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デスクに戻ると何人か出社していたので、これ以上朝井さんに掻きまわされる心配がないので笑顔にもゆとりができ、すんなりコーヒーをデスクに置けた。これで夕方まで逃げられる。そう思うと、やはりこの結婚に意味なんてなかったということに今更ながら実感した。
「サト、ため息なんてついて、どうかした?」
隣のデスクから同僚の工藤 澪がヒョイッと顔をこちらに向け、周りに聞こえないように静かに聞いてきた。その優しい心遣いが、今は沁みる。
「あ、澪。おはよ。昨日ちょっと眠れなくてね…。ごめん、辛気臭い溜息になってた?」
「なってた、なってた」
「あはは、澪に構ってほしくて無意識に辛気臭くなってたのかも」
「ばーか。それならいいけど。あ、ねぇ。今日ヒマ?」
「ヒマ、だけど?」
「ちょっと晩ご飯付き合ってくれない?」
「全然いいよ。残業しないように頑張るわ」
「サトは余裕でしょ。私が頑張るんだって」
そう言うと笑って自分の机に身体を収めた。つられるように私もパソコンと向き合った。
一瞬、彼に報告しようかと迷ったが、彼は私の生活に興味もなければ、関心もないのだから報告もないかと思いとどまった。
「そういえば、サトってお昼どうしてるの? 食堂にいないよね?」
「うん。お昼はお弁当があるから適当な場所で食べてるの」
「うっそ。まだ、お弁当なんて作ってるの?!」
澪の声が大きく、周りから視線が集まった。今時お弁当持参は珍しくない。この視線は澪の声の大きさかなと思った。
「ちょっと、澪。声大きいよ」
「あ、ごめん。うるさかった?」
澪は前の席に座っている篠部君に視線を送り、聞いた。
「いや、大丈夫っすけど。里中さん毎日作ってるんですか?」
「え、まぁ、作れる時は…」
そう濁して言ったが、実際は毎日作っていた。あの持て余した時間では、お弁当を作るなどして時間を潰さないと気が狂いそうなのだ。
「すごいね。もしかして、毎晩自炊?」
澪は完全に身体をこちらに向け、先ほどの仕事モードは足元のゴミ箱に廃棄されたようだ。
「できる日は。澪だって作れる日は作ってるでしょ? 変わんないよ」
「いやいや、あたしとサトが同じレベルなわけないじゃん。一回お弁当見せてもらったけどちゃんとしたの作ってたし」
「里中さんって家庭的なんですね」
そう言った篠部君の優しい笑顔を純粋な気持ちで受け止めることはできず、歪んだ心で受け取ってしまった。
「そんな大層なものじゃないから」
料理を毎日作ったところで、食べてくれるであろう人物が一度も食べていないのだから。
「里中さんの彼氏は幸せだね」
背後から聞こえた声に、全員が視線を向けるとそこには朝井さんが意味深な笑顔を張り付けて立っていた。心の中で大きくため息を吐き捨てた。「それはイヤミですか」と勢いに任せて吐き捨ててしまおうかとも思ったが、言葉として出てはこなかった。私の理性もまだまだ捨てたものじゃない。
「残念。サトはフリーですよ。ね、サト」
澪にも結婚のことは言っていない。これは彼との暗黙の了解なのだから言えない。仕方がない。
「里中さん彼氏いないんスか?」
「彼氏、いない、かな」
嘘ではないよね、と心の中で励ますと、私の心をすかしているかのような、意地悪な顔で朝井さんが見てきた。
「好きな人とかいないの?」
朝井さんの声が、私の心をフルスイングで壊していく。
「好きな人、ですか」
「サトってそういう話ないよね。今までの恋愛も聞かないし」
「そう、かな?」
苦笑すると澪は、じっと私の眼を見てか
「ま、過去は過ぎ去った出来事だし。いいんだけどね」
と、男前なことを言うので惚れた。
「なんすか、その男前発言は」
「篠部にはまだまだ言えない境地だな。精進したまえ」
そう言うと笑いがこぼれた。
「それじゃ、仕事に戻ってくださーい」
軽い口調で朝井さんがまとめると隣から「はーい」と呑気な対応で答えた。