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火のないところに、煙は立たない。

 「急にごめん。お友達、大丈夫だった?」

 廊下の隅で待っていた美鈴は、声をかけながら小さく笑った。軽やかな調子に聞こえるのに、その口元にはどこか不安の影が差している。笑顔を作りながらも、視線がほんの一瞬だけ泳ぐ。


 「大丈夫だよ。いつものことだから。それより、どうしたの?」


 爽が肩をすくめて返すと、美鈴はひょいと弁当箱を持ち上げてみせた。

 「今日はなんか、爽くんとお昼食べたくなっちゃって」


 調子は冗談めいているが、その目の奥には探るような光が宿っていた。爽はその視線を受け止めつつ、むしろ好機だと感じ、切り出す。

 「実は僕も、ちょうど相談したいことがあったんだ」

 「相談?」


 美鈴は小首をかしげたが、次の瞬間ふっと目を細め、唇に小さな皮肉を浮かべる。

「それってもしかして――笹川さんのこと?」


 名前を出され、爽は目を瞬かせて小さくうなずいた。

 「うん、笹川さんの勧誘のこと――なんだけど」


 「ふーん」


 返ってきたのは短い声。とはいえ、その顔に浮かんだ不機嫌さは隠しようがなかった。美鈴はくるりと背を向け、速足で歩き出す。

 「ちょっと! 急にどうしたの!?」

 「別に? やっぱり爽くんは女たらしだなぁって思っただけ!」

 「えっ!? なんでそうなるの!? 僕は――」

 爽の声が思わず大きくなる。廊下のざわめきに混じり、周囲の生徒たちがちらちらと振り返った。顔に熱が集まるのを感じながら、爽は慌てて後を追った。


 *


 二人がたどり着いたのは、校舎の屋上だった。

 本来は立ち入り禁止の場所。けれど美鈴の家出の一件で、以前に校長たちと授業を抜け出してお茶会をした、不思議な思い出の残る場所でもある。


 錆びた扉を押し開けると、初夏の陽光と強い風が一気に吹き込んだ。鉄柵の向こうに広がる青空は眩しく、雲が悠然と流れていく。足もとでは風に押された砂粒が小さく転がり、乾いた音を立てていた。


 「待ってよ!」

 爽がなおも美鈴に声をかけながら背中を追う。


 すると美鈴は足を止め、振り返る。

 「許してほしい?」

 「うん……。許してほしいです……」


 気まずそうな爽を見て、美鈴はふっと息を吐いた。いたずらっぽい笑みを浮かべると、鉄柵のそばへ歩み寄る。

 「じゃあ、こっち来て」


 彼女は柵沿いのコンクリートに腰を下ろし、背中を壁に預ける。風に煽られたポニーテールが大きく揺れ、足先でコツコツと地面を鳴らした。

 「立ったままじゃご飯、食べられないでしょ? 隣、座りなよ」


 促され、爽も少し間を置いてから腰を下ろした。視界いっぱいに広がる空。グラウンドから届くかすかな声は、風にさらわれるたびに遠のいていく。世界が二人だけになったように錯覚させる、そんな孤立した時間。


 美鈴は膝の上にランチバッグを置き、ちらりと爽を見た。

 「それじゃあ、早速だけどこれ、食べてみよっか?」


 袋から取り出されたのは、ラップに包まれたサンドイッチ。切り口からは例の強烈な緑が顔をのぞかせている。バターの黄色やトマトの赤のあいだに、やけに鮮やかな葉がぎっしり詰め込まれていた。吹き抜ける風が、それ特有の香りをより鮮烈に運んでくる。爽はその匂いを嗅いだだけで、胸の奥に嫌な予感が広がった。


