Stardust
ふと思った。
あの遥か空の彼方を流れ落ちる流星は、誰に見つけて欲しくて輝いているのだろうか。
きっと。
一瞬でも星になれるのならば、
刹那でもその「誰か」の眼に輝きを刻めるのならば、
屑と果ててもいいのだろう。
星屑。手を伸ばしても届かない。何故なら燃え尽きてしまうのだから。
星空の下、瞑目。
「彼女」の面影が瞼の裏に浮かんだ気がした。
◆◆◆
いつから私は彼女を目で追うようになっていただろうか。
猥雑な高校の教室で、一輪の彼岸花のように鮮やかにその色を見せつけていた彼女。
私のような、どこにでもいる「その他大勢」とは違って。
艷やかに蛍光灯の光を反射して、月のように輝く漆黒の長髪。
この世全ての闇を集めてもくすませることの叶わないような真珠色の柔肌。
凛とした顔立ちは、紅玉のような笑みを湛えて。
耽美を禁じ得ない、あまりに凄絶な美しさだった。
私は、同性でありながら彼女に抱く劣情を抑え切ることができずに、いつも彼女を見つめてばかりだった。
挙げ句、自分では不釣り合いとわかっているから話しかけることもできないくせに、彼女が他の人と話しているのを見ると胸を掻き毟りたくなる不快感を覚えて、彼女の些細な言動に感情を揺り動かされて。
偶に目があって微笑みかけられて、激しく気分を高揚させたりして。
彼女に依存していたと言ってもいい。
けれど、私では彼女にふさわしくない。
私のような凡庸な、いてもいなくても誰にも構われないような人間は彼女とはひどくミスマッチだ。
そんなことは自分が一番わかっていたから、鬱屈した好意を抱えつつも、私にはひっそりと彼女を見つめることしかできなかった。
満たされない欲望を抱えながら過ごして一体どれほどの月日が経っただろうか。ガラスに隔たれた眼の前のショーウィンドーは拍子抜けするほど単純な切っ掛けで開いたのだった。
その日は淑やかに雨が地面を濡らす静謐に満ちた日だった。
如何なる原因だったか、教室には偶々私と彼女だけが残っていた。当然、私はその状況を意識していた。二人きりだな、なんて思って少し機嫌を良くしてはそんな自分の気持ち悪さに嫌気が差していた。彼女の方も私のことなど歯牙にもかけていないと思っていたから、嗚呼、一人芝居は滑稽だなぁなどと自嘲していた。
その時だ。机に向かって何やら書き物をしていたはずの彼女が、いつの間にか私の目の前に立っていて。そしてその官能的な紅色の唇が言葉を紡いだ。
「ねぇ、君。いつも私のこと見てるよね。どうしてかな?」
驚くべきことに、その言葉を聞いた私の胸を真っ先に貫いたのは罪悪感でも喫驚でもなかった。
私のような木っ端が、彼女に認識されている。承認されている。そんな燦然と輝く黄色の喜びが私の脳髄を埋め尽くした。あまりの興奮に彼女を前にしながら無様にも呆け、そしてやっとのことで返した言葉は、
「あっ…えっ…すっ、好きだからです、貴女が。恋愛的な意味で。」
終わった、と思った。今の私の根幹を形成する思いゆえ咄嗟に出てしまったが、我ながらこれはない。ジロジロと無作法に見つめていた理由を問い詰められた答えが突然の告白とは、流石に気持ち悪すぎる。嗚呼、これで彼女に失望されて蛆虫のように思われながらこのまま高校生活を送っていくんだろうなという諦観が私の肢体を絡め取って後悔の沼に沈めていく。
しかし彼女の反応は、私の想定とはとてもかけ離れたものだった。
彼女は私の告白を受けて綺麗だの可愛らしいだのそんな凡庸な言葉で表すことのできる領域を遥かに超越した謂わば超臨界微笑とでも云うべき微笑みを浮かべて言った。
「わぁ、情熱的だね。分かりやすい。フフ。私も君のことは憎からず思っているよ。どうだい?友人から始めるというのは。」
というやいなや手に持っていた小さな紙片に数字とアルファベットの羅列を書いた。もしや。これは。まさか。
「私、ガラケーしか持っていないんだ。だからこれ、私の電話番号とメールアドレスね。」
という言葉とともに、手元の紙に口づけを落とし、そしてそれを私の机の上に置いた。ため息が出るほど美しい所作だった。ふわり、と情欲を煽るような甘い良い匂いがした。口角が吊り上がるのを止められない。
これだけでも私の心臓はすでにノックアウトされそうだったが、結果的に言えば私はこの程度でドギマギしている場合ではなかったのである。即ち。
「じゃあ私、今日は帰るけど。夜は暇だから、いつでも連絡してくれていいよ。また後でね。あぁそうだ、」
そこで言葉を区切り、私の耳元にその華の顔を近づけて囁きを一言。
「私の連絡先、今のところ世界で君しか持っていないと思うよ。それじゃ。」
去っていく彼女を目で追う私だったが、脳内では真空放電が起きて最早思考の体をなしていなかった。
鼻腔をくすぐる彼女の芳香。
耳朶を撫ぜる彼女の吐息。
世界に紅を差す彼女の美貌。
そして瀟洒な彼女の口調。
愛しの彼女に「君」などと呼ばれてしまった。
精神をかき混ぜられるような快感。
精神をかき混ぜられるような快感!
今なら死んでもいい。否、撤回する。彼女と懇意になるまでは死んでも死にきれない。ともかく、今晩どのような話をするか考えなければ。くだらない人間と思われる訳にはいかない。つまらない人間と思われる訳にはいかない。彼女に楽しんで欲しい。
◆◆◆
(デートに行くことになった過程の描写を入れる)
『来週末、午前10:00に水族館だね。逢瀬なんて、ついぞ経験したことのないものだから。心が躍るよ。……よろしく。』
「びゃ、びゃいっ!こちらこそ!」
心弾む通話は、そんなやり取りで締めくくられた。そうなのだ。彼女と、デートの約束を交わしてしまった。『心が躍る』などと、全くたまらない言葉をくれるものだ。
私が交わした約束が、私に所縁を持つ存在体が、私に連関する概念が彼女の胸を躍らせているという歓び。生きている意味として、生きている価値としてこれ以上のものがあるだろうか!
