインで動くようになってしまったのは仕方がないことだと思う。
「今警察とやり取りしているところです。少なくとも会社組織としては存在してますし、業務実態もある会社です。ただ…」
「どうした?」
僕は言い淀んでしまう。正直なところわからないことが多い会社だからだ。
「わからないならわからないって言った方がいいぞ。もっとも何がわからないかははっきりさせるべきだけれど」
「…はい。はっきり言うならどうやって遺伝子組み換えを行ったのかがわからないんです」
「普通に考えたらウィルス・ベクターを使用すると思うんだが」
髭をそり終わった水島が、今度は頭をセットしながら答える。
「それが、一般的に使用されているウィルス・ベクターの遺伝子が、検出できなかったんです」
「おかしいじゃないか」
シャツに袖を通しながら、憮然とした顔で水島がこっちをにらむ。そんなこといわれたって検出できないものは仕方がない。
「何らかの方法で被害者に遺伝子を導入したのは確かなんだ。ウィルス・ベクターでないなら一体何を使ったっていうんだ」
「まだあります」
「他にもあるのかよ…」
ネクタイを結び終わった水島、僕の席の隣にやってきた。…ちょっと安石鹸のにおいがするが多分カプセルホテルだろう、そう思おう。
「これ見てください。僕は遺伝子などの分野にそんなに明るいわけではないんでで、警視庁の科学捜査班が調査した結果のファイルなんですが…」
「これってどういうやつなんだ」
「…あいまいな説明だったらすいません」
「や、前置きはいいから」
すっかり主導権を取られている。まぁこの分野は彼の専門分野だから仕方がないだろう。
「えっと、遺伝子が組み換わる前の被害者のある遺伝子と、遺伝子が組み換わった後の被害者のある遺伝子…なんかレセプターとかいうようなんですが、それの塩基配列を調べたってことだそうです」
「エストロゲンレセプターかプロラクチンレセプターの塩基組成の比較したのか?まぁ1遺伝子なら数万円でいけるか」
「確かプロラクチンレセプターの方だと思います。それで、発現、っていうんですか、たんぱく質がどういうアミノ酸から出来てるかを調べたそうなんですが…」
「結論から言うなら、1アミノ酸くっきり変化してた、ってとこだろ」
水島にマウスを分捕られる。塩基組成をざっと見ているらしい。ATGCとか書いているんだがこんなもの見るだけで理解できるもんなのか。
「1ではないですがそうです。しっかり変化しているみたいです」
「…被害者の人よく副作用とか起きなかったな。最悪死ぬぞ」
「そうなんですか?」
僕はぞっとした。毒だったらどうする、と思っていたが毒そのものの可能性があると水島は言ってるのだ。身勝手な男に改めて腹が立ってきた。
「おい」
僕の表情をみて気づいたのだろうか。水島が今気にすべきことはそこじゃないとでも言いたげな顔をしている。
「でも」
「今のところ被害者の女性には、不幸中の幸い副作用は発生していない。ただ単にAカップがDカップになっただけだ。問題は、だ」
水島が画面を叩く。
「この会社の遺伝子操作技術、どの程度のもんだか知らないが、よしんば副作用が発生しないことを知っていたにしても、根本的に真黒だぞ、勝手な遺伝子操作なんて」
「やはりそこが最大の問題だな」
定時に山岡リーダーがやってきた。途中から話を聞いていたようである。
「もちろん今回のラッキーな被害者、といっていいかどうか微妙だけど、はともかく、もし今後同じことをやった時には、最悪出るのは死人かもしれない」
「そんな」
「十二分にありうる話だ。今のところは問題ない被害者だって、乳ガンのリスクは実際高まったわけだからな」
思わず自分の胸元を見る。すでに同程度のリスク抱えているんだけど僕。
「まぁ早期発見すれば問題ないっていうけどな」
「えー、でもあれ痛いらしいんですよ」
「ハコちゃん、面白い話でもないんだが、乳がんって一番誰が発見するか知ってる?」
「お医者さんじゃないんですか?」
リーダー、にやりとわらう。もうこのパターンに飽きている僕がいる。
「結婚している場合、旦那さんだって」
「あんまりいうとセクハラですよ」
「いずれにせよ、だ」
脱線した僕とリーダーを、水島が横目で責めるように見ている。でももともとは水島が振った話のせいなんだけど、と思ったけれども口には出せない。
「このろくでもない会社、とっとと社会から退場してもらいたいと思うんだが」
「そこはまったく異議なしです」
「右に同じ」
僕たちの最初のターゲットは決まった。ジェネシスウェルネスとかいうバイオベンチャー企業だ。