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午前7時55分。
いつも通り会社の最寄り駅に着いた。腕時計でもう一度時間を確認してから、会社に向かう。始業時間は9時からだが、あのまま家にいることは精神が崩壊するかとも思えるため、いつも早めに出社してしまう。この行動を優等生と揶揄する者もいるが、その方がまだマシだった。空気のような扱いをされる家よりは幾分も。
「里中さん。今日も一番乗り?」
デスクに座り、仕事に取り掛かっていると、背後から声をかけられた。
「…朝井さん。おはようございます」
彼、朝井 滋さんは私の上司でもあり、彼の同僚でもある。
私が会社で旧姓の里中を名乗っていることは、結婚当初暗黙の了解で決まっていた。会社の人は私が結婚していることさえも、知らないだろう。この上司を除いては。
「旦那と一緒に出勤したの?」
フロアに誰もいないことを確認してから朝井さんはいやらしい笑みを浮かべながら言った。
他人からは仲睦ましく見えるのだろうか。それとも、イヤミなのだろうか。判断しかね、苦笑した。
「いえ、彼は先に出ましたので」
「そう…。おかしーなー。昨日はあんなに惚気てたって言うのに」
肩をすくめて言う姿を眺めて、これはイヤミの方だったのか、と気づいた。朝井さんからしてみると、有能な彼の妻がこんな不甲斐ない小娘ということが許せないのかもしれない。引きつく頬を無理矢理鎮め、笑顔を作る。
「そんな、馬鹿な。あの人が惚気なんて、朝井さんも御冗談を」
声は震えていないように聞こえた。自分を褒めてあげたい。
「里中さんも照れちゃって。いっそのこと、公言したらいいのに」
その笑顔の裏にどんな感情が眠っているのか私は推し測れない。
なんとかその場を笑顔で凌ぎ、話を切り替えるために椅子から立ち上がる。
「コーヒーでもいかがですか?」
「いただくよ。里中さんのコーヒーは美味しいって社内で有名だからね」
「褒めても何も出ませんよ?」
これ以上笑顔を保つ自信もなかったので、早口で言いのけ、足早に給湯室に向かった。給湯室には、ひんやりとした空気が漂っていたが、気にせず大きく深呼吸した。お湯を沸かす間、ただぼーっと何も考えないようにしていた。