ただでさえ待ち遠しい週末が、尊い約束を孕んでますます遠いように感じる。その日が早く訪れてほしいような、それでいてその日を迎え、終わってしまうのが惜しいような……。
幻想的な水槽、宙を泳ぐ魚、柔らかな光の中で視線を交わす私と彼女。どこか上気した彼女の頬には青が差して、やがて二人の手が重なって……。
◆◆◆
朝に特有の白い陽光が瞼に突き刺さる。どうやら私は、彼女との水族館デートを妄想した果てに寝落ちしたようだ。憂鬱な平日の始まりである。いくら望んだところで時の流れは矮小な人の身に過ぎない私にまつろうことはなく、即ち土曜日が来るまでは学生としての身分を全うしなければならない。退屈な日常、消化すべきノルマと、愚かな私はそう考えていた。
早朝、誰もいない教室。この静謐にのみ居心地の良さを感じられる壁の花系女子として、誰よりも早く登校するのが私の常、なのだが。
立ち並ぶ机の中に、嫋やかな麗人が咲いていた。純白の白魚を顎に添え、こちらに媚眼秋波を寄越すその姿はさながら、絵画の世界からそのまま抜け出してきたかのよう。撃ち抜かれた心臓は止まるどころか加速度的にその鼓動を早め、そこにある『美』が全て私に向けられたものだという確信を得る。
「おはよう。君の朝が早いことは知っていたからね、こうして君よりも早く登校してみたわけだが……。喜んでもらえたかい?」
八面玲瓏がお茶目に明滅する。軽く死人が出るウィンク。三千世界に『満ち足りる』という状態が本当に存在するならば、今この時の感慨を除いて他にはあるまい。声帯がこわばる。
「勿論!貴女とこうして二人きりで会えたというだけで、今日という日には万金の価値が在ろうというものです!……ゴホン。お、おはようございます!その、きょ、今日も非常に、か、かわ……お美しくいらっしゃる!」
「ふふ、そう固くならないでおくれよ。可愛らしい人だね、君は。」
白磁の手がこちらに伸び、さらり。しなやかな仕草で私の頬をくすぐる。ひんやりと心地よく、そして、ああ、嗚呼、甘い。木枯らし、冬の海、吹き曝しのトタン、そういったものとは一切無縁の傲慢な甘さ。
「『恋、と書いたら、あと、書けなくなった。』」
彼女がポツリ、そう零し、手が私の頬を離れる。彼女の口から『恋』という単語を聞けたことが無性に嬉しくて、名残を惜しむようにその言葉を掬い上げる。
「斜陽、ですか。太宰治の。」
「私は純文学が好きでね。君も読むのかな?」
「そうですね、私は言葉に限らず、美しいモノが好きなんです。無論、貴女のことも、です……」
目を丸くした彼女が相好を崩す。頭に快い感触、撫でられている。脳が蕩けそうだ……。
「嬉しいことを言ってくれるね。それはそうと、美しい言葉が好み、というのには全面的に同意できる。欲望に醜く脂ぎった言葉を掛けられる機会が多くてね。あんなにも奇麗な文章がこの世には存在しうる、そんな事実だけで救いを感じられるものさ。」
「……。」
長いまつげを伏せ、物憂げな彼女はなにかしら、只ならぬ事情を抱えているようであったがしかし同時に、それをあれこれと訴追することを許さぬ雰囲気を孕んでいた。その心の隅々までを詳らかにしたい、奥の奥、底に触れたいと焦れる気持ちと彼女に嫌われたくない気持ちがせめぎ合い、結論を出せぬままに押し黙る。
立ち込めた気まずい沈黙を晴らすように彼女は玉唇を開き、声を弾ませた。
「ところで、私は特に太宰を好んで読むのだが、君は好きな作家などいるのかな?」
「私は夏目漱石が好きですね。」
「ほう。その心は?」
「夏目漱石の表現ってとても秀逸なんですよ。人間の、誰もが感じているけど絶妙に言語化できない感覚を――。」
◆◆◆
(朝、街角を緊張した面持ちで歩く「私」。)
週末、寧日。天気晴朗。待ち合わせの日は呆気なく訪れた。待ち合わせは10時、逸る心は脚を急き立てる。水族館に到着したところでスマホのホームボタンを押せば、浮かび上がってくる電光数字は9:00を示していた。
どんな時間よりも長い1時間、されどどんな時間よりも愛おしい1時間。満開の桜より、膨らむ蕾をこそ美しいモノと思いたい。
もう何度目になるかわからないホームボタンの押下を経て、画面の数字は9:55に変わる。あと5分。
あと5分で彼女が来る。
「だーれだ?」
ふさがる視界と鼓膜を震わす鈴の音。以前のどこか蠱惑的な香りとは違う、オーデコロンの爽やかな匂い。穏やかに冷たい、芸術品のような手。視界は塞がれているが見紛うはずもなく。
「お、おはようございます。お早いですね。」
「なに、始まる今日への期待が抑えきれなかったものでね。待たせてしまったかな?」
「いえ、丁度私も今来たところですから。」
「本当?正直に言わないと……。」
背筋に怖気にも似た歓喜が走る。彼女の手が私の顎を愛撫している。ぞくぞく。ぞくぞく。気恥ずかしいような、もっとしてほしいような。ともあれ、私たちはまだ交際にすら至っていないというのにこれでは距離感が近すぎやしないだろうか。いや、私の方は一向に構わないのだが。
「距離感、近くないですか……。い、いえその、イヤ、とかではなく。」
「近い?そうかな、これくらいのスキンシップ、同性として当然じゃない?
