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4月 入学式3

少年は只管長い廊下を走っていた。静寂に満ちた廊下で唯一聞こえるのは、自らの荒々しい足音と、乱れた息遣いのみだ。

もとより運動部気質ではない彼の体力では、精々十数分程度しか全力疾走できない。酸素不足で心臓も痛み、さっき捻った足首も鈍い痛みを放っていた。


どうしてこんなことになったんだろう。

少年、”相模駿河(さがみ するが)”は歯を食いしばった。


あとどれほど時間が残されているのだろうか。確認する間もなく、自問自答に終わるそれを何度も心の中で繰り返した。

額から滲み出た汗が頬を伝い、顎から首へと流れ落ちる。最早汗を拭う気力もない。


ことの始まりは、”いつも通り”迎えられた朝のこと。

さらに言うならば、今日が何の日なのか思い出した、目覚ましを止めたあの瞬間だ。


今日という日が何の日なのか。この日は言わば駿河にとって新たなるスタートを切る日であった。もっと言うなれば、新地点より始まる生活の初日であったのだ。


そう。今日は駿河の高校入学式である。


しかしながら、その大事な入学式を明後日と間違い、さらに今日は父、母共に出張中のうえ、姉は大学に泊り込み、妹は友人とお泊まりだとかで、誰一人駿河の過ちに指摘を入れることができなかったのだ。


急いで家を出たのはいいものの途中で忘れ物に気づき(生徒手帳だけに忘れるわけにもいかず)、家に戻ったはいいが鍵が見つからず鞄を漁り、やっと見つけた鍵を焦って溝へと落とした。

さらにそれを拾い家へ入って生徒手帳を鞄に詰めたのはいいものの、その鞄の吊革が壊れて開いたままのくちから中身が全て飛び出した。

なんとかそれを拾い上げて家を出たのだが今度はなぜか蓋があいていたマンホールにはまり、通りすがった家の前で犬に吠えられ、しかもその犬が放し飼いだったのか追いかけてきたため必死で逃げ、その逃げ込んだ先である公園で小さな女の子にぶつかり泣かせてしまい、そこを通りがかった警察官に見咎められ、職質にあった(警察官の眼はまるでロリコン誘拐犯を見るような、冷たい眼であった)。


元来運の悪いめにはあってきたが、ここまでひどい一日は始めてだ。生まれついたものがあったとしても、限度がある。

たった1時間の間のことが、濃密すぎて既に家に帰って休みたいくらいである。

これから入学式だと思うと気が重い。


駿河は酸欠でグラグラする頭を手で押さえ、鉛のように思い足で階段の一段目を踏み出した。

この学校の入学式会場は二階なので、この辛い状況で十数段登らなければならない。


「あと、一段っ‼」


上まで登りきり、その勢いのまま右に曲がった。


「っ、うわ‼」


「わわっ⁉」


しかし、誰もいないと思っていた廊下の先から人が飛び出してきて、駿河は思わず声を上げる。急なこともあり勢いは止められず、そのままぶつかる。

どしりと尻もちをついてしまい、衝撃による痛みに唸った。

なんてことだ。本当に今日は運が悪い。最早何かに取り憑かれていると言っても過言ではないような気もする。


「あったたー…」


痛みに漏れた声に、駿河ははっと顔を上げた。

ぶつかったのは、女子生徒のようだ。柔らかなチョコブラウンの髪と、それの一部を束ねた赤いリボンが開きっぱなしの窓から入ってきた風にふわりと揺れている。


「あ、あのっ、す、いませんっ‼」


「うん?あ、大丈夫だよー」


髪を押さえつけながら、少女は笑った。


「それよか、急いだ方がいいんじゃないかな?時間ないよ、ニューガクシキまで」


「ああっ‼‼」


しまったっ、と慌てて立ち上がる。

入学式、本気で間に合わないかもしれない…。今何分なんだ…っ。

そんな駿河の声を読んだかのように、少女は朗らかな声で「あと3分だよ。頑張ってね」と柱に設置された品のある白い時計を指差した。


「あ、あの、すいませんでしたっ。ありがとうございます‼」


一度深く頭を下げ、くるりと方向転換し、駿河は再び駆け出した。

あと3分なら、間に合いそうだ!希望が見えてきた。


まぁ、結局のところ、間に合わなかったのだけれども。



ーーーーーー

ーーーーーー



一段づつゆっくりと、少女は階段をおりていた。

肩したまである黒茶の髪が動きに合わせて揺れ動く。赤いリボンが頬に当たった。


顔にかかった髪を手で後ろに流しながら、少女は翡翠にも似た輝きを放つ瞳を細める。


手に持つのは、一つの薄いパスケース。青い表面を裏返せば、そこには名前と顔写真が貼られたカードが入っていた。


霧ノ森高校の生徒手帳は入学決定時に自宅に送られる。カードは霧ノ森生である証となる。学食を買う際やイベント時に必要となるQRコードはばりばりの個人情報なので、落とせば悪用されること間違いなしだ。

その上での、この生徒手帳。少女のものではなく、赤の他人である、先程ぶつかってしまった少年のものだ。


「相模、駿河君かぁ。成る程成る程」


黒字で書かれた名前を人差し指の腹で優しく撫ぜ、少女はゆるりと口元で弧を描く。


「楽しい1年になりそうだなぁ、まーちゃんの言ってたとおり」


少女、”楼皙惺(ろうせき せい)”は弾んだ声で、静かな廊下を歩く。

向かう先は我らが城、生徒会執行部室だ。



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