本でしか世界を知らない六歳の姪に「外へ行ってみる?」と聞いたら、「必要でしょうか」と返された
兄の一家が、馬車ごと谷へ落ちた。
兄と、兄嫁と、甥と、姪。四人とも助からなかった。
春先の、雨の多い週だった。
それで、テオドールは三十四で伯爵になった。
本人がいちばん驚いていた。騎兵隊で十年、馬の世話と書類仕事をしてきた男だ。伯爵家の家督など、自分の人生に関係のある話だと思ったことは一度もなかった。
妻のベアトリスは、知らせを受けた日に、トランクを三つ出してきて言った。
「着ていく服がないわ」
「葬儀なんだから、黒を着ればいいだろ」
「その黒がないのよ。あなたのも、肘が擦り切れてる」
それで二人は、仕立て屋に寄ってから、王都の北にある兄の屋敷へ向かった。
馬車の中で、ベアトリスが言った。
「お屋敷に住むのよ、私たち」
「らしいね」
「あなた、伯爵様なのよ」
「らしいね」
「らしいね、じゃなくて」
テオドールは、窓の外を見ながら頭をかいた。
兄とは、十年近く、まともに口をきいていなかった。最後に会ったのは、父の葬儀だった。兄はそのとき、テオドールの擦り切れた肘を見て、何も言わずに目をそらした。
◇
葬儀が終わった翌日、家令のオスカーが、書類の束を持ってきた。
屋敷の財産目録。使用人の名簿。領地の小作人の一覧。兄が残した借金と、兄に借金をしている人間の一覧。
テオドールは三枚目で目が滑り始め、五枚目でベアトリスに渡した。
最後に、オスカーが言いにくそうに付け足した。
「それと……もう一人、お嬢様がいらっしゃいます」
「姪なら、亡くなっただろ」
「いえ。そちらではなく」
オスカーは、言葉を選んでいた。
「亡くなられた旦那様が、以前お屋敷にいたメイドとの間にもうけられた方です。六つになられます。西の棟に」
テオドールは、ベアトリスと顔を見合わせた。
兄に隠し子がいた。
それ自体は、驚くほどのことでもない気がした。兄はそういう男だった。
驚いたのは、そのあとだ。
「葬儀には」
「お出になっておりません」
「……出さなかったのか?」
「お部屋から出られる習慣が、ございませんので」
「母親は」
「お産みになって半年ほどで、お暇をいただいて屋敷を出ました。お嬢様は、旦那様のご意向で屋敷に残されました。その後のことは、存じません」
「……爵位は、その子には」
「ございません。正式な嫡出の子としては、届けられておりませんので」
オスカーは、事務的に言った。
事務的に言うことに、慣れている声だった。
◇
西の棟の三階、廊下のいちばん奥の部屋だった。
オスカーが扉を叩くと、中から女の声がして、扉が開いた。四十くらいの、背筋の伸びた女だった。世話係のヒルダだと名乗った。
部屋は、明るかった。
窓が大きい。床に厚い絨毯。寝台には天蓋がある。衣装箪笥に、きちんと畳まれた服が並んでいる。
壁の一面が、天井まで本棚だった。
牢屋のようなものを、どこかで覚悟していた。
拍子抜けするほど、ちゃんとした部屋だった。
窓際の机で、小さな女の子が本を読んでいた。
黒っぽい髪を、きっちり二つに編んでいる。
扉が開いても顔を上げず、読んでいた頁の最後の行まで目を動かしてから、指を挟んで本を閉じた。それから、こちらを見た。
怯えた顔ではなかった。喜んでいる顔でもなかった。
見慣れない家具が運び込まれたのを確かめるような顔だった。
「リーゼ様。新しい旦那様と、奥様です」
ヒルダが言うと、女の子は椅子から降りて、膝を曲げて礼をした。
「はじめまして。新しい当主様」
「あー……叔父でいいよ」
「叔父とは、父母の兄弟を指す言葉ですね」
