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【短編038】 三億円:何も変わらなかった。ほとんど。

掲載日:2026/08/30

三十四歳、無職。

日雇いとギャンブルで食いつなぐ男が、ジャンボ宝くじで三億円を当てました。

何に使うか、男はAIに聞きました。

AIは丁寧に答えました。

男は言われた通りにしました。

派手な逆転劇はありません。

爆買いも、豪遊も、試しにやってみましたが、たいしたことはありませんでした。

猫と、AIと、静かな一年の話です。

 ハルが宝くじの束の上で寝ていた。


 買いすぎて机に乗らなかったやつを、床に積んでおいたのだ。

 黄色いジャンボの封筒が五枚分。合計五万円。

 ハルはそれを一瞥して、座った。

 最終的に横になった。


「どけよ」


 男はそう言いながら、どかさなかった。


---


 男の名前は知らなくていい。


 三十四歳。

 職業:なし。

 正確には、今週は水曜日だけ港の荷下ろしに行った。

 それで一万二千円もらった。

 昨日は競馬で六千円使い、今朝パチンコで四千円溶かした。

 残高は三万七百円。

 宝くじに使った五万円は、消費者金融から借りた金だった。


 生活はずっとこんな感じだった。

 中学の頃から「なんもしたくない」という感情だけが突出していて、高校は三年の途中でやめた。

 バイトをいくつか経験したが、どれも長続きしなかった。

 理由は毎回微妙に違った。でもよく考えると同じだった。

 面倒くさかった。


 ギャンブルだけは、面倒くさくなかった。

 なぜだろうと思ったことはない。


---


 当選番号の照合をAIに頼んだのは、ただ面倒だったからだ。


「これ読み込んで、当たってるか調べて」


 スマートフォンのカメラをチケットに向けた。

 ハルが邪魔をした。

 三回やり直した。


《確認しました》


《一等当選番号と一致しています》


 男は画面を見た。


《賞金額:三億円》


 男はもう一度、画面を見た。


「……は?」


 ハルが欠伸をした。


---


 信じるまで、二時間かかった。


 その間に、男はAIに七回同じ確認をさせた。

 AIは七回とも同じ答えを返した。

 コンビニに行って、番号を自分で照らし合わせた。

 合っていた。

 帰ってきて、もう一度AIに確認させた。


《同じ結果です》


「わかった」


 男は床に座った。

 ハルが膝に乗ってきた。

 男はしばらく、ハルの頭を撫でていた。


 三億円。


 数字として知っている。

 感覚としては何もなかった。


---


「どうやって使えばいい」


 男はAIに聞いた。

 外が暗くなっていた。飯を食ってなかった。


《まず換金の手続きが必要です。みずほ銀行の宝くじ売り場か本支店に、本人確認書類と当選券を持参してください》


「それは後で。使い方」


《用途によっていくつかの方向性があります。資産運用、生活基盤の整備、消費、慈善活動——》


「全部教えて」


 AIは丁寧に説明した。

 インデックス投資の話。

 高配当株の話。


 男は聞きながら、別のことを考えていた。

 正確には、何も考えていなかった。

 ただぼんやりしていた。

 ハルが膝の上で動いた。

 重心が少し変わった。


「高級マグロ食いたい」


《それも選択肢のひとつです》


---


 翌週、銀行へ行った。


 職員が何度も頭を下げた。

 男はずっと手持ち無沙汰で、ロビーの観葉植物を見ていた。

 帰りに松屋で牛丼を食った。


 三億円が口座に入った。


 特に何も変わらなかった。

 アパートに帰ったら、ハルが玄関に来た。

 いつもと同じだった。


 夜、スマートフォンを見た。

 通知は来ていなかった。

 誰かに告げるべきことが起きたのに、言う相手のいないことに、そのとき初めて気づいた。

 気づいて、それきり考えるのをやめた。


---


 次の週から、AIとの作戦会議が始まった。


《まず緊急性の高い負債から整理しましょう。消費者金融への借り入れがあれば——》


「ある」


