準備が8割、何事も
テスト週間がようやく終わり、校舎には久しぶりにのびやかな空気が流れていた。
この悠久高校の定期テストは、少し変わっている。
実際に試験が行われるのは一週間。しかしその前に二週間まるごと「準備期間」が設けられていた。
その二週間で、すべての授業は試験範囲を終え、あとは復習や対策に費やされる。
教師によっては大学入試の過去問を扱ったり、応用問題を追加したりと工夫をこらすが、基本は試験に向けた仕上げの時間だ。
なぜそんな制度があるのか――理由は単純。
悠久高校の試験は、他校に比べて難易度が高いからだ。
教科書レベルの基礎は三割程度。残りは授業内容を応用させた実践的な問題ばかり。単なる暗記では太刀打ちできない。進学校と呼ばれる所以である。
そのぶん、生徒にとっては三週間の長丁場。
そして教師にとっても、問題作成、大量の答案の採点、成績の動向チェックと、過酷な期間であった。
だからこそ、ようやく一区切りついたこの放課後は、生徒にとっても教師にとっても、心から解放感を味わえるひとときなのだ。
「では、早速だが活動を始めようじゃないか!」
グラウンドの隅で声を張り上げたのは校長――長瀬貞夫だ。
サッカー部の邪魔にならない場所に、四角い布を広げ、ペグやポールが並べられていく。
悠久高校の新同好会“アウトドア同好会”。
その初キャンプに向けた準備として、今日は基礎の基礎、タープ張りの練習である。
初心者の菅谷爽と糸川美鈴、そして“顧問という肩書きだけ”の新田宏太は、ベテランキャンパーである校長と、その娘で副担任の長瀬由奈に導かれる形で手を動かしていた。
「とはいえ、本格的なキャンプは六月の第二週に実行する予定だ」
貞夫がにこやかに告げる。
「梅雨に入る前が一番過ごしやすい時期だからね。今年は梅雨入りが遅いらしいし、絶好のタイミングだ」
「へぇ……」
爽が興味深そうにうなずく。
「だからこそ今のうちに、設営の基礎を体で覚えておく必要がある。今日はその練習だ」
校長の言葉に、全員が頷いた。
*
「それじゃあ、ペグを打っていこう。私は菅谷君と糸川君と一緒にやるから、由奈は宏太君と反対側を頼む」
「りょうかい」
由奈は、自分の背より倍近いポールを抱え、宏太の方へと歩み寄った。
「じゃあコウ君、ペグの位置を確認しよっか」
「コウ君言うな、長瀬先生。それにしても……なんか慣れてるな」
「昔からお父さんに連れまわされてたからね。基礎くらいなら大体できるよ」
由奈は迷いのない手つきで、タープとポールの位置を調整し、木の枝を宏太に渡す。
「このポールと平行になるように線を引いてみて」
「こうか?」
「そうそう。反対側も同じように、ちょっと長めに引くといいよ」
慣れない手つきで線を引く宏太。何の意味があるのか分からないが、やってみればなるほどと腑に落ちる。
続いて由奈はガイロープを取り出し、ペグの位置を示した。
「さっきの線とロープが重なる場所があるでしょ? そこがペグを打つ場所だよ」
「な、なるほどな……」
普段は自分をサポートする年下の同僚。だが今は完全に立場が逆転している。宏太は少し不思議な気分を覚えながら、ハンマーを握った。
「ペグを打つときは直角じゃなくて、ロープと逆側に少し寝かせて打つんだよ」
「なんでわざわざ?」
「垂直だと抜けやすいの。斜めにすると、張ったとき抜けにくいんだ」
カンッ、と小気味いい音を立ててペグが地面に沈む。
「……なるほどなぁ」
由奈の説明に素直に感心しつつ、宏太も見よう見まねで打ち込んでいった。
両側の準備が整ったところで、貞夫の声が飛んだ。
「よし、立ててみようか!」
「じゃあコウ君、ポール持って」
「了解」
「せーのっ!」
掛け声と同時にポールが立ち上がる。由奈は素早くロープを調整し、爽と美鈴も反対側で張りを整える。
「コウ君、手を放しても大丈夫だよ」
「……マジか?」
恐る恐る手を離すと、ポールは確かに自立していた。
「これで、タープ張りはOKだね」
由奈の声に、美鈴が「すごーい!」と歓声を上げ、爽も「ちゃんと屋根だ……」と呟いた。
*
「それじゃあ、焚火を眺めながら温かいものでも飲もうじゃないか」
貞夫はそう言うと、手際よく焚火台を中央に据えた。
腰を落ち着けた一同が見守る中、校長は袋を取り出す。
『かんたん! 焚きつけ棒』と書かれたパッケージをビリリと破り、中身を数本取り出して台の底に置いた。
「え、それ……そんな便利なのがあるんですか?」
美鈴が目を丸くする。
「うん。初心者はまずこれでいい。新聞紙や小枝を組んで火を起こす方法もあるけどね、慣れるまでは失敗することの方が多いから」
そう言いながら、焚きつけ棒の上に細めの薪を十字に組み、その上から少し太めの薪を三角に重ねていく。
「薪の置き方にもコツがある。空気の通り道を作ること。火は酸素を食べて育つからね」
チッ、とチャッカマンに火がともり、焚きつけ棒に赤い火が移る。
じわじわと炎が広がり、やがて薪の表面を舐め始めた。
「おぉ……」