「うん」
「存じています」
「じゃあ、それで」
リーゼは、もう一度礼をした。
それから、指を挟んだままの本に、ちらりと目をやった。続きが気になっているらしい。
テオドールは、部屋の中を見回した。
本棚。机。寝台。箪笥。暖炉。
何か足りない気がした。何が足りないのか、しばらく分からなかった。
人形がない。
積み木も、ボールも、木馬もない。
六歳の子の部屋に、遊ぶものが一つもなかった。
「外には、出る?」
テオドールは、なんとなく聞いた。
リーゼは、考えてから、窓を指さした。
「外なら、そこにあります」
「……うん?」
「あそこが、外です」
窓の向こうに、庭が見えた。刈り込まれた生垣と、池と、遠くに門。
リーゼは、それで説明は終わったという顔をしていた。
テオドールは、窓とリーゼを見比べた。
ベアトリスは、何も言わなかった。開きかけた口を、閉じたのが見えた。
◇
その日の夕食に、テオドールはリーゼを呼んだ。
ヒルダは、困った顔をした。
「お嬢様のお食事は、いつもお部屋に運んでおりますが」
「今日から、こっちで食べればいいだろ」
「……かしこまりました」
食堂の長いテーブルは、三人で使うには長すぎた。
ベアトリスが、端のほうに三人分をまとめて並べさせた。
リーゼは、椅子に座ると、料理より先に、テーブルを見た。
テオドールを見た。ベアトリスを見た。テーブルの上の三つの皿を、順番に見た。
「まるで、家族みたいですね」
テオドールの手が、止まった。
ベアトリスの手も、止まっていた。
「本に、こういう場面がありました」
リーゼは、真面目な顔で付け足した。
「……まあ、叔父と姪なんだし。これから一緒に暮らすなら、家族でいいんじゃないか」
テオドールが言うと、リーゼは瞬きをした。
「……私も、ですか?」
「もちろん」
リーゼは、考えた。
「そうなのですね」
それだけ言って、リーゼはスプーンを取った。
スープを、ひと口飲んだ。
それから、皿の横の、緑と赤の何かを見た。
「これは何ですか」
「ほうれん草のソテーと、人参のグラッセ」
「ソテー」
「炒めたやつ」
テーブルの上のものの半分以上を、リーゼは知らなかった。
聞いてみると、ここ数年、朝と夜の二回、ほぼ同じものを食べていたらしい。パンと、煮た肉と、煮た野菜と、牛乳。量も、栄養も、足りていた。
ヒルダは、それを誇らしげに説明した。
「お医者様の指示どおりの献立でございます。お嬢様は、六年間、一度も大きな病気をなさっておりません」
それは、たぶん本当だった。
ベアトリスは、ヒルダの説明を最後まで聞いてから、「明日の朝は、料理長と話をさせて」とだけ言った。
◇
翌朝、テーブルにパンケーキが出た。
厚めに焼いて、バターをのせて、蜂蜜をかけてある。ベアトリスが料理長と相談して、いちばん無難なものを選んだらしい。
リーゼは、皿の上のものを、しばらく観察した。
「これは、パンですか」
「パンケーキ」
「パンなのですか。ケーキなのですか」
「そこ気になる?」
「気になります」
テオドールは、どっちなんだろう、と思った。
ベアトリスを見ると、ベアトリスも首を傾げていた。
「……どっちでもいいよ。食べてみな」
リーゼは、ナイフとフォークで、端を小さく切った。
蜂蜜の染みたところを、口に入れた。
噛んで、止まった。
フォークを持った手が、宙で止まっている。目だけが、皿の上の残りを見ていた。
「……これが、甘い、ですか」
「そうだね」
リーゼは、返事をしなかった。
もう一口、切った。さっきより、大きかった。
その朝、リーゼはパンケーキを二枚食べた。
