それでも彼は、捨て置けない
帰りのホームルームが終わり、終業のチャイムが響いた。
クラスメイトたちは鞄を抱え、部活動へ向かうもの、友人と連れ立って昇降口へ急ぐもの、それぞれの放課後に散っていく。
そのざわめきの中で、爽は机に突っ伏したまま、ぼんやりと窓の方を見ていた。
美鈴から耳打ちされた言葉が、何度も頭の奥で反響する。
——笹川さんが、パパ活してるって噂。
信じがたい話だった。
ただ「絶対にありえない」と強く言い切れるほど、自分は絢音のことを知っているだろうか。
明るくて人当たりもよく、勉強もできて、生徒会の中心にいる。だが、放課後の彼女がどんな顔をしているのかまでは分からない。
(笹川さん、大丈夫なのかな……)
頭の中で打ち消しても、胸の奥には小石を抱え込んだような重さが残る。
それでも、もし本当にそんなことをしているのなら——放ってはおけない。
ただのクラスメイトであっても、見て見ぬふりはできない。そんな性分だからこそ、余計に答えの出ない迷いが心にこびりついていた。
「考えすぎだ」と笑い飛ばしたいのに、どうしても視線は窓の外に彷徨う。
堂々巡りの思考に絡め取られ、時の流れを忘れる。
気づけば校庭を行き交う生徒たちの影は長く伸び、夕暮れの色が教室に滲み始めていた。
「菅谷、ちょっといいか?」
低い声に呼ばれ、爽は顔を上げた。
教卓の前に立つ担任の新田宏太が腕を組み、じっとこちらを見ている。
逃げられない視線に、爽は慌てて椅子を引いた。
「先生……、なんですか?」
「なんですか? じゃねーよ。お前、今日はどうしたんだ? 昼過ぎてからずっと上の空だったぞ」
宏太の言葉は呆れ半分、心配半分といった調子だった。
教師としての立場から注意しているのに、その響きの奥には、まるで弟分を案じる兄貴のような色合いが混じっている。
爽は曖昧に笑ってごまかそうとしたが、喉がひりついて声がうまく出ない。
「え、そんなことありました?」
「大ありだ。なんかあったのか? お前のことだし、どうせまた女子絡みだろ」
冗談めかした声音。けれどその視線の鋭さは、ただの軽口ではない。
爽は反射的に否定しかけたが、頭の奥に浮かぶのは結局ひとりの女子のこと。
だから言葉は途中でつかえ、曖昧な返答に落ち着いてしまう。
「そんなことはっ……あるかも、しれない、です……」
口にした瞬間、自分の声の弱さに苦笑が漏れた。
「なんだよ……。もしかしてマジなやつか?」
宏太の目が一瞬鋭さを増す。
それはからかいではなく、教師としての直感が働いた証のように見えた。
爽は一瞬迷った。
言うべきか、黙るべきか。
噂話を持ち込むなんて馬鹿げていると自分に言い聞かせたいのに、それでも胸のざわつきは誤魔化せなかった。
やがて小さく頷き、決心を固めたように声を落とす。
「先生、ちょっと話、聞いてもらってもいいですか?」
その声音に、宏太は腕を組み直し、真面目な表情へと切り替える。
「いいよ。何があった?」
教師の顔を前にした爽は、わずかに背筋を伸ばした。
教室には、もう数えるほどしか生徒が残っていなかった。
それでも、ここで話すにはあまりに繊細すぎる。爽は一度視線を窓へ流し、そして小さく息を吐く。
「先生、もしであれば部室に行きませんか?」
今日は校長からの放課後の招集はかかっていない。
だからこそ空いているアウトドア同好会の部室に移動するのがいいと考えたのだ。
「お前がそうしたいなら、そうしよう」
宏太は即答した。
そして二人は、急遽部室のある方向へと並んで歩きだした。
*
校舎の南西側に位置する、アウトドア同好会の部室。
鍵を開け、重い扉を閉じると、教室とは違う静けさが降りてくる。
爽は周囲に気を配りながら、昼間美鈴から聞いた“笹川絢音の噂”を慎重に語った。
言葉は途切れ途切れで、なるべく憶測を交えまいとする。
それでも心の動揺は隠しきれず、声が震えるのを自分でも分かった。
話し終えると、宏太は短く息をつき、黙り込んだ。
「そうか……」
ただそれだけ。
だがその一言に、爽の胸は余計に締めつけられる。
「あ、先生! この件はどうか……」
「分かってる。でも流石に何も動かない訳にもいかないから、できるだけ事を荒立てないように動いてみる」
宏太の即答に、爽は安堵をにじませて頭を下げた。
「ありがとうございます」
ひと息ついたところで、宏太が話題を切り替える。
「そういえば、今日は集まらないのか?」
問いかけに、爽は小さく首を振った。
「校長からは特に言われてないので、いいかなって。さっきの話もありますし」
「それもそうだな。キャンプは二週間後だし、慌てることもないか」
宏太は机に片肘をつきながら、肩の力を抜いた。
「先生も楽しみにしてるんですね」
「はっ? なんでだよ。俺はただ仕事が増えて――」
爽はくすっと笑う。
「そういう割には、ちゃんと毎回部活に参加してるじゃないですか」
「そりゃ仕事だからな。無責任に投げ出すわけにはいかないだろ」
「へー」
「なんだよ、その反応」
「いや、まぁそういうことでいいです」
わざとらしくしらを切る爽に、宏太はむっと目を細める。
「おい! どういう意味だよそれ!?」
「別に他意はないです! それじゃあ、また明日!」
鞄を抱えて逃げるように部室を出ていく爽の背を、宏太は呆れ顔で見送った。
「菅谷っ! ……ったく」
ひとり取り残された宏太は、ため息を吐いて椅子に腰を下ろす。
その背後から、不意に声がかかった。
「新田先生」
「うわぁッ!?」
慌てて振り返ると、そこには校長・長瀬貞夫が穏やかに立っていた。
「なんだ、そんなにも驚くことはないだろうに」
「いや、不意打ちが過ぎますって」
「あはは、ごめんごめん」
貞夫は笑いながら片手を振り、すぐに真顔をのぞかせた。
「それより新田先生、今日仕事が終わった後に時間をもらえないかな?」
「時間? 別に大丈夫ですけど、何かあるんすか?」
「久しぶりに宏太君と二人でドライブにでも行きたいと思ってね」
「めっちゃ急ですね。どうしたんですか?」
「なぁに、いつもの思いつきだよ。それに昔はよく行ってたじゃないか。だから久しぶりに、ね?」
にこやかに言われ、宏太は観念したように肩をすくめる。
「分かりましたよ」
「よしっ、じゃあ準備が出来たら内線をかけてほしい。それまでに私も準備しておくよ」
「俺、明日の準備もあるんで、時間かかりますよ?」
「別に構わないよ。私も雑務を片しているから、新田先生のペースでいい」
校長は相変わらずの調子で微笑んだ。
だがその目の奥には、ほんのわずかに翳りが差していた。
本人さえ言葉にできない違和感。直感に過ぎないが、それでも無視できないざわめきだった。
宏太はそこまで思い至らないまま、ぼそりと小さく毒づいた。
「ったく、相変わらずマイペースなジジィだな……」