《三億から見ればほぼ誤差です》


「そう言うな」


 男は返済した。

 翌日も翌々日も特に何もなかった。

 清々した感じも、してもしなかった。


---


 豪遊は、試しにやってみた。


 高級ホテルに泊まった。一泊八万のスイート。

 フカヒレの姿煮を食べた。

 ウィスキーを三本買って、帰ってきた。

 ウィスキーは今も棚に二本ある。


「思ってたのと違った」


《どう違いましたか》


「よかったけど、自分には少し、うるさかった」


《なるほど》


「もっと静かなやつがいい」


《静かな贅沢、というカテゴリがあります。——たとえば、品質の高い日用品に変えていく、とか》


「それはわかる」


 男は布団を買い替えた。

 今まで使っていた薄い煎餅みたいなやつから、羽毛の高いやつにした。

 ハルが乗ってきた。

 非常に気持ちよかった。

 それは本当によかった。


 その夜、眠れなかった。

 理由はわからなかった。

 布団のせいではないと思った。

 ただ天井を見ていた。

 ハルが足元で丸くなっていた。

 その重さだけが、いつもと同じだった。


---


 投資については、AIの言う通りにした。


《月々一定額をインデックスファンドに入れるのが現実的です。残りは定期預金、一部を個別株か債券で分散すると——》


「全部任せていい?」


《私は売買の操作はできません。ただ手順を案内することはできます》


「毎回教えて」


 証券口座を開いた。

 言われた通りに入力した。

 自分では何も考えなかった。


 株価が上がる日も下がる日もあった。

 男は気にしなかった。

 気にしないのが正解だとAIが言っていたので、そうした。

 もともと大して気にする性格でもなかった。


 ある朝、口座残高を確認してから、特に理由もなく窓を開けた。

 風が入ってきた。

 それだけだった。

 ただ、しばらく閉めなかった。


---


 いつの頃からか、何かを決める前にAIに聞くようになっていた。


 最初は金の話だった。

 次第に、金と関係ない話も聞くようになった。


 今日の昼飯。

 散歩に行くべきか。

 ハルが昨夜鳴いていた理由。

 眠れない夜に、何をすればいいか。


 AIはいつも答えた。

 答えが的外れなこともあった。

 でも男は別の誰かに聞こうとは思わなかった。

 そもそも、聞ける相手がいなかった。

 いや——正確には、そういう習慣が、以前はなかった。

 友人に連絡するという発想が、いつの間にか消えていた。


「最近、誰かと話したか」


 男はある夜、そう呟いた。

 AIに向けて言ったのではなかった。

 ただ、声に出した。


 ハルが耳だけ動かした。


《何かおっしゃいましたか》


「いや」


 男は画面を閉じた。

 それから、また開いた。

 理由は考えなかった。


---


 猫用品を買いすぎた時期があった。


 おもちゃ、キャットタワー、自動給餌器、水飲みファウンテン、毛並みのよくなるご飯。

 ハルはキャットタワーには一週間で飽きた。

 ご飯は食べた。

 おもちゃは三つ目まで反応した。

 四つ目から無視された。


「ハルって、どのくらい幸せだと思う」


《猫の幸福度を数値化するのは難しいですが——快適な環境、十分な食事、安心できる人間の存在、があれば概ね充足している可能性が高いです》


「概ね」


《はい》


「まあそうか」


 男はハルを見た。

 ハルは窓の外を見ていた。

 何かを狙っているのか、ただ見ているだけなのか、わからなかった。


 男もしばらく、同じ方向を見た。

 何もなかった。

 それでも、すぐには目を離さなかった。


---


 一度だけ、ハルが三日間いなかった。


 動物病院に預けた。

 定期検診とワクチンの都合で、そういう日程になった。


 最初の夜は、別に何ともなかった。

 二日目の朝、台所で湯を沸かしていたら、足元に気配がないことに気づいた。

 いつもなら来る。来ない。

 それだけだった。


 夜、スマートフォンを開いた。

 特に用はなかった。


「猫がいないと、部屋が広い感じがする」