二枚目の途中で、口の端に蜂蜜がついているのを、ベアトリスがナプキンで拭いた。リーゼは、拭かれているあいだ、じっとしていた。拭き終わると、また食べ始めた。
◇
ピーマンのことは、三日目の昼に起きた。
肉と野菜の炒め物の中に、緑色の細切りが入っていた。
リーゼは、それをフォークで刺して、ためらいもなく口に入れた。
噛んだ。
顔が、固まった。
眉と眉のあいだに、くっきりと皺が寄った。
リーゼは、口の中のものを、慎重にもう一度噛んだ。
皺が、深くなった。
「……これは」
長い間があった。
「本に書いてあった、『苦い』というものですか」
「たぶん、それ」
リーゼは、時間をかけて飲み込んだ。
それから、皿の上に残った緑の細切りを、フォークの先でつついた。
「……あまり、好きではありません」
「残していいよ」
「残しても?」
リーゼは、顔を上げた。
信じられない、という顔ではなかった。そういう規則がこの家にはあるのか、と確認する顔だった。
「いいよ。じゃあ、俺が食べる」
テオドールは、リーゼの皿からピーマンをまとめて自分の皿に移して、口に放り込んだ。
リーゼが、それをじっと見ていた。
「嫌いなものを、他の人に渡してもよいのですか」
「俺は好きだから」
「……叔父様は、これが、お好きなのですか」
「ピーマン、うまいだろ」
ベアトリスが、横で小さく首を振った。好きではないらしい。
リーゼは、テオドールの口元と、ベアトリスの顔と、自分の皿を見比べた。
「同じものを食べても、違うのですね」
テオドールは、ピーマンを噛みながら、そうだね、と言った。
それ以上、何も言うことが思いつかなかった。
◇
庭へ出たのは、一週間ほど経ってからだった。
本当は、もっと早く連れ出すつもりだった。三日目に「外、行ってみる?」と聞いたら、リーゼは「必要でしょうか」と聞き返した。
「必要っていうか……せっかく足があるんだし」
「足は、あります」
「だろ」
それで、出ることになった。
出ることになってから、ベアトリスに止められた。
「靴くらい、用意してからにして」
リーゼの靴は、室内履きしかなかった。
町の靴屋を呼んで、足の寸法を測らせた。リーゼは、足を測られているあいだ、靴屋の巻き尺を穴があくほど見ていた。
新しい靴を履いて、リーゼは庭に出た。
歩き方が、ぎこちなかった。
砂利の上を、一歩ずつ、足の裏で確かめるように進む。芝生に乗ると、立ち止まって、足元を見下ろした。
「沈みます」
「芝生だからね」
「本の草原は、沈むとは書いていませんでした」
風が吹いた。
リーゼは、目をつぶって、顔を背けた。編んだ髪の先が、頬を叩いていた。
「……風が、顔に当たります」
「当たるね」
「冷たいです。でも、日の当たっているところは、温かいです」
リーゼは、自分の手の甲を、日向と日陰に交互に出して確かめていた。
テオドールは、それを、しばらく黙って見ていた。
「寝転んでみる?」
「草の上に、ですか」
「服が汚れるけど」
リーゼは、ベアトリスのほうを見た。ベアトリスは、肩をすくめた。
リーゼは、慎重に膝をついて、それから横になった。
テオドールも、隣に寝転んだ。背中に、芝生のちくちくした感じが来た。何年ぶりだろう、と思った。
しばらく、リーゼは何も言わなかった。
それから、顔を横に向けて、草に鼻を近づけた。
「……草って、匂いがするのですね」
「するよ」
「本には、『青い草』としか」
リーゼは、もう一度、匂いを嗅いだ。
長いこと嗅いでいた。
「青い、だけでは、足りませんね」
テオドールは、空を見たまま、そうだね、と言った。
雲がひとつ、ゆっくり流れていた。
◇
