↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

本でしか世界を知らない六歳の姪に「外へ行ってみる?」と聞いたら、「必要でしょうか」と返された

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/03

兄の一家が、馬車ごと谷へ落ちた。


兄と、兄嫁と、甥と、姪。四人とも助からなかった。

春先の、雨の多い週だった。


それで、テオドールは三十四で伯爵になった。


本人がいちばん驚いていた。騎兵隊で十年、馬の世話と書類仕事をしてきた男だ。伯爵家の家督など、自分の人生に関係のある話だと思ったことは一度もなかった。


妻のベアトリスは、知らせを受けた日に、トランクを三つ出してきて言った。


「着ていく服がないわ」

「葬儀なんだから、黒を着ればいいだろ」

「その黒がないのよ。あなたのも、肘が擦り切れてる」


それで二人は、仕立て屋に寄ってから、王都の北にある兄の屋敷へ向かった。


馬車の中で、ベアトリスが言った。


「お屋敷に住むのよ、私たち」

「らしいね」

「あなた、伯爵様なのよ」

「らしいね」

「らしいね、じゃなくて」


テオドールは、窓の外を見ながら頭をかいた。

兄とは、十年近く、まともに口をきいていなかった。最後に会ったのは、父の葬儀だった。兄はそのとき、テオドールの擦り切れた肘を見て、何も言わずに目をそらした。


   ◇


葬儀が終わった翌日、家令のオスカーが、書類の束を持ってきた。


屋敷の財産目録。使用人の名簿。領地の小作人の一覧。兄が残した借金と、兄に借金をしている人間の一覧。

テオドールは三枚目で目が滑り始め、五枚目でベアトリスに渡した。


最後に、オスカーが言いにくそうに付け足した。


「それと……もう一人、お嬢様がいらっしゃいます」

「姪なら、亡くなっただろ」

「いえ。そちらではなく」


オスカーは、言葉を選んでいた。


「亡くなられた旦那様が、以前お屋敷にいたメイドとの間にもうけられた方です。六つになられます。西の棟に」


テオドールは、ベアトリスと顔を見合わせた。


兄に隠し子がいた。

それ自体は、驚くほどのことでもない気がした。兄はそういう男だった。


驚いたのは、そのあとだ。


「葬儀には」

「お出になっておりません」

「……出さなかったのか?」

「お部屋から出られる習慣が、ございませんので」


「母親は」

「お産みになって半年ほどで、お暇をいただいて屋敷を出ました。お嬢様は、旦那様のご意向で屋敷に残されました。その後のことは、存じません」

「……爵位は、その子には」

「ございません。正式な嫡出の子としては、届けられておりませんので」


オスカーは、事務的に言った。

事務的に言うことに、慣れている声だった。


   ◇


西の棟の三階、廊下のいちばん奥の部屋だった。


オスカーが扉を叩くと、中から女の声がして、扉が開いた。四十くらいの、背筋の伸びた女だった。世話係のヒルダだと名乗った。


部屋は、明るかった。

窓が大きい。床に厚い絨毯。寝台には天蓋がある。衣装箪笥に、きちんと畳まれた服が並んでいる。

壁の一面が、天井まで本棚だった。


牢屋のようなものを、どこかで覚悟していた。

拍子抜けするほど、ちゃんとした部屋だった。


窓際の机で、小さな女の子が本を読んでいた。


黒っぽい髪を、きっちり二つに編んでいる。

扉が開いても顔を上げず、読んでいた頁の最後の行まで目を動かしてから、指を挟んで本を閉じた。それから、こちらを見た。


怯えた顔ではなかった。喜んでいる顔でもなかった。

見慣れない家具が運び込まれたのを確かめるような顔だった。


「リーゼ様。新しい旦那様と、奥様です」


ヒルダが言うと、女の子は椅子から降りて、膝を曲げて礼をした。


「はじめまして。新しい当主様」

「あー……叔父でいいよ」

「叔父とは、父母の兄弟を指す言葉ですね」

「うん」

「存じています」

「じゃあ、それで」


リーゼは、もう一度礼をした。

