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栞さんと仁さんの視線を感じ、私はどういった態度を取ることが一番ふさわしいのかわからず、視線を彷徨わせる。
そわそわした態度をとってはいけない、と頭では理解できてもこの言いようのないプレッシャーが、脳から体へ伝達するはずの指令を邪魔する。
そんな私の変化に珍しく気づく様子のない新見さんは視線をまだ花へ向けていたままだった。
「栞は君の三歳年下だ」
鼻腔に甘ったるい花の香りが押し寄せる。なんの花だろう、と考える暇もなく私は混乱と喜びで気がおかしくなりそうだった。
私の三歳年下?
私の?
それはつまり、私の年齢を把握している、ということだろうか。
こんなことでいい年した女が喜べると誰が知っているのだろうか。きっと、世の男性は知らない。女はこんなにも簡単に舞い上がることを。そして堕としていくのも男性だということを。
「に、二十三ですが?」
確認のように聞き出す私の浅ましい気持ちなど、一切わからないように「ああ、多分な」と無愛想に答えた。
この甘ったるい花の香りも、漂う花弁も何もかもが急に美しく輝いて見えた。
「で、では、仁さんは」
「仁は君と同い年のはずだ」
「み、見えませんね。尊さんはおいつくなのですか」
「兄は34だ。 そんなことより。君は本当に何がしたいんだ」
合わない視線。
それはまるで、絡まることなど初めからなかったような態度で、たんたんと語られる。
何がしたい?
「そ、れは。どういう、意味で」
何者かにぎゅっと心臓を握られる。 痛みを感じるが、それはどこから痛みが発生しているのかわからない。
背骨の奥の細胞? 筋肉? 肋骨? 胸? 目頭?
痛みのあまり言葉を紡ぐことができず、逃げるように視線を足元へ落とす。視界の端に映る自分の手と足が震えているのが見えた。
何がしたいかなんて、どうして今更。
「もう、いい」
冷たく遮断するかのような言い方に、私はまた何かしてしまったのかとお身体中に走る痛みが深くなる。傷口が見えないことが唯一の救いだ。
「挨拶が残っている。ついてきなさい」
私に一度も視線を向けることなく歩き出す新見さんを見て、どうして先程あんなにも喜んだのか。自分の能天気さに嫌気がさす。
私はこの人がどうしようもなく好きだ。好きです。愛してると言いたい。
その広い背中に腕を回して愛を囁くと、甘い声で囁き返してくれる。
そんな夢を抱いていた。なんて、馬鹿馬鹿しいの。そんなこと夢にだって出てきやしないのに、ましてや現実で起こるはずがない。それなのに、一丁前に傷つく自分に虫唾が走る。
彼が初めから私に興味がないことくらいわかっていたはずなのに。昨日からの非日常に私は酔っていたのだ。
下唇を強く噛む。
この痛みが現実だ、ということを自ら理解させてからゆっくり元に戻した。そこでようやくせっかくメイドさん達が綺麗にグロスを塗ってくれたことを思い出し、申し訳なく心の中でそっと謝った。
◇
「遅れてすまない」
長身で爽やかな男性がスーツを着こなし、颯爽と現れた。新見さんの前に立っている男性は本来ならば60歳前後のお年だと言うのに年齢を一切感じさせない、不思議な方。初対面の時から不思議で仕方なかった人だ。
「春香さん。こんにちは」
微笑まれると思わず赤面してしまうような紳士にぎこちなく微笑み返す。
「こ、こんにちは。お義父さま」
「誠、ちょっと邪魔だろ。春香さんが見えない」
「父さんが遅れてくるからまだ乾杯もできていないんだ。挨拶は後にしてくれ」
「そうよ、あなた。あなたがなかなか来ないからあたしまで春香さんと話せなかったのよ? 早く乾杯しちゃいましょ」