庭番の老人が、大きな茶色の犬を飼っていた。名前はブルーノという。
ブルーノは、庭に新しい人間がいるのを見つけると、尾を振りながら一直線に走ってきた。
リーゼは、その場で固まった。
「犬です」
「犬だね」
「牧羊犬の系統です。耳の形で分かります。主人に忠実で、知能が高く――」
ブルーノが、リーゼの顔を舐めた。
リーゼは、言いかけた言葉のまま、動かなくなった。
頬が、べたべたになっていた。
「……濡れました」
「舐めたからね」
「舐めるとは、書いてありませんでした」
「書いてなかったか」
「忠実とは、書いてありました」
庭番の老人が笑って、ブルーノの首輪を押さえた。
「お嬢様、背中を撫でてやってくだせえ。そっちのほうが、こいつは喜びます」
リーゼは、恐る恐る手を伸ばした。
指先が、茶色い毛に触れた。
指が、沈んだ。
リーゼの手が、止まった。それから、もう一度、確かめるように撫でた。
「本に、『ふわふわ』という言葉がありました」
もう一度、撫でた。
「これが、ふわふわ……」
口の端が、ほんのわずか、上がった。
テオドールが気づいたときには、もう元に戻っていた。
その日、リーゼはブルーノを、二十回近く撫でた。
数えていたわけではない。ベアトリスが、あとでそう言った。
翌朝、朝食の席で、リーゼが言った。
「昨日の犬は、今日もいますか」
テオドールは、パンを持ったまま、リーゼを見た。
「いるよ。庭番の犬だから」
「そうですか」
リーゼは、それきり黙ってパンケーキを食べた。
食べ終わるのが、いつもより早かった。
◇
池に落ちたのは、その次の週だ。
池のふちの石に、緑の苔がついていた。リーゼは、水面に浮いた葉を見ようとして、その石に足をかけた。
滑った。
声も出なかった。気づいたときには、リーゼは膝まで池の中に立っていた。
テオドールは、走って行って、脇の下に手を入れて引き上げた。
軽かった。
リーゼは、芝生の上に下ろされて、自分のずぶ濡れのスカートを見下ろした。
「……池というのは、こんなに冷たいのですね」
「まず、そこ?」
「それと、服が重いです」
リーゼは、スカートの裾を両手で持ち上げようとして、持ち上がらなくて、そのまま立っていた。
濡れた指先が、冷たそうに赤くなっていた。
ベアトリスが、乾いた布を持って走ってきた。
リーゼを布でくるみながら、テオドールを睨んだ。
「目を離さないでって言ったでしょう」
「離してない。見てたら落ちた」
「見てたなら止めて」
それはそうだった。
リーゼは、そのまま湯殿へ運ばれた。
ベアトリスが湯を張らせて、濡れた服を剥がして、乾いた服に着替えさせた。
テオドールが居間に戻ると、リーゼは暖炉の前の長椅子で、毛布に二重にくるまれていた。両手で、温めた牛乳の杯を持っている。
リーゼは、牛乳の表面を見ながら、言った。
「本の池は、澄んでいて、魚が泳いでいます」
「うちの池も、鯉はいるよ」
「見えませんでした」
「濁ってるからな」
「……苔のことも、書いてありませんでした」
リーゼは、牛乳の杯を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。
「本は、ときどき、大事なことを書き忘れます」
◇
ひと月ほど経った、晴れた日の午後だった。
庭の砂利道を、リーゼがブルーノを追いかけていた。
走るのは、まだ下手だった。腕の振り方がちぐはぐで、足が上がっていない。
案の定、転んだ。
前のめりに、砂利の上に手と膝をついた。
テオドールは、すぐには駆け寄らなかった。子供は転ぶものだと思った。自分も、子供の頃は毎日転んでいた。
