教師は久しく、生徒に戻る
爽から新たな相談を受けた宏太は、重たい思考を抱えたまま教務室へ戻ってきた。
蛍光灯の白が書類の山を平たく照らし、プリンターが低くうなっている。
「ったく、なんなんだよ……」
思わず独り言のように漏らし、椅子の背もたれに体を預けた。
そのとき――。
右隣の席から、やけに元気な声が飛んでくる。
「おっ! コウ君、お疲れ!」
青ジャージは筋肉でぱつぱつ、額はきっちりオールバックのイカツい見た目のこの男は、保健体育を受け持つ粟島 悟。見た目は軍人、性格は拍子抜けするほど人当たりがいい2年生を受け持つこの教師は、フィットネス研究部の顧問でもある。
生徒には“肉だるま”なんてあだ名まで付けられているが、本人は気にしないタチだ。
「コウ君はやめてくださいって、粟島先生」
「なんだよ、冷てぇなぁ~」
いつもの調子で絡んでくる彼を、宏太は半ば呆れながら受け流す。
「そういえば長瀬先生はどこ行かれました?」
「ん? あぁ、長瀬先生ならずいぶん前に帰ったぞ」
「え、マジっすか? 珍しいな……」
「なんか急な予定が入った、とか言ってたな。……そういう新田先生こそ、戻ってくるのが遅かったじゃないか。ま~た生徒の相談か?」
「いやまぁ、色々とありまして」
「ほーん」
「……なんすか」
「いや、なんか教師らしくなったなぁ~って」
「なんすかそれ」
「照れんなよ。クラス持つと、得られるもんが多いだろ?」
そう言いながら、粟島はゴツい手で宏太の頭をぽんぽん叩いてくる。
「うぜぇ……。でもまあ、学びが多いのは否定しませんけど」
宏太はわざと肩をすくめ、そっぽを向く。
すると粟島先生は、急に何かを思い出したようで、
「そういえば、また“例の母ちゃん”から電話来てたぞ」
宏太の頭に手を置いたまま、その要件を口にする。
これに宏太は、
「マジっすか……。ダルいな……」
顔を引きつらせながら、ゲンナリとした口調でそう漏らした。
例の電話――それは、宏太のクラスにいる生徒・田上真の母親からのものだった。
入学して三日で不登校になった息子のことを、毎回“クレーム”のように持ち込んでくる。
要件は毎回ずれ、息子の愚痴と学校への不満が延々続く。切るタイミングを逃すたび、受話器の重さだけが増した
それでも保護者からの連絡には応対しなければならない。宏太は深くため息を吐いた。
「宏太君のクラス、本当に個性豊かだなぁ」
「他人事みたいに言わないでくださいよ……」
「困ったことあったら、遠慮なく言えよ。俺、力になるから」
「じゃあさっそくクラス交換してください」
「それはできねぇ相談だな!」
「相談乗ってくれるって言ってたじゃないっすか。嘘つき」
「それは相談じゃなくて押し付けだろ……」
「冗談に決まってるじゃないっすか。マジレスしないでくださいよ」
「わりぃわりぃ」
軽口の応酬のあと、宏太は立ち上がる。
「とりま、俺仕事戻ります。今日は早めに上がるんで」
「おっ? 女か?」
ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべる粟島先生。
「違いますって。ちょっと用事があるだけです」
「なーんだ、つまんねーの」
「はいはい、つまらなくて悪うござんした。ほら、粟島先生も仕事してください」
「はーいよっと」
粟島は肩をすくめながら、意外と真面目に書類へ視線を戻した。
宏太は「はぁ……」とため息を溢すと、電話の受話器を手に取る。
田上真の母親宛てに、嫌な義務を果たすように番号を押した。
*
保護者との通話をなんとか終え、仕事の山を片づけると、宏太は校長室へ内線をかけた。
「終わりましたよ」
それから短くやり取りを済ませ、待ち合わせは職員駐車場に決まる。
「それじゃ、お先です」
「おう、お疲れー」
珍しくパソコンに集中していた粟島先生は、視線を上げずに声だけで返した。
宏太は鞄を肩にかけ、夕闇に沈む廊下を抜ける。
駐車場には、見覚えのある車が停まっていた。
先週末とは違う車――だが、かつて何度も乗せてもらったことのある、校長・長瀬貞夫の愛車。
古めのオフロードタイプの普通車。くすんだ色合いも、どこか懐かしい。
「待たせちゃいました?」
「いや、僕も今来たところ。さぁ、行こうじゃないか」
宏太が乗り込み、ドアが閉まる。
ほぼ同時に貞夫は愛車のクラッチを切り、ローギアにシフトを入れた。
車はスムーズに発進する。
社会人になって初めて――“先生”と“教え子”が入れ替わる夜のドライブが始まった。