――それとも、もっと特別な関係になりたい、ということかな?」
胸が甘く痺れる。どうしてこうこの人は、こうなのだろうか。私の方から一方的に想っていた時間を抜きにすれば私と彼女の付き合いはそれほど長くはないというのに、いやはや全く実に心臓に悪い人だ。
「……ッ。……。… …… ……。」
真っ赤に黙り込む私を見て、くすり、と微笑んだ彼女は肢体をこちらに寄せる。
「じゃあ、行こっか。」
彼女に促されるまま、水族館の自動ドアをくぐった。半券売り場へと向かう。
「何名様ですか?」
「大人二人で。」
二人。二人。なんと輝かしい響きだろう。声音に喜悦が滲んで、思考が熱を帯びる。
◆◆◆
館内はまだ朝早いということもあり、人は疎らだった。控えめな青い照明が彼女の鋭利な輪郭を控えめに照らす。怜悧な横顔を盗み見れば、悪戯っ子のように笑う彼女と目が合った。夢のような。ひょっとして私はまだ、いつかの妄想の中にいるのではないか。
水槽の中、魚たちは我が意を得たりとばかりに堂々と空を滑り、幻想的な風景を作り出していた。
「……奇麗、ですね。」
思わず零して、あまりに紋切り型な自分の台詞に嫌気がさしたが、彼女は何も言わず頷くと「……うん。」と呟いた。
「……ねぇ。」
不意に彼女が私の手を取った。
「えっ?」
驚いて彼女の顔を覗き込む。彼女は水槽の中に視線を向けたまま、そっとまぐわうように手を絡ませた。
「水族館って、カップルで来る人が多いよね。」
「?……ええ、まあ、はい。」
「私たちも、そう見えてるのかな?」
潜めた声で彼女が囁く。薄明かりに碧く染まる影は、ひどく艶めかしい。女性同士でこんなことを。背徳感が早鐘を打つ。
「そ、そうかもしれません、ね……。」
必死に取り繕うように返事をする。頭がうまく働かない。
静けさを湛えた湖面のような瞳がこちらに向けられる。仄かに香るオーデコロン。初めて会話を交わしたあの日のように、私と彼女の距離が急速に0へと漸近して――。
「それ、悪くないね。」
耳朶を擽る吐息。彼女のきめ細かい肌を指先に感じながら、この時間が永遠に続けばいいと、そう思った―。
◆◆◆
水族館をあとにし、彼女の提案でカフェへと立ち寄ることになった。甘党なのか、意外にも大量の角砂糖を溶かし込んだコーヒーを運ぶ口元に視線が吸い寄せられる。
「いやぁ、実に楽しかったね。見たかい?あの大きなピラルクー!」
「大きい大きいとは聞いていたがまさかあれほどとはね!生体を目にできる水族館でしか味わえない迫力があったよね!」
「極めつけはラブカ!一生に一度見られるか見られないかの代物だよアレは!」
興奮に目を輝かせる彼女。好奇心は知性の表象であり、初めて触れた彼女のそんな一面もどうしようもなく愛おしく感じる。
ふと、彼女の眦に影が落ちる。
「姿を衆目にさらし、好奇という名の欲望を満たす代わりに生を保証される。だのにどうして彼らはあんなにも自由な美しさを放っているのだろうね――。」
息を呑む。思い出すのは早朝の教室、他愛無い会話の中で顔を覗かせた彼女の翳。
「考えたことは無いかい?誰もが自分を見ず、このまま誰からもまともに扱われず、誰にも抱きしめられず、誰からも深く愛されずに擦り切れて死んでいくのではないか、と。私が死んで世界が何にも変わらないとしたら、いずれ来る命の終わりに私が誰の記憶にも残らないとしたら、生きるということには果たしてどのような意味があるのかな?」
伝えたいことも、聞きたいこともあった。私が居ます、と、そう抱きしめられたら良かった。けれどもその情動は私の中でうまくカタチにならず、そして踏み込んで拒絶されるのが怖くて。
「……。」
「いや、すまない。益体もないことを言った。忘れてくれ。」
そういって微笑む彼女の表情は先ほどまでが嘘のように翳りなく、いつもなら甘い痺れを伴うはずの笑みに、不思議と胸が締め付けられるように痛んだ。
「それで、この後のことなのだけど……。」
「はい」
「休憩がてら、私の家に来る、というのは如何かな?」
停滞。
「……!?そ、その、ご両親、などは……?」
「幸いにして、というべきかな。不在さ。『今日、うち、親居ないんだ――。』というやつだね。」
「いや、でも、その……私たち、交際すらしていないのに……」
「嫌、かな……?」
その上目遣いに抗う術はない。天秤は傾いた。
「いやじゃないです。」
◆◆◆
淡いラベンダーの香りがする。
足を踏み入れた彼女の家は、大きな本棚、それと生活に必需な家具を除いて他には何もなく、空恐ろしいほどに殺風景だった。
「まあ座って。自分の家だと思って寛いでもらって構わないから。」
彼女の言葉に甘え、小さなダイニングテーブルの前に置かれたソファに腰掛ける。当然のように私の隣に腰を掛ける彼女。笑い声にでも乗せて発散しなければ内から爆ぜてしまいそうな、名状しがたい感情の奔流。誤魔化すように、ソファの、私たちとは反対側の端に空いたスペースを視線でなぞる。丁度、彼女の半身分の大きさをしている。
部屋に漂うラベンダーの香。そして、真隣から香るオーデコロン。酸素、これはもはや酸素だ。酸素濃度が高すぎてクラクラする。
彼女が口を開く。
「思えば私たちも、知り合ってまだ僅かだ。お互いについてはまだ知らないことの方が多い。」
「君さえよければおひとつ歓談でも、と思うんだけどどうかな?」
無論、異論などない。
「もちろんです!私も、貴女のことがもっと知りたいと思っていたところですから。」
「さて、それでは何から話すか、だけど。実はこんなものを用意していたんだ。」
「ぱんぱかぱーん!話題籤!」
「話題籤?」
大げさに首をかしげてみせる。様式美、というやつだ。一拍、にやり、と茶目っ気たっぷりに口角を上げた彼女と顔を見合わせる。通じ合えている、という確かな歓び。
「ああ。この箱の中には『趣味』などと書かれた計20種類の小球が入っている。この中から無作為に取り出した話題についてお話ししようじゃないか!」
「素晴らしいと思います!」
「そうだろうそうだろう。それでは一球目。『食べ物』、だそうだ。」