リーゼは、自分で起き上がって、座り込んだ。
膝を見ていた。
擦りむいていた。砂利の粒がいくつか食い込んで、そこから、血がにじんでいた。
リーゼは、泣かなかった。
傷口を、しげしげと眺めていた。
「本で、読んだことは、ありますが」
指を伸ばしかけて、引っ込めた。
「……こんなに、赤いのですね」
それから、顔が歪んだ。
「痛い……」
目に、みるみる涙が溜まった。
ひとつ、こぼれた。
リーゼは、驚いたように、自分の頬に触れた。
濡れた指先を、見た。
「痛いと、本当に、涙が出るのですね」
テオドールは、ようやく駆け寄って、膝をついた。
ハンカチを出して、傷のまわりを拭いた。リーゼは、痛そうに顔をしかめて、それでも膝を見ていた。
ベアトリスが、水を汲んだ桶を持ってきた。
傷口を洗われているあいだ、リーゼは歯を食いしばっていた。涙は、まだ時々こぼれていた。
包帯を巻き終わったころ、リーゼが言った。
「本では、悲しいときにも、涙が出るとありました」
「うん」
「ちなみに」
リーゼは、考えた。
「悲しいというのは、どんな時になるのですか?」
テオドールは、包帯の端を結ぼうとしていた手を、止めた。
「……ええと」
ベアトリスを見た。
ベアトリスは、桶を持ったまま、立っていた。
「そうね……」
ベアトリスは、それ以上言わなかった。
言えなかったのだと思う。
リーゼは、二人の顔を交互に見た。
「説明の、難しい概念なのですか?」
「……難しいね」
テオドールは、包帯を結んだ。
結び目が、曲がった。
「たぶん、そのうち分かる」
「そのうち」
「分かんなかったら、また聞いて」
リーゼは、包帯の巻かれた膝を見下ろして、頷いた。
その夜、テオドールは、寝室の窓から、暗い庭を見ていた。
ベアトリスが、後ろで髪をほどきながら言った。
「六年よ」
「うん」
「誰も、教えなかったのね」
テオドールは、返事をしなかった。
窓の外は、暗くて何も見えなかった。リーゼが「外ならそこにある」と言った窓も、たぶん、こういう色をしていたのだろうと思った。
◇
長雨の季節が終わりかけた、ある朝。テオドールが書斎で小作人の帳簿と格闘していると、扉が叩かれた。
リーゼだった。
自分から書斎に来たことは、それまで一度もなかった。
「叔父様。お仕事中でしょうか」
「仕事中だけど、数字が全然合わないから、休憩したいところ」
「庭へ、行ってもいいですか」
テオドールは、ペンを置いた。
「ブルーノ?」
「はい。それと、池の苔が、雨のあとでどうなっているか、見たいです」
「見るだけな」
「見るだけです」
結局、テオドールも帳簿を放り出してついていった。
池の苔は、雨でさらに緑が濃くなっていた。リーゼは、石には乗らずに、ふちにしゃがんで、長いこと眺めていた。
◇
庭番の老人には、孫がいた。マルコという、リーゼより一つ上の男の子だ。
ときどき祖父の手伝いに来ていて、ある日、ブルーノを撫でているリーゼを見つけた。
「おまえ、誰?」
「リーゼと申します。この家の者です」
「もうします?」
マルコは、変な顔をした。
「なにそれ。変なしゃべり方」
リーゼは、ブルーノを撫でる手を止めた。
何も言わなかった。言い返す言葉を、たぶん、本の中で探していた。見つからなかったらしい。
その日、リーゼは早めに部屋に戻った。
夕食の席でも、あまり喋らなかった。
「何かあった?」
テオドールが聞くと、リーゼはスープを見下ろしたまま言った。
「私のしゃべり方は、変ですか」
「……ちょっと、変わってるかもね」
ベアトリスが、テオドールの足を、テーブルの下で蹴った。
「でも、俺は好きだよ」