爽が小さく声を漏らす。美鈴は目を輝かせながら身を乗り出し、宏太も思わず感心したように唸った。
「新聞紙だと煙ばかり出てなかなか火が回らないんだけど、これなら楽だろう?」
誇らしげな口調の貞夫。
「さすがベテラン……」
宏太は感心混じりに呟く。
炎はやがて薪をしっかりと噛み、赤橙の舌を揺らしながら立ちのぼっていく。
パチッ、パチパチッ、と小気味よい音を立てて火の粉が舞い、夜気を少しずつ押し退けるように暖かさを広げた。
赤い光が全員の顔をほんのりと照らし、影を大きく地面に揺らしていく。
やがて炎は安定し、焚火台の中で小さなキャンプファイヤーのように燃え上がった。
パチパチと薪が弾ける音と、ほんのり温かな熱がタープの下に広がっていく。
赤い火が薪の影をゆらし、顔に柔らかな光を当てていた。
「さて、今日はホットココアでも作ってみようか」
いいながら校長は何処からか、ソフト型のクーラーボックスから牛乳と市販のココアの素を取り出す。
「相変わらず、用意がいいな……」
宏太がそう言葉を溢すと、
「何事も準備が八割だよ、新田先生」
どや顔の校長に、宏太は(ドヤってやがる……)と心の中で悪態をつきつつも、否定はできなかった。
ステンレスのポットに牛乳を注ぎ、折り畳み式のガスバーナーを組み立てる校長。その様子を眺めながら、美鈴が首をかしげる。
「校長せんせー、焚火でやらないんですか?」
宏太も同じ疑問を抱いていた。わざわざ別に熱源を用意する必要があるのか、と。
「焚火でもできるんだけどね、ポットが煤だらけになっちゃうんだ。だから調理はこういうバーナーの方が便利なんだよ」
苦笑いを浮かべつつも、貞夫は手際よく火加減を調整する。
「でもね、焚火で作る“焚火飯”っていうのもあるんだ。そのうち挑戦してみよう」
声を弾ませる校長に、生徒たちは思わず顔を見合わせ、期待の色を浮かべるのだった。
やがてポットから湯気が立ち始める。火を止めた貞夫は、紙コップにココアの素を入れ、温めたミルクを注いでいった。
濃厚で甘い香りがタープの中いっぱいに広がり、自然と笑みがこぼれる。
「うわぁ、いい匂い……」
美鈴と由奈が目を輝かせ、爽と宏太も「おぉ……」と声を漏らす。
「よし、それじゃあ温かいうちに頂こう」
コップを手渡された一行は、ゆっくりと口をつけた。
「美味しい!」
美鈴が一番に声を上げる。
「ほんとだ……。なんか、いつもより数倍は旨い……」
宏太も素直に舌鼓を打つ。
爽は無言で何度も頷き、由奈は懐かしそうに笑った。
「そういえば、昔もよくキャンプでココア淹れてましたよね」
由奈の言葉に、貞夫は懐かしそうに笑う。
「最近は行ってなかったから、由奈と飲むのも久しぶりだな」
校長の言葉に、由奈はふっと小さく笑みを溢すのだった。
*
焚火の炎が落ちつき始めると、由奈がふと口を開いた。
「……でも、寝袋とかコップとか、個人で必要な道具は全然揃ってないですよね」
爽と美鈴も頷く。
「僕も、マグカップすらない……」
「わ、私も……。寝袋とか、何も……」
「うむ、それは課題だね」
貞夫が顎に手を当て、すぐに提案した。
「次の土曜日に課外活動という形でみんなで見に行こう。実際に手に取って選んだ方が間違いない」
「課外活動……また勝手に」
宏太は半眼になったが、結局は言い返せなかった。――確かに必要なことだからだ。
「よし、なら決まりだ! テストも終わったことだし、サークル活動にも力を入れていこうじゃないか」
「おー!」
校長の宣言に、美鈴が右手拳を上げながら元気に肯定する。
少し前まで内気気味な女子生徒かと思ったが、思いのほか元気な一面が目立ってきた。
恐らくこの姿こそ、糸川美鈴の性格像なのだろう。
そう宏太が思ったとき、
「そういえば……」
宏太が思い出したように言った。
「今回のテスト、笹川絢音って子が全科目トップだったんだが……。なんか元気がなかったな」
「……やっぱり、そう思いました?」
隣で爽が低くつぶやく。その声色には、彼なりに感じ取った違和感がにじんでいた。
「やっぱりって……お前もか?」
宏太が問い返すと、爽は少し俯きながら答える。
「はい。順位表が配られた時、なんかしゅんとしてたように見えたので……」
「そうなの? 私が放課後見たときは元気そうだったけど……」
由奈が言うと、爽は「じゃあ気のせいですかね……」と自信なさげに返した。
「まぁ、成績がいい生徒ほど、将来を見据えて悩む子も多いからね」
貞夫が締めるように言葉を添える。
「学校の成績はともかく、目標にしている進学先と比べて思うことがあるのかもしれない。宏太君、その気づきは教師として素晴らしい。引き続き、彼女を気にかけてあげなさい」
結局、その場でそれ以上話が広がることはなかった。
焚火の火の粉が、夜空へと舞い上がっていく。
遠くからはサッカー部の掛け声も消え、校舎の窓にぽつりぽつりと灯りが残るだけだった。
ともあれ基礎を学び、初めての一歩を踏み出した同好会は、六月のキャンプに向けて静かに歩み始めていた。