「月並みだけど、君の好きな食べ物について聞いてもいいかな?」
「そうですね……」
「好き……とまではいかないかもしれませんが、マシュマロを、よく。」
甘くて柔らかいマシュマロ。そういえば誰かが、愛しい人との接吻によく似た感触だ、なんて言っていたっけ。
「ああ、マシュマロ。それはいいね。私も甘味には目が無くて。」
「君ならわかってくれると思うが……太宰の作品にはよく甘味が出てくるだろう?それで私も感化されてね。」
「と、いうことは……貴女はどちらかというと、和菓子の方がお好きで?」
「流石だね、バレてしまった。実はそうなんだよ。私は金平糖が一番好きで。」
「ああそうだ、今もすぐに出せるけど、良かったら食べるかい?」
「食べたいです!」
好きなヒトの、好きな食べ物。食べたくないわけがない。金平糖を取りに行く彼女の背中を目で追う。
「はい、どうぞ。存分に食べてもらえると嬉しいな。」
言い終わるやいなや、細い指が大皿に広げられた金平糖を摘まむ。彼女の白い頬が控えめに膨らみ、カリコリとくぐもった軽快な音が響く。彼女の動作を焼き直すように口に入れた金平糖は、素敵に甘かった。
「思い返せば金平糖ってあまり食べないものですが、口にすると存外に美味しいですね。甘さも控えめで食べやすいです。」
「分かる、分かるよ。何より見た目も可愛らしいしね。」
「あと、食べた時の音も気に入っていてね。五感すべてを楽しませてくれるから好きなんだ。」
彼女が発する『好き』という言葉に、一抹の高鳴りを感じる。火照りを醒ますように金平糖に手を伸ばして――
「ッ……。」
「うひゃぁう!」
須臾、触れ合う手と手。意外にも黄色い悲鳴が彼女から上がる。横目に彼女を窺えば、先ほどまでのこうした肉体的接触に慣れ切っているような態度とは裏腹にその雪白の頬を赤らめている。余裕のない彼女の姿もまた愛らしいことに相違はない。
「ゴホン。な、なんでもないよ、今のは。そう、ちょっと吃驚しただけだ。本当だからね。」
「貴女がそう言うなら、そういうことで。」
「ならとはなんだいならとは。断じて私は照れてなどいないからね。いないったらいないから!」
そう宣う彼女の耳にはほんのりと朱が差しており、言葉から説得力を奪っている。加えて私は『照れて』などと口にした覚えは一切ないのに自ら言い出している時点で語るに落ちる、といったところだが、どこか超然的だった彼女の人間らしい様子を初めて目にできた気がして、いやに嬉しかった。
「つ、次の話題に移るとしよう。次は……」
(以下、会話の場面を断片的に切り取る感じで。漫画だと身振り手振りとエフェクトだけで会話がない感じでもいいかもしれない)
◇◇◇
「寝ている時間ってもったいないと思わないかい?アレのせいで人生の1/3は無駄にしているよ。」
「そうですか?何も考えず、眠気の波に身を委ねる快感は、それに費やす時間を補って余りある価値を持つと思わなくもないですが。」
「ふむ……一理ある。」
◇◇◇
「ギターか……。箏なら少しばかり齧ったことがあるんだけど。」
「箏!そういうのってどこで教えてるんですか?今までの人生で凡そ箏教室というものにお目にかかったことがないのですが……。」
「私は地元の公民館のようなところで習ったね。」
「雅への門は意外と身近なところに開いているんですね……。」
◇◇◇
「ですから、夏目漱石の表現力こそ至高なんです!『 四角の世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでも良かろう。』という一節を初めて目にしたとき!忘れられぬ身震いが無かったとは言わせません!」
「何を。何時だって、誰より『人間』をまっすぐ言葉にしてきたのは太宰だった!」
「…………。」
「…………。」
(顔を見合わせて笑う二人)
◆◆◆
全20種の話題を消化し終え、存外に白熱した会話がひと段落ついて外を見ると、日は既に大きく傾いていた。斜陽が差す部屋で二人、一瞬の静寂が空間を満たしている。回光に返照される無機質な部屋は思わず息が零れるほど幻想的で、見つめ合う互いの瞳に知らず、熱が籠った。
「ねぇ……いい、かな?」
何が、とは訊かない。家に呼ばれた時点で、そういうことなのだろう、という気はしていた。些か性急に過ぎるような気もするけれど、他の誰でもない彼女が求めるならば。慎重に空気を肺に落とす。
「……はい。」
彼女の手が、私の頬に添えられる。華の顔がゆっくりと近づく。唇の花弁を、互いに重ね合って――ああ、マシュマロの味。
刹那、彼女の手が私の服に掛かり、冷ややかに濡れた舌が私の口を暴力的に蹂躙する。視界の色調が反転したかのような感覚。怖い。怖い。怖い。違う。これは違う。この先は、この先は駄目だ。とても駄目だ。伝う汗が背筋を刺す。息が詰まる。
「ん………む、ぅ――。」
気づけば私は、無意識に彼女の肩を強く押し返していた。
「ごめん、なさい……。」
声が震えているのを感じる。何故拒絶したのか、自分でもうまく言葉にできない。
「…………そっか。」
一切の表情を消失したように見えた彼女の顔が、一弾指の間に飄々とした笑みを取り戻す。
「ちょっといきなりすぎたね。ハハ、すまないすまない。怖がらせてしまったかな?」
「……いえ、怖いという、わけでは……」
「その、私の方こそ……ごめんなさい……」
「いやいや、気にしないで。」
彼女は軽い調子でそう言って、それ以上何も求めなかった。いつも通りに思えるその顔がわずかに曇っているように見えるのは私の気のせいだろうか。
「さて。なんだか妙な雰囲気になってしまったし、今日はお開きにしよっか。」
「今日は楽しかったよ。ありがとう。」
「え、ええ。私も楽しかったです。ではまた。」
乱れた服を整え、彼女の笑顔から逃げるように立ち去る。薄明の街中、足許のアスファルトがいやに頼りない。滲み出る教養、流麗な所作、典麗な言葉遣い、時たま垣間見える懐っこさ――と、今日一日、堪能したはずの愛しさを指折り数えても不安は消えてくれない。私は、彼女のことが好きなはずだ。
本当に?