 「こ、これって……」

 「私お手製のパクチーサンドイッチ!」


 美鈴はぱっと得意げに胸を張る。その無邪気な笑顔は、挑発にもいたずらにも見えて、爽の胸をかすかにざわつかせた。

 「げっ……」


 爽は息を止めかけた。先日のイタリアンで「パクチーが苦手」と言ったばかりだ。彼女が忘れているはずがない。それでも美鈴は悪びれもせず、サンドイッチを突き出す。


 「嫌な顔しない! ほら、あーんしてあげるから」


 差し出されたサンドイッチからは、独特の香りが立ちのぼる。

 「はい、あーん」――美鈴はサンドイッチをぐっと爽の口元へ。

 一応は自分のために用意してくれたであろうお弁当。それを振り払うような真似を、爽はすることができなかった。観念して口を開け、あーん、と一口かじる。


 途端に、あのクセの強い香りが鼻腔を直撃する。思わず眉間に力が入ったが、すぐに舌の上で別の風味が広がった。からしバターのぴりっとした刺激が後味を引き締め、ジューシーなトマトの酸味がその強烈さを中和する。さらにベーコンの塩気と脂の旨みが全体を包み込み、パクチーの主張を抑えつつも、決してその風味を殺してはいない。


 互いの個性をぶつけ合いながらも、かろうじて調和している――そんな不思議なバランス。爽は驚きとともに、思わず言葉をこぼした。

 「……お、美味しい。ほんとうに、美味しいよ」


 「ふふっ、でしょ?」

 美鈴は嬉しそうに微笑むが、頬には赤みが差していた。彼女は爽からサンドイッチを受け取り、自分の分を手に取ってぱくりと食べる。


 「うんっ、美味しい」

 満足げに頷く美鈴。その横顔に、爽は感心と驚きが入り混じった声を漏らした。

 「パクチーって、こういう食べ方があったんだね」


 「そうなの! 他の具材と組み合わせたりしても結構いけるんだよ。料理ってそういう工夫が面白いの」

 美鈴は得意げに言って、胸を張る。自分で料理をすることに、ちょっとした自信と誇りを覗かせていた。


 (……これ、クラスに戻ったら絶対言われちゃうな……)


 パクチーの香りは隠しようがない。席に座った瞬間、周囲から「なんか臭くない?」とひそひそ声が飛び交う光景が目に浮かんだ。

 爽は苦笑混じりに鼻をこすりながら呟く。

 「クラス戻ったら、絶対みんなに気づかれるよ」


 「いいじゃん、別に! 爽くんと同じ匂いなら」

 美鈴はあっけらかんと笑い、わざと息をふーっと吹きかける。


 二人の笑い声が屋上の隅に響いた。

 やがて、笑いが風にさらわれ、しんとした沈黙が残る。

 そして爽は、思い出したように口を開いた。

 「そういえば、さ――」


 笹川の名前を切り出そうとした、その瞬間。

 「笹川さんのことだったよね」


 美鈴がすっと声を重ね、遮った。

 「えっ……?」

 「爽くん言ってたじゃん。“笹川さんのことで相談がある”って」


 からかうように笑ったが、その表情はすぐに曇る。風に揺れる瞳は、何かを思い出すように沈んでいた。

 「実は私も気になることがあるの」


 その言葉の響きに、爽の胸がかすかにざわつく。

 「気になること?」


 爽が首を傾けながら問うと、美鈴は小さく手招きした。

 「爽くん、ちょっと耳、貸して」


 その声色は、普段の明るさとは違う低さを帯びている。言葉を選ぶように、一瞬だけ視線を伏せた。その逡巡が、これから告げられる言葉の重さを示していた。


 爽はためらった。だが真剣な眼差しに抗えず、そっと顔を寄せる。髪の先が頬に触れ、シャンプーの甘い香りが風に混じった。耳の奥で自分の心臓がやけに大きく響く。


 ――何を言おうとしている? ただの冗談じゃない。嫌な予感が胸を締めつける。


 その刹那、吐息が耳朶に触れる。ほんの一瞬なのに、背筋を電気が走ったように震わせる。


 「笹川さんが、パパ活してるって噂」


 押し殺した囁きは、風の音に紛れるほど小さい。だが意味だけは、刃のように鮮烈に突き刺さった。


 爽の背筋に冷たいものが走る。耳の奥で鳴っていた鼓動が、今度は逆に遠ざかっていくように感じた。体の中心から血の気が引き、指先がわずかに震える。


 その言葉は理解よりも先に鼓膜を突き抜け、脳裏に焼き付いた。意味を咀嚼する前に、ただ重さだけが胸の奥へ沈んでいく。


 いつも明るくて活発でいながら、成績はトップクラスで、生徒会所属の優等生。

 そんな笹川絢音の不穏な噂に、爽の心臓は妙な鼓動を刻むのだった。

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