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三ヶ月前の夜、私は珍しく朝井さんに残るよう言われていた。朝井さんが残業のようなことを言うのは珍しく、何か大変なことでもあったのかな、なんて呑気に考えていた。
朝井さんに言い渡されていた資料を作成して待っていると、フロアに残る人々が減っていった。その様子を待ち望んでいた様に、朝井さんは声をかけてきた。
「里中さん、ちょっといいかな?」
人が減ったからか、いつもより静かなフロアにはよく響いた。
「あ、はい」
それに対して、私の間の抜けた声がフロアに響き、軽く落胆するも誰も気に止める素振りは見せなかった。
「小さい方の会議室に来てくれる?」
朝井さんはそう言い終えるとデスクから立ち上がり、歩き始めた。
一度も振り返られることなく、無言で会議室までたどり着く。フランクな朝井さんのキャラから考えて珍しく、大人しい態度に戸惑いを覚えるが、つっこむほどでもないので、そのまま会議室に入室する。
電気をパチンと付けると暗く不気味な一角に明るさが戻り、不気味さは払拭される。
「急に呼び出して申し訳ないね」
ここに来て漸くいつもの朝井さんに感じ少し落ち着き、「いえ」と言って頭を軽く振った。
「実は里中さんに頼みたいことがあるんだ。…いや、頼みたいことと言うと少しニュアンスが異なってしまうんだけど」
「なんですか? 改まって…」
「里中さんは、ご両親が、その…」
どうやら今夜の朝井さんはいつもとわけが違うようだ。
歯切れの悪い朝井さんに、苦笑を浮かべながら「はい。二人とも既に他界しています」と言った。
父親は脳梗塞で高校の時に、母親は社会人になってから心不全で他界している。父親の時はしっかりした葬式をしてやれたが、母親の時はパニックで何が何だかわけもわからず、叔母にまかせっきりだったことを今でも苦い思い出として残っている。
「どうしたんですか? 朝井さん、おかしいですよ?」
いまだに苦い顔でなかなか話を切り出そうとしない朝井さんに、今更同情されたのかと不安に思い、おどけた様子で言葉を紡いだ。少し滑稽に思えたが、それも仕方がない。
「実は、頼みたいことっていうのが、その…」
視線を外し、左耳あたりをぽりぽり掻きながら気まずそうにふわふわと言葉を浮かべる。一体どんなお願いをされるのかと、つばを飲み込むと同時に背後からドアの開く音が響いた。
「おい。遅いじゃないか」
すかさず文句を垂れたのは目の前の朝井さんだ。
「彼女にはもう話したのか?」
とくに弁明する様子もなく言い放った。
「お前は本当に馬鹿だな! 里中さん、こちら新見 誠課長。主に海外支部で飛び回ってる偉いさん」
朝井さんの皮肉なのか、感嘆なのかわからないような態度と急にあらわれた新見さんに戸惑いつつ、慌てて頭を下げる。
「総務課の里中 春香です」
「里中さん。さっき言ってた、頼みたいってことなんだけど」
「もういい。俺が言う。俺はちょっとした厄介な事情があって今すぐにでも結婚しなければならない。そこで、君に頼みたいということは」
響く声がやけに甘く、私の脳が誤作動を起こしたようにうまく働かない。
そんな私に構うこともなく、新見さんは小さく息を吐き捨てた。
「俺と結婚してほしい」
夢に見たプロポーズはどこか投げやりで、悲しく崩れ落ちる。現実はいつも凶暴に私を噛みついてくる。
「あーっ! もう! なんで、お前はそうなんだよ!」
ピリピリした会議室を真っ二つに割る様に朝井さんの嘆き声が響き、驚きのあまり肩がぴくついた。
「朝井は黙ってろ。もし、了承してくれるのなら、最低一年は共に結婚生活を送ってもらうことになるが、君にはデメリットが少ない様に配慮する。離婚するもしないも君に決定権があるし、離婚するとしても慰謝料として今と同じ給料、賞与にプラスアルファ上乗せする。生活に困らせることはしない。…ただ、戸籍に一つバツがつく」
そこまで淡々と言い放つ新見さんとその傍らにいる朝井さんは、傍観者に徹したのか、大袈裟なため息を何度も吐き捨てるだけにとどまっていた。
「君には、ただ頷いてほしい」
目を射抜くほど、みつめられ放たれた言葉が暴力的に私の身体の中を駆け巡る。
きっと。
これはなにかのどっきりなんだ。
こんなことあるはずがない。
そう、理性で自分を抑え付けるが、だからどうしたと本能が告げる。
だからどうした。
あの、憧れの新見さんと結婚ができるなんて夢だろうが構わないのではないのか。
その夢が例え悪夢だろうと夢の中で会えることを願っていた私にとっては願いもしない申し出ではないか。
頭の隅っこに理性を追いやると、直ぐに自分の顔が俯いた。本能とは恐ろしいものだ。
「…ありがとう。これから、よろしく」
甘さの含んだ声に聞こえたのは、きっと私が都合よく脳内で変換したんだ。
「はい…」
◇
時間も遅いので、詳しい話は明日に持ち越しとなった。
朝井さんと新見さんを残し、先に会議室を退室し、フロアに戻る。
フロアには、もう余り残っている人は見当たらない。
デスクの上に少しだけ溜まった書類や資料があったが、今からできるとは到底思えず、見なかったことに決め込み、荷物をまとめ退社した。
電車の中で揺れる身体を、踏ん張ることもせず、ただただぼーっと移り行く景色を眺めただけだった。
「…結婚」
電車の中でぽつりと零れた二文字が、景色と共に後ろへと流れて行く。まるで、転げ落ちるように猛スピードで流れて行くので、身体の中でゆっくり噛みしめることもできない。
頭を軽く振って切り替える。
朝井さんのあの態度も気になる。新見さんが話している間の朝井さんはなんともいえない表情を浮かべていた。苛立ちに近い様な。後悔? 敵意?
【まもなく、来宮駅。出口は左側でございます。お降りの際は足元にお気をつけてお降りください】
独特の声が車内に響き、姿勢を正す。
帰ってゆっくり休もう。
そう心に刻み、一度目をつむった。
遅くなりました。
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