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「えっと。まぁ、こんな感じで結婚生活が始まったの」
既に空になったカップを両手でこね回しながら、向かいに座る澪に弱々しく告げた。
「え? 終わり?! バカにしてる?」
澪は大きな目を、こぼれ落ちてしまいそうなほど見開く。
「バカになんてしてないよ。事実を言っただけで…。それにこのまま話し込んでると終電がなくなっちゃうよ」
「え? 泊めてくれないの?」
確かに無理矢理こんな所に呼び出したのだし泊めてあげるほうがいいかもしれない。終電は酔っ払いが多いし、定例会に参加している社員に会えば澪の立場もない。
「あ、うん。そうしたほうがいいね。私の服は小さいだろうけど、我慢してね」
「そんなのなんだっていいよ。それより、親との対面とかどうだったの?」
「新見さんの? 挨拶してご飯食べて義母とアドレス交換して終わった」
「厄介そうだった?」
「厄介? 特にそんな雰囲気はなかったけど?」
「そう。だったらなんだったんだろね。結婚を急いだ理由って。噂だって今に始まったことじゃないし。…そもそもこの話は謎が多すぎ! なんで一個も質問してないの?! いや、そもそも。なんでこんな胡散臭い話にOKしたの? な、ん、で!?」
ヒートアップしていく澪を何とか宥めてから、考えてみる。
「お金に困ってたの?」
考え込む私に痺れを切らし、澪が切羽詰まったような声をだした。
「余裕があるほど貰ってはなかったけど、暮らして行く分には困らない程度にはちゃんとあったよ」
「じゃあ、なんで」
呆れるようでいて、理解できないといった表情で溜息と共に言葉を紡いだ。
「なんで、かなー? 家族がほしかったのかも」
そう答えてみたものの、今の自分と新見さんとの関係はお世辞にも家族と言えるような間柄ではなく、滑稽すぎる仮面夫婦になっていたのでお笑いだ。…いや、そもそも、当初はそんなこと考えもしていなかったはずだ。そんな綺麗な想いであったなら、よかったのだけど。
「なに、アンタ。幸せな家庭築こうとしてたの? 新見さんと?」
考えられない、とデカデカと顔面に貼り付けた素直な澪に、居た堪れない。
「あたしも理解はしてたはずなんだけど、でも、根の部分では新見さんと幸せな家庭を築きたいと思っていたんだと思う」
「なんで新見さんなわけ? 結婚してくれる人だったら誰でもよかったの?」
「まさか」
思いもしない質問に反射的に答えた。その声は、思っていた以上に尖って自分でも驚いたほどだ。そこで、ふと、澪に言えていないことを思い出した。
「…恥ずかしくて言えてなかったけど。…私、入社当初から新見さんに憧れてたから…」
こんな恥ずかしいこと、目を見つめて言えるはずもなく。視線をコップに落とすと一瞬静寂が戻ったがすぐに割くような笑い声が響いた。思わず視線をあげると未だにヒーヒー言ってる澪の姿が映った。
「ちょっと、なに? その中学生みたいな態度は」
笑いながら息を漏らすついでに言葉を紡ぐ澪の姿に少し落ち込み、同時に苛立ちがわく。
「…そんなに笑わなくても。コーヒーのおかわりは?」
「はぁー、笑った、笑った。あ、貰う」
ずいっとこちらに寄越したコップを受け取り、キッチンへ向かう。コーヒーメーカーの中には先ほどの残りがまだ二人分あったので、それをコップに入れて電子レンジで温めなおす。
「そういえば。新見さん遅いね」
「…多分夜中に帰ってくるんじゃないかな」
「ふーん。ま、家庭を大切にするような人間には見えないからね」
キッチンを挟むと、澪の声色が思いの外冷たく感じ、余計に落ち込んだ。そんなこと言われなくても知ってる、という皮肉をつい言葉に出してしまいそうになる自分が恐ろしく妬ましい。嫌い。こんな自分なんて。
◇
コーヒーを持って戻ると澪は真面目な顔で「で?」と言った。
「で、って?」
「結婚。どうなの? サトが新見さんのこと好きで、この胡散臭い話に尻尾振って飛びついたことはわかったけど、新見さんの方はどうなの?」
「酷い言い様。ほんとに私が困ること好きなんだね」
「うふふ、その困った顔みるとゾクゾクするんだよねー」
「…変態」
「どうもありがとう」
褒めてなどいないのに輝かしい笑顔を張り付け、嫌みたらしく言った。
「結局、職場にはなんて報告したの?」
「さぁ? 私の方は上司は知ってるけど、他の社員がいると話さないところを見ると、あんまり口外しないほうがいいのかな、と思って…」
「新見さん何考えてるかわかんないしなぁ。あ、帰ってくるの遅いって言ってたけど、どこでなにしてんの?」
「知らない。いつもいい匂いしてるから、どこかのホテルで生活してるのかも」
ホテルだといいんだけどね、という皮肉は理性で飲み込んだ。それに、ホテルでも帰ってこないのであればどこでも一緒ではないか。
「はぁぁ?! なに、それ!」
静かな空間に、澪の透き通った声はよくとおり思わず目をつむってしまいたくなる。そんなことしても、逃げれるわけもないのに。
「…ねぇ、サト。知ってる? 結婚って神に誓うんだよ?」
透き通る綺麗な澪の声。
いつもはその声を聞くたび、心が浄化されるような思いだったのに今、この美しい神のような声に咎められることはなんて残酷なんだろう。
私は神に誓える。
神に誓っても偽りの無い想いなのに。
どうして?