それから、指を挟んだままの本に、ちらりと目をやった。続きが気になっているらしい。


テオドールは、部屋の中を見回した。


本棚。机。寝台。箪笥。暖炉。

何か足りない気がした。何が足りないのか、しばらく分からなかった。


人形がない。

積み木も、ボールも、木馬もない。


六歳の子の部屋に、遊ぶものが一つもなかった。


「外には、出る?」


テオドールは、なんとなく聞いた。


リーゼは、考えてから、窓を指さした。


「外なら、そこにあります」

「……うん?」

「あそこが、外です」


窓の向こうに、庭が見えた。刈り込まれた生垣と、池と、遠くに門。


リーゼは、それで説明は終わったという顔をしていた。


テオドールは、窓とリーゼを見比べた。

ベアトリスは、何も言わなかった。開きかけた口を、閉じたのが見えた。


   ◇


その日の夕食に、テオドールはリーゼを呼んだ。


ヒルダは、困った顔をした。


「お嬢様のお食事は、いつもお部屋に運んでおりますが」

「今日から、こっちで食べればいいだろ」

「……かしこまりました」


食堂の長いテーブルは、三人で使うには長すぎた。

ベアトリスが、端のほうに三人分をまとめて並べさせた。


リーゼは、椅子に座ると、料理より先に、テーブルを見た。

テオドールを見た。ベアトリスを見た。テーブルの上の三つの皿を、順番に見た。


「まるで、家族みたいですね」


テオドールの手が、止まった。

ベアトリスの手も、止まっていた。


「本に、こういう場面がありました」


リーゼは、真面目な顔で付け足した。


「……まあ、叔父と姪なんだし。これから一緒に暮らすなら、家族でいいんじゃないか」


テオドールが言うと、リーゼは瞬きをした。


「……私も、ですか?」

「もちろん」


リーゼは、考えた。


「そうなのですね」


それだけ言って、リーゼはスプーンを取った。


スープを、ひと口飲んだ。

それから、皿の横の、緑と赤の何かを見た。


「これは何ですか」

「ほうれん草のソテーと、人参のグラッセ」

「ソテー」

「炒めたやつ」


テーブルの上のものの半分以上を、リーゼは知らなかった。

聞いてみると、ここ数年、朝と夜の二回、ほぼ同じものを食べていたらしい。パンと、煮た肉と、煮た野菜と、牛乳。量も、栄養も、足りていた。


ヒルダは、それを誇らしげに説明した。


「お医者様の指示どおりの献立でございます。お嬢様は、六年間、一度も大きな病気をなさっておりません」


それは、たぶん本当だった。


ベアトリスは、ヒルダの説明を最後まで聞いてから、「明日の朝は、料理長と話をさせて」とだけ言った。


   ◇


翌朝、テーブルにパンケーキが出た。


厚めに焼いて、バターをのせて、蜂蜜をかけてある。ベアトリスが料理長と相談して、いちばん無難なものを選んだらしい。


リーゼは、皿の上のものを、しばらく観察した。


「これは、パンですか」

「パンケーキ」

「パンなのですか。ケーキなのですか」

「そこ気になる?」

「気になります」


テオドールは、どっちなんだろう、と思った。

ベアトリスを見ると、ベアトリスも首を傾げていた。


「……どっちでもいいよ。食べてみな」


リーゼは、ナイフとフォークで、端を小さく切った。

蜂蜜の染みたところを、口に入れた。


噛んで、止まった。


フォークを持った手が、宙で止まっている。目だけが、皿の上の残りを見ていた。


「……これが、甘い、ですか」

「そうだね」


リーゼは、返事をしなかった。

もう一口、切った。さっきより、大きかった。


その朝、リーゼはパンケーキを二枚食べた。

二枚目の途中で、口の端に蜂蜜がついているのを、ベアトリスがナプキンで拭いた。リーゼは、拭かれているあいだ、じっとしていた。拭き終わると、また食べ始めた。


   ◇


ピーマンのことは、三日目の昼に起きた。


肉と野菜の炒め物の中に、緑色の細切りが入っていた。

リーゼは、それをフォークで刺して、ためらいもなく口に入れた。


噛んだ。


顔が、固まった。

眉と眉のあいだに、くっきりと皺が寄った。


