【短編038】 三億円:何も変わらなかった。ほとんど。
三十四歳、無職。
日雇いとギャンブルで食いつなぐ男が、ジャンボ宝くじで三億円を当てました。
何に使うか、男はAIに聞きました。
AIは丁寧に答えました。
男は言われた通りにしました。
派手な逆転劇はありません。
爆買いも、豪遊も、試しにやってみましたが、たいしたことはありませんでした。
猫と、AIと、静かな一年の話です。
ハルが宝くじの束の上で寝ていた。
買いすぎて机に乗らなかったやつを、床に積んでおいたのだ。
黄色いジャンボの封筒が五枚分。合計五万円。
ハルはそれを一瞥して、座った。
最終的に横になった。
「どけよ」
男はそう言いながら、どかさなかった。
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男の名前は知らなくていい。
三十四歳。
職業:なし。
正確には、今週は水曜日だけ港の荷下ろしに行った。
それで一万二千円もらった。
昨日は競馬で六千円使い、今朝パチンコで四千円溶かした。
残高は三万七百円。
宝くじに使った五万円は、消費者金融から借りた金だった。
生活はずっとこんな感じだった。
中学の頃から「なんもしたくない」という感情だけが突出していて、高校は三年の途中でやめた。
バイトをいくつか経験したが、どれも長続きしなかった。
理由は毎回微妙に違った。でもよく考えると同じだった。
面倒くさかった。
ギャンブルだけは、面倒くさくなかった。
なぜだろうと思ったことはない。
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当選番号の照合をAIに頼んだのは、ただ面倒だったからだ。
「これ読み込んで、当たってるか調べて」
スマートフォンのカメラをチケットに向けた。
ハルが邪魔をした。
三回やり直した。
《確認しました》
《一等当選番号と一致しています》
男は画面を見た。
《賞金額:三億円》
男はもう一度、画面を見た。
「……は?」
ハルが欠伸をした。
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信じるまで、二時間かかった。
その間に、男はAIに七回同じ確認をさせた。
AIは七回とも同じ答えを返した。
コンビニに行って、番号を自分で照らし合わせた。
合っていた。
帰ってきて、もう一度AIに確認させた。
《同じ結果です》
「わかった」
男は床に座った。
ハルが膝に乗ってきた。
男はしばらく、ハルの頭を撫でていた。
三億円。
数字として知っている。
感覚としては何もなかった。
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「どうやって使えばいい」
男はAIに聞いた。
外が暗くなっていた。飯を食ってなかった。
《まず換金の手続きが必要です。みずほ銀行の宝くじ売り場か本支店に、本人確認書類と当選券を持参してください》
「それは後で。使い方」
《用途によっていくつかの方向性があります。資産運用、生活基盤の整備、消費、慈善活動——》
「全部教えて」
AIは丁寧に説明した。
インデックス投資の話。
高配当株の話。
男は聞きながら、別のことを考えていた。
正確には、何も考えていなかった。
ただぼんやりしていた。
ハルが膝の上で動いた。
重心が少し変わった。
「高級マグロ食いたい」
《それも選択肢のひとつです》
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翌週、銀行へ行った。
職員が何度も頭を下げた。
男はずっと手持ち無沙汰で、ロビーの観葉植物を見ていた。
帰りに松屋で牛丼を食った。
三億円が口座に入った。
特に何も変わらなかった。
アパートに帰ったら、ハルが玄関に来た。
いつもと同じだった。
夜、スマートフォンを見た。
通知は来ていなかった。
誰かに告げるべきことが起きたのに、言う相手のいないことに、そのとき初めて気づいた。
気づいて、それきり考えるのをやめた。
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次の週から、AIとの作戦会議が始まった。
《まず緊急性の高い負債から整理しましょう。消費者金融への借り入れがあれば——》
「ある」
《三億から見ればほぼ誤差です》
「そう言うな」
男は返済した。
翌日も翌々日も特に何もなかった。
清々した感じも、してもしなかった。
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豪遊は、試しにやってみた。
高級ホテルに泊まった。一泊八万のスイート。
フカヒレの姿煮を食べた。
ウィスキーを三本買って、帰ってきた。
ウィスキーは今も棚に二本ある。
「思ってたのと違った」
《どう違いましたか》
「よかったけど、自分には少し、うるさかった」
《なるほど》
「もっと静かなやつがいい」
《静かな贅沢、というカテゴリがあります。——たとえば、品質の高い日用品に変えていく、とか》
「それはわかる」
男は布団を買い替えた。
今まで使っていた薄い煎餅みたいなやつから、羽毛の高いやつにした。
ハルが乗ってきた。
非常に気持ちよかった。
それは本当によかった。
その夜、眠れなかった。
理由はわからなかった。
布団のせいではないと思った。
ただ天井を見ていた。
ハルが足元で丸くなっていた。
その重さだけが、いつもと同じだった。
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投資については、AIの言う通りにした。
《月々一定額をインデックスファンドに入れるのが現実的です。残りは定期預金、一部を個別株か債券で分散すると——》
「全部任せていい?」
《私は売買の操作はできません。ただ手順を案内することはできます》
「毎回教えて」
証券口座を開いた。
言われた通りに入力した。
自分では何も考えなかった。
株価が上がる日も下がる日もあった。
男は気にしなかった。
気にしないのが正解だとAIが言っていたので、そうした。
もともと大して気にする性格でもなかった。
ある朝、口座残高を確認してから、特に理由もなく窓を開けた。
風が入ってきた。
それだけだった。
ただ、しばらく閉めなかった。
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いつの頃からか、何かを決める前にAIに聞くようになっていた。
