第一章 人格破綻者と笑えない僕 -5-
こういうのをフリンジサイエンスというんだっけ、とにかく僕の目の前にはその分野の人たちが見たら涙を流して喜んだり昇天したりするような事件が勢ぞろいしている。
『特定周波数の電磁波により発生する過敏症』
うわぁ…可能性としてはあるのかもしれないけど…、などと思いながら僕が事件ファイルに手を伸ばそうとすると、
「ん?これ読むのか」
水島も同じ奴に興味を持っていたらしい。彼は手に別のファイルを持っている。そっちはどんなタイトルなのかと見てみたら
『微生物による元素転換で発生した放射性物質汚染』
…うわぁ…こんなのってないよ、こんなの絶対おかしいよ。僕には意味がわからないよ。そんなのあり得ないよ。そう思わざるを得ないタイトルのファイルだった。
「いえ、いいです」
「別に遠慮しなくていいんだぞ」
「そうだぞ。水島、お前はおれには遠慮しろ」
…遠慮じゃなくて引いてるんだよ、と言いたくなったけど我慢した。一応この中では常識人であろう僕は、せめて常識的な事件を扱いたかったのだが、ファイルの束の中にはそのような常識的な代物があろうはずもない。かといって仕事に取り掛からないわけにもいかない。モーの編集者や元某少年誌ミステリーリサーチのリーダー編集者なら垂涎の物だろうけど、僕にはそのようなオカルト趣味もフリンジサイエンス趣味もない。
次で全部のファイルのタイトルに目を通し終わる、と思った時だ。
『夫婦間で発生した傷害事件』
一見普通の事件のように見える一件だ。何が問題だったのだろう。ここに来る異常普通ではないはずだ、身構えつつファイルを手に取り読み始める。
この事件のあらましはこうである。美人の妻を手に入れた男がいた。しかし彼女にはたった一つの欠点があった。胸がつつましやかだったというのだ。
…それくらいどっちだっていいじゃないか。大体あるならあるで悩みがあるし、もちろんないならないでいろいろ悩みがあるだろうけど、そんなもので価値が変わると思ってるような奴とは結婚したくない…そんな事を思いながら読み続ける。
続きだ。男はあるとき、ネットで奇妙な宣伝を見つけた。遺伝子操作であなたのバストサイズをアップ、というとんでもないものだ。そのためには遺伝子の型を調べないといけない。男は夜中に妻の遺伝子を採取した。口腔から粘膜を採取し、その宣伝をしている会社に送る。しばらくすると会社から、遺伝子の型が改善に向いている型なので、この薬を飲んでください、と薬が送られてきた。男はこれをこっそり妻に飲ませた。すると…なんということでしょう。匠の技であれほどまでになだらかだった胸がこんなにも豊満に…おい。
そこまで読んで、僕は思った。これはさすがにまずいんじゃないの?遺伝子は言うならば究極の個人情報である。家族だからといって勝手に採取するなど言語道断だ。おまけに何でそんな薬を飲ませたりする。大体毒だったらどうするんだ。いくらなんでもこの男勝手すぎるだろ。
「ん?どうした?なんだかすごい顔してるけど」
「…胸糞が悪い話を読んでいたんで」
「どんな話だ?」
リーダー、口角を上げる。水島も読んでた冷温核融合のファイルを置いてこっちを見つめる。そんな見られても何も出ないのだが。
「身勝手な男が奥さんを傷つけるって話ですよ」
「…暴力とか振るったとかそういうことか?」
水島が妙に不機嫌な顔をする。へぇ、そんなところもあるのか。
「そうじゃないですよ。無断で奥さんを豊胸したんですよ」
「それはまたなんというか…いや俺はどっちでもいいんだけど」
「俺はどっちかというとちょっとはあるほ…おっと」
よくよく考えたらあんたらどっちもセクハラだぞそれ、と思ったけれども、こっちから振ったような話題だし余り強くも言えない。こういうのっていわれるのは嫌だけど、無反応ってのも困るから話題にあげにくいんだろうなぁ。
「でも考えてみれば、もし自分が薄毛だとして、ある日突然奥さんが夜中に植毛
したとしたらおまえどうだ水島」
「正直それ恐ろしいんだけど」
確かに。今回のこの話、恐ろしいのはその部分だけではないが、人の心というのもまた恐ろしいものだ。さておき、無断で豊胸した事件の続きである。
だんだん自分の胸が大きくなっていった妻、鬱になってしまった。確かにコンプレックスはあったが、それが勝手に解消されたらいいというものでもない。豊胸した女性がうつ病になりやすい、という米国での調査もある。というより、自分の胸がある日突然心当たりもないのに大きくなったら、うれしいより先に病気を疑うだろう。一方男の方は素知らぬ顔で妻の胸をいじっていた、のだろう。男っていう生き物は下半身で生きているのだろうか。男性不信になりそうだ。とうとう妻は、病院に行くことになった。
「…なんか、またこわーい顔になってるんだけど」
「そんな顔されるとどうしていいかわからないから困る」
そういわれても、こっちだってこんなもの読まされたら男性不信になりそうで困る。冷静に続きを読むことにしよう。
病院で妻は大学病院を紹介される。これはもう一種の奇病である。胸が大きくなる病気というのも実際にあるし、中国ではその病気にかかった小学生が切除手術を受けた、なんて事件もあったようだ。病院ではそれを疑ったのだ。そして大学病院では、とんでもない結論が出た。何者かが遺伝子を操作した疑いが発生したのだ。妻が男にそのことを伝えると、男の顔色がみるみる悪くなった。そしてこの事件が明るみに出たというのだ。
ファイルを読み終わった僕は、なんとも言えない嫌な気分になった。この先何度もこんな気分になることがあるのだろうか。身勝手な誰かが他の誰かを傷つける。それは普通にどこでも起こりうることだろう。でも、正直なところそんなものをわざわざ好き好んでみたくない。僕はTVのドラマのもめごとですら、嫌いなのでチャンネルを変える方なのだから。
「…この事件はここまで、か」
「このあとこの二人はどうするんでしょうか」
他人事ながら、僕は身勝手な男がどうしても許せなかった。せめて嫁に聞けよ、胸大きくしたいんだけどいい?って。
「どうなんだろうな。離婚するかもしれないし、しないかもしれない。どっちにしても今までどおりってわけにはいかないだろう。馬鹿な奴だ」
「…だが、その馬鹿のおかげで違法に遺伝子操作やらかす馬鹿を捕まえられそうだぞ」
水島の目が光る。
「奥さんの胸の敵をとってやろうじゃないか」
「…それもなんだかおかしいような」
こんな奴だけど、いいところもあるな、と少しだけ僕は思った。