リーゼは、口の中のものを、慎重にもう一度噛んだ。

皺が、深くなった。


「……これは」


長い間があった。


「本に書いてあった、『苦い』というものですか」

「たぶん、それ」


リーゼは、時間をかけて飲み込んだ。

それから、皿の上に残った緑の細切りを、フォークの先でつついた。


「……あまり、好きではありません」

「残していいよ」

「残しても?」


リーゼは、顔を上げた。

信じられない、という顔ではなかった。そういう規則がこの家にはあるのか、と確認する顔だった。


「いいよ。じゃあ、俺が食べる」


テオドールは、リーゼの皿からピーマンをまとめて自分の皿に移して、口に放り込んだ。


リーゼが、それをじっと見ていた。


「嫌いなものを、他の人に渡してもよいのですか」

「俺は好きだから」

「……叔父様は、これが、お好きなのですか」

「ピーマン、うまいだろ」


ベアトリスが、横で小さく首を振った。好きではないらしい。


リーゼは、テオドールの口元と、ベアトリスの顔と、自分の皿を見比べた。


「同じものを食べても、違うのですね」


テオドールは、ピーマンを噛みながら、そうだね、と言った。

それ以上、何も言うことが思いつかなかった。


   ◇


庭へ出たのは、一週間ほど経ってからだった。


本当は、もっと早く連れ出すつもりだった。三日目に「外、行ってみる?」と聞いたら、リーゼは「必要でしょうか」と聞き返した。


「必要っていうか……せっかく足があるんだし」

「足は、あります」

「だろ」


それで、出ることになった。

出ることになってから、ベアトリスに止められた。


「靴くらい、用意してからにして」


リーゼの靴は、室内履きしかなかった。

町の靴屋を呼んで、足の寸法を測らせた。リーゼは、足を測られているあいだ、靴屋の巻き尺を穴があくほど見ていた。


新しい靴を履いて、リーゼは庭に出た。


歩き方が、ぎこちなかった。

砂利の上を、一歩ずつ、足の裏で確かめるように進む。芝生に乗ると、立ち止まって、足元を見下ろした。


「沈みます」

「芝生だからね」

「本の草原は、沈むとは書いていませんでした」


風が吹いた。

リーゼは、目をつぶって、顔を背けた。編んだ髪の先が、頬を叩いていた。


「……風が、顔に当たります」

「当たるね」

「冷たいです。でも、日の当たっているところは、温かいです」


リーゼは、自分の手の甲を、日向と日陰に交互に出して確かめていた。

テオドールは、それを、しばらく黙って見ていた。


「寝転んでみる?」

「草の上に、ですか」

「服が汚れるけど」


リーゼは、ベアトリスのほうを見た。ベアトリスは、肩をすくめた。


リーゼは、慎重に膝をついて、それから横になった。

テオドールも、隣に寝転んだ。背中に、芝生のちくちくした感じが来た。何年ぶりだろう、と思った。


しばらく、リーゼは何も言わなかった。


それから、顔を横に向けて、草に鼻を近づけた。


「……草って、匂いがするのですね」

「するよ」

「本には、『青い草』としか」


リーゼは、もう一度、匂いを嗅いだ。

長いこと嗅いでいた。


「青い、だけでは、足りませんね」


テオドールは、空を見たまま、そうだね、と言った。

雲がひとつ、ゆっくり流れていた。


   ◇


庭番の老人が、大きな茶色の犬を飼っていた。名前はブルーノという。


ブルーノは、庭に新しい人間がいるのを見つけると、尾を振りながら一直線に走ってきた。

リーゼは、その場で固まった。


「犬です」

「犬だね」

「牧羊犬の系統です。耳の形で分かります。主人に忠実で、知能が高く――」


ブルーノが、リーゼの顔を舐めた。


リーゼは、言いかけた言葉のまま、動かなくなった。

頬が、べたべたになっていた。


「……濡れました」

「舐めたからね」

「舐めるとは、書いてありませんでした」

「書いてなかったか」

「忠実とは、書いてありました」


庭番の老人が笑って、ブルーノの首輪を押さえた。


「お嬢様、背中を撫でてやってくだせえ。そっちのほうが、こいつは喜びます」