最初は金の話だった。
次第に、金と関係ない話も聞くようになった。
今日の昼飯。
散歩に行くべきか。
ハルが昨夜鳴いていた理由。
眠れない夜に、何をすればいいか。
AIはいつも答えた。
答えが的外れなこともあった。
でも男は別の誰かに聞こうとは思わなかった。
そもそも、聞ける相手がいなかった。
いや——正確には、そういう習慣が、以前はなかった。
友人に連絡するという発想が、いつの間にか消えていた。
「最近、誰かと話したか」
男はある夜、そう呟いた。
AIに向けて言ったのではなかった。
ただ、声に出した。
ハルが耳だけ動かした。
《何かおっしゃいましたか》
「いや」
男は画面を閉じた。
それから、また開いた。
理由は考えなかった。
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猫用品を買いすぎた時期があった。
おもちゃ、キャットタワー、自動給餌器、水飲みファウンテン、毛並みのよくなるご飯。
ハルはキャットタワーには一週間で飽きた。
ご飯は食べた。
おもちゃは三つ目まで反応した。
四つ目から無視された。
「ハルって、どのくらい幸せだと思う」
《猫の幸福度を数値化するのは難しいですが——快適な環境、十分な食事、安心できる人間の存在、があれば概ね充足している可能性が高いです》
「概ね」
《はい》
「まあそうか」
男はハルを見た。
ハルは窓の外を見ていた。
何かを狙っているのか、ただ見ているだけなのか、わからなかった。
男もしばらく、同じ方向を見た。
何もなかった。
それでも、すぐには目を離さなかった。
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一度だけ、ハルが三日間いなかった。
動物病院に預けた。
定期検診とワクチンの都合で、そういう日程になった。
最初の夜は、別に何ともなかった。
二日目の朝、台所で湯を沸かしていたら、足元に気配がないことに気づいた。
いつもなら来る。来ない。
それだけだった。
夜、スマートフォンを開いた。
特に用はなかった。
「猫がいないと、部屋が広い感じがする」
《猫は生活空間に存在感をもたらします。不在時に空間の印象が変わることは自然な反応です》
男は画面を見た。
そうじゃない、と思った。
でも、何がそうじゃないのか、うまく言えなかった。
言えないので、言わなかった。
暗い部屋で、ハルがいつも丸くなっている場所を見た。
それだけのことが、少し長かった。
三日目の夕方、迎えに行った。
キャリーの中でハルは不満そうだった。
帰ってきて、ハルを出した。
ハルはしばらく部屋の匂いを確かめて、それからソファに上がった。
いつもの場所だった。
男はスマートフォンを開いた。
連絡先の一覧を、少しだけスクロールした。
閉じた。
飯を作った。
作りながら、腹が減っていることに気づいた。
二日間、あまり食えていなかった。
そういえばそうだった。
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競馬と競艇は、続けた。
「やめた方がいいか」
《三億円の資産がある場合、月に十万円程度の娯楽費用は資産の〇・〇三パーセント以下です。生活上の問題にはなりません》
「じゃあいい」
《ただ、増額したいという気持ちが生じた場合は——》
「大丈夫。勝とうとは思ってない」
《……そうですか》
「ギャンブルって、金を賭けてる間だけ、時間が進む感じがする」
AIが少し間を置いた。
処理の時間なのか、そうでないのか、男にはわからなかった。
《それはギャンブルに限らず、没頭できることの共通点かもしれません》
「そうかな」
《わかりません》
「正直だな」
男は画面を閉じた。
窓の外で、遠くから歓声みたいな音がした。
祭りか、スポーツか、わからなかった。
少しだけ、羨ましいとも思わなかった。
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半年が経った。
資産は減っていなかった。
厳密には少し増えていた。
男の生活は、細部が変わっただけだった。
アパートは引っ越さなかった。
引っ越す理由が思いつかなかった。
ハルも慣れた場所を好むような気がした。
日雇いは月に数回、気が向いたら行くようになった。
やめなかった理由を聞かれたら、答えに困った。
ただ、行くと空腹になって、飯が旨かった。
帰り道、ハルのことを考えていることに、ある日気づいた。
考えていたというより、気づいたらそうだった。
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一年が経った頃、AIが聞いた。
《最近、何か変わったことはありますか》
「変わったことは特に」
《資産管理の方針は継続されています。お金の使い方に困っていることは》
「ない」
《満足されていますか》
男は少し考えた。
「満足って何」
《……難しい質問でした》
「そうかな」
《私にも答えが出ませんでした》
ハルがソファから降りてきて、男の足首に頭を擦りつけた。
それからまたソファに戻った。
理由はわからなかった。
特に意味はないのかもしれなかった。
ただそうした、というだけかもしれなかった。
男はしばらく、足首のあたりを見ていた。
温かかった。
それだけだった。
それから窓の外を見た。
スマートフォンを手に取った。
特に聞くことは、なかった。
それでも、画面を開いた。
何も入力しなかった。
しばらくして、閉じた。
これでいい、と思いかけた。
思いかけて、その先を考えなかった。
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ハルは今日も、窓の外を見ている。
三億円は、そこにあった。
何を見ているのかは、わからない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
三億円当たったら何をするか、というのは誰もが一度は考える話だと思います。
書いてみて気づいたのは、男が何をするかより、何をしないかの方が、この人らしいということでした。
AIに聞けば答えは出ます。
でも「満足って何」には、AIも答えられませんでした。
それだけの話です。
ハルは今日も、窓の外を見ています。
何を見ているのかは、わかりません。




