斜陽
少女は、走った。
授業が終わると、少女は吹き抜ける風のごとく教室を飛び出した。
学校の下り坂を重力に任せて駆けていく。
古びたバッグの金具が軋む音をたて、教科書やノートが上下に揺れる。
平坦な道に入り、少女は肩ひもを握りしめて走る速度を上げた。
道端に転がっている干からびたミミズに驚き、足のステップが乱れる。
角から、いつも会う妊婦さんが現れた。果物が実る秋の空気を楽しんでいるようだ。「こんにちはっ!」と言葉だけ残して先に急ぐ。
やがて、長い上り坂が姿を見せた。一瞬ゆがんだ顔をするが、歩くなんてことは絶対しない。
傍目からは、帰宅路でマラソン大会の練習をしているように見えるかもしれない。
今すれ違ったおばあさんからも、「がんばってー」と声をかけられた。
だが、少女にとって一週間後に迫ったマラソン大会は、どうでもよかった。
この先に、大切な人がいる。見ていられないほど苦しそうにしている人が。
高校生の見知らぬお兄さんお姉さんが、手をつないで顔を合わせて笑いながら歩いてくる。
いつかは、わたしもあんなことが出来るといいな。車道に出て道をゆずり、また歩道に戻ってひたすら進む。
固いアスファルトを叩き続けた足はとても熱くて、痛い。だんだん感覚がなくなって来た。
顔を流れる汗に、涙が混じる。やわらかいほっぺたをつたい、つらい息を吐く口に入っていく。ものすごくしょっぱい。顔を横にふってふり払う。
うるんだ目が坂の頂上をにらみつける。歯を食いしばり、これでもかと重い足を前へ出し続ける。ショートの髪が風圧でくしゃくしゃになっていく。
坂を登りきり、強い息を吐き切って入ったのは病院だった。
体全体でドアにぶつかって開け、受付の前を全力疾走で通り過ぎた。とたんに数人の看護婦さんが怒号を浴びせながら追いかけてくる。
エレベーターなど使わず、階段を駆け上がっていく。後ろの者の足音がしだいに遠ざかっていく。
「ごー、まる、いちだ……」少女は病室へ滑りこむように入った。
そこには、丸椅子に座ったお父さんと、ベッドに横たわるお母さん。そして――
「きれい……」
生まれたばかりの赤ちゃんが、真っ白な毛布にくるまれて小さいベッドで眠っていた。
「お前の弟だぞ」とお父さんが微笑みながら言う。
少女はお父さんが差し出したタオルで顔や手を拭った。そして赤ちゃんを抱き上げる。
小さい頭と小さい手。人差し指を赤ちゃんの手のひらに滑らせると、目を閉じながらも少女の指をしっかりと握った。「芽依」とお母さんが娘を呼ぶ。
温かな斜陽が、家族を包む。
某文豪の作品とはまったく関係ありません。