リーゼは、恐る恐る手を伸ばした。

指先が、茶色い毛に触れた。


指が、沈んだ。


リーゼの手が、止まった。それから、もう一度、確かめるように撫でた。


「本に、『ふわふわ』という言葉がありました」


もう一度、撫でた。


「これが、ふわふわ……」


口の端が、ほんのわずか、上がった。

テオドールが気づいたときには、もう元に戻っていた。


その日、リーゼはブルーノを、二十回近く撫でた。

数えていたわけではない。ベアトリスが、あとでそう言った。


翌朝、朝食の席で、リーゼが言った。


「昨日の犬は、今日もいますか」


テオドールは、パンを持ったまま、リーゼを見た。


「いるよ。庭番の犬だから」

「そうですか」


リーゼは、それきり黙ってパンケーキを食べた。

食べ終わるのが、いつもより早かった。


   ◇


池に落ちたのは、その次の週だ。


池のふちの石に、緑の苔がついていた。リーゼは、水面に浮いた葉を見ようとして、その石に足をかけた。


滑った。


声も出なかった。気づいたときには、リーゼは膝まで池の中に立っていた。


テオドールは、走って行って、脇の下に手を入れて引き上げた。

軽かった。


リーゼは、芝生の上に下ろされて、自分のずぶ濡れのスカートを見下ろした。


「……池というのは、こんなに冷たいのですね」

「まず、そこ?」

「それと、服が重いです」


リーゼは、スカートの裾を両手で持ち上げようとして、持ち上がらなくて、そのまま立っていた。

濡れた指先が、冷たそうに赤くなっていた。


ベアトリスが、乾いた布を持って走ってきた。

リーゼを布でくるみながら、テオドールを睨んだ。


「目を離さないでって言ったでしょう」

「離してない。見てたら落ちた」

「見てたなら止めて」


それはそうだった。


リーゼは、そのまま湯殿へ運ばれた。

ベアトリスが湯を張らせて、濡れた服を剥がして、乾いた服に着替えさせた。


テオドールが居間に戻ると、リーゼは暖炉の前の長椅子で、毛布に二重にくるまれていた。両手で、温めた牛乳の杯を持っている。


リーゼは、牛乳の表面を見ながら、言った。


「本の池は、澄んでいて、魚が泳いでいます」

「うちの池も、鯉はいるよ」

「見えませんでした」

「濁ってるからな」

「……苔のことも、書いてありませんでした」


リーゼは、牛乳の杯を両手で持ったまま、しばらく黙っていた。


「本は、ときどき、大事なことを書き忘れます」


   ◇


ひと月ほど経った、晴れた日の午後だった。


庭の砂利道を、リーゼがブルーノを追いかけていた。

走るのは、まだ下手だった。腕の振り方がちぐはぐで、足が上がっていない。


案の定、転んだ。


前のめりに、砂利の上に手と膝をついた。

テオドールは、すぐには駆け寄らなかった。子供は転ぶものだと思った。自分も、子供の頃は毎日転んでいた。


リーゼは、自分で起き上がって、座り込んだ。

膝を見ていた。


擦りむいていた。砂利の粒がいくつか食い込んで、そこから、血がにじんでいた。


リーゼは、泣かなかった。

傷口を、しげしげと眺めていた。


「本で、読んだことは、ありますが」


指を伸ばしかけて、引っ込めた。


「……こんなに、赤いのですね」


それから、顔が歪んだ。


「痛い……」


目に、みるみる涙が溜まった。

ひとつ、こぼれた。


リーゼは、驚いたように、自分の頬に触れた。

濡れた指先を、見た。


「痛いと、本当に、涙が出るのですね」


テオドールは、ようやく駆け寄って、膝をついた。

ハンカチを出して、傷のまわりを拭いた。リーゼは、痛そうに顔をしかめて、それでも膝を見ていた。


ベアトリスが、水を汲んだ桶を持ってきた。

傷口を洗われているあいだ、リーゼは歯を食いしばっていた。涙は、まだ時々こぼれていた。


包帯を巻き終わったころ、リーゼが言った。


「本では、悲しいときにも、涙が出るとありました」

「うん」

「ちなみに」


リーゼは、考えた。


「悲しいというのは、どんな時になるのですか?」