いつのまにか戻ってきたお義母さまと執事さんがお義父さまに駆け寄って勢いよく話しだした。
それを拍子に散らばっていた人々が庭の真ん中に置かれている白いテーブル付近へ自然と流れていく。それに合わせて、私たちもテーブルへ向かう。メイドさんや執事さんが手際良くテーブルの上へ様々なご飯が並べられていく。手元には、乾杯用のシャンパンが渡され、いきたわるとお義父さまがゴホン、とわざとらしく咳を一つ零した。
「えー、遅れて済まない。忙しい中集まってくれた君たちには深く感謝する。…身内だけの集まりだ。堅苦しい挨拶はここまでとして、 今日はゆっくりくつろいでくれ。ここではしゃぎすぎて夜のパーティーに支障が出ないようにな。それでは、乾杯」
クスクスと笑い声が漏れる。その合間を縫うようにしてグラスとグラスが触れる高音が小気味良く響いた。
「春香さん、乾杯」
いつの間にか隣を陣取っていた栞さんに半ば無理やりグラスを傾けられ慌ててグラスを持っていった。
「か、乾杯」
栞さんは微笑むと透明に近い綺麗な気泡を含むその液体を美味しそうに飲み込んだ。礼儀として私も一口口に運ぶと口内で気泡がはじける。美味しい。
アルコールと気泡のはじける感覚が気持ちよく、口元を緩めていると、栞さんが一歩こちらに近づく。体がふれあいそうなほど近寄った距離感に戸惑っていると、栞さんの唇が耳元へ近寄った。
「春香さんってセイ兄の傍を離れると怒られるの?」
囁かれる言葉に、身体が一瞬で固まる。
怒られる? それはどういう意味だろう。
「春香さん、大丈夫?」
心配そうに覗き込むこの女の子は、私のことをどう思っているのだろう。そんなどうでもいいことが頭によぎる。
「え、ええ。ごめんなさい。えっと、怒られるとは?」
「だって、セイ兄ったらずっと怖い顔して春香さんのこと見てるから見張ってるのかと思って」
「離れるな、とは言われてないので、怒られることはないと思うんですが」
それは離れる離れないの見張りなんかではなく、私の粗相の数々が目に余っているだけだと思う、とはさすがに言えず、苦笑を浮かべた。
「そう? それなら、少しあちらで話さない?」
にっこり微笑み、指さす方向の先にはまた別の白いテーブルが構えており、その上にもしっかりと料理が並んであった。辺りを見渡すとそういったテーブルがあちこちに設置され、様々な料理が並べられていることが遠目でもわかった。
「ご飯でも食べながら」
「あ、はい」
こくりと頷くと栞さんは満足そうに二度うなずき返し、テーブルへ向かおうとしたのでそれについて行く前に隣で背筋を伸ばして立っている新見さんに一言詫びておこうと向き合った。
「あちらのご飯を頂いてきます」
「俺も行こう」
既に空になっていたグラスを右手に持ちながら、淡々と言われる。「わかりました」という前に栞さんが「ちょっと!」と少し声を張る音量で抗議し始めた。
「セイ兄が来るなら意味ないじゃない。黙って待ってられないわけ?」
「煩いな。飯があるんだから仕方ないだろ」
本当はついてなど行きたくない、と顔に大きく張ってあるので苦笑しながら「でしたら何か取ってきます」と提案した。
「君に俺の好みがわかるのか」
その冷たく刺す言葉に傷つけられてはいけない。そう頭で理解していてもこの心臓の痛みは消えないし、表情を取り繕えるほど強くもない。本音を言えばこのまま泣き出して、無様に縋りつきないのに。それを抑えることで必死だった。
「セイ兄好みなんか言わないくせに」
私をかばうような言い草に、少し救われた。
「だから行くと言ったんだ」
文句は一切受けつかないという態度にも関わらず栞さんはぶつぶつと文句を言っていたが、新見さんが歩き始めたので諦めるように大きな溜息を吐き捨て「春香さん、行こうか」と言った。