私は本当に彼女に恋しているのだろうか。よしんば本当だとして、ではなぜ拒絶したのか。自分の気持ちが分からなくなっていく。つい先刻まであれほど情緒的に感じていたはずの西日が、ひどく眩しかった。
◆◆◆
翌日、朝靄が包む校舎で再会した彼女は何事もなかったかのようにいつも通りの朗らかな態度を見せた。一つ違いはといえば、あれほど積極的だった彼女からのスキンシップがめっきりなくなってしまったことだけれど、それを指摘すればこの心地よい微温湯が崩れてしまう気がして。それに、昨日の行為や、彼女を拒絶する自分や、自らの愛情に抱いた疑念や、それら全てに目を向けるのが嫌で、事勿れを貼り付けた笑みで上辺を取り繕った。
それでもやっぱり彼女の存在が掻き立てる情動は変わらず私の胸中に在って、ますます私は自分の感情が分からなくなった。
「さて、じゃあ今日も一緒にお昼食べようか。」
「おーい?聞いてるかい?」
「!……すみません。お昼ですね、ええ。食べましょう。」
屋上に続く階段。秘密基地のように感じられるから閉所が好きだ、と、そう言った彼女が喜ぶと思って昨日、昼食を共にする場所として提案した場所だ。愉しそうに話す彼女の顔を昨日と同じように見ることはもう出来そうもなかった。
◆◆◆
夕刻、家路につく。路傍には金木犀が咲き乱れ、惜しみなく振り撒かれた芳香を感じる。「秋で一番好きなのは金木犀の香りだ」と語る彼女の耀く瞳を思い出して、かぶりを振った。自分の想いに自信が持てなくなっても、それでも気付けば私は彼女のことばかり考えている。見えれば今日のように心をかき乱されると判っていても、彼女を恋しく思っている、ような。道端の何気ない日常に目を向けながら、そのたび彼女を思い出して、そうやっていたらいつの間にか家に着いていた。
◆◆◆
(ここからのシーンは前後を描写しすぎずにくどくならないようにしたい。学校での一幕とかデートでの一幕とかを断片的に描写する感じ)
「私、二度目のお誘いを待っているんだけど。二回目のデートはまだかい?」
あれから2週間ほどたったある日、教室の片隅での一幕。発言者はわざとらしく頬に空気を溜めた彼女。
相も変わらず私は彼女に対して私が抱いている感情の正体を掴みあぐねていたが、私と彼女との間にその身を横たえていたある種の気まずさ、のようなものはおおむね時間が解決し、以前よりは幾分か自然体で彼女に接することができるようになっていた。或いは見て見ぬふりが上手くなっただけかもしれない。いっそ過剰とも言えるほどだった彼女からのスキンシップは、依然として途絶えたままだけれど。
「デート、ですか。いいですね。何処に行きたい、とかはありますか?」
「君が選んでくれるところならどこでも。」
「うーん……そうですね、映画館、なんかは如何ですか?今上映中のメロドラマがあるんですが、これがなかなかに名作のようで。今巷で話題なんですよ。」
「映画館、いいね。一人だと映画を観ることはあまりないし。メロドラマ、というのもデートにぴったりで実にいいね。」
「それじゃあ、日程を決めましょうか。」
「そうだね。私はこの日と――」
◆◆◆
(待ち合わせとかデートの始まりの部分はもう水族館でやってるので端折りたい。映画館で座ってる二人のシーンから始める感じで)
(映画を観ながらも彼女のリアクションが気になってついつい横を向いてしまったりするアレ)
(手を重ねたりしようかなと思って迷い、挙句引っ込めてしまうアレ)
映画の内容は、言ってしまえばメロドラマとしてはごくありふれたストーリーだった。些細なきっかけから知り合った二人が、時にすれ違いを重ねながらも最後にはお互いの想いを告げ合って結ばれる、そんな物語。これほど真っすぐに想いを告げられればどれほどいいだろう、と思ってから、初めての会話で突然の告白をぶつけた過去の私のことを思い出し、何とも言えない気持ちになった。
◇◇◇
「さすが話題作なだけあっていい映画でしたね。些細な声音や画角で描写される人間関係の機微が秀逸で。」
「いやぁ、全くだね。」
と、わずかに俯いた彼女が声のトーンを落とす。
「特に結末、がむしゃらな台詞。主人公が不器用な愛の言葉を叫んでいて、こんなにも純な想いを向けられたなら、どれだけ幸せだろうか、なんて。」
「いや、失敬。ついさっきまでメロドラマを観ていたからかな。思ったより引っ張られてセンチメンタルになってしまっているみたいだ。」
「さ、帰ろうか。」
◆◆◆
(学校、廊下を寄り添って歩く二人)
「おっと、少々、お花を摘みに。」
「ではここで待っていますね。」
廊下の隅で彼女を待つ私の耳朶を、唐突に聞き覚えのある名前が打った。
「ねぇ、――?3組の―さんが……」
「それって――高嶺の――?――の令嬢として――なあの人?」
耳を聳てる。
「そうそう。あの人がね、なんと……2組の鳴海くんに告白されたらしいの!」
「まあ!本当なの?」
「信頼のおける筋からの情報だから間違いないわ。」
「鳴海くんと言えば容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群の超人じゃない!あの二人ならピッタリね!素敵だわ!」
「ええ、ええ!そうよね!想像するだけでテンション上がっちゃう!」
五臓六腑がストンと落ちる虚脱感。彼女が、告白を?確かに私と彼女は四六時中行動を共にしているわけではないので、実際に告白されていたとしてそれを私が知らないことはそうおかしなことではない。おかしなことでは、ないのだが。又聞き、それも盗み聞きであるからして信憑性の点からみると手放しで信頼できるとはとても言えないが、それでも何故かしら事実であるような気がしてならない。私よりもずっと彼女に相応しい異性に告白されて、彼女はどう思っただろうか。もしや私への愛想は疾うに尽きていて、だからこそ彼女からのスキンシップがパッタリと途絶えたのではなかろうか。言語化できない苦しみが私をキリキリと責め立てる。