テオドールは、包帯の端を結ぼうとしていた手を、止めた。


「……ええと」


ベアトリスを見た。

ベアトリスは、桶を持ったまま、立っていた。


「そうね……」


ベアトリスは、それ以上言わなかった。

言えなかったのだと思う。


リーゼは、二人の顔を交互に見た。


「説明の、難しい概念なのですか?」

「……難しいね」


テオドールは、包帯を結んだ。

結び目が、曲がった。


「たぶん、そのうち分かる」

「そのうち」

「分かんなかったら、また聞いて」


リーゼは、包帯の巻かれた膝を見下ろして、頷いた。


その夜、テオドールは、寝室の窓から、暗い庭を見ていた。

ベアトリスが、後ろで髪をほどきながら言った。


「六年よ」

「うん」

「誰も、教えなかったのね」


テオドールは、返事をしなかった。

窓の外は、暗くて何も見えなかった。リーゼが「外ならそこにある」と言った窓も、たぶん、こういう色をしていたのだろうと思った。


   ◇


長雨の季節が終わりかけた、ある朝。テオドールが書斎で小作人の帳簿と格闘していると、扉が叩かれた。


リーゼだった。

自分から書斎に来たことは、それまで一度もなかった。


「叔父様。お仕事中でしょうか」

「仕事中だけど、数字が全然合わないから、休憩したいところ」

「庭へ、行ってもいいですか」


テオドールは、ペンを置いた。


「ブルーノ?」

「はい。それと、池の苔が、雨のあとでどうなっているか、見たいです」

「見るだけな」

「見るだけです」


結局、テオドールも帳簿を放り出してついていった。

池の苔は、雨でさらに緑が濃くなっていた。リーゼは、石には乗らずに、ふちにしゃがんで、長いこと眺めていた。


   ◇


庭番の老人には、孫がいた。マルコという、リーゼより一つ上の男の子だ。

ときどき祖父の手伝いに来ていて、ある日、ブルーノを撫でているリーゼを見つけた。


「おまえ、誰?」

「リーゼと申します。この家の者です」

「もうします?」


マルコは、変な顔をした。


「なにそれ。変なしゃべり方」


リーゼは、ブルーノを撫でる手を止めた。

何も言わなかった。言い返す言葉を、たぶん、本の中で探していた。見つからなかったらしい。


その日、リーゼは早めに部屋に戻った。

夕食の席でも、あまり喋らなかった。


「何かあった?」


テオドールが聞くと、リーゼはスープを見下ろしたまま言った。


「私のしゃべり方は、変ですか」

「……ちょっと、変わってるかもね」


ベアトリスが、テオドールの足を、テーブルの下で蹴った。


「でも、俺は好きだよ」


テオドールは、慌てて付け足した。

リーゼは、顔を上げなかった。


「好き、と、変、は、両方なのですか」

「両方あるね」

「……そうですか」


翌日、リーゼは庭に出なかった。

その次の日も、窓から庭を見ているだけだった。


三日目に、マルコのほうから来た。

ブルーノの綱を持って、西の棟の下に立って、窓に向かって叫んだ。


「おーい! ブルーノが、おまえいないと、つまんなそうだぞ!」


リーゼは、窓辺で、しばらく固まっていた。

それから、靴を履いて、下りていった。


二人は、その日の午後いっぱい、ブルーノに棒を投げていた。

リーゼの投げる棒は、ほとんど足元に落ちた。マルコは、そのたびに笑った。リーゼは、そのたびに眉を寄せて、もう一度投げた。


帰ってきたとき、リーゼは泥だらけで、少し不機嫌だった。


「負けました」

「何の勝負?」

「棒を、遠くへ投げる勝負です。私は、一度も勝てませんでした」


リーゼは、泥のついた手を、握ったり開いたりしていた。


「……何でしょう」


胸のあたりに、手を置いた。


「ここが、落ち着きません。もう一度やれば、次は勝てる気がします」

「それ、悔しいんじゃない?」

「悔しい」


リーゼは、その言葉を、一度だけ口の中で確かめた。


「……あまり、気持ちのいいものではありませんね」

「まあね」


リーゼは、泥のついた手を、もう一度握った。


「明日も、やります」


   ◇


夏になって、町の市場へ連れていった。