テオドールは、慌てて付け足した。
リーゼは、顔を上げなかった。
「好き、と、変、は、両方なのですか」
「両方あるね」
「……そうですか」
翌日、リーゼは庭に出なかった。
その次の日も、窓から庭を見ているだけだった。
三日目に、マルコのほうから来た。
ブルーノの綱を持って、西の棟の下に立って、窓に向かって叫んだ。
「おーい! ブルーノが、おまえいないと、つまんなそうだぞ!」
リーゼは、窓辺で、しばらく固まっていた。
それから、靴を履いて、下りていった。
二人は、その日の午後いっぱい、ブルーノに棒を投げていた。
リーゼの投げる棒は、ほとんど足元に落ちた。マルコは、そのたびに笑った。リーゼは、そのたびに眉を寄せて、もう一度投げた。
帰ってきたとき、リーゼは泥だらけで、少し不機嫌だった。
「負けました」
「何の勝負?」
「棒を、遠くへ投げる勝負です。私は、一度も勝てませんでした」
リーゼは、泥のついた手を、握ったり開いたりしていた。
「……何でしょう」
胸のあたりに、手を置いた。
「ここが、落ち着きません。もう一度やれば、次は勝てる気がします」
「それ、悔しいんじゃない?」
「悔しい」
リーゼは、その言葉を、一度だけ口の中で確かめた。
「……あまり、気持ちのいいものではありませんね」
「まあね」
リーゼは、泥のついた手を、もう一度握った。
「明日も、やります」
◇
夏になって、町の市場へ連れていった。
ベアトリスは最初、反対した。人が多すぎる、と。
テオドールは、手を離さなければ大丈夫だと言った。リーゼは、二人の話を黙って聞いていて、最後に「手を離しません」と言った。それで決まった。
市場は、うるさかった。
物売りの声。荷車の軋み。どこかで鶏が鳴いている。魚屋の前を通ると生臭く、香辛料の店の前を通ると鼻がむずむずした。
人が、ぶつかってきた。誰も謝らなかった。一度、通りすがりの男に足も踏まれた。肉屋の前では、男が二人、値段のことで怒鳴り合っていた。
リーゼは、テオドールの手を、痛いくらい握っていた。
目だけが、あちこちに動いていた。
「……本の市場は、もっと整っています」
「絵だからね」
「売り物が、きれいに並んでいました。それから、皆さん笑っていました」
「笑ってる人もいるよ。あっち」
林檎の屋台の女が、客と冗談を言って笑っていた。
リーゼは、そちらを見て、それから怒鳴り合っている男たちを見て、また林檎の女を見た。
「同じ場所に、両方いるのですね」
帰りの馬車で、リーゼはほとんど喋らなかった。
疲れたのだろう。途中から、テオドールの腕にもたれて、うとうとしていた。
屋敷に着いて、馬車を降りるとき、リーゼが言った。
「また、行けますか」
テオドールは、思わずベアトリスを見た。
ベアトリスも、テオドールを見ていた。
「……楽しかった?」
テオドールが聞くと、リーゼは考え込んだ。
「うるさかったです。足を踏まれました。魚の匂いが、まだ鼻に残っています」
「うん」
「でも、また行きたいです」
◇
夏の終わりに、夕立が来た。
庭にいたリーゼは、最初の大粒が落ちてきたとき、空を見上げたまま動かなかった。
テオドールが「中に入れ」と言う前に、雨は一気に強くなった。
二人とも、玄関に駆け込んだときには、髪から水が滴っていた。
「……濡れました」
「濡れたね」
リーゼは、前髪から落ちる水滴を、寄り目になって見ていた。
「窓から見ていた雨は、濡れませんでした」
「そりゃ、窓のこっち側にいたからね」
リーゼは、張りついた袖を指でつまんで、引っ張っていた。
「音も、違います。屋根の上と、地面と、葉っぱの上で、違う音がします」