「……ねえ?…………い?」
「どうしたの?体調でも悪い?」
「!?」
気付けば眼の前に彼女が立っていた。怪訝そうに眉根を寄せている。
「無視は寂しいね無視は。大丈夫かい?」
「ええ……ごめんなさい。少々考え事を。」
「ならいいけれど。次の授業はなんだっけ?」
「えっと……たしか化学ですね。」
「じゃあ行こっか。」
数刻前と同じように肩を並べて歩き出す。『あの、告白された、と聞いたんですが』という言葉が喉までせりあがっているけど、どうやっても出て行ってくれない。彼女の口から否定の言葉が聴きたい。でも、もし本当だったら?本当に告白を受けていて、それで鳴海何某に心が傾いていたとしたら?私以外の誰かについて顔を綻ばせて話す彼女を想像してしまう、厭な気分。苦しい、苦しい。
「………あの。」
「?なんだい?」
「あ、いや、その……えっと。その、……。」
「化学の授業なんですが、課題などは出ていましたっけ?」
「いや。私の記憶が正しければそういったものは無かったはずだよ。」
「ああ、良かった。いえその、以前課題の存在を完全に忘れていて痛い目を見たことがあったものですから。」
「あはは。まあたかが学校の課題さ、そこまで気にすることは無いだろう。要は教わった内容が理解できていればいいんだから。」
「貴女のように聡明ならば、そう考えるのもアリかもしれませんが。私は生憎学校の課題を『たかが』、なんて言えないもので。」
「ごめんごめん、失言だったかな。私が悪かったよ。だからそうむくれないでおくれよ。」
「むくれて、ません。気のせいでは?」
彼女は悪くない。そんなことは分かっているけれど、屈託のないように見えるその笑みが今は無性に恨めしい。
◆◆◆
(待ち合わせをしている様子の主人公、猥雑な街角)
緊張を紛らわすように息を吐く。彼女はまだ来ないようだ。ずっと考えてきた言葉を反芻する。まとまらなくていい、汚くていい。私は彼女に、全て伝えると決めたのだ。
彼女に出会って、一目惚れして。ふとした偶然から懇意にすることになって。次々と明らかになる彼女の一面を愛おしく感じて、そして無意識に拒絶して。自分の本当の気持ちが分からなくなって。彼女が告白されたと聞いて、苦しくなって。一体どうすればいいのだろう、私はどうしたいのだろう、と、散々悩んだ。それでも一つ懊悩の果てに見えてきた、どうやら確からしいことがある。
私は、彼女と一緒に居たい。
思い出すのは2回目の逢瀬。銀幕の向こう、メロドラマでの台詞。
『想いっつうのはまあ確かに、中々口には出しづらいもんだが。殊愛だの恋だのは、纏まんなくてもさっさと言っちまうことだな。どろどろのぐちゃぐちゃでも、声に出して伝えればどうにかなるもんさ。』
『言葉の意味が不明瞭でも、支離滅裂でも。そんな風に話すだけの想いを確かに向けていると、そう相手に伝わることがいつだって大事なのさ。』
彼女と映画を観ていたときは何ともチープに響く台詞だと思ったものだが、考えれば考えるほどこの言葉が正しいような気がしてくる。いくら一人で考え込んでも答えは出ないし、結果がどうあれ心中を洗いざらいぶちまけることは決して無意味ではないはずだ。これからも、彼女と一緒にいるために。
だから今日、彼女をデートに誘った。少しでも話しやすいように、特定の場所に行くのではなく二人でウィンドウショッピングなど、あてどなく彷徨してみようと言ってある。あとは彼女を待つだけだ。
◇◇◇
いくらなんでもおかしい。疾うに待ち合わせの時間は過ぎているのに一向に彼女が来る気配はない。連絡もまた然り。居てもたっても居られず、電話を掛ける。コール音。
『……おかけになった電話番号は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていません。おかけになった……』
これ以降、震える指でいくら番号を打ち込んでも彼女の声を聴くことはかなわず、ついぞ彼女と逢うことはできなかった。
傾いていく日の中、立ち尽くす私の脳内で彼女に伝えられるはずだった言葉が行き場を失い、渦を巻いて木霊していた。
◆◆◆
翌朝、彼女は学校に来なかった。
デートに来なかった彼女。
いつもならあり得ない音信不通。
不自然な欠席。
点と点が不穏な線を描く。始業のチャイムが鳴っても主を迎えられない彼女の席を視認した途端、何か大きなものに突き動かされて私は教室を飛び出した。静止の声も、授業も同級生も学校も、今はすべてがどうでもよかった。足は勝手に彼女の家を目指す。
辿り着いた彼女の家、インターホンを押しても反応は無い。ドアノブを捻る。鍵は開いていた。
「……ああ、君か。」
目の下にかかる大きな隈、乱れた髪、いっそ下品なほど絢爛な皴塗れの服、掠れた声。目を引くのは首の、くっきりと指の跡が残るさながら絞められたかのような痣。別人と見まがうほど、幽鬼の如き儚さを湛えた彼女がそこに居た。
「これは、一体、何が……?いえ、それよりも!」
彼女に駆け寄る。心配で手を伸ばす。
「触るな!……触ら、ないでくれ。」
「私なら大丈夫だ。何ともない。」
「そうだ。この痣だってそう、特殊メイク、ってやつだよ。知り合いにそういうのが得意なのが居てね。」
「そんなわけないじゃないですか!ふざけるのもいい加減にしてください!」
「昨日、何かあったんでしょう!?」
「はぁ、ま、そうなるよね。」
「流石にこんな見え見えの嘘じゃあ信じてはもらえない、か。」
「どうすれば諦めてくれるのかな?どうすればもう構わないでいてくれる?」
「教えてよ。君の望む言葉をあげるからさ。」
今まで踏み越めなかった彼女の翳、その理由もここにある気がした。今この瞬間だけは、彼女の手を離してはいけないと思った。だから。
「私はただ、知りたいだけです。貴女のことを、全部。どうか本当のことを教えてください。」