ベアトリスは最初、反対した。人が多すぎる、と。

テオドールは、手を離さなければ大丈夫だと言った。リーゼは、二人の話を黙って聞いていて、最後に「手を離しません」と言った。それで決まった。


市場は、うるさかった。


物売りの声。荷車の軋み。どこかで鶏が鳴いている。魚屋の前を通ると生臭く、香辛料の店の前を通ると鼻がむずむずした。

人が、ぶつかってきた。誰も謝らなかった。一度、通りすがりの男に足も踏まれた。肉屋の前では、男が二人、値段のことで怒鳴り合っていた。


リーゼは、テオドールの手を、痛いくらい握っていた。

目だけが、あちこちに動いていた。


「……本の市場は、もっと整っています」

「絵だからね」

「売り物が、きれいに並んでいました。それから、皆さん笑っていました」

「笑ってる人もいるよ。あっち」


林檎の屋台の女が、客と冗談を言って笑っていた。

リーゼは、そちらを見て、それから怒鳴り合っている男たちを見て、また林檎の女を見た。


「同じ場所に、両方いるのですね」


帰りの馬車で、リーゼはほとんど喋らなかった。

疲れたのだろう。途中から、テオドールの腕にもたれて、うとうとしていた。


屋敷に着いて、馬車を降りるとき、リーゼが言った。


「また、行けますか」


テオドールは、思わずベアトリスを見た。

ベアトリスも、テオドールを見ていた。


「……楽しかった?」


テオドールが聞くと、リーゼは考え込んだ。


「うるさかったです。足を踏まれました。魚の匂いが、まだ鼻に残っています」

「うん」

「でも、また行きたいです」


   ◇


夏の終わりに、夕立が来た。


庭にいたリーゼは、最初の大粒が落ちてきたとき、空を見上げたまま動かなかった。

テオドールが「中に入れ」と言う前に、雨は一気に強くなった。


二人とも、玄関に駆け込んだときには、髪から水が滴っていた。


「……濡れました」

「濡れたね」


リーゼは、前髪から落ちる水滴を、寄り目になって見ていた。


「窓から見ていた雨は、濡れませんでした」

「そりゃ、窓のこっち側にいたからね」


リーゼは、張りついた袖を指でつまんで、引っ張っていた。


「音も、違います。屋根の上と、地面と、葉っぱの上で、違う音がします」


ベアトリスが、タオルを持ってきた。

リーゼの頭を拭きながら、テオドールに「また」という顔をした。テオドールは、今回は自分のせいではないと思ったが、黙っていた。


その翌朝、テオドールより先に、ベアトリスが気づいた。


「あの子、今日の服、自分で選んだみたい」


リーゼは、三着の普段着のうち、いちばん地味な灰色のを着ていた。

灰色の服の胸元に、どこで見つけたのか、乾いた小さな黄色い花が一輪、留めてあった。


「花、誰かにもらったのかな」

「さあ。マルコじゃない?」


ベアトリスは、それ以上は何も言わずに、紅茶を注いだ。

注ぎながら、手が一度、止まった。


   ◇


秋の初めが、リーゼの誕生日だった。


誕生日を知っていたのは、ヒルダだった。台帳に書いてあったと言われた。

去年まで、その日に何かをしたことはないという。


「お祝いの習慣が、ございませんでしたので」


ヒルダは、そう言った。

悪気のない声だった。この人は、言いつけられたことを、言いつけられたとおりに、六年間やってきたのだ。本を与えたのも、この人だった。リーゼが文字を覚えて、本を欲しがったから、月に一度、町の本屋から取り寄せていた。


「本は、ヒルダが選んでたの?」

「はい。お嬢様が、ご興味をお持ちになりそうなものを」


テオドールは、ヒルダの顔を見た。

それから、「当日、手伝ってもらえる?」とだけ言った。ヒルダは、驚いた顔をして、頭を下げた。


当日は、豪華にはしなかった。


いつもの食堂に、いつもより多めの料理。鶏の丸焼き。リーゼの好きなほうれん草のソテー。ピーマンは入れなかった。

贈り物は、ベアトリスが選んだ、町の文具屋の色鉛筆の箱。テオドールは、何を選べばいいか分からなくて、庭番の老人に相談して、ブルーノの首輪と同じ色の、赤いリボンを買った。