ベアトリスが、タオルを持ってきた。
リーゼの頭を拭きながら、テオドールに「また」という顔をした。テオドールは、今回は自分のせいではないと思ったが、黙っていた。
その翌朝、テオドールより先に、ベアトリスが気づいた。
「あの子、今日の服、自分で選んだみたい」
リーゼは、三着の普段着のうち、いちばん地味な灰色のを着ていた。
灰色の服の胸元に、どこで見つけたのか、乾いた小さな黄色い花が一輪、留めてあった。
「花、誰かにもらったのかな」
「さあ。マルコじゃない?」
ベアトリスは、それ以上は何も言わずに、紅茶を注いだ。
注ぎながら、手が一度、止まった。
◇
秋の初めが、リーゼの誕生日だった。
誕生日を知っていたのは、ヒルダだった。台帳に書いてあったと言われた。
去年まで、その日に何かをしたことはないという。
「お祝いの習慣が、ございませんでしたので」
ヒルダは、そう言った。
悪気のない声だった。この人は、言いつけられたことを、言いつけられたとおりに、六年間やってきたのだ。本を与えたのも、この人だった。リーゼが文字を覚えて、本を欲しがったから、月に一度、町の本屋から取り寄せていた。
「本は、ヒルダが選んでたの?」
「はい。お嬢様が、ご興味をお持ちになりそうなものを」
テオドールは、ヒルダの顔を見た。
それから、「当日、手伝ってもらえる?」とだけ言った。ヒルダは、驚いた顔をして、頭を下げた。
当日は、豪華にはしなかった。
いつもの食堂に、いつもより多めの料理。鶏の丸焼き。リーゼの好きなほうれん草のソテー。ピーマンは入れなかった。
贈り物は、ベアトリスが選んだ、町の文具屋の色鉛筆の箱。テオドールは、何を選べばいいか分からなくて、庭番の老人に相談して、ブルーノの首輪と同じ色の、赤いリボンを買った。
それから、ケーキ。
白いクリームを塗った、丸いケーキだった。上に、苺が並んでいる。
料理長が、朝から焼いていた。
リーゼは、ケーキをテーブルの上で見つけるなり、椅子の上で背筋を伸ばした。
それから、ほんのわずか、身を引いた。
「……これは」
「誕生日ケーキ」
「存じています」
リーゼは、白いクリームを、警戒する目で見ていた。
「本に、ありました。『脳髄が溶けるほど甘い』と」
テオドールは、ベアトリスを見た。
「どんな本読ませてたんだ」
「比喩よ」
ベアトリスが、リーゼに言った。
「承知しています」
リーゼは、真面目に頷いた。
それから、間を置いて付け足した。
「……たぶん」
ベアトリスが、ケーキを切り分けた。
リーゼの皿に、苺の乗ったところを置いた。
リーゼは、フォークを持って、しばらく動かなかった。
怖いのか、とテオドールは思った。違った。ケーキの断面を、じっと見ていた。スポンジと、クリームと、間に挟まった苺の層を、数えているようだった。
それから、フォークの先で、ほんの少しだけすくって、口に入れた。
目が、丸くなった。
もう一口。今度は、さっきより大きかった。
それから、皿を見下ろして、何か考えていた。
「……少し、分かります」
「脳が溶けた?」
「はい」
リーゼは、大真面目に答えて、三口目を食べた。
◇
食事が終わるころ、テオドールは、グラスを置いた。
何か言ったほうがいい気がした。誕生日なのだから。
けれど、気の利いた言葉は、何ひとつ出てこなかった。騎兵隊でも、乾杯の音頭は人に任せていた。
「リーゼ」
「はい」
「誕生日、おめでとう」
続きは、何も出てこなかった。
ベアトリスが続けた。
「生まれてきてくれて、よかったわ」
リーゼは、二人を見た。
それから、フォークを置いた。