「お願いします。」
彼女は呆れたように目を細め、億劫そうに肩を竦める。見たこともない表情。
「分かった、分かった。やれやれだよ。じゃあ言うけどね。私は春を売っているんだ。切っ掛けはたしか、親がそういう手合いで、強いられて、だったかな。」
「母も売春婦でね。父親の知れぬ私を片親でずっと育ててきた。そして金のためなのか、それとも自分が教えられる生き方がそれしかなかったからなのかは知らないが、中学生くらいの頃、初めて客を取らされたよ。」
「私の容姿とこの身体は、大層殿方に受けがいいようで。喜んでいた母を覚えているよ。」
「そんな母も自分がとっていた男性客と痴情のもつれから刃傷沙汰になって、刺されて死んだ。」
「以来、母に紹介された客と、惰性で売春を続けながら生きてきた。」
「母が死んだときに親戚に1人後見してくれる人が見つかったから、別にもう続けなくていいんだけどね、ハハ。」
力なく彼女が笑う。
「昨日はね、早朝に突然、お客の一人に呼ばれたんだ。」
「君との待ち合わせには間に合うと思っていたんだけど、いやぁ、現実は儘ならないものだね。」
「話してるうちにちょっぴり雲行きが怪しくなっちゃってこのザマだ。危うく母と同じ末路を辿るところだったよ。」
「何とか先方を宥めて家まで帰ってはこれたけど、なんかもう全部どうでもよくなってしまって。」
「私はきっとこれからも、ただ欲を満たすための道具としか扱われない。誰も、こんな私を愛さない。」
「それでも体を許している間だけは、仮初だとしても私は誰かに必要としてもらえるだけましさ。」
「待ち合わせを無断で欠席した件については、謝罪するよ。だから私をもう見限ってくれ。」
「君だってこんな欠陥品、厭だろ?いくら見目が佳いとはいえ、さ。」
やぶれかぶれに音が吐き棄てられる。かけるべき声は纏まらないけれど、ここで何かを言わないと、彼女を引き留めないと取り返しがつかなくなる。そう直感する。
「ありがとうございます、話してくれて。」
「申し訳ないけど、私では貴女に共感してあげられません。」
「どうすれば貴女の傷が癒えるのかも分からない。」
「傷?傷だって?随分と勝手なことを言ってくれるね。私には傷なんてないさ。今までも、これからもね。」
「体を売ることは、他ならぬ私の望みだよ。だからこそ生きるために必要、というわけでもないのに今の今まで続けているのだから。」
「ああそうだ、初めて話したとき、私の連絡先を持っているのは君だけだと思う、なんて言ったね。」
「アレはある意味で真実で、ある意味で偽りだ。」
「私は売春のために、複数の携帯を持ち合わせていてね。」
「君に渡したあの番号は、君しか持っていない。」
「あの日の私の言葉はただそれだけの意味しか持たない。」
「ほら、そうやって。自分の傷から必死で目をそらして、そんなにも痛々しく、今も必死に私を遠ざけようとしている。」
「そんな貴女に、何を言えばいいのか、私には分かりません。掛けるべき声も。」
「――それでも。」
「掛けたい言葉なら、あります。」
「言いたいことなら。伝えたいことなら。」
「この気持ちの正体は、ついぞ分からなかったけど。」
「貴女が自分で自分のことをどう思っていようと、私は。」
「――他ならぬ、貴女と一緒に居たいんです。」
彼女の目を見る。
「一緒に、居たい、だって?」
「何を言うかと思えば。」
「君が私を拒絶したんじゃないか。初めての逢瀬の日、ここで!」
「誰も私を愛さなかった!みんなみんな、見るのは私の外見だけ!囁くのは醜い欲望ばかり!」
「汚らしく破顔する客の男たちも!好意を告げてきた同級生も!」
「誰も彼も、本当の私なんて見ちゃいない。私のことなんて!」
「………君だけは、違うと思ったんだ。」
「教室で、今まで向けられたこともない純な眼差しを向ける君なら。」
「私を見て、私を愛して。私を孤独から救ってくれると思った。」
「なのに君まで私を拒絶した!」
「愛なんてものはこの世に存在しないか、してもそれが私に向けられることは無いんだ。そうに違いない。」
「期待するのはもうたくさん。裏切られるのももう嫌だ。」
「だから。」
「だから、今すぐに出て行ってくれ。どうか私を見放してくれ。」
「『一緒に居たい』なんて戯言で、私の心を掻き乱すのはもうやめてくれ。」
「それが、私に対して君がやるべきことだ。」
何と寂しい笑みを浮かべるのか。だけど私は、全部伝えると決めたのだ。彼女を抱きしめて、両腕に力を籠める。ぎゅう。
「?!な、何を?!」
「もう一度言います。いいえ、届くまで何度だって。」
「私が居ます。何があっても絶対に。」
「滲み出る教養も、流麗な所作も。典麗な言葉遣いも、垣間見える懐っこさも。」
「和菓子が好きだと愉しそうに話す貴女も。金木犀の香りをうっとりと嗅ぐ貴女も。」
「泰然としているようでいて案外気遣い屋なところも。」
「私に甘えてくれるのも。」
「『見放して』なんて言いながら、それでも私の話を聞いてくれるところも。」
「今抱きしめられて、ちょっぴり嬉しそうにしているのが隠しきれていないのも。」
「我儘と悪戯ばっかりの困ったところも。」
「大好きなんです。全部、全部。」
「私は、そんな貴女だから一緒に居たい。他の誰もが貴女を理解しなくても。私が居ます。私だけは貴女を見て、貴女を心に残して。貴女が居なくなったなら泣いて。あの日拒絶してしまった行為も、貴女が望むなら少しでも早く受け入れられるように努力します。ただ、貴女の傍に居ます。」
「ですから。」
「『見放して』なんて言わないでください。『欠陥品』なんて言わないでください。」
「――私と、一緒に居てください。」
「…………。」
「ありがとう。そう言ってくれて。」
「今まで長い間、縛られてきた価値観だ。簡単にこの気持ちを捨てることはできないけど。」