それから、ケーキ。


白いクリームを塗った、丸いケーキだった。上に、苺が並んでいる。

料理長が、朝から焼いていた。


リーゼは、ケーキをテーブルの上で見つけるなり、椅子の上で背筋を伸ばした。

それから、ほんのわずか、身を引いた。


「……これは」

「誕生日ケーキ」

「存じています」


リーゼは、白いクリームを、警戒する目で見ていた。


「本に、ありました。『脳髄が溶けるほど甘い』と」


テオドールは、ベアトリスを見た。


「どんな本読ませてたんだ」

「比喩よ」


ベアトリスが、リーゼに言った。


「承知しています」


リーゼは、真面目に頷いた。

それから、間を置いて付け足した。


「……たぶん」


ベアトリスが、ケーキを切り分けた。

リーゼの皿に、苺の乗ったところを置いた。


リーゼは、フォークを持って、しばらく動かなかった。

怖いのか、とテオドールは思った。違った。ケーキの断面を、じっと見ていた。スポンジと、クリームと、間に挟まった苺の層を、数えているようだった。


それから、フォークの先で、ほんの少しだけすくって、口に入れた。


目が、丸くなった。


もう一口。今度は、さっきより大きかった。

それから、皿を見下ろして、何か考えていた。


「……少し、分かります」

「脳が溶けた?」

「はい」


リーゼは、大真面目に答えて、三口目を食べた。


   ◇


食事が終わるころ、テオドールは、グラスを置いた。


何か言ったほうがいい気がした。誕生日なのだから。

けれど、気の利いた言葉は、何ひとつ出てこなかった。騎兵隊でも、乾杯の音頭は人に任せていた。


「リーゼ」

「はい」

「誕生日、おめでとう」


続きは、何も出てこなかった。


ベアトリスが続けた。


「生まれてきてくれて、よかったわ」


リーゼは、二人を見た。


それから、フォークを置いた。


何か言おうとして、口が開いた。開いたまま、何も出てこなかった。


ぽたり、と、テーブルクロスに染みができた。


リーゼの目から、涙が落ちていた。

声は出していなかった。顔も、歪んでいなかった。ただ、涙だけが、次から次へと落ちていた。


いちばん困った顔をしていたのは、リーゼ本人だった。


「……不思議です」

「どうした」


テオドールの声が、かすれた。


「どこも痛く、ありません」

「うん」

「嫌なことも、ありません」


また、涙が落ちた。


「ですが、涙が出ています」


テオドールは、立ち上がりかけて、座り直した。ベアトリスが、ナプキンを持ったまま、手を宙に浮かせていた。


リーゼは、自分の額に、手のひらを当てた。


「胸が、熱いです。目も、潤んでいます」


真剣な顔で、考えた。


「これは、風邪かもしれません」

「……たぶん違う」


テオドールは、言った。

ベアトリスが、横を向いて、口元を押さえた。笑っていたのか、別の何かだったのかは、テオドールには分からなかった。


「では、これは、何ですか」


リーゼが、聞いた。


ベアトリスは、ナプキンで、リーゼの頬を拭いた。