何か言おうとして、口が開いた。開いたまま、何も出てこなかった。
ぽたり、と、テーブルクロスに染みができた。
リーゼの目から、涙が落ちていた。
声は出していなかった。顔も、歪んでいなかった。ただ、涙だけが、次から次へと落ちていた。
いちばん困った顔をしていたのは、リーゼ本人だった。
「……不思議です」
「どうした」
テオドールの声が、かすれた。
「どこも痛く、ありません」
「うん」
「嫌なことも、ありません」
また、涙が落ちた。
「ですが、涙が出ています」
テオドールは、立ち上がりかけて、座り直した。ベアトリスが、ナプキンを持ったまま、手を宙に浮かせていた。
リーゼは、自分の額に、手のひらを当てた。
「胸が、熱いです。目も、潤んでいます」
真剣な顔で、考えた。
「これは、風邪かもしれません」
「……たぶん違う」
テオドールは、言った。
ベアトリスが、横を向いて、口元を押さえた。笑っていたのか、別の何かだったのかは、テオドールには分からなかった。
「では、これは、何ですか」
リーゼが、聞いた。
ベアトリスは、ナプキンで、リーゼの頬を拭いた。
拭きながら、言った。
「……さあ」
「悪いやつじゃ、ないと思うよ」
テオドールは、言った。それしか、言えなかった。
リーゼは、拭かれた頬に手を当てて、しばらく考えていた。
「悪いものでないのなら」
もう一度、ケーキの皿を見た。
「残りを、食べてもいいですか」
◇
片づけの途中、食堂の入口で、ヒルダがテオドールを呼び止めた。
ヒルダは、ずっと入口に立っていた。リーゼが泣いていたあいだも、そこにいた。俯いていて、表情は見えなかった。
「旦那様」
「ん」
「来年は……私も、お嬢様に何かご用意して、よろしいでしょうか」
テオドールは、ヒルダの顔を見た。
六年間、言いつけられたことだけを、正確にやってきた人の顔だった。
「聞かなくていいよ。そういうのは」
ヒルダは、何か言いかけて、やめて、深く頭を下げた。
それから、食器を下げに戻っていった。いつもより、皿の重ね方が雑だった。
◇
寝る前に、ベアトリスがリーゼに聞いた。
「来年は、何が食べたい?」
最初の晩なら、リーゼは「特にありません」と答えただろう。
最初の晩、好きな食べ物を聞いたときが、そうだった。
リーゼは、色鉛筆の箱を抱えたまま、考えていた。
長いこと、考えていた。
「……パンケーキを」
「また?」
テオドールが言うと、リーゼは頷いた。
「今度は、果物が乗っているものを」
「何の果物」
「苺と……」
リーゼは、天井を見上げた。
「市場で見た、黄色くて、細長いものを」
「バナナ?」
「名前は、知りません」
テオドールは、そうか、と言った。
それから、思いついて聞いた。
「ほかに、何かしたいことは」
リーゼは、また考えた。
「海を、見てみたいです」
「海かあ。遠いぞ」
「王都から海岸までは、馬車で三日と、本にありました」
「そこは本を信じるんだな」
「それから」
リーゼは、真剣な顔で言った。
「海の水は、塩辛いそうです。本当かどうか、確かめたいです」
「飲むなよ」
「少しだけです」
「少しでもやめとけ」
ベアトリスが、リーゼの肩に毛布をかけた。
リーゼは、色鉛筆の箱を枕元に置いて、目を閉じた。閉じてから、もう一度開けた。
「叔父様」
「ん」
「明日の朝は、何を食べますか」
「何がいい」
「パンケーキがいいです」
「誕生日、もう終わったぞ」
リーゼは、目を閉じたまま、言った。
「パンケーキは、誕生日でなくても、食べられるのでしょう?」
テオドールは、灯りを消しながら、笑った。
「覚えたな」
(了)