「私も、君と共に居たい。こんな身の上だから、歪な愛し方になってしまうかもしれないけれど。それでも私を見捨てないでいてくれるかい?」
「勿論です。」
「ああ、こんな私でも、幸せになっていいのかな。」
「幸せになってはいけない人間なんて、いるはずがありませんから。」
「そうか。そうだね。」
「ねぇ。頭を、撫でてもらえないかな?」
「喜んで。」
「ああ、はは。こんな単純なことだったのか。フフ。今、私、幸福だ。」
「願わくば、もう少しだけ、このままで――。」
私の肩に頭を預け、いつの間にか眠ってしまった彼女をベッドまで運び、目覚めるまで傍で頭をなで続けた――。
◆◆◆
あれから私たちは、幸せな日々を送っていた。放課後にアイスを食べに行ったり、たまの休みに街角へ繰り出したり。共に居るだけで、感じられるモノが確かにあった。満たされる心が確かにあった。
彼女の過剰とも言えるスキンシップも復活した。相変わらず平常心ではいられないけれど、でも嬉しいことに変わりはない。
私が彼女に向ける感情には名前を付けることができずじまいだし、まだ口づけのその先には行けそうにない。それでも彼女の顔に差す翳はその暗さを随分と弱めて、ただ幸福だった。
さあ、今日は彼女と何をしようか。弾む胸、二人の未来に心を躍らせていたある日のことだった。
◆◆◆
『今すぐ、送った住所の建物に来てほしい。ごめん。本当に、ごめん。』
メールが届いた。示された住所が正しければ、確かそこは逢引宿。不吉な予感に潰されそうになる気持ちに突き動かされ、足を走らせる。
星屑。彼女の姿は、成層圏で生命を焚べながら、それでも鮮烈に儚い墓標を刻むソレにそっくりだった。
逸りに焦がされる胸を必死に宥めながら辿り着いた逢引宿で、彼女は全身を濁った深紅に浸していた。刹那、思考に空白が挟まる。畏ろしきは、血潮の中で猶も燻まぬその美貌。悍ましいほどに人域を超越していた。
(ベッドに力なく横たわる”彼女”の顔は青ざめ、腹部から出血したのだろう、服が血に濡れている。弱弱しく口を開く。)
「話した通り、私には複数人の客がいてね…………。でも、もう売春なんてやめてしまいたかったから、三行半を突き付けて回っていたんだ。それで最後の一人が、どうしてもここじゃないと会わない、と、そう言うものだから。客と、一人で会ってはいけない、自分を呼んでくれていい、と……君はそう言ってくれていたのに。君というものが居ながら……男と逢引宿に来てしまった。以前の反省を踏まえて、護身用の機器を持ってきてはいたのだが、ね……。私としたことが……少々、失敗したようだ……ふ、ふふ。なぁ、一つ、末期の頼みを聞いてくれはしないか。」
「末期?縁起でもないこと言わないでくださいよ!いいから、無理して喋らないで!今、今すぐにでも救急車を呼びますから!」
「己の身体のことだ、己が一番判るさ……。それに、この傷だ。例え奇跡の果てに生命が掬われたとして、無惨で醜い傷口がヴィヴィッドに私の身体を奔はしることになる。そうなる前に、どうか。」
『――美しいままの私を、最後に抱くのは君がいいんだ。頼む。』
或いは、血液こそが彼女を飾る最上の紅だったのかもしれない。こんなにも血に汚れているというのに、さながらこの状態が完全だとでも言うかのような、消えかけの蝋燭よりも、燃え尽きる直前の星屑よりも尚強く耽美な耀きを放つ、彼女の美しさが憎らしかった。
「貴女は、卑怯です。」
「知っている。」
「そんな風に言われて、私に断れるわけないのに。」
「知っている。」
「私が、どんな気持ちで一線を越えられなかったか。」
「知っている。」
「私が、どんなに貴女を愛しているか。貴んでいるか。傷つけたくないか。共に生きたいと願っているか。」
「知っているとも。」
「それでも、今、ここで、貴女の命と引き換えに、他ならぬ私に貴女を抱けと、そう言うんですか?」
「ああ。今、ここで、私の命と引き換えに、他ならぬ君が、どうか私を抱いておくれ。」
この期に及んでやっと私が、何故一線を踏み越えられなかったのかが分かった。私は、怖かったのだ。彼女に劣情を抱いている自分の在り方が、酷く歪であると自覚していたから。堪えられなかったのだ、歪んだ愛し方を彼女にぶつける背徳感に、女の身の上である私が同じく―彼女を私と同じく女であると称するのにはかなりの抵抗が伴うが―女の身の上である彼女と契りを交わす背徳感に。私の此の感情が果たして正当なものなのか。捩じくれた想いを、捩じくれたまま螺子込むのは彼女を穢すことになりはしまいか。
そう、思っていた。
しかし今、よりにもよってこんなことになってしまった今になって漸く自覚できた。歪んでいるだとか歪んでいないだとか、正しいとか正しくないとか、そんなことは些事だ。今ならば確信をもって言える。私は、彼女を愛している。誰かを愛することの何処に罪が在ろうものか。愛する者に愛を手渡す行為の何処に呵責が在ろうものか。
鮮血の華で淋漓にその身を彩る彼女は、今まで私に見せたどんな彼女よりも酷薄に美しくて。嗚呼、私は彼女に愛をささやくためにこの世界に生を受けたのだと、天啓に似た確証が五体に満ちて。気が付けば、彼方の星灯りにそうするみたいに、私の手は彼女に伸びていた。
「――愛しています。一目見えたときからずっと。一目見えたときよりずっと。」
「わぁ、情熱的だね。分かりやすい。フフ。私も君のことを――愛しているよ。」
これだけで、あとはもう二人の間に如何な言ノ葉も必要なかった。真珠色の柔肌を紅で濡らして重なる躯。寝台が軋んだ――。
◆◆◆
夜空を見上げれば、決まって彼女を思い出す。胸を満たす感慨を口に出すことはしない。あの夜、最初で最後の営みを交わしたあの瞬間の彼女だけに捧げたものだから。
嘆息。
届かぬと分かっていて、それでも星灯りに手を伸ばす。こんな夜更けは、殊に寒さが身に沁みる。
――fin.




