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誰もいない、広すぎるこの空間は無遠慮に私を蝕む。早く帰ってきてほしいと思う反面、帰ってきてほしくないという思いが葛藤する。彼はきっとこんな私を知らない。
「…ただいま」
静かなこの空間にマッチする低温の声。その声を聞いて、自分を一喝してから玄関に向かった。
これが私たちの一日の始まりの合図だ。
「おかえりなさい」
外がまだ、明るくなりかけているのかもわからない微妙な時間帯。戸籍上夫である新見 誠は悪びれることもなく、無表情で帰ってきた。
「何か、食べます?」
もしかしたら声が震えていたかもしれない。不安に思ったがそれも今更、か。
いつも同じようなことを考えている自分に思わず苦笑した。もう、あまり考えないようにしよう。
「…別にいい」
視線もろくに合わせず言い放った。
これもいつものことだ。
「…そう。お風呂温めていますけど、入りますか?」
きっと、これも意味はない。
「いや、結構。着替えたらもう出るから。キミも会社だろ」
ここに住んでいるのに、彼がここのお風呂を使ったことは数回だ。それなのに、いつも清潔そうな、爽やかな香りを漂わせている。元々体臭がいいのかもしれないと自分を慰める。…どこまでイタイ脳なのだろう。
「…はい」
いつもと変わらない。一回も名前を呼んでもらえたこともなければ、まともに生活をしたこともない。…なにが結婚、だ。こんなの同居とも言えやしない。
自室に消えていく後ろ姿を呪うように見つめてから、大げさに溜息を吐き捨てた。どうせ、最初からわかりきっていたことだ。この結婚に愛なんてないことは。
お風呂を温めても、わけのわからない時間帯のご飯も、なにもかも馬鹿げてる。まるでピエロだ。
広すぎるリビングに一人。音をたてないようにそっと椅子を引いて座り、テ―ブールに肘をつき、手で顔を覆った。もう何もかも嫌だ。無様に声を荒げて泣いてやりたい。そんなことをしても彼はきっと自室から出てきさえしないだろうけれど。そう思うと、またため息が出た。
「なんで…」
呟いた一言がすぐに闇へ消えた。
耳に入ってくる音は空気の音だけで、余計私を孤独にさせる。
やっと聞こえてきた足音に顔をあげ、急いで玄関に向かう。急がないとまた無言でこの家を出ていってしまう。
「あの、今日は…」
何時に帰ってきますか、とはっきり聞けたのは最初の一週間程度だったと思う。
「遅い。先に寝てくれて構わない。夕飯も結構だ」
視線をこちらに向けることもなく言い放たれる。聞こえてくる彼の声からは何の感情も読み取れない。うんざりしているのか、逃げ去りたい一心なのか、何も。
「わかりました」
そう言うと同時にドアを開けて、振り向きもせず、後ろ手でドアを無残に閉めた。これも変わらない。リビングに戻り、時間を確認するとまだ6時前だった。朝の支度をするには早すぎるし、かといって寝るには遅すぎる。どうせ眠れはしないのだけど。
どうしようか迷った挙句、温めていたお風呂の存在を思い出し、入ることにした。この感情も洗い流してくれるのではないかと淡い期待を胸に、脱衣所に向かった。