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何事も基礎は、高くつく

翌日の土曜日の天気は、文句なしの快晴だった。

昨日は雨で中止になった部活だが、朝10時を目途に学校の昇降口に集合することだけを約束していた。

爽もその約束の時間の10分前に昇降口の前に到着した。


通学路に残る雨粒が、風に揺れて鈴みたいな音を立てる。今日の空気は軽く、部活が中止になった昨日の重さはどこかへ消えていた。


「おはよ! 爽くん!」

先客が一人。美鈴だった。

薄いピンク色のカーディガンを羽織り、白いブラウスに淡いデニムスカート。足元は動きやすいスニーカーでまとめている。春らしい色合いの中にも、外で活動することを意識した格好だ。

一方の爽は、紺色のカーディガンにボーダーのTシャツを合わせ、ベージュのチノパンに白いスニーカーという、少し気を使った私服姿だった。派手さはないが、清潔感のあるコーディネートで彼らしい自然体の雰囲気をまとっている。


「おはよう。先生たちは?」

「校長先生と由奈先生はまだ来てないよ。新田先生は校舎裏にタバコ吸いに行った」

「この学校、敷地内禁煙だよね?」

「車の中で吸うからセーフなんだって」

「そうなんだ……」


そんな短いやり取りをしていると、宏太が現れる。

パーカーにカーゴパンツを合わせ、足元はスニーカーという動きやすい格好。教師らしい堅苦しさはなく、生徒と変わらないほどラフな雰囲気だった。


「菅谷も来たか。おはよ」

「おはようございます」

「そんで、言い出しっぺはまだ来てないのか?」

「うん、でもまだ時間は――」


美鈴が言いかけた時、1台の黒いミニバンが昇降口を目がけて突進してきた。

前輪がコンクリートの地面に一拍、沈む。ブレーキの低い擦過音のあと、車体はぴたりと水平に止まった。三人は同時に息を吐き、苦笑する。


宏太たちの前で車は止まり、助手席のウィンドウが開くと―――、


「やぁ、待たせたね」

「みんな、おはよう」


校長の貞夫と由奈が口々に挨拶をした。

窓越しに見える貞夫は、カーキ色のマウンテンジャケットに動きやすそうなズボン姿。足元までははっきり見えなかったが、全体から「これから出かけるのを楽しみにしている」空気が伝わってきた。

隣の由奈は、淡いベージュのニットにデニムを合わせ、軽くストールを肩に掛けているのが窓越しにも分かる。張り切った校長と落ち着いた由奈――対照的な並びが、車内からもよく分かった。


そんな二人に、宏太と生徒たちもそれぞれの声色で挨拶を返す。明るい響きが折り重なり、昇降口にほんの一瞬、学校らしい温かさが満ちた。

校長はその空気を抱え込むように笑い、穏やかに促す。

「よし、早速だけどみんな後ろに乗りなさい」


校長がそう口にするや否や、後ろのドアが自動で開く。

3列シートタイプの7人乗りの車。

だが3列目のシートはトランクスペースの確保のために跳ね上げられていた。

そこで進行方向右側から宏太、爽、美鈴の順で2列目に着席。

そしてアウトドア同好会初の学校外の活動が幕を開けた。



車が学校を静かに出発する。

タイヤが舗装の継ぎ目を越えるたび、微細な振動が座面をくすぐる。新車特有の甘い匂いに、革の渋さが少し混じっている。窓の外では、校門の影が一瞬だけ車内を涼しくした。

あまりにも綺麗で静かな車は、車にさほど興味がない宏太と生徒達でも「いいものだ」と分かるほどだった。


「校長、いい車乗ってるんですね」

「ありがとう。だけどその話題は広げないで貰えると助かるよ……」


褒められているにもかかわらず、意外にもバックミラー越しに渋い表情を見せる貞夫。

だが貞夫の言葉とは裏腹に――


「でもすごく広くてきれい! 新車みたいな匂いもするし!」


美鈴が素直な感想を口にする。

寄れのないピカピカのシートに、最新型のディスプレイオーディオ。

天井には間接照明が施されており、インテリアはとても近代的な印象を与えていた。


美鈴が言うように、7人乗りの車はつい最近買った車――いや、まさにそれだった。

爽も核心をつくように問いかける。


「もしかして、最近買ったんですか?」


これに答えたのは、意外にも由奈だった。


「そうなの。私も知らないうちにね」


隣からジトっとした目を向けられる校長。

肩をすくめながらも、校長は「いや、でもこれは必要な買い物だと思ったんだ」と弱々しい抗議をする。


「だからって、まさか思い付きで作った同好会のためにここまでするとは思わなかった」

「だって……」

「だってじゃないです」


呆れとあきらめが籠った声音は、隣でハンドルを握る貞夫を責めているようにも聞こえた。

生徒二人も、この話題にはまだ触れない方がいいと悟ったのか、しゅんと黙り込んでしまう。


宏太は呆れながらも話題を変える。

「それより校長、これから行く店って、どこら辺にあるんですか?」


助かったと言わんばかりに、校長はいつも通りの口調で説明する。

「花園町の国道沿いにある店だよ。数年前くらいに出来たばかりで、結構広くて品揃えもいいんだ。二階には飲食店も併設されているけど、今日は久しぶりに行きたい店があるから、また別の機会にしよう」