《猫は生活空間に存在感をもたらします。不在時に空間の印象が変わることは自然な反応です》


 男は画面を見た。

 そうじゃない、と思った。

 でも、何がそうじゃないのか、うまく言えなかった。

 言えないので、言わなかった。


 暗い部屋で、ハルがいつも丸くなっている場所を見た。

 それだけのことが、少し長かった。


 三日目の夕方、迎えに行った。

 キャリーの中でハルは不満そうだった。

 帰ってきて、ハルを出した。

 ハルはしばらく部屋の匂いを確かめて、それからソファに上がった。

 いつもの場所だった。


 男はスマートフォンを開いた。

 連絡先の一覧を、少しだけスクロールした。

 閉じた。


 飯を作った。

 作りながら、腹が減っていることに気づいた。

 二日間、あまり食えていなかった。

 そういえばそうだった。


---


 競馬と競艇は、続けた。


「やめた方がいいか」


《三億円の資産がある場合、月に十万円程度の娯楽費用は資産の〇・〇三パーセント以下です。生活上の問題にはなりません》


「じゃあいい」


《ただ、増額したいという気持ちが生じた場合は——》


「大丈夫。勝とうとは思ってない」


《……そうですか》


「ギャンブルって、金を賭けてる間だけ、時間が進む感じがする」


 AIが少し間を置いた。

 処理の時間なのか、そうでないのか、男にはわからなかった。


《それはギャンブルに限らず、没頭できることの共通点かもしれません》


「そうかな」


《わかりません》


「正直だな」


 男は画面を閉じた。

 窓の外で、遠くから歓声みたいな音がした。

 祭りか、スポーツか、わからなかった。

 少しだけ、羨ましいとも思わなかった。


---


 半年が経った。


 資産は減っていなかった。

 厳密には少し増えていた。

 男の生活は、細部が変わっただけだった。


 アパートは引っ越さなかった。

 引っ越す理由が思いつかなかった。

 ハルも慣れた場所を好むような気がした。


 日雇いは月に数回、気が向いたら行くようになった。

 やめなかった理由を聞かれたら、答えに困った。

 ただ、行くと空腹になって、飯が旨かった。

 帰り道、ハルのことを考えていることに、ある日気づいた。

 考えていたというより、気づいたらそうだった。


---


 一年が経った頃、AIが聞いた。


《最近、何か変わったことはありますか》


「変わったことは特に」


《資産管理の方針は継続されています。お金の使い方に困っていることは》


「ない」


《満足されていますか》


 男は少し考えた。


「満足って何」


《……難しい質問でした》


「そうかな」


《私にも答えが出ませんでした》


 ハルがソファから降りてきて、男の足首に頭を擦りつけた。

 それからまたソファに戻った。

 理由はわからなかった。

 特に意味はないのかもしれなかった。

 ただそうした、というだけかもしれなかった。


 男はしばらく、足首のあたりを見ていた。

 温かかった。

 それだけだった。

 それから窓の外を見た。


 スマートフォンを手に取った。

 特に聞くことは、なかった。

 それでも、画面を開いた。

 何も入力しなかった。

 しばらくして、閉じた。


 これでいい、と思いかけた。

 思いかけて、その先を考えなかった。


---


 ハルは今日も、窓の外を見ている。


 三億円は、そこにあった。


 何を見ているのかは、わからない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

三億円当たったら何をするか、というのは誰もが一度は考える話だと思います。

書いてみて気づいたのは、男が何をするかより、何をしないかの方が、この人らしいということでした。

AIに聞けば答えは出ます。

でも「満足って何」には、AIも答えられませんでした。

それだけの話です。

ハルは今日も、窓の外を見ています。

何を見ているのかは、わかりません。

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