拭きながら、言った。


「……さあ」

「悪いやつじゃ、ないと思うよ」


テオドールは、言った。それしか、言えなかった。


リーゼは、拭かれた頬に手を当てて、しばらく考えていた。


「悪いものでないのなら」


もう一度、ケーキの皿を見た。


「残りを、食べてもいいですか」


   ◇


片づけの途中、食堂の入口で、ヒルダがテオドールを呼び止めた。


ヒルダは、ずっと入口に立っていた。リーゼが泣いていたあいだも、そこにいた。俯いていて、表情は見えなかった。


「旦那様」

「ん」

「来年は……私も、お嬢様に何かご用意して、よろしいでしょうか」


テオドールは、ヒルダの顔を見た。

六年間、言いつけられたことだけを、正確にやってきた人の顔だった。


「聞かなくていいよ。そういうのは」


ヒルダは、何か言いかけて、やめて、深く頭を下げた。

それから、食器を下げに戻っていった。いつもより、皿の重ね方が雑だった。


   ◇


寝る前に、ベアトリスがリーゼに聞いた。


「来年は、何が食べたい?」


最初の晩なら、リーゼは「特にありません」と答えただろう。

最初の晩、好きな食べ物を聞いたときが、そうだった。


リーゼは、色鉛筆の箱を抱えたまま、考えていた。

長いこと、考えていた。


「……パンケーキを」

「また?」


テオドールが言うと、リーゼは頷いた。


「今度は、果物が乗っているものを」

「何の果物」

「苺と……」


リーゼは、天井を見上げた。


「市場で見た、黄色くて、細長いものを」

「バナナ?」

「名前は、知りません」


テオドールは、そうか、と言った。

それから、思いついて聞いた。


「ほかに、何かしたいことは」


リーゼは、また考えた。


「海を、見てみたいです」

「海かあ。遠いぞ」

「王都から海岸までは、馬車で三日と、本にありました」

「そこは本を信じるんだな」

「それから」


リーゼは、真剣な顔で言った。


「海の水は、塩辛いそうです。本当かどうか、確かめたいです」

「飲むなよ」

「少しだけです」

「少しでもやめとけ」


ベアトリスが、リーゼの肩に毛布をかけた。

リーゼは、色鉛筆の箱を枕元に置いて、目を閉じた。閉じてから、もう一度開けた。


「叔父様」

「ん」

「明日の朝は、何を食べますか」

「何がいい」

「パンケーキがいいです」

「誕生日、もう終わったぞ」


リーゼは、目を閉じたまま、言った。


「パンケーキは、誕生日でなくても、食べられるのでしょう?」


テオドールは、灯りを消しながら、笑った。


「覚えたな」


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
こういう言い方は問題があるかも知れないけど、敢えて書く。 「クズな兄一家が全員あの世行きしたのは神の采配」
愛おしい
人間はこういう人と人との営みから人間へと成っていく。いい人間を作るのはいい人間である。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。