どうして!
「…だから、神になんか誓ってない」
囁いた私の声は、残酷にも美しいとはかけ離れていた。
世の中は美しいと誰がのたまったの?
どうして、私は神に誓ってはいけないの?
駆け巡る思考を振りきることなんてできないけれど、その思いを口に出すほど理性は腐ってはいなかった。
「婚姻届って、神に誓わないんだよ?」
笑って言ったつもりだったけれど、澪は表情を歪めただけで口を開こうとはしなかった。
「サトって、困った顔は可愛いけど、それは不幸が似合うってことじゃないよ。なんか勘違いしてるみたいだけど、私は神でも天使でもないよ。…ま、さっきは天の使いなんて言ったけど」
そう言って肩をすくめる姿はいつものように優しく、照れ屋な澪だった。
「それもそうだね。なんか、暗い話になっちゃってごめんね? 気分転換にお風呂入る?」
「そうだね。あ、この辺にコンビニとかある?」
「駅前に戻ればあるけど、どうしたの?」
「使用済みのパンツは抵抗あるからさ。サトのはさすがに入らないだろうし、コンビニで調達してくるよ」
「それもそうだね。一緒に行くよ」
「いいって。駅近いし、道も覚えてるから迷わずに行けるよ」
「そう? それじゃ、その間にお風呂の用意しておくね。あ、澪。お腹は? 宴会ではあんまり食べれなかったでしょ? 何か食べる?」
「大丈夫。今食べちゃうとデブまっしぐらだから」
そう言うとカバンから財布と携帯だけ取り出して澪はコンビニ向かった。
◇
湯船は朝の段階で洗っていたので、お湯をためるだけで準備は終わってしまった。澪の帰りを待つ間、何の気なしに携帯を開いてみるとそこに一通のメールが届いていた。開いてみると送信者が「新見 誠」と表示されていた。
「な、なんで…」
震えてしまいそうな指を慌てて押さえつけてメールを開く。
今日は帰らない。
そう、一言書かれていた。
「今日は帰らない…」
言葉にしてみると余計に左胸に痛みが走る。
痛みが走ったところで、救われるわけでも、ましたや助けてくれるヒーローなんていない。
そう思えば一層左胸が痛みを主張してきた。追い討ちをかけるように鎖骨もきしきしと痛みを主張し出した。それはまるで、意地の悪い悪魔が徐々に息を止めていくような感覚。
「どうしろって…?」
身体は悲鳴を上げたって、脳は警鐘を鳴らそうとしない。
離れることなんてもとから選択肢に入っていないのだから。
泣き出しそうな症状に耐えきれず、携帯を手放し、両手で顔を覆う。
「大丈夫。帰ってこないだけ。仕事が忙しいだけ」
そんなわけない、と頭のどこかでわかっていてもわかないふりをして、馬鹿なふりをしてみると少し楽になった。
《ピンポーン》
間抜けな呼び鈴が響き、顔を上げる。
「澪だ」
そうだ。
今日は彼女がいるんだ。
急いでインターホンに向かう。
「い、今開ける!」
インターホンに向かって叫ぶと彼女はカメラの前でクスクスと笑った。
◇
「迷わなかった?」
「余裕。それにしても、コンビニのパンツってなんであんなにおばさんパンツしか売ってないのかな?」
「…若い子はパンツをコンビニで買わないからじゃない?」
「なるほど? ちょっとお金に余裕があって、一夜の過ちを犯しやすいOLをターゲットにしてるわけだな? そう考えるとイヤミな奴らだな」
「ふふ、澪は普段すごいパンティだもんね?」
澪は以前、パンツの柄について熱弁を奮っていたことがある。そこで彼女はパンツに力を入れない女子は女子力に問題があると怒っていた。
「いつ披露するかわかりませんからね」
そう言うと「見る?」と真面目な顔してスカートの裾を捲ろうとしたので丁重にお断りした。
「お風呂、出来たから先に入って。スウェットを入り口に置いておくからそれを着て。化粧落としはオイルタイプしかないけど大丈夫?」
「全然大丈夫。ありがとう」
「でわ、お風呂場にご案内いたします」
そう言って澪の横をすり抜ける。
私はまだ大丈夫。
心が痛みを主張してきたところで、この生活から抜け出そうとはまだ思えない。
新見さんの妻に執着している自分が汚らわしく愚かな行為に見えたとしても。
「今日はパジャマパーティーだね」
澪の声で少しずつ軽くなった気持ちは、なんて現金なんだろう。