そんな会話をしているうちに、校長が言っていた花園町に車は差し掛かる。

別に花が咲き誇るような場所はどこにもない。ただの地名。

けれど、風が通るたびに稲の穂が面を変え、光の波が走る。そのさざめきは、街の雑音よりずっと豊かに聞こえた。

花の代わりに広がる景色は、一面青々とした稲がゆらゆらと風に揺られているものだった。


そんな田園地帯と住宅街の境を貫く国道バイパスのすぐ脇に、一本の木をモチーフにした看板が現れる。


「お、そんなこと言っている間にも、着いたよ」


校長が目でその店を指す。

小綺麗そうでありながら、とても大きな建物。

駐車場に入ると、店の前には簡易的なキャンプ場を思わせる芝生と、イベントスペースのような木製のウッドデッキがあった。


車をゆっくりバックで駐車し、校長が口を開く。

「さぁ、まずはどんなものがあるか、実際に目で見て感じてみよう」


こうしてアウトドア同好会(ほぼ初心者の集まり)は、普段は足を踏み入れることのないその店内に足を踏み入れた。



宏太たちが店内に入ると、そこには非日常的な光景が広がっていた。

多くのイスやテーブルをはじめ、寝袋に焚火台、さらに「いかにも」といったフォルムの斧まで。

エントランスをくぐった瞬間から、アウトドアの世界に引き込まれる。


木材の甘い香りと、金属のひんやりした匂いが同時に鼻をくすぐる。天井から吊られたランタンの灯りがサンプルのテントに柔らかい影を落とし、どこかの登山道を模したざらついた床材が靴底に心地よい抵抗を返した。


「これは、すごい……」

爽が感嘆の声を漏らす。


続けて美鈴も、

「これ、マジなやつですね……」


ディスプレイされている本格的な道具たちを前に、驚きと好奇心に目を見開いていた。


「さぁ、まずはマストで必要な道具だけ揃えよう。テントと寝袋はとりあえず私の方で用意してあるから、まずは食器類だね」


校長は迷いのない足取りで店の奥へと進んでいく。

その間も普段宏太たちが目にすることのない道具たちが、初心者の彼らを出迎えた。


たまたま通りかかった寝袋の前で、宏太は不意に立ち止まって値札を覗き込み――思わず声を上げる。


「高ッ!?」


値札の数字は、手の中の布地の軽さと釣り合っていない気がした。羽根みたいに軽いのに、財布にはずしりと来る。

宏太が手に取った寝袋の価格は、ゆうに5万円を超えていた。


校長は振り返り、宏太の元に近づく。

「あぁ、それは天然のダウン素材使ってるからね。とても軽くてコンパクトになるし、その寝袋ならちゃんと防寒対策さえしていれば、-20度の環境でも使えるいいものだよ」


宏太は思わず顔を引きつらせる。

いくら“いいもの”とはいえ、数万円単位はなかなか痛い出費だ。


校長は彼の内心を察したのか、

「とはいっても、こういうのをいきなり揃える必要はないよ。これからは暖かくなる季節だから、ここまでのスペックの寝袋はいらない。こういうのは必要になったら検討していくものさ」


「そ、そういうもんすか……」


「さぁ、行こうではないか。菅谷君たちは由奈ともう行っているよ」


貞夫と共に宏太は食器類が集まっている棚に足を向ける。


そこには普段家でも使えそうな食器をはじめ、コンパクトに折りたためるカトラリーセットや、火に直接かけられるというマグカップまで並んでいた。


その中の一角で、爽と美鈴、そして由奈が棚の前に集まっていた。

由奈が、ステンレスのコップのようなものを手に取り、説明していた。


「お、早速シェラカップ見ていたんだね」


校長の言葉に、初めて聞く道具の名前に宏太は頭に疑問符を浮かべる。


「シェラカップ?」

「せんせ、これ!」


宏太の素直な疑問に、美鈴がステンレス製のコップをぐいっと掲げて見せる。

底が浅く、横に細長い取っ手が一本無骨に伸びている。


平たい底は熱が早く回り、湯もすぐ沸く。取っ手は指三本でつまむのにちょうどよく、直火にかけても持ち替えやすい。鍋と器の中間、野外の定番の形だ。


「へぇー」

とりあえず声を漏らすと、宏太は自然な疑問をこぼした。

「ただの器じゃないのか?」

「せんせー、顧問なのに分かってないですねー」

「悪かったな。俺もお前らと同じ初心者なんだよ」

その言葉を待っていたかのように、美鈴は胸を張って得意げに言った。


「じゃあ代わりに教えてあげます! これはね、直接火にもかけてお湯を沸かしたり、器として使ったりできる万能なカップなんですよ!」


美鈴はカップを高く掲げ、誇らしげに胸を張った。まるで自分が発明したかのような顔である。


「へぇー。流石由奈、キャンパーの娘なだけある」

宏太が表情を変えずに言うと、美鈴はむっと頬をふくらませ――

「ちょっと! 私の話聞いてました!?」

「どうせさっき由奈から受けた説明をそのまま言っただけだろ」

核心を突かれた美鈴は言葉を失い、視線を泳がせる。やがて小声で反論を絞り出した。

「ムッ、せんせーの意地悪……」

その様子に爽がくすりと笑い、わざとらしく肩をすくめてみせる。

「意地悪なのかな?」

爽の軽いひと言に、美鈴はさらに頬を膨らませ、由奈は苦笑し、宏太は肩を落とす。小さなやり取りひとつで、棚の前に柔らかい笑い声が広がっていった。


「でも、糸川さんが言ってたとおりだよ。いろいろと食器とか鍋とか揃えるのって大変だから、最初はこういうシンプルで万能なのをいくつか持っておくといいの。それに、もしキャンプしなくなっても家で使えることも多いしね」


「なるほどな」

宏太は何気なく手に取る。

値札を見ると、ちょうど良さそうなサイズの物は900円しないくらいだった。


「い、意外といい値段するんだな。これで約1000円か……」

「ま、まぁ、いきなり鍋とか買うよりも安上がりだと思う……。とりあえず今は3つくらいあれば最初は十分だと思うし」


必要と言われれば、買うしかない。

爽たち生徒たちは事前にある程度聞かされていたのか、しっかり予算を確保していたようで、すでにシェラカップを3つずつ手にしていた。


こうして他に、チタン製のカトラリーを購入。

総額は約5000円と、割といい値段をした。


レジ袋の中でチタンのカトラリーがかすかに触れ合い、鈴のように鳴った。数字の痛みと同時に、手の中に実感が生まれる。


その後はいろいろな道具を見て回った。

テントにクーラーボックス、コットと呼ばれる組み立て式のベッドのようなものなど、普段お目にかかれない実際のアウトドアグッズを前に、生徒二人は思いのほか興味を示していた。


意外にも美鈴は特にこの店を気に入ったようで、ランタンや木製の食器など“おしゃれ”な道具たちに目を輝かせていた。


「この木のプレート、家でも使えるよね」

「確かに、お肉とか乗せたら映えそう」

「確かに! 写真撮っておこ!」


生徒二人の楽しそうなやり取りが響く。

スマホのシャッター音が軽快に鳴り、画面には“いつかのキャンプ”の下書きが増えていく。


そうこうしているうちに、あっという間に時間が過ぎる。

時刻はすでに12時を回っていた。


「それじゃあ、そろそろいい時間だしご飯でも食べに行こう。今日は私がご馳走するよ」


校長の一言に、生徒二人から歓声が上がる。


「ありがとうございます! ちなみに何食べに行くんですか?」

「実は少し離れたところなんだけど、美味しいピザ屋があるんだ。今日はそこに行ってみようと思う。他にもデザートとかも美味しいお店でね。どうだろうか?」


美鈴の問いに校長は答えると、宏太たち3人に問いかけた。


「ピザっ!」

美鈴が弾けるように声を上げる。


「みんながよければ、僕は大丈夫です」

爽は控えめに答えるが、口元には笑みが浮かんでいた。


「俺もピザは好きですけど、本当にいいんすか?」

宏太の自然な問いに、貞夫ではなく由奈が答える。


「大丈夫、最近新車買うほど羽振りがいいんだし。今日は校長先生の財布を空にするつもりで、うんと食べちゃお!」


そんな由奈の冗談めいた一言に場は和んだ。だが当の貞夫は口元をひきつらせ、笑顔を作るのにひと苦労している。目尻がかすかに震え、それがまた生徒たちのツボに入った。空気はさらに明るくなった。


「おーっ!」

美鈴が勢いよく両手を突き上げ、全員の笑顔が広がった。


こうしてアウトドア同好会一行は、再び貞夫のミニバンに乗り込み、アウトドアショップを後にしたのだった。

美味しいピザを目掛け、車は国道バイパスに乗り進路を北東に向ける。


「ピザ来たら、まずはシェラカップで乾杯しよ」

「それはもう、ただのコップじゃん」


笑い声がフロントガラスに当たって跳ね返り、車は北東へ伸びていく。

車内はしばらく、今日、宏太たち初心者が買った道具や展示されていたグッズの話題で盛り上